November 2024
M T W T F S S
« May    
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930  

白小路紗季さんのソロ・コンサート

 

約十五年ぶりに会う、小学校一年生の頃のクラスメイトである白小路紗季さんが招待して下さったソロ・コンサートに行ってきた。

つい最近まで、僕は彼女がヴァイオリニストとして活躍していることを知らなかったし、

彼女ももちろん僕が駆け出し指揮者をやっていることなんて知らなかっただろう。

会場について開演を待つ間、十五年振りに姿を見ることに何だかとても緊張した。

静まった中に入って来てスポットライトを浴びた彼女は、一年生の頃の面影や仕草を確かに残しながら、

鮮やかなドレスの似合う、美しく凛とした佇まいの大人の女性になっていた。

 

 

前半の最後に痺れる。

弓の速さ・圧の抜き。ブラームスのヴァイオリン・ソナタ三番のある箇所で、弓が一瞬宙に舞った瞬間、物凄いスピードで空間を切り抜く。

そうして響いた音は鋭いだけの音ではなく、とても中身の詰まった豊かな音だった。

 

後半も楽しみだなあ、と期待しているうちに始まったイザイの無伴奏ソナタ三番。これは本当に凄かった。

前半より集中力がさらに増しており、何かに取り憑かれたような演奏。会場の空気が彼女の振る舞いに凝縮していくのを感じた。

彼女の弓使いはまるで刀のよう。弓を目一杯使ったあと、鋭く跳ね上げて一瞬の間を作り出し、迷い無くザッと断ち切る。

空間と空間、時間と時間の隙間に生まれる、息を飲む一瞬。その一瞬から血が噴き出して鮮やかに散るような錯覚。それは美しく、壮絶だった。

三番のあとにはイザイの無伴奏五番、そのあとにサン・サーンスのワルツ・カプリース、そしてヴィエニャフスキの華麗なるポロネーズ二番が続く。

これも勢いに乗った素晴らしい演奏で、特にワルツ・カプリースの華やかな音色の変化には耳を奪われたが、頭は先程のイザイ三番の衝撃から覚めやらず。

それぐらい凄い演奏だったと思う。余韻の残る中、アンコールはモンティのチャルダーシュを遊びたっぷりに!

 

演奏後、十五年ぶりの再会を果たして色々と話し、近いうちに一緒にヴァイオリン協奏曲をやろうと約束する。

小学校一年生の頃はこんな話をするなんて考えたことも無かったね、と二人で笑いながら。

 

彼女と音楽したいな、と心から圧倒された時間だった。

コンチェルト、必ず実現させよう。また一つ目標が出来た。その日に向けて一生懸命勉強せねばならぬ。

 

向日葵が海に背を向けて咲いていた -東北で指揮して-

 

この夏に新しく出会った東北遠征オーケストラ(Commodo)と、演奏旅行に出かけていました。

慶應と武蔵野音大の方がメインのこのオーケストラ、アウェーの環境であるうえ、短い練習時間しか用意されていなかったので

どこまで仕上げることが出来るか指揮者として少し不安でしたが、みなさん最後には猛烈に練習して下さったこともあって、良く纏まりました。

今の僕に出来る限りの役目は果たせたかなと思います。

 

曲目はビゼーの「カルメン」やオリジナルのクラシックメドレー、サウンド・オブ・ミュージックのメドレーなど、全八曲。

阪神大震災を少なからず経験した身として、震災と津波の傷痕深く残るこの場所で指揮することには迷いも意義も感じていました。

(昨年も別団体から音楽による支援として指揮を打診されたのですが、まだその時期ではないだろうと思って断ったという経緯もあります。)

 

実際に現地を訪れてみると込み上げてくるものは祈りの感情で、津波の被害を受けた海岸沿いの地を静かに歩いているうちに

歩みを進めることが出来ないほど痛切な感情に襲われました。東北を回っている間に書きつけた文章の一部をここに掲載しておきます。

空は青く、雲は既に秋の軽やかさを見せていた。

海の音が迫ってくる。眼前には何もない。そう、一年前までそこにあったであろう物が何もない。

見渡す限り、無。ただ海だけがある。振り返っても背後は山まで一望できてしまう。悲痛な景色。

 

