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『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』(高橋昌一郎,講談社現代新書 2008) &カオス呑み

 

 駒場の生協で著者の名前が目に入り、即座に購入。

著者は講談社現代新書で10年近く前に『ゲーデルの哲学』を書いており、これを高校時代に読んでハマった覚えがあったからだ。

JR大阪駅を出てすぐ、ヤンマーディーゼルの看板が窓から見える辺りで読み終えたということまで覚えている。それほど印象的だった。

 

 今回の『理性の限界』もまた、読み終えた瞬間を覚えていられるほど刺激的な内容。

最初から最後まで「シンポジウムにおける対話」という形式を取っているので、内容は決して簡単ではないものの、楽しんで読める。

テーマは大きく分けて「選択の限界」「科学の限界」「知識の限界」の三つであり、それぞれに関連する主要な理論が

仮想シンポジウム参加者の対話によって説明されてゆく。

「数理経済学者」がコンドルセのパラドックスを説明したかと思うと、「情報経済学者」がアクセルロッドのTFT戦略について

説明してくれるし、それに絡める形で再び「数理経済学者」がミニマックス理論やナッシュ均衡に話を広げていく。

「科学主義者」はラプラスの悪魔や相対性理論を噛み砕いて説明するし、「相補主義者」は二重スリット実験を紹介してくれる。

(二重スリット実験は何度読んでも感動する。この現象を目の当たりにした科学者は最初どれほど驚いただろう。)

お約束とも言えるクーンのパラダイム論については「科学社会主義者」なる人が概略を語ってくれる。

それに対して「方法論的虚無主義者」なる人がファイヤアーベントの哲学を持ち出して来て、Anything Goes ! という極端な

科学哲学を紹介してくれたりもする。(このファイヤアーベントの哲学は本当に面白いと思う。これから読んでみたい。)

 

 ところどころ登場人物に不自然なところがある(「ロマン主義者」とか「フランス国粋主義者」とか)が、それもまたこの本の面白さ。

著者は、幅広い参加者たちに託して対話の中に様々な知識(たとえば、フランスの「コアビタシオン」と呼ばれる政策についての

説明や、マーヴィン・ミンスキーの「心社会論」についての説明など)を練り込んでくれている。その一方で、「カント主義者」が

「要するにだね、カントによればだね、君の意志の格律がいつでも同時に・・・」と言いかけては「司会者」に

「はいはい、今はカントの話ではないのでまた後日にお願いしますね。」と流されているのがちょっと哀れで笑えたりもして、

最初から最後まで読んでいて飽きない。後半で紹介される「ぬきうちテストのパラドックス」なんかには「むむむ・・・。」と

悩まされること請け合いである。悩みながら楽しみながら、『ゲーデルの哲学』同様に買ってすぐに一気に読み通してしまった。

数ある新書の中でも非常に充実感の高い一冊。おすすめです。

 

(参考:【抜き打ちテストのパラドックス】

1.月曜日から金曜日まで、いずれかの日にテストを行う。

2.どの日にテストを行うかどうかは、当日にならなければ分からない。

という講義要項があったとする。これを見たA氏は「テストは実施されえない」と判断した。というのは、この講義要項1に基づけば、

まず木曜日の時点でテストが行われなかった時点で「テストは金曜日だ」と予想されるが、予想された時点で講義要項2に反するので

金曜日にはテストは行われえない。これより、金曜日にテストが無いならば、木曜日にテストを行う場合、先ほどと同様にして水曜日

まででテストが行われなかった場合「テストは木曜日だ」と予想され、これは講義要項2に反するので木曜日にテストは行われえない。

これを繰り返していくと、月曜日から金曜日までで「抜き打ち」テストを行うことはできない。よって抜き打ちテストは無い。

このようにAは判断したのである。しかし、実際には金曜日にテストが実施された。

「おかしい!上の理由により、テストは行われないはずだ!」とAが主張すると、教授は笑いながら

「でも、君はテストが今日行われないと思っていたんだろう?それならば、抜き打ちテストは成立しているじゃないか!」と返した。)

 

 なお、これを読んだあとにクラスの友達数人で高尾山のビアガーデンにて「カオス呑み」をしてきた。

「カオス呑み」とは名前の通り、秩序に縛られず酒を楽しむ会のこと。簡単に言うと呑みまくっているだけである。

いつもは下北沢などで開催され、最終的には結構カオスな事になるのだが、今回は高尾山ということもあって

非常に穏やかな展開になった。今回はみんな『理性の限界』を破らずお酒と高尾山から見る夜景を楽しんでいたようだ。

 

政治的パラダイム・シフト

 

