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三本の指揮棒

 

フィリピンで一ヶ月続いたコンサートツアーが終わったあと、セブ島にあるSeven Spirit音楽教室の子ども達に、僕の使っている指揮棒を三本渡した。

最初から渡すつもりでいたわけではないのだけれども、二月に訪れた時に指揮を教えた子どもと、今回の指揮者体験コーナーで見事な指揮を披露してくれた子たちにせがまれて譲ってしまった。

 

指揮棒は単なる棒に過ぎない。これで弦をこすっても音は鳴らないし、息を入れる場所もない。一人で振り回したって何にもならない。

それでは一体、指揮棒とは何か?もちろん指揮棒を持つことによって生まれる技術的なメリットというのは沢山ある。

しかし正直なところ、これが無くたって指揮することはできるし、持たない指揮者だって沢山いる。

 

けれどもやはり、指揮棒を持つということは、指揮者として認識されるということだ。それは技術というよりむしろ精神に関わっている。

音の出ないものを用いて、いかにして音を作っていくか。棒を手にした子どもは、それが音が出ないものであるからこそ、そう考えるに違いない。

ステージの上で唯一、みずから音の出ないものを持って、しかし最前列に立って大勢を導いて行く。指揮棒を取るということは、そういう「勇気」を表すものだと思うのだ。

 

 

三本の棒を渡すときにふと考えた。

三本というのは、とても良いな。それは過去と現在、そして未来だ。

大袈裟かもしれないけど、三本を渡す事によって、二月・九月と一緒に過ごした時間を思い出しながら、その先を、未来を指揮してほしいと思ったのだ。

 

次にセブを訪れるのはいつになるだろう。

演奏会の終わったステージで、即興演奏をはじめる奏者たちに手にしたばかりの棒を振り回し、「ほら!」と嬉しそうな顔をこちらに向ける子どもたち。

いつまでもその勇気と笑顔を忘れないでいてほしい、と心から祈った。

 

 

未来を預ける

地元礼賛

 

地元で30年続く定食屋さんがランチメニューを出していたので、ふらりと入ってみた。

夜には何度かお世話になっていたのだけど、昼は初めてだなあと思って聞いてみると、なんと僕がランチ第一号だった。

 

ずっと通っている常連さんたちも30年の間にお年を召されて、「夜に来るのは大変になっちゃったけど、食べたいんだよなあ」という声があったらしい。

それに応える形で今日からランチを始められたそうだ。ご夫婦だけでやっていらっしゃる小さなお店だけれども、地元の人に愛されて長く続いてきたのだなと感動してしまった。

 
 

静かな店内に厨房でハンバーグをこねる音が聞こえてくる。

この一つ一つの仕草に30年の色々が詰まっているのだ、と物思いに耽るうちに、「来たよ〜!久しぶり!」と次々に白髪の常連さんがいらっしゃって、お店が賑やかに。

思いがけず過ごさせて頂いた温かい時間。こういうお店と人があるからこそ、僕はこの街を愛する。

 

 

新作文楽:不破留寿之太夫(ふぁるすのたいふ)

 

帰国して数日後より、高熱で倒れていました。今日からようやく復活したので滞っていたものを進めて行きます。デング熱ではないそうなのでご安心下さい。

 

倒れる前に、国立劇場にて新作文楽「不破留寿之太夫(ふぁるすのたいふ)」を見てきました。宝塚でプロコフィエフ「ピーターと狼」を共演させて頂いた豊竹希大夫さまからご招待頂いたものです。文楽を見るのはこれが人生で初めて、果たして楽しめるのか不安だったのですが、三味線と語りの豊かさ、そしてまるで 空を歩くかの如き人形の滑らかな動きに魅了され続けて、時が一瞬で過ぎました。特に音楽については三味線の人間国宝・鶴沢清治さんが30年来温めたアイデ アだったそうで圧巻でした。

 

「ふぁするのたいふ」というタイトルからも分かるように、「ファルスタッフ」であって、「ウィンザーの陽気な女房」であり、さらに辿ってシェイクスピアの 「ヘンリー四世」が元になっています。シェイクスピアということで、脚本は駒場でマクルーハンの輪読をご一緒させて頂いた河合祥一郎先生によるもの。

 

「人の命はやがて消ゆる束の間の灯。誉れありといえども命果つるば益なし」という冒頭の独白から、ヘンリー四世の中の名文であるThought’s the slave of life, and life time’s fool; And time, that takes survey of all the world, Must have a stop. などを思い出し、時代も言語もバックグランドも違うものを自然と溶け合わせる脚本と演技の妙、そして深いところで物事が「思想」として繋がっていることに 感動しました。

