April 2024
M T W T F S S
« May    
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

強度、未完成であること。

 

手当たり次第に読んでいるうちに、がつんと頭を殴られるぐらいの衝撃を受ける言葉に時折出会うことがあるけれど、今晩もまたそういう体験をした。

死の二年前のボードレールが、世に受け入れられぬことを嘆く三十三歳の友人マネに宛てて送った手紙の一節。

「いったい君はシャトーブリアンよりも、ワグナーよりも天才だとでもいうのか。ところが彼らだって存分に嘲弄されたではないか。彼らはそれがもとで死にはしなかった。

また、君に慢心を吹き込みすぎない為に付け加えて言いたいのは、この人たちは、それぞれ自分の領域において、しかもきわめて豊かな一世界の中で、それぞれ亀鑑なのであり、

これに対して君は、君の藝術の老衰の中での第一人者に過ぎぬ、ということだ。」

Avez-vous plus de génie que Chateaubriand et que Wagner ? On s’est bien moqué d’eux cependant ?  Ils n’en sont pas morts.

Et pour ne pas vous inspirer trop d’orgueil, je vous dirai que ces hommes sont des modèles, chacun dans son genre, et dans un monde très riche et que vous,

vous n’êtes que le [...]

ニーチェの反転

 

深夜、楽譜を開けてぼんやりと、自分の内に強烈な感情が結晶していくのを冷静に眺めている。

そういう日々が続く。手に取りたくなるのはニーチェだ。『悦ばしき知識』だ。

 

ニーチェの散文は孤独に溢れているが、それが最終的には前へ進むエネルギーへと変換されていくように見える。

どうしようもないほどの絶望が恐ろしいほどの強度に反転する。

 

丸谷才一さんの死に寄せて

 

丸谷才一さんが亡くなられたと知ってショックを受けている。享年87歳。

丸谷才一、というお名前はポーの『モルグ街の殺人事件』で小学生の頃から記憶にあったし、

大学に入ってからはジョイスの『ユリシーズ』や『若き芸術家の肖像』の翻訳でお世話になった。

そして何よりも、『いろんな色のインクで』という書評集が大好きだった。

 

「書評というのは、ひとりの本好きが、本好きの友だちに出す手紙みたいなものです。…(中略)…

おや、この人はいい文章を書く、考え方がしっかりしている、洒落たことをいう、

こういう人のすすめる本なら一つ読んでみようかという気にさせる。それがほんものの書評家なんですね」

(丸谷才一『いろんな色のインクで』より)

 

この書評集で僕はマンゾーニの『いいなづけ』を知ったし、そこから平川祐弘さんという翻訳者を知った。

その後に『いいなづけ』がジュリーニの愛読書であったことが分かると共に、平川さんの新訳『神曲』と『ダンテ 「神曲」講義』に触れて感動した。

(そして、平川さんが僕が大学で所属している教養学部フランス学科の第一期生でいらっしゃったことも知った。)

 

その教養溢れる文章で本から本へと鮮やかに橋を架け、果てしない文字の世界へと僕を連れ出して下さった一人が丸谷さんだった。

心よりご冥福をお祈り致します。

 
 
 

生きる時間に

 

「私はたゞ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。

そして、私は私自身を発見しなければならないやうに、私の愛するものを発見しなければならないので、

私は堕ちつゞけ、そして、私は書きつゞけるであらう。」(坂口安吾『堕落論』所収「デカダン文学論」より)

 

 

夜通し書き続け、思い続けた雨の朝。

いつの間にか熱を失った風が部屋に流れてくる。

布団に大の字になって転がりながら、霞んだ目で天井を見つめながら、

小学生の時以来ずっと惹かれ続けているこの文章の意味が突然少し分かった気がした。

 

わが青春を愛する心の死に至るまで衰へざらんことを。

手を伸ばせば届く距離に秋がそっと微笑む。

 

 

 

 

 