 昼からフルートのレッスンに行ったあと、いつものように経堂で8ゲーム投げ込む。

楽器をやると異様に集中できるのでその集中を引きずったまま練習する事ができた。

8ゲームのアベレージが198。8ゲーム中スペアミスがスプリットの時を除いて一つしか無かった。

特に7ピンのカバーが冴えている。僕は7ピンを取る時にはドライ用のボールを使って一投目と同じフォームで肘を入れ、

リリースの瞬間に回転軸を縦(場合によってバックアップ気味にすることもある)に変えて曲がらない球を投げているのだが、

今日はこの時に肘が非常にスムーズに鋭く入っていて、7ピンをミスる気がしなかった。こういう状態がずっと続いて欲しいと思う。

 

 帰ってからは情報メディア伝達論のテストに使うために拾い読みしたものの全体を読んではいなかった

吉田康彦 『「北朝鮮」再考のための60章 日朝対話に向けて』(明石書店)を読了。センシティブな内容なだけに詳細や感想をここに

書くのは避けるが、北朝鮮の実態を知ることが出来るという点では(コラム代わりのTopicsの項も面白い。)良い本であろう。

 

 夕方からはカミュのL’Étrangerを辞書と必死で格闘しつつ読む。和訳なら一時間ちょっとあれば余裕で読めるのに、原書では

二時間かかって五ページがいいとこである。まあでも、このペースでいけば9月中旬には何とか読み終わりそうだ。

夜はA氏に、金森ゼミで集中的に学んだbio-politique及びビオス/ゾーエーの概念や様々な生命倫理の問題を説明した。

ゼミと同じく、一通り説明したあと、最後に「マルタとジョフ」という思考実験を教えてこれについて考えてもらう。

deaf=聾唖者の夫婦であるマルタとジョフは、遺伝子検査の結果、遺伝的な要因による聾でないと分かる。

しかし、マルタとジョフは、子供が自分たちと同じく聴覚障害者であることを望んだ。

この欲望から、着床前診断により、聴覚障害になるような胚を選択して着床させたとしよう。

もちろんマルタとジョフは「子供の幸せ」を思ってそうしたのである。deafの両親の下でははじめからdeafとして生まれ、Deaf culture

に生きたほうが幸せだろうと両親が考えた結果の行動である。

だが、この行為は許されるのか?命を逆方向へEnhancementしているのではないか?

 

 もちろん、はっきりした正解がある問ではないのだが、僕が思う答えはこうだ。

マルタとジョフは夫婦という関係を絶対的な物として信頼を置き過ぎている。自分たちと同じ聴覚障害者の子供を作ったはいいが

夫婦が突然別れてしまって、両親の行方も知れずという状況になった時を考えてみよ。

残されるのは、「わざわざ聴覚障害を持たされた子供」だけである。夫婦の絆が絶対的なもので無い以上、親の意思で子供を

不利なほうへ改造するのは正しい行為ではないはずだ。そしてまた、マルタとジョフの行いは、子供の所属するコミュニティを

生まれる前に限定してしまっている。可能性を敢えて狭める方向へ産み分ける事は、ハンチントン舞踊病を回避するための産み分けと

異なり、非常に不自然なものに映る。

 

 こんな事を議論しているうちに選挙の開票速報が出始めたので、パソコンを立ち上げてニュースをあちこち巡る。

自民党の大敗。大物がバシバシ落選し、壊滅的に議席数を減らしたようだ。その一方で民主党の記録的な躍進。政権交代。

政治というデリケートな問題について確かな思考を持っているわけでもないので、そのことの良し悪しをここで書く立場に僕は無いが、

ただ一つ言えることは、今回のメディアの報道姿勢はあまりにも偏っていたのではないかということだ。とくに読み間違いを巡る報道。

公の場で読みを間違うことはもちろん良いことではないけれど、果たしてあそこまで騒ぎ立てるほどの問題なのだろうか。

子供のように読みの間違いを上げ足取って指摘するぐらいなら政策論争の時間を一分でも多く取った方がよほど有益ではないのか。

(ただ、失言や読み間違いに対する対策が余りにも遅かったことは確かだ。読み間違い自体は大した話ではないが、メディアが

過剰に騒ぎ立てる流れになってしまった以上はもっと対策する必要があった。そして自民党敗北の根本の原因は

首相の能力如何の問題以上に、党内のバラつきや内紛を国民に知らしめてしまったことにあると思う。)

メディアの報道だけでなく、「口が曲がったやつに政治を任せていていいのか」などと発言した某議員なども僕は心から軽蔑する。

口の角度が政治と何の関係があるのか説明してみろと言いたい。いっそ議員をお辞めになって、『口の角度と政治体制の関連』とかいう

トンデモ本でも書いて、Amazonで限りなく☆0に近い評価を貰ってボコボコに叩かれればいいと思う。

 