公演は今日が最終日。今後もし再演する機会があれば、楽しめること間違いなしの演目ですので、是非足をお運び頂ければと思います。

(追記:観劇しながら、三味線のトップの方のリードが凄まじい気迫で、時に義太夫を煽り、或はバチの一打ちで舞台の表情を変えて行く様がすごい…とた だただ感動して見ていたのですが、そうしたらその方が鶴沢清治さんご本人でいらっしゃったことを後ほど知りました…!)

http://www.ntj.jac.go.jp/kokuritsu/h26/falstaff.html

<マニラ滞在記3日目・4日目>リハーサルと「野武士会」での演奏

 

今日から現地でのリハーサルがはじまりました。会場のUPHは不思議な空間で、まだまだ音響に慣れないところもありますが、きっと回を重ねるたびに自然と纏まって行くと信じて、要所を押さえつつ、大きく構えて流れを呼び込みたいと思います。どんな環境であっても絶対に動揺しない、そういう精神の強さが指揮者にとって大切であることを昨年2月のセブ島でのコンサートツアーから教わりました。

 

夜には今回のツアーのファーストステージ。マニラ在住の日本人たちが集う「野武士会」という集まりで演奏させて頂きました。クラブフロアのような環境で、 譜面はほとんど見えず、風で楽譜が飛ばされそうになることもしばしばなステージでしたが、2月にも何度もそういうステージを経験させて頂いたおかげで全く焦ることなく、逆に楽しむことが出来ました。参加されていた他のミュージシャンの方々とも交流させて頂き、ちょっと奇跡的な出会いもあったりして、一発目から非常に印象深いステージになりました。

 

4日目となる今日はひたすらリハーサル。グラズノフのヴァイオリン協奏曲や「カップス」と呼ばれるアクティビティなど、集中して・そして楽しく取り組んでいきます。

 

野武士会にて、スターパズルマーチ

リハーサル@UPH

台風前のサーフィンとロシア総領事館でのコンサート

 

全てここ数日の事であるのが嘘のようですが、リハーサルの合間を縫って友人たちとサーフィンを堪能したのち、大阪のロシア総領事館で指揮させて頂きました。

台風が近づいていたこともあって海はヘッドオーバーの波がセットで次々に押し寄せるコンディション。サイズもさることながら、台風のウネリは波自体のパワーが全く違います。自然のエネルギーは本当にすごい。僕にとっては無くてはならない時間を堪能し、体調と精神を整えました。

翌日、ロシア総領事館でショスタコーヴィチの映画音楽「馬あぶ」より抜粋、それからプロコフィエフの「ピーターと狼」を人形浄瑠璃文楽義太夫の語りで、ア ンコールには「さくらさくら」を演奏しました。付け焼き刃で覚えたロシア語の初会話相手が在日ロシア総領事というのは申し訳無さ過ぎる展開でしたが、幸せ なことに総領事や日露サロン関係者の皆様からご好評を頂き、またこの場所で指揮させて頂くことになりそうです。

 

<ベガ・ジュニアアンサンブル ロシア総領事館特別コンサート>

1.ショスタコーヴィッチ:映画音楽「馬あぶ」より抜粋

2.プロコフィエフ:「ピーターと狼」(語り:人形浄瑠璃文楽義太夫 豊竹希大夫)

3.日本民謡「さくらさくら」

 

夏へ

リヨンへ発つ友人に海でプレゼントしたワイン。

ロシア総領事館にて。

蓮の美学、覚え書き。

 

【周敦頤(1017-1073)「愛蓮説」】

水陸艸木之花、可愛者甚蕃。

晋陶淵明独愛菊。自李唐来、世人甚愛牡丹。

予独愛蓮之出淤泥而不染、濯清漣而不妖、中通外直、

不蔓不枝、香遠益清、亭亭浮植、可遠観而不可褻翫焉。

予謂、菊花之隠逸者也、牡丹花之富貴者也、蓮花之君子者也。

噫、菊之愛、陶後鮮有聞。蓮之愛、同予者何人。牡丹之愛、宜乎衆矣。

水陸草木の花、愛すべき者甚だ蕃し。

晋の陶淵明、独り菊を愛す。李唐自りこのかた、世人甚だ牡丹を愛す。

予独り蓮の汚泥より出でて染まらず、清漣に濯はれて妖ならず、中通じ外直く、

蔓あらず枝あらず、香遠くして益々清く、亭亭として浄く植ち、遠観すべくして褻翫すべからざるを愛す。

予謂へらく、菊は華の隠逸なる者なり。牡丹は華の富貴なる者なり。蓮は華の君子なる者なりと。

噫、菊を之れ愛するは、陶の後、聞く有ること鮮し。蓮を之れ愛するは、予に同じき者何人ぞ。牡丹を之れ愛するは、宣なるかな衆きこと。

 

【范成大(1126-1193)「州宅堂前荷花范成大」】

凌波仙子靜中芳 也带酣紅學醉粧

有意十分開曉露 無情一餉斂斜陽

泥根玉雪元無染 風葉青葱亦自香

想得石湖花正好 接天雲錦畫船凉。

 

【李白(701-762)「採蓮曲」】

若耶渓畔採蓮女 咲隔荷花共人語

日照新粧水底明 風飄香袖空中挙

岸上誰家遊冶郎 三三五五映垂楊

紫騮嘶入落花去 見此踟躕空断腸

 

G.Mahler(1860-1911):Von der Schönheit(Das Lied von der Erde, vierter Satz)

Junge Mädchen pflücken Blumen,
pflücken Lotosblumen an dem Uferrande.
Zwischen Büschen und Blättern sitzen sie,
sammeln Blüten in den Schoß und rufen
sich einander Neckereien zu.
Gold’ne Sonne webt um die Gestalten,
spiegelt sie im blanken Wasser wider.
Sonne spiegelt ihre schlanken Glieder,
ihre süßen Augen wider,
und der Zephyr hebt mit Schmeichelkosen
das Gewebe ihrer Ärmel [...]

夏は来るのだ。

 

 

Da gibt es kein Messen mit der Zeit, da gilt kein Jahr, und zehn Jahre sind nichts, Künstler sein heißt: nicht rechnen und zählen; reifen wie der Baum, der seine Säfte nicht drängt und getrost in den Stürmen des Frühlings steht ohne die Angst, daß dahinter kein Sommer kommen könnte. Er kommt doch. Aber er [...]

ひとりで。

 

夏は吹奏楽の季節だ。また今年も、はじめての中学校からお声がけ頂き、吹奏楽指導をさせて頂いた。

指揮する曲は、指揮を習い始めて間もない頃、吹奏楽指導へ赴く師匠に同行させて頂いたときの曲だった。

あのとき僕は、言葉なしに棒だけで音楽をがらりと変えてしまう師匠の凄みを、そして指揮という芸術の恐ろしさを目の当たりにした。

その瞬間のことを思い起こしながら、僕はいま、ひとりで中学校への道を歩く。この夏はあの夏よりも暑い。

時間が経ったのだ、と唐突に思う。だがしかし、過ぎた時間を惜しむことも、過ぎてしまったものに慌てることもしまい。

 

四楽章

 

1.名前をつけるとすれば、それはDevenirであり、L’airということになるだろう。

そしてこれこそが固有の時間と空間-そして音-を作り出す決定的な何物かに直結している。

 

2.芸術家は想像力が全て。湧き上がる想像力に対して、練成した技術で応えていく。その順序が逆であってはならない。

リハーサルののち、斎藤秀雄の指揮で弾いていた、という偉大なヴァイオリニストの先生がぽつりと語った言葉に震える思いがした。

 

3.夢を諦める瞬間がなぜ来るのか。それは夢の可能性が現実の重さに屈服するからだ。

一年前の自分は、現実をはっきりと見る事無く、それでいて、なんとかして現実を納得させてやろうと奮闘していた。

今は違う。襲いかかってくる現実を認識してもなお、凪いだ心で、自らの夢の持つ可能性を信じることができる。だから、もはや動揺することはない。

 

4.見出したものは、全て一言で表すことができる。それは「愛する」ということだ。

忘却でも赦しでもない。ただ「愛する」ということなのだ。

 

結晶の精神

 

リルケと世阿弥とコクトーが、同時にきっかけをくれた。

ここ数週間、いや長く見れば一年半にわたる負荷を経て、そしてまたここ数日の「文字」で座禅を組むような時間を経て、天に穴が空いた。

それは言葉にならないものだけれども、明確に違う次元なのだ。

 

海の微風が静かに吹く、嵐のあとの境地。

無関心とは違って凪いでいる。文字通り波風立たぬ平面でありながら、再び嵐を巻き起こそうと思えばそうすることもできる。

細かいことがどうでも良くなるような大きな海、それでいて、無限に細やかな波紋を刻み付けることもできる海。

明鏡止水、水鏡無私。水鏡無私,猶以免謗,況大人君子懷樂生之心,流矜恕之德,法行於不可不用,

おそろしく均衡の取れた領域が広がる歓待の空間。この延長上に目指すべき境地があることを確信する。

ここからスタートして、精神の強度を高めていくのみ。