傾く思考

東京で桜が満開になった日、桜を辿ってふらふらと歩いたあと、本屋をゆっくりと巡っていた。

しばらく探していたヴォルフガング・シュヴェルヴュシュ『闇をひらく光 -19世紀における照明の歴史-』を発見して購入。

おそらく卒論で使うことになるだろう。

 

数えてみれば、三時間ぐらい一つの本屋にいたことになる。

Amazonなどで自宅にいながらにして簡単に本が買えるようになったけれども、立花さんが言うように、

定期的に大きな本屋を散歩することは大切で、買うとも無しに本棚と本棚の間を歩いて背表紙の数々を眺めていると

自分が無知であることに改めて気付かされる。

インターネットで本を買うときは「自分が本を選んでいる」感覚だが、本屋に足を運び、質量や手触り、かさを伴う「本」に囲まれると

まるで自分が「本に選ばれている」気分になる。このフロアに並べられた本のうち、僕が読んだことがあるのは本の0.000…%で、

自分の興味がある分野の棚に限っても、実際に読んだ事があるのは僅かにすぎない。棚から棚へ、フロアからフロアへ。

足の疲れとともに、ゲーテの『ファウスト』を持ち出すまでもなく、「何にも知らない」ことに愕然とするのだ。

 

Read, read, read. Read everything–trash, classics, good and bad, and see how they do it.Just like a carpenter who works as an apprentice and studies master. Read! You’ll absorb it.Then write. If it is good, you will find out. If it’s not, throw it out the window.(William Faulkner)

 

休学を終えて大学に戻るにあたって、頭が学問の方向に再び傾きはじめたのを感じる。

もちろん音楽のことも忘れてはいない。音楽への興味を抑えるつもりは無いし、今までと変わらず学んでいく。

ただ、気持ちをうまく切り替えていかないと卒論と両立は出来ないだろうなと思う。

音楽、そして指揮を学ぶことは、僕にとってそれぐらい劇的で、魅力的なことだから。

 

 

東京駅を降りて丸善へ歩くと、リクルートスーツの人たちと擦れ違う。

入学した時の同級生たちが社会に出て働き始めたのを見るたびに、

さらには後輩たちが就職への準備を進めていくのを聞くたびに、

僕はこのまま就職活動をしなくて良いのだろうか、果たして生きて行けるのだろうかという不安が浮かんでくる。

けれどもやはり、焦るまい。少しばかり年齢は嵩むが、僕は大学院へ進もうと思う。

まだ何にも知らないのに、今からようやく面白くなってくるところなのに、まだ大学での時間や

指揮を学ぶことを終えるには早すぎる。あと半分残っている20代、お金や地位を求めるのではなく、

自分にヤスリをかけるように、弓をギリギリいっぱいまで引き絞るように過ごす。

そのうちにいつか自然に将来が開けてくると信じて。

 

 

ぼんやりとそんなことを考えながら、夕陽が綺麗にさしこむ喫茶店に入って珈琲を頼み、

角砂糖をひとつ放り込んでから、角砂糖についた紙の包装ごと珈琲に入れてしまったことに気付く。

春である。

 

ルロワ・グーラン『身ぶりと言葉』(ちくま学芸文庫,2012)

 

 

ルロワ・グーランの『身ぶりと言葉』をようやく手に入れる。

絶版を知って以来数年間必死に探し回った本だったが、ちくま学芸文庫でついに復刊された。

ちなみにこの本、松岡正剛さんが「千夜千冊」というサイトでお薦めされているのでも有名だが、

そこではLe Geste et le ParoleとParoleの冠詞が男性になってしまっていることに気付いた。(正しくはLe Geste et la Parole)

それはともかく、帰宅して早速読み始めているが、凄まじく面白くてわくわくするのを抑えることが出来ない。

明日の「週刊読書人」のウェブ書評欄でも取り上げてみたいし、ここでも後日詳細にまとめを書こうと思う。

La crise actuelle ne deviendrait inquiétante que si, comme pour le social,

le rapport entre la masse passivement consommatrice d’art et l’élite créatrice entraînait une dégradation du tonus de recherche…