山から伸びる雲が海と繋がろうとしている。

大地はひび割れ、家であっただろう場所、線路であったはずの場所に草が生い繁る。

海から吹き付ける風に黄色が揺れる。向日葵が海に背中を向けて咲いていた。

波の音。どこまでも静かな景色、喪失の静けさ。

草地の中に残された泥まみれの上履きが残酷だった。

 

 

 

心から心へ届くように、あらん限りの祈りを。

アンコールとして演奏したyou raise me up、そしてsound of musicメドレーの

deep feelingと記された最終変奏にはとりわけそうした想いを、言葉を込めたつもりです。

全三公演、演奏した先々で涙を流しながら聞いて下さった方々が沢山いらっしゃったということを後から知りました。

音楽に何が出来るのかは今もって分からないけれども、少しでも心に届くものがあったならば…。

お聞き下さった方々、そして一緒に演奏して下さった皆さん、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

隔たりを信ず。

 

自分より遥かに年上で、しかも年齢を無為に重ねず不断に学び続けてきたあの頭脳に、いつか辿り着ける日が来るのだろうか。

二十五歳になってから、そうした疑問がふと頭に浮かぶことがある。それは言ってみれば、自分の将来、自分の未来への不安なのかもしれない。

答えは二択で描けるものではないだろう。誰にも答えは分からないし、そもそも他者によって答えを提示されることは堪えられない。

ポール・ニザンの「僕は二十歳だった。それが人生で一番美しい年齢だなんて、誰にも言わせない」というあの有名な一節を思い出す。

時間は止まってくれないが、時間の中で自在にリズムと密度を操ることが我々には出来る。

だから、時を先行したものとの隔たりを意識しながら、そして隔たりを尊敬しながら、負けず嫌いにも似た無謀さでぶつかっていくしかない。

 

 

改めて思う。年齢は偉大だ。

「凄い」と心から思える年長の人と張り合ったとしても肩を並べるのは難しいかもしれない。

しかし、無謀だとしても、張り合うように必死に学んで生きない限り、その人と同じ年齢になった時、

追い越すことはおろか、肩を並べることすら出来やしない。

 

 

塔を見上げているだけでは首が凝るばかり。

心を奪われるものに巡り会ったら躊躇せず、自らを自らで狭めることなく…不確定な未来に身体を預けて、前へ。

 

「遊び人」礼賛

 

「遊び人」という職業がドラクエにあったのは凄いことだなあ、と今この年になって思う。

ドラゴンクエスト3の場合、遊び人はレベル20になると特別なアイテムなしに「賢者」になることができる。

これは非常に意味深い。なるほどという感じだ。

つまり、遊び人が賢者になるのは、これまでの行いを悔いたからではなく、行いの蓄積の結果として英知を有したからである。

遊び人は対人関係から自然と悟りへ至る故に、他職から賢者になるには必要なアイテム(=境界を飛び越えるもの)「悟りの書」を必要としない。

すなわち、遊び人と賢人は逆の方向にあるものではなく、まさに遊び人と賢人こそが、唯一近しい位置にあることが示されている。

 

レベル1を10歳とすれば、レベル20はおよそ30歳。

30歳までずっと遊び人でいることは難しいことだ。

定職についてレベルを上げていく仲間を横目に、遊び人は役に立てない申し訳なさや先行きの見えない恐れを乗り越えなければいけないだろう。

しかし、道化のように笑いながらも自らの意志を譲らず、ひたすらに遊びの道に徹し、ぎりぎりまで弓を引き絞ったとき、他の人には真似のできない豊かな世界が展開するのだと思う。

30歳まであと5年。そのとき僕は、何者かになれるだろうか。

 

 

 

25歳を迎えて。-指揮台の上で迎える誕生日-

また一つ年齢を重ね、二十五歳という年齢を迎えることになった。

二十五歳。ハタチの頃の僕にとって、それは遠い遠い年齢で、同時に一つの区切りの年齢でもあった。

 