 まあとにかく、今回の政権交代は一つの政治的パラダイム・シフトと呼ぶに相応しい大事件であろう。

だが肝心なのは政権が交代することではない。民主党のもとで、どのような施策が展開されていくのか、どのような日本が作られて

いくのか、そしてメディアとどのような関係が構築されていくのか注意深く見守りたいと思う。

 

 深夜にはサイバネティクス・システムについて勉強して関連書籍をリストアップする。

パソコンを打ちながら、Amazonで買って届いたばかりのTargusのCooling Podium CoolPadの使いやすさに感動。

万年筆について熱く語れる先輩である機構のHさんが使っているのを見て買ってみたのだが、予想以上に使いやすい。お薦めです。

関連書籍のいくつかをノリで注文してしまったりパーフェクトソルフェージュの課題をいくつかやったりしたあと、朝6時頃に布団にダイブ。

台風が接近しているらしく、窓に打ち付ける雨の音がよく聞こえる。この音を楽譜に起こすと凄い変拍子の譜面になりそうだ。

 

 

地中海の庭

 

 UN JARDIN EN MEDITERRANEE.

エルメスの名香、「地中海の庭」である。大幅な値引きをあまりしないので有名なのだが、半年ほど前に特価で販売されているのに

遭遇したので、思わず買ってしまった。まず、ボトルからして溜息が出るほど綺麗である。太陽が差し込んだ海を思わせるような青、

陽射しの気紛れで海が時々見せる透き通ったエメラルドグリーン。そして陽に照らされた海辺の空気みたいな薄い黄色。

このグラデーションがボトルを彩っており、見る角度ごとにその表情を変える。あまり目には止まらないかもしれないが

このグラデーションの上に載せる文字色として、立体感を持たせつつも透明感を失わない水色が選択されている点も天才的だ。

 

 調香はジャン・クロード・エレナ。エルメスの専属調香師だが、ブルガリのオパフメ オーデブランなども手掛けており、

強烈な香りというよりはむしろ、控え目だが独特の空気感を持った上品な香りを作風としているように思う。

(オパフメオーデブランは冬場に活躍頻度が上がる香水の一つで、ホワイトティーの香りに毎冬癒される。これを付けている人に街で

すれ違うとついつい振り返ってしまう香水の一つでもある。空気が乾いている時につけると、凛としつつも繊細で温かい香りになる。)

この「地中海の庭」は、トップノートにイチジク・乳香、ミドルにレッドシダー、ベルガモット、オレンジブロッサム、

ラストにホワイトフローラルとセイヨウキョウチクトウが調香されており、エルメスの香水に特徴的な「香りの変化」をはっきりと

感じられる香水になっている。つけはじめの香りは独特なので苦手な人もいるだろうが、ミドル以降でベルガモットが前に出てきてからの

柔らかい香りに拒否反応を示す人はかなり少ないと思う。うっすらとしか香らないのに、なんとなく癖になる。

実際に入った事がないから良く知らないけれども、一時期のエルメスのブティック内ではこの香水が随所に吹き付けられていたと聞く。

客からの反応も上々で、「店内の香りは何ですか?」と聞いてこの「地中海の庭」を買っていく人も多かったらしい。

 

 この話を聞いてから、気分転換したいときには家の中にこの香水を吹きつけている。

ジャン・クロード・エレナが聞いたら怒るかも知れないが、クーラーの吹出し口にワンプッシュすると至福の香りが室内にふわっと広がる。

今日みたいに親戚の訃報に接して眠れぬ夜にはちょうどいい。叔父さんが最期にくれた言葉が忘れられず目が冴えてしまっていたが、

布団に寝転がって、暗闇の中でこの柔らかい香りがどんどん変化していくのを感じているうちに、いつか眠りに落ちれそうな気がする。

 

韓国料理を楽しむ会 Part2

 

 図書館で勉強しようと思い、自転車で駒場へ行った。

正門を入ってすぐのところで某先生に遭遇。「暇?」と言われ、つい「ええ、まあ」などと答えてしまったため、捕獲されることになった。

これから動こうとしているある企画についてちょっとした話し合いをしたのち、夕方から「韓国料理を楽しむ会 part2」が行われる事を

聞いた。前回は韓国風焼き肉だったが、今回はキムチ鍋だという。星の王子様カレーを美味しいと信じて疑わない僕には

キムチ鍋なんてどう考えても辛そうな食べ物は天敵なのだが、前回も雰囲気が楽しかったし参加することに。いざとなったら

チシャ菜などの葉っぱとご飯だけ食べる(まさに草食系)つもりである。というわけで、準備は熟練の方々に申し訳ないけどお任せして、

御飯が出来るまでハイドンのカデンツァ制作を進めておいた。ある程度の音が取れたので、その辺に散らばっていた紙にザッと書きつけ

音楽室を借りてグランドピアノで音合わせをやってみた。グランドで弾いてみると電子ピアノなんかよりもずっと音が取り易い。

強弱記号もつけやすいし、今まで「なんかおかしいなあ・・・。」と思っていた部分がスッキリ解決した。あとはこれを記譜すれば完成だ。

 