視覚と音楽

 

ベートーヴェンのエグモント序曲を再び勉強していた。

「ああ、これは凄いな。」と思ったエグモントの演奏は三つ。

三十年前の師匠のレッスンでの演奏と、フルトヴェングラーの演奏、そしてジュリーニの1976年9月5日ライヴだ。

ジュリーニのライヴは忘れがたい一小節がある。Allegro con brioに入る前のVnのドーーーーソの部分。ジュリーニはこのソの音を弱音で啜り泣くように演奏させている。

 

ジュリーニがどう考えてここをこう演奏したのかは誰にも分からないが、少なくとも僕はこういうことだと考える。

決然としたドーーーーの音がエグモント伯爵の生き様(エグモントは力強く処刑台に向かう!)と信念を表し、

啜り泣くようなソの音が愛人のクレールヒェンの悲嘆を表す。スコアには何の指示もない。完全にジュリーニの解釈だ。

しかしある意味で、この壮絶な劇を一小節で表現しきっているように思われる。「劇的=Dramatic」という言葉がまさに似つかわしい。

オペラ「夕鶴」で知られる木下順二が『“劇的”とは』(岩波新書)という著作の中でこう書いていたことを思い出す。

 

 

ある願望があって、それも願わくは妄想的でも平凡でもない強烈な願望があって、それをどうしても達成しようと思わないではいられない

やはり強烈な性格の人物がいる。そして彼は見事にその願望を達成するのだが、それを達成するということは、同時に彼がまさにその上に

立っている基盤そのものを見事に否定し去るのだというそういう矛盾の存在。

『オイディプス王』から『人形の家』まで、すぐれた戯曲をつらぬいているものは、この絶対に平凡でない原理であるように思う。

そしてその原理こそがドラマであり、その原理の集約点がつまりドラマのクライマクスである。

(木下順二『“劇的”とは』P.62、『ドラマとの対話』からの引用部分)

 

 

ベートーヴェンがその音楽の元としたゲーテの『エグモント』はまさにそうしたドラマだ。

そしてジュリーニはそのクライマクスを輝かしきフィナーレではなく、フィナーレの前のあの弦の部分に持ってきたのだ。

進撃するAllegro con brioがまるで後奏のように響くのは、その前のあの部分であまりにも鮮烈に映像が展開するからだろう。

 

 

 

ジュリーニの演奏に留まらず、エグモント序曲という楽譜、そして音楽からは「映像」が強く立ち上がってくる。

エグモントの74小節目からのSfのティーーヤヤ、ティーーヤヤという弾力に富んだフレーズからは、馬に乗ってしなるような歩みで

進撃する様子が浮かんでくるし、続く82小節目からのザンザンッ、ザザンザンッ!という決然としたフレーズからは立ちふさがる敵をなぎ倒すような

光景が浮かぶ。だとすれば、弦楽器のボウイングもそれに近づくのではないか、と考えるのは間違いではあるまい。

 

なぜならば、生演奏が基本であったクラシックの音楽において、作曲が視覚的要素と無関係であったとは思えない。

とりわけ劇音楽はそうだろう。シナリオがまずあり、それが作曲者の頭に映像として浮かび、それを音にするのだから。

そうしたとき、沢山の人数が一斉に同じ動きをする弦楽器は、作曲者にとって具体的な映像を与える役割を果たしたはずだ。

 

私見だが、あくまでも私見だが、弦楽器のボウイングはたとえば海を駆ける船の帆、あるいは剣を振るう騎士に見える瞬間があるし、

スコアを読めばベートーヴェンにもそう見えていたのではないかと想像出来る時がある。

楽譜から映像が浮かぶ。逆もまた然り。弦の動きがある視覚的イメージを喚起し、楽譜を呼び起こす。

音楽を奏でる主体の動きから、音楽の場面としての映像が立ち上がる。

 