二十歳のころ、僕は浪人生で、勉強に大した興味も持てず、友人たちが先に大学生になっていくのをぼんやりと眺め

追いて行かれるという事に対する漠然とした寂しさに必死で抵抗していた。

だからこそ、次の区切りの年齢が来たときには安定した進路にいることが出来るようにと心の奥底で願っていた。

 

あれから五年。僕はさらに「遅れる」ことを、いや、「迂回する」ことを自分から選んでいた。

こうして二十五歳を迎えるという事に恐怖も空虚さも感じないかといえば嘘になる。

しかしそうした感情以上に充実感が先立つこともまた事実だ。安定はしていないかもしれないけど、毎日は刺激的で面白い。

 

誕生日当日はドミナント室内管弦楽団のリハーサルだった。

ベートーヴェンの一番のリハーサルを終え、それではしばらく休憩を、と言って指揮棒を離したら

突然「せーの!」というコンミスのかけ声が響いて、みんながHappy birthday to youを演奏してくれた。本当にびっくりした。

2と5の数字を象ったろうそくに大きなケーキまで。トランペットが高らかに歌うハッピーバースデーに包まれて、

照れ臭さで声にならない笑いが込み上げてくると同時に、こんな幸せな時間を準備してくれたことに心の底から感動した。本当にありがとう。

 

ハッピーバースデーが流れる中、指揮台で立ち尽くしながら、二十歳の浪人時代からずっと心に留めているこの一節が回帰した。

Man muss noch Chaos in sich haben, um einen tanzenden Stern gebären zu können.

 

二十五歳、世界を閉じるための一歩を踏み出すには早すぎる。

暗闇に差し出した一歩で視界が開けることを楽しみに、迷いながらも足取り軽く。

 

 

指揮台の上で迎える誕生日。

大地と時間の芸術 - マルセル・ダイス,マンブール2006 -

 

こんなにも、飲むことを「恐ろしい」と思ったのは初めてだった。

マルセル・ダイスのマンブール2006。黄金という表現が似つかわしい色合いに、信じられないほど長く続く余韻!

 

舌に含み、口の中から姿を消した時からこのワインは本当の姿を見せ始める。フルーティーな味わいが消えたあと、物凄い密度のほろ苦い旨味が迫ってくる。

遠くからやってくる、というよりはズームで迫ってくるようなその密度に圧倒されるが、引き方は儚く、くどくない。

九月の終わり、夏の余韻が秋風にさらわれて消えて行くように、静かにすうっと過ぎ去って行く。

思い出すのはシューベルトの『未完成』交響曲の最後だ。

何か神聖で巨大なものが膨らんで迫ってくるクレッシェンドに、霞の中にフェイドアウトするようなディクレッシェンド。

あの一小節と同じように、このワインは、一瞬だけで忘れられない記憶を与えてくれる。

 

 

後味が完全になくなったあと、きっとこう問いかけたくなるはずだ。

「今のはいったい何だったのか?」

それは美味しいとか味がどうだとか、そういう次元ではもはや語れない世界で、

貴腐ワインのような美しい色合いの中に、味わいだけでなく「時間」という要素を濃厚に含んでいる。

フィニッシュの余韻が上等なウィスキーのように鼻から抜けて行き、頭を痺れさせる。

徹底的にテロワールに拘るマルセル・ダイスが生み出した、アルザスの大地と時間の芸術だ。

 

飲みすすめて味が開き始めると、グレープフルーツに似たほろ苦いアタックが鮮烈になり、肌まで震わせる。

舌に乗せた瞬間の柔らかいフルーティーさの上にこの苦みが押しかぶさってくる。

苦味のクレッシェンドはより急激になり、そのぶん、余韻は長くなる。

そしてじっくりと細胞の一つ一つに染み渡るように引いていく感覚に、思わず目を閉じてしまう。

 