 音楽室を出ると美味しそうな香りが廊下まで漂っていて、思わず小走りで階段を上がった。

キムチ鍋だけかと思っていたら前回の韓国風焼肉(サムギョプサル)もあって一安心。鍋を食べれない分呑もうと思って

用意されていた三種類のビールを堪能。ビールとサムギョプサル、そして米の相性は最高だ。合間にマッコリなんかも呑んだりして

韓国からの留学生の先輩が作る本場の韓国料理を堪能させて頂いた。そうそう、料理だけでなく韓国語の乾杯の音頭も教わった。

乾杯は「おつかれさまでしたー。」という意味で「スゴハショッスムニダ」と言うそうだ。韓国語は「~ジュセヨ」(=please)と

「ハナ・ドゥル・セ」(=one,two,three)、「アンニョンハセヨ」(=Hello)、「モルゲッスムニダ」(=I don’t know)ぐらいしか知らなかった

ので、「スゴハショスムニダ」もレパートリーに加えようと思う。

また、食事の席ではロシア語の数の数え方も教えて頂いた。

one,two,threeが「アジン・ドゥヴェ・トゥリ」(表記がこれで合っているのか分からないが、先生の発音を聞く限りではこんな感じ)

らしい。ロシア語といえばゴルゴ13で学んだ「ダスビダーニャ」(=See you)と「ズドラーストヴィーチェ」(=初回に使う挨拶だったような)

しか知らなかったので、これもまたレパートリーに追加。もちろん、使う機会は限りなく無いと思われる。何かの言葉から広がって

Roe対Wade事件判決についてS先生と話したりもして、そんなこんなで韓国料理を楽しむ会の夕べは更けていった。

先日外食をした関係で今日は家で粗食で済まそうと思っていたのに、思いがけず贅沢な食事をしてしまった。

シェフ及び先生方ごちそうさまです。

 

 なお、帰宅してから先日読み残していた三浦雅士『身体の零度 何が近代を成立させたか』を読了。

Joseph S.Nye Jrの” The Paradox of American Power ” をキリ良さげな部分(【SOFT POWER】の項)まで読んで寝ることにします。

 

 

駿台LA同窓会

 

 駿台神戸校のLAクラスで浪人していた友達で同窓会めいたものをやってきた。

参加人数は10人ぐらいと聞いていたのだが、インフルエンザで急に倒れた人がいたりで実際は5,6人になってしまった。

その結果、参加者のうち女性は一人。完全な男祭りである。これはもう、「今日って男しかいないよな?」などと散々いじられる展開

になるのも当然だろう。当然ついでに言えば、参加メンバーはみな関西人なので激しいボケと突っ込みがエンドレスに展開された。

梅田のビアガーデンで焼肉をしつつ呑んでいたのだが、肉が少しでも焦げると「C!C!炭化した!タンカもってこい!」と

ウーロン茶片手に良く分からないテンションで叫んで周りを圧倒する奴やら、友達から電話がかかってくるたび「もしもし、タモリですが。」

と真面目な顔で電話を取る奴がいたりで、激しく無秩序なネタ大会となった。

ネタの間に「就職どうすんの?」みたいな真面目な話をしたような気もするが、ネタに比べて大して面白みのある話では無かったので

ぶっちゃけあんまり記憶に残っていない(笑) さんざん肉を焼きまくったあと、慶應に通っている友達と関東に戻ってもボケ続け、

そしてツッコミの切れ味を落とさないように日々精進することを誓い合って解散。

(全くどうでもいいことだが、この友達とは浪人中に、「コロッケと・・・神戸水野屋」と書かれたコロッケの袋の「・・・」の部分には

何が省略されているかを巡って一時間以上ボケ続けた仲である。)

関西弁に囲まれていると何かと頭脳が活性化する。まあとにかく、嵐のような同窓会であった。

 

友人たちと投げて呑みまくる@神戸

 

 このブログに時々コメントをくれるH氏とN氏と、神戸の三宮で再会してきた。

待ち合わせよりだいぶ早い時間に三宮に着く。というのは、どうしても会っておきたい人がいたからだ。

その人は中国整体のプロ。店も出しているが、人目にはつかない場所に小さくあるだけだし、宣伝もほとんどしていないから、

三宮に相当詳しい人でも存在を知ることがないだろう。だが、ここの先生の腕は本当に凄い。

 