「劇的」とは、そういうことだと思う。

視覚が聴覚に、聴覚が視覚に。五感に否応無く訴えかけ、人を否応無く巻き込んで行く力のことだ。

 

 

 

黒井千次『時代の果実』(河出書房新社)

 

週刊「読書人」の書評でも取り上げさせて頂いたが、黒井千次『時代の果実』は本当に素敵な一冊だ。

全編、筆者の回想(それは戦後の風景であったり、作家との交流であったり)から成り、淡々とした筆致の中に溢れんばかりの感情が生きている。

特に第二章の「回想の作家たち」が心に響く。たとえば「鵠沼西海岸」で知られる阿部昭に寄せた文章を引用しよう。

 

いかなる意味においても自己を拡散させまいとする強い意志と人生への省察とが、一点に凝縮してどこかへ突き抜けてしまう趣があった。

そしてそのことを可能にしたのは、なによりも彼の言葉の力、あの気難しげなほどに目の詰まった、それでいて弾力に冨む文体であったといえる。

(同書 P.82)

 

 

あるいは『あの夕陽』の日野啓三に寄せた文章を見よ。

 

そして発病後、日野啓三の小説に変化が現れたように思われる。透徹した分析的で知的な姿勢に変わりはないのだが、そこには従来とは違う別のトーンが加わった。

言葉の肌触りがどこか優しくなり、しなやかになった分だけ声がより遠くまで届く感じを受けた。死の近くまで押しやられた切実な体験による変化なのだろう、とまでは

単純に推測出来ても、その実態を窺うことは叶わなかった。

最後の短編集となった『落葉 神の小さな庭で』を読んだ時、ほんの少し何かがわかったような気がした。外界に対して向けられた視線の中に自己が参入して来た、とでもいえようか。

自己の方から世界に近づいたのでも、世界が近寄って来たのでもない。自己と世界とがお互いに歩み寄り、自然に出会いでもしたかのような雰囲気が湛えられている。…

(同書P.113)

 

 

一冊の本を開くと一気に最後まで読み通してしまうのが僕の常だが、この本にはそうさせない重みがある。

一つずつゆっくりと、心にしんしんと回想を積もらせてゆく。大切な一冊に巡り会った。

 

 

リルケの「秋」

 

急速に陽が短くなり寒さが傾く日々、久しぶりにリルケの『形象詩集』を棚から取り出す。「秋 Herbst」が読みたくなった。

 

 

Die Blätter fallen, fallen wie von weit, als welkten in den Himmeln ferne Gärten; sie fallen mit verneinender Gebärde.

Und in den Nächten fällt die schwere Erde aus allen Sternen in die Einsamkeit.

Wir alle fallen. Diese Hand [...]

トゥーサン『愛しあう』再読

 

朝六時までベートーヴェンの「エグモント」序曲を勉強していたら目が冴えてしまったので、

珍しく浴槽にお湯を張って、ゆっくりと浸かりながらトゥーサンの『愛しあう』という小説を読んでいた。

原題はfaire l’amour、すなわちmake love というそのものズバリのような刺激的なタイトル。野崎先生はこれを『愛しあう』とギリギリのラインで

日本語にしたわけだが、この訳のセンスには本棚で背表紙を見るたびに感動してしまう。すごい。

 

ともあれ、邦訳で二・三回読んでいるとあって、これは原典でも辞書無しである程度の意味が分かる。

ペーパーバックは表紙が厚めのコート紙で出来ているのでこうした環境で読んでも湿気ないのが良い。久しぶりに読んでみると

「ここはこういう風に書いてあったんだな」と美しさに驚くところもあったので、覚え書きとして幾つかここに掲載しておこうと思う。

 

Le taxi nous déposa devant l’entrée de l’hôtel. A Paris, sept ans plut tôt, j’avais proposé à Marie d’aller boire un verre quelque part dans un endroit encore ouvert près de la Bastille, rue de Lappe, ou rue de la Roquette, ou rue Amelot, rue de Pas-de-la-Mule, je ne sais plus. Nos [...]