次の一杯、あるいは食事を、このワインは容易に口に含ませてくれない。

もっともっと、と求めてしまう美味しさなのだが、あまりの印象深さゆえ、音が完全に消え去るまでは次の音を重ねることが出来ないように、

真に心打つ演奏の終わりには拍手すら出来ないように、この美しい余韻が響き渡る中に身を任せてじっとしていたくなる。

この世界から醒めたくない、と思う。

 

ゆっくりゆっくりと杯を重ね、最後の一口を傾けながら、飲む事が出来た幸せと終わりが来てしまう寂しさで、涙が出そうになった。

こんなふうな気持ちにさせてくれるお酒を、僕は他に知らない。

 

 

 

Manbourg Grand Cru 2006

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Manbourg Grand Cru 2006 -2-

傾く思考

東京で桜が満開になった日、桜を辿ってふらふらと歩いたあと、本屋をゆっくりと巡っていた。

しばらく探していたヴォルフガング・シュヴェルヴュシュ『闇をひらく光 -19世紀における照明の歴史-』を発見して購入。

おそらく卒論で使うことになるだろう。

 

数えてみれば、三時間ぐらい一つの本屋にいたことになる。

Amazonなどで自宅にいながらにして簡単に本が買えるようになったけれども、立花さんが言うように、

定期的に大きな本屋を散歩することは大切で、買うとも無しに本棚と本棚の間を歩いて背表紙の数々を眺めていると

自分が無知であることに改めて気付かされる。

インターネットで本を買うときは「自分が本を選んでいる」感覚だが、本屋に足を運び、質量や手触り、かさを伴う「本」に囲まれると

まるで自分が「本に選ばれている」気分になる。このフロアに並べられた本のうち、僕が読んだことがあるのは本の0.000…%で、

自分の興味がある分野の棚に限っても、実際に読んだ事があるのは僅かにすぎない。棚から棚へ、フロアからフロアへ。

足の疲れとともに、ゲーテの『ファウスト』を持ち出すまでもなく、「何にも知らない」ことに愕然とするのだ。

 

Read, read, read. Read everything–trash, classics, good and bad, and see how they do it.Just like a carpenter who works as an apprentice and studies master. Read! You’ll absorb it.Then write. If it is good, you will find out. If it’s not, throw it out the window.(William Faulkner)

 

休学を終えて大学に戻るにあたって、頭が学問の方向に再び傾きはじめたのを感じる。

もちろん音楽のことも忘れてはいない。音楽への興味を抑えるつもりは無いし、今までと変わらず学んでいく。

ただ、気持ちをうまく切り替えていかないと卒論と両立は出来ないだろうなと思う。

音楽、そして指揮を学ぶことは、僕にとってそれぐらい劇的で、魅力的なことだから。

 

 

東京駅を降りて丸善へ歩くと、リクルートスーツの人たちと擦れ違う。

入学した時の同級生たちが社会に出て働き始めたのを見るたびに、

さらには後輩たちが就職への準備を進めていくのを聞くたびに、

僕はこのまま就職活動をしなくて良いのだろうか、果たして生きて行けるのだろうかという不安が浮かんでくる。

けれどもやはり、焦るまい。少しばかり年齢は嵩むが、僕は大学院へ進もうと思う。

まだ何にも知らないのに、今からようやく面白くなってくるところなのに、まだ大学での時間や

指揮を学ぶことを終えるには早すぎる。あと半分残っている20代、お金や地位を求めるのではなく、

自分にヤスリをかけるように、弓をギリギリいっぱいまで引き絞るように過ごす。

そのうちにいつか自然に将来が開けてくると信じて。

 

 

ぼんやりとそんなことを考えながら、夕陽が綺麗にさしこむ喫茶店に入って珈琲を頼み、

角砂糖をひとつ放り込んでから、角砂糖についた紙の包装ごと珈琲に入れてしまったことに気付く。

春である。

 

スキーを終えて。

 