 浪人中はじめて見てもらったとき、ベッドに寝転ぶなり体の歪みを指摘され、「毎日長い時間椅子に座っているね。」と言われた。

全くその通りだったから驚いた。浪人中は自習室でそれなりの時間机に向って座っていたし、ボウリングのせいで骨盤が歪んでいる事も

実感していた。「では」と言ってマッサージして頂いたのだが、これがまた強烈なもので、痛さを超えて感動すら覚える。ピンポイントに

指が入ってきてどんどんほぐされてゆく。痛いけど気持ちいいし、自分の体がどんな状況にあったのかを何となく理解することが出来る。

僕は小さい頃からツボや気功に興味があって、趣味でツボの名前を覚えたりしていたから、指圧されながら思わず

「あー隔兪めっちゃ入ってますイタタタタ!」などと口走ってしまい、それに反応した先生から更なるツボ講義を受ける事ができ、

体はほぐれるわ知識はつくわで最高だった。そうして身体の歪みも直して頂いたので、部屋を出るときは別人のように体が軽く

感じられたし、腕の可動域も格段に広くなっていた。感動のあまり、定期的この先生に見て頂こうと決心してしまった。

 

 そんな経緯があって二年ぶりに先生の所へお邪魔させて頂いた。飛び込みだったにも関わらず、先生は以前と同じく

優しく対応して下さり、じっくりと身体をほぐして下さった。棘下筋に僅かな痛みを感じていることと、肩甲骨辺りの可動域をもう少し

増やしてバックスイングを安定させたいことなどを伝えると、関連する部位を集中的に治療して下さり、ベッドから起き上がった時には

ウソみたいに棘下筋の痛みが取れていて、背中のハリも取れていた。相変わらず凄い・・・。これからも帰省するたび見て頂こうと思う。

 

 軽くなった身体で懐かしの神戸ボウリングクラブへ投げに行く。このボウリング場は日本でも有数の綺麗さだ。メンテナンスもしっかりと

行き届いているし、雰囲気も上品。おまけに、置いてあるソファーの座り心地は神クラス。浪人中何度このソファ‐で寝たことか・・・(笑)

思い出の沢山詰まったこのボウリング場で、今日のメインはH氏にレッスンすること。もちろん自分も投げながらである。

H氏はバックスイングが小さく窮屈になっており、せっかくの腕の長さを活かし切れていなかったので、ステップのリズムを変える事で

腕の振りを大きなものになるようアドバイスした。タータタタ・タンッ!のリズムである。このリズムにしてからはH氏のピン飛びが

格段に良くなった。もともとピンアクションには定評のあるアクティベーター系カバーストックのボールを使っているので、球の性能に

加えて体重が乗った球を投げれば一瞬でピンを消し去るような激しいピンアクションを見る事が出来る。良かった良かった。

二人一緒に9ゲームを投げて終了。僕も整体の効果あってか最後に245-223-208と中々のシリーズに纏めることができて満足した。

H氏、それにN氏とはあす土曜日にも場所を変えて投げるので、また一緒に投げるのが楽しみだ。

 

 ひとしきり運動して、十番という焼肉丼屋でお腹を満たしたあと、酒だけを目的にして、あるダイニングバーに入った。

久し振りの再会がそうさせたのか神戸という町がそうさせたのか、はたまた単に全員重度の酒好きなせいか分からないが、かなりの

量を飲んだと思う。白ワインのボトルにはじまり、スパークリングワインのボトル、梅酒、焼酎、梅酒、カクテル、バーボン・・・。

気づくと周りに誰も客がいなくなっていた(笑) じゃあそろそろ、ということで店を出て、そのまま駅へ向って解散。

やっぱり気心の知れた友達と飲む酒はおいしい。神戸の街で幸せな時間を過ごさせてもらった。

 

長期休暇恒例のサッカーに行ってきた。

 

 ガンガンに太陽が照る中、屋外で三時間フットサルをしてきた。

適当にボールを蹴っているだけのお遊びフットサルではなく、真剣にボールを追いかける。接触プレーもスライディングも何でもあり。

メンバーは野球部時代の友達とソフトボール部時代の友達で構成されており、サッカー部は一人もいない。

とはいえ、このメンバーでサッカー部のメンバーと試合をして勝ったこともあるぐらいだから、レベルは結構高いはずだ。

 

 高校の頃と同じように、使い慣れたナイキのGUNCUTのGKグローブに手を通し、ゴール前に立つ。

久し振りにゴールを背にすると、昔よりゴールが広く感じられて不安になった。いざプレーが始まっても昔より一瞬の反応が

落ちているような気がして、年齢による衰えを感じずにはいられない。フィールドプレイヤーのみんなを見てもテクニックは以前より

鋭くなっていたものの、スタミナやここぞというときの加速が高校生の頃に比べて劣る。大学で野球部やサッカー部に所属して

バリバリ運動をやっているやつでもそうなのだから、運動不足などではなく、本当に年齢のせいにしてしまっても良いのかもしれない。

 

 チーム分けは「ゼッケンあり」「ゼッケン無し」でスタートしたのだが、一時間半ぐらい経って汗だくになってくると

高校時代と同じようなチームの分け方に自然と変わってくる。「上半身裸族」と「着衣族」の二チーム。まさに男子校のノリである。

裸族チームがコートの外を通りがかった小学生に「お兄ちゃんたち、なんで裸なの。」と絡まれていたのが妙にツボに入ってしまった。

上半身裸なのはまだしも、裸にゼッケンをつけているのはどう考えても異様な光景だっただろう(笑)

 

 ハーフタイム、着衣チームも上着を脱いで、みんな上半身裸族になって芝生の上に寝ころんだ。

低くなったオレンジ色の太陽から差し込む光が眩しい。背中に感じる芝のチクチクと、そっと吹く乾いた風が気持ちいい。

こんなふうに放課後によくグラウンドで倒れていた。野球部の練習が終わった後、警備員さんが回って来て二・三度怒られるまで

日が落ちてボールが見えなくなってもずっとサッカーをしていた。横にぶっ倒れているのはあの頃のメンバーとほとんど同じだが

それぞれがそれぞれのやり方で社会人になろうとしている。既に就職が決まったやつもいるし、もうすぐ研修医になるやつもいる。

これからみんな、忙しくなっていくだろう。このメンバーでサッカーが出来るのはあと何回ぐらいだろうか。

 

 などと少しばかり真面目なことを考えながら夕暮れの空を眺めていたら、すぐ横から大きな笑い声が聞こえた。

「!」と思って起き上がると、横に寝転んでいたやつが隣のやつにズボンを脱がされて、全裸一歩手前の状況になっていた。

こいつらが官僚や医者になってゆくのかと思うと、日本の未来は暗いかもしれない(笑) 

 

歴代正副会長会議@灘

 

 久し振りに母校へ足を運び、歴代正副会長会議なるものに出席してきた。

何をやる会議なのかというと、歴代の生徒会の会長や副会長が集まって現状報告を行ったり、灘のこれからを語り合ったりする会議だ。

と説明されると、恐ろしくめんどくさそうな会議に見えるが、実際はそうでもなく、ちょっとした同窓会めいたものである。

最初のうちは「生徒会が目指すべき地点は」なんて堅苦しいテーマで話していたりもするけれど、すぐに脱線してカジュアルな内容に

変わってゆく。ジュースを飲みつつ、先輩が持ってきて下さったお菓子を食べつつ、思い思いにそれぞれが話す。

我々OBがゲストとして壇の前に半円形に机を並べて年の順に座り、対して現役生たちが少し離れたところに向かい合わせで

座るという形式だから、見かけだけはちょっとしたシンポジウム形式だ。

この会議、僕は出席して二回目になるが、いつもカジュアルな話の中から刺激的な議論が展開されているように思う。

既に社会人となって第一線で働いている方々のリアルな話を聞くことが出来るから、現役生以上に我々OBも互いに影響を受けている。

面白い話は沢山あるが、ここに書くと支障がありそうなので書く事はしない。とにかく会議の名前以上に面白い会議なのは間違いない。

 

 時間にして4時間ぐらい会議していただろうか。最後に「それぞれ灘校生に向けてメッセージを」と言われたので、自分の番が

回ってくるまで、さてどうしたものか・・・と悩む。先に発表していく後輩たちは皆かなり真剣なメッセージを送っているから

「やりたいようにやればいいんじゃないですか。」とか「浪人してみるといいと思うよ。」なんて適当なことを言える雰囲気では無さそう。

昨年は確かハイドシェックと立花先生の言葉を引きつつ、感性を鋭くして過ごすこととと、飛び込んでゆくことの大切さを話した記憶が

ある。昨年と同じメッセージを送るのも面白くないし、かといって自分の経験に基づかないメッセージは送りたくない。

というわけで、今の自分の経験って一体何だろうと考えていって、自分が興味を惹かれる二つの分野から言葉を引用することにした。

ただし、その言葉についての解釈は言わない。灘校の本質は「多様性」と「暗黙の尊敬」にあると個人的に思っているから、

具体的な解釈を示すことで方向を規定したくない。忘れるも良し、心に刻むも良し、好きなように使ってくれればいい。

そんな思いから次の言葉を紹介した。一つ目、学問上で最も関心を持っている分野であるフランス現代思想。

前日まで集中的に読んでいたこともあって、アンリ・ベルクソンの言葉を紹介した。

 

「思索する人として行動し、行動する人として思索せよ。」

「無限の可能性をはらんだ未来の観念が、未来そのものよりも豊饒なのだ」

 

二つ目、音楽、とりわけ「説明不可能な芸術」である指揮という分野から。最も尊敬する指揮者、カルロ・マリア・ジュリーニの言葉を。

 

「私が最も欲しているのは、高邁な怠惰 ozio elevato です。例えば、ただビーチに寝転がっているのではなく、本を手にして

寝転がっている。ただ田舎道を歩いているのではなく、途中で見つけた自然の不思議を観察したり楽しんだりしながら歩く。

そういうことなのです。」

 

 ジュリーニの方は東大のプレオリでも下クラに向けてちょっと話したから、もしかしたらブログを読んでくれている人の中には

覚えている人もいるかもしれない。思い出すたびにいつも姿勢を正させてくれるような、僕にとっては大切な言葉である。

これらを話した後、最後にミシェル・フーコーの『わたしは花火師です』の話に触れて、

「みなさんが過激なartificier ― 花火師、あるいは爆破師 ― になってくれることを楽しみにしています。」と締めてみた。

 

帰りの電車の中で、今日自分が目の前にしていた現役生たちは僕が高三だったころに中一だった世代であることに気づいた。

JR住吉駅も灘の校舎も大して変わっておらず、何の違和感もなく学校へ高三の時と同じように足を踏み入れたけれども、

いつの間にか信じられないほどの時間が経っていた。

そして、振り返ってみると中学・高校生時代はあまりにも短いものだった。

結局のところ、難しいことなんか考えず、全力で今を楽しめばそれでいいんだと思う。

 

 

大阪と神戸を歩く。

 

 帰省してこんなことをやった。

 

・大阪梅田のワルティ堂島というCDショップで、CDを四枚購入。

1977年東京文化会館で行われたカール・べームのブラームス二番のCDと、同じ年にNHKホールで行われたベームの

ベートーヴェン六番/五番のCD。それから1964年に東京文化会館で行われたアンドレ・クリュイタンスによるベルリオーズの

幻想交響曲のライブ録音、そしてシャルル・ミュンシュの幻想交響曲の録音(1967)。まだ全部は聞けていないのだが、

クリュイタンスの幻想ライブから伝わってくる熱気とベームがブラ2で聞かせるリタルダンドには驚かされた。

やっぱりライブ録音は聴いていて楽しい。

 

・恩師と呑んで語る。

駿台世界史科の川西先生に、ランチに御一緒させて頂いた。まず駿台神戸校の講師室を覗こうとしたところ、その部屋の前にある

長椅子にどこかで見た人が座っていた。まさか、と思って足を止めるとその人と目が合って、共に駿台で川西先生にお世話になっていた

友達であることが判明。いま早稲田に通っているその人も、帰省して川西先生に会いに来たとのこと。

三人で昼間っからワインを呑みながら近況を報告し合ったり、おすすめの本の話をしたりしているうちにあっという間に時間が

経ってしまった。ごちそうさまです。川西先生にケン・フォレットの『大聖堂』という本を勧めて頂いたので、先生たちと別れたその足で

ジュンク堂にて購入。全三巻という大作だ。レジに持っていったとき、前に並んでいる人が葺合高校の制服であることに気づく。

懐かさと同時に、自分が年をとったことを感じた。

 

・神戸を歩く。

浪人中の友達と三宮で呑むことになっていたので、その前に神戸の雰囲気を満喫しようと思って三宮の町を歩いた。

神戸はやっぱり雰囲気がいい。街に風が通っている。高いビルの間からは山の緑が見えるし、その反対側には、目では見えない

けれど確かに海が広がっているはずだ。じっとしていも汗をかくような湿気と気温の一日だったが、この街を歩いていると爽やかな

気持ちになる。ニ年前に足しげく通った何軒かの店も以前と同じように看板を出して営業しており、ちょっと安心した。

 

・弟とボウリング

ほとんどボウリングをやった事のない弟にスパルタで基礎を叩きこんできた。場所は茨木のBIGBOXで、このセンターははじめて。

マイボウラー用とハウスボウラー用でレーンを分けてあるようだ。オイルもしっかり入っていて、アプローチからレーンまで非常に

しっかりとメンテナンスされたセンターだという印象を受けた。弟も僕と同じく左利きのため、投げているとレーンコンディションが

どんどん変わってゆく。パッションでポリッシュしてもらったばかりのセル・パールを活用して、なんとかアベレージ200弱をキープ。

このセンター、値段も安いし(お盆料金を設定していない事に感動した。マイボウラーは5ゲーム1400円という格安料金で投げられる。)

広々としていて雰囲気も良いし、帰省している間はここで練習しようかと思う。駅から少し離れていることだけが欠点だ。

 

・『風の大地』の1-49巻を読了。

ゴルフ漫画『風の大地』が49巻まで、いつの間にか実家に買い揃えられてあったので、二日かけて一気に全部読んだ。

これは面白い。気合が感じられる画で、シナリオも飽きさせない。ラウンドしているときの主人公の話し方が時々ゴルゴ13っぽくなる。

とはいえゴルゴのように殺伐とした話ではなく、ヒューマニスティックでなかなか感動的な作品だ。続きを読むのが楽しみ。

 

・ハイドンのピアノコンチェルト二楽章を読む。

電車の中でアルゲリッチの演奏を聴きながらスコアを広げていて、この曲の二楽章が突然身体に染み込みはじめた。

アルゲリッチが弾くカデンツァの切なさに呆然とするほどの衝撃を受けた。何度も何度も聴いているはずなのにどうして今まで

気付かなかったのだろう。この曲の二楽章はすべてこのカデンツァのためにあるのではないか、とさえ感じる。

二楽章に限ったことではないが、譜読みしていると次から次へと新しい発見があって飽きない。

無人島に何か一冊だけ本を持ちこむなら、と言われれば、僕は何かのフルスコアを持って行くだろう。

 

・携帯の機種変更

バッテリーの接触部が怪しくなってきたので、この機会に機種変更することにした。候補は935SHと931SH。

スライド式はあまり好きではなかったので防水機能もついている935SHにしようかと思っていたが、色々調べているうちに931SHの

魅力にハマり、こちらにすることにした。はじめてのスライド式&フルタッチパネルである。液晶の大きさと美しさが特に素晴らしい。 

 

帰省と『世界は分けてもわからない』(福岡伸一,講談社現代新書,2009)

 

 部屋を片付け、戸締まりをチェックし、買ったばかりの白シャツを羽織って家を出る。

一度駒場に寄ってロッカーからサッカーのスパイクを取り出し、合宿解散後と思しき学生たちの列に紛れながら渋谷へ向かう。

渋谷から新宿へ、それから中央線で東京駅へ。座席を取った新幹線までにはまだ少し時間があったので、八重洲北口の近くの

ロッカーへ荷物を全て入れ、財布と携帯だけを持って丸の内北口へ歩いた。

することは決まっている。OAZOの丸善で、車内で読むための本を買う。そのまま階を上がり、丸善の文房具売り場を冷やかした後、

新丸ビルへ向かう。ここで何を買うわけでもないけれど、僕はこの新丸ビルの内装と雰囲気が大好きだ。

重厚さを持ちながら圧迫感の無い空間。パサージュに並んだ店を通ってゆく快感。

間接照明が壁の木目に何とも言えない影を作っている。この空間が本当に似合う大人になりたいと思う。

エスカレーターを上がったところの広間には見るからに座り心地の良さそうなソファが並んでいるから、新幹線の時間を待つために

一階が見下ろせるソファの一つに座って、買ったばかりの『世界は分けても分からない』を読み始めた。

 

 東京を電車が離れてゆく。あっという間に東京が後ろへ流れ去ってゆく。逆説的ではあるが、このようにして東京駅を後にするたび、

僕は自分が東京で生活していることを実感する。戻る場所が二つあるのは幸せなことだ。

名古屋を過ぎたあたりで『世界は分けてもわからない』を読み終えた。ちょっとしたオチが隠された話になっているから、

ここに詳しく書く事は避ける。前著の『生物と無生物のあいだ』でも感じたことだが、福岡伸一はやはり「読ませる」科学者だ。

断片的なエッセイのような文章。しかし、それが全体の中ではしっかりと繋がりを持っている。とりわけ面白かったのはES細胞を

「空気が読めず、自分探しをしている細胞」と説明している部分や、ガン細胞を「あるとき急に周囲の空気が読めなくなった細胞、

停止命令が聞こえなくなった細胞」だと定義している部分。これらの記述が見られる第四章は、ES細胞とは何なのかを非常に

分かり易く読ませてくれる。それから第六章の「細胞が行っているのは懸命な自転車操業なのだ」などのくだりも面白かった。

 

 さらに第六章では人の生・死をどこに求めるかという点が書かれているが、ここでの「人が決める人の死は生物学的な死から離れて、

どんどん前倒しされている」という記述はたった一行に留まらぬ深さを持った問題であろう。(ここから、「人の死」を脳死とするなら、

論理的対称性から、「人の生」は脳がその機能を開始する時点に求められるという「脳始」論が構想されることになる。だが、これは

生物学的な生の両端を切断することに他ならず、我々の生命の時間を縮めることになる。)

 

 第七章は様々な事例を参照しながら、記憶と認識の関連を探った章である。ここでとられているのは科学的なアプローチであるが、

それはP158の「顔とは・・・(中略)・・・私たちの認識の内部にある」という一節に見られるように、アンリ・ベルクソンