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結末

たとえばそれは、ある種の失恋に似ている。

一年間愛し続け、あの美しい木のホールに響かせることを夢見続けた曲が、直前になって演奏できなくなった。笑顔を続けることが出来なくなった。

けれども演奏者の皆さんが個別にメールを下さる。少ない人数でも、条件の整わないリハーサル環境でも、何とかできる事をと思って奮闘し続けた一年間だったが、

僕のやって来た事は間違いではなかった、と少しだけ安心する事ができた。それだけでほんの少し、救われた気持ちになる。

一年間かけてゆっくりと、ゆっくりと、ようやく心が繋がりはじめたのに。ああ、あの人たちと一緒にステージに立ちたかったなあ。

 

Fragment

 

Ein Kunstwerk ist gut, wenn es aus Notwendigkeit entstand. In dieser Art seines Ursprungs liegt sein Urteil: es gibt kein anderes.

 

 

残響

 

 

今日はお世話になっているヤマハの発表会でステージマネージャーをさせて頂きました。

自分の出番が無いと楽かと思いきや、逆に気が張るものです。

椅子を並べ、譜面台を出し入れし、ステージへのドアを適切な呼吸とリズムで開ける。

少しでも奏者にストレス無く弾いて頂くためにはどうすれば良いか、と頭を使う感覚は、指揮しているときと共通しているものがあって

立ちっぱなしの七時間でしたが沢山学ぶ事がありました。と同時に、自分が指揮させて頂くコンサートの一つ一つが出来上がるために

どれほど多くの方々 の力に支えて頂いているか、改めて確認する時間ともなりました。こういうことをいつまでも心に留めておかねばと思います。

 

会場であった明日館は僕の師匠が愛したホールで、師の指揮するブラジル風バッハを初めて聞いた場所でもあります。

あのわずか数分によって僕の人生は決定的に動かされました。

悲しくもないのに涙が溢れて止まらない、一生忘れる事の出来ない時間。人間は棒一本でこんなことが出来るのかと絶句した時間。

きっとこのホールの壁のどこかに、あのブラジル風バッハが染みている。

思い出のハイドン・バリエーションが響き渡った終演後、人気が無くなった会場に佇みながら、五年前の秋のことを思い出さずにはいられませんでした。

 

はじまりの明日館

 

 

たとえば。

 

少し前に一緒に演奏した人たちが、27歳を祝う会を開いてくれて、また一緒に演奏したいと言ってくれる。

それだけで指揮者をしていて良かったと思えるし、今の自分が幸せであることを信じて疑わない。

一方で、指揮とは何であるのか、どういうふうに生きて行けば良いのか、悩む事は限りない。

けれども。この真っ直ぐな幸せを忘れないように自琢せねばと思う。

 

断章

 

最後という言葉を使いたくはないが、それはブラームス一番の二楽章になるのかもしれない。

僕が最初に海外のオーケストラに接したのはこの音楽で、はじめて涙したのもこの音楽だった。

春らしい陽気と突然の雷鳴が交差する一日。やるべきことの殆どが手につかず、じっとこの楽譜を見つめ続ける。

振って聞いて書く

五月の週末も音楽で充実。金曜夜にブラームス一番の下合わせと初級の方々のレッスンを日が変わるころまで。

そして土曜朝からシベリウス七番のリハーサルのち、友人の室内楽コンサートで赤坂カーサ・クラシカ。

日曜日は大学院の同期が出演する池袋ジャズフェスティバルを堪能。ブラック・ミュージックを主に取り上げたセットで、レイ・チャールズ・メドレーが格好良い。

カーサ・クラシカは室内楽コンサートをした思い出の場所。あの壮絶なショスタコーヴィッチは忘れられない。

そしてジャズフェスティバルみたいな野外コンサートに接すると、フィリピンでUUUオーケストラと演奏した日々のことを思い出さずにはいられない。

これからもリハーサルが無い週末は出来る限り友人たちのコンサートに足を運びたいなあと思いつつ、昼からビールを飲みながら上機嫌に論文執筆。

ある種の中毒

 
明け方までブラームスの一番とシベリウスの七番を勉強していた。眠りにつこうと思っても猛烈に楽器を練習したい気持ちが襲ってきて目が冴えるばかり。

無理矢理寝てみたものの、夢の中ではブラームスの「七番」が出来上がっていて眠った気がしない。

反動のように、今日起きてからは楽器を弾くことだけで陽が沈んだ。

夜に振りにいくブラームス一番に備えて、(僕のレベルでは無いに等しいとは言え)フルートで吹けるところを吹いてみて、

疲れたらピアノの前に移動して、飽きたら弾けないチェロを弾いて休憩している。それぞれ使う筋肉が違うので、こうして巡っていくのは悪くないなと思う。

頭と身体をすっきりさせてもう一度スコアの前に向かう。そうすると先程とは少し違うものが立ち上がってくるのだ。

Brise urbaine

 

四ッ谷のカフェで三時間ほど、現在の活動についての取材を受けた。

結局のところ、僕は、大学・大学院で学んだものと、指揮という芸術に関わって見出すものを融合させることに最大の楽しみを見出している。

ジャコメッティのデッサンについて考えることで指揮の哲学に新たな道が開ける。

ボードレールの一節に触れて、指揮の師が与えて下さった言葉にならぬ言葉を唐突に理解する。そういうことだ。

 

それが何か絶対的な真理であるなど到底思わないし、融合したものを誰かに押し付けたいなんて微塵も思わない。

けれども両者をポエジーの中に響き合わせる試みこそが(それを学問的でない意味において「比較芸術」と呼んでいたいのだ)自分が生きた証と言うに足る何物かへと繋がっているのだと思う。

 

帰り道の空は満月だった。夜風に身を委ねて行く先知らず。

また夏がやってくる。26歳がもうすぐ終わる。

 

五月の陽気に

 

週末にシベリウス七番のリハーサル、平日はブラームス一番のレッスン、それからバーンスタインとガーシュウィンのリハーサルがほぼ一日おき。

どれも大変な曲ばかりだけれど、勉強になること、教わることばかりで毎日が本当に充実していると思う。

 

五月晴れの今日も朝から夜までリハーサルだった。

さすがに疲れたけれども、頭が働いているうちに近くのカフェに飛び込んで今日のリハーサルで気付いたことを色々と纏めて書き出しておいた。

もっと棒で出来ることがある。音というより「空間」としか言いようのないものを纏めあげるという可能性について。

それから、ボードレールの「酔い」がもたらすイマージュ、時間の重みに屈しないことについて。

 

楽譜を閉じる。曲とは全く無関係だけれども唐突にNuovo Cinema Paradisoの名台詞が耳に蘇って来た。

La vita non è come l’hai vista al cinematografo: la vita è più difficile

(人生はお前が見た映画とは違う。人生はもっと困難なものだ。)

たしかにそうかもしれない、と思う。でも、台詞はこう続いたはずだ。

 

「行け、前途洋々だ」

 

捧ぐ

なぜ人は、手を握ることしか出来ないのか。

一つの決意を伝えて帰ってきた。涙を流さないように必死に我慢しても溢れてくる。永遠にも思える一瞬だった。