随分と更新の間が空いてしまいましたが、スキーから無事に帰ってきました。

志賀高原は最高の雪。前日までに新雪が沢山積もり、僕たちがスキー場についたころには燦々と陽射しが差し込む快晴でした。

誰もいないゲレンデを見渡しながらリフトで一気に山頂まで昇り、積もりたての雪の中をカービングで一気にぶっ飛ばしていくのは

爽快以外の何物でもなく、生きていて良かったと思えるほどの心地よさです。

 

今年から、志賀高原のリフト券に一工夫が加えられ、「Skiline」というアプリと連動するようになっていました。

これに登録しておくと、リフトの改札センサー情報から一日にどれぐらいの距離/標高差を滑ったかが分かります。

ということで、ドミナントのメンバーとともに滑り倒し、部屋に戻っては滑走距離を確認し、

さらにはナイター(一の瀬のダイヤモンドゲレンデ)にも出かけてストイックに滑走距離を伸ばしていました。

 

いつもは横手山の近くに泊まって横手山から奥志賀の方に次々と移動していくのですが、今年は一の瀬の麓に宿泊したので

どちらかというと一の瀬―焼額―奥志賀、それから寺子屋などのコースをメインに滑ることに。

もちろん、ちゃんといつもの横手山にも向かって、頂上のヒュッテでロシアンティーとふわふわのパンを堪能してきました。

 

滑っていて気持ちよかったのは一の瀬のパーフェクタコース。それなりの角度がついていて、バーンも綺麗に整備されており

練習には最適でした。部屋に帰ってお風呂に入り、一度みんなで倒れて鋭気を養ってから、恒例のお酒祭り。

もはや何の連絡も回さなくとも参加者がそれぞれ思い思いのお酒を持って来ており、

「これがオススメなんだよ〜!」とワイン、日本酒、ウォッカ、焼酎が次々と…十人で十本以上のボトルを簡単に空けてしまいました。

 

 

今年もまた志賀高原で自然に遊んでもらうことが出来て幸せです。

来年も無事に、ここで風を切りながら滑る事が出来るといいな。

 

 

今年も志賀高原へ。

 

ドミナント・デザインチーム&オーケストラのメンバーと共に、今年もまた志賀高原へスキーへ行ってきます。

僕にとってスキーと言えば志賀高原で、一年に一回は必ず、山々が連なるあの雄大な景色に身を置いてみたくなるのです。

雲の上までリフトで運ばれ横手山の山頂から遠くを見渡すとき、広大な風景を臨みつつ焼額山から一気に麓まで滑り降りるとき、

「自分は今ここで確かに生きている」ということに幸せを感じずにはいられません。

 

 

サーフィンと同じく、自然に遊んでもらっているということを忘れないようにして、

気心の知れた仲間たちと共に、白銀の世界へ行ってきます。

 

 

鮮やかな静寂

 

春の気配が少しずつ忍び寄る二月の夜。

ひとりで街を歩いていたら、辛棄疾の「青玉案 元夕」という漢詩を思い出した。

 

東風夜放花千樹

更吹落星如雨

寳馬雕車香滿路

風簫聲動

玉壺光轉

一夜魚龍舞

蛾兒雪柳黃金縷,

笑語盈盈暗香去。

衆裏尋他千百度,

驀然回首

那人却在

燈火闌珊處

 

「春風が夜に限りなき光の花を咲かす。風はさらに吹き散らす。夜空の星を雨のように。」と灯籠を描写した冒頭、

「白粉の香りが道に溢れる」と続け、「密かな香りとともに去って行った多くの美女のうち、或る一人を追いかけて何度無く大通りを行き交う」

という心の揺れ動きが示されたあと、「でも見失ってしまった。がっかりして振り向く。するとその人は静かにそこに佇んでいた。灯火の届きにくい、目立たぬ暗闇に。」

 

スビト・ピアノ。こうして陰影と静寂へと一気に情景を変える。

暗闇に息を呑む。遠ざかって行った白粉の香りが、途端に鼻元に立ちこめる。

風の肌触り、揺れる灯籠の光、聞こえる喧噪、流れてくる女性の香り…。

想像力に溢れ、五感を刺激する。何という世界の豊かさ。その鮮やかな静寂に絶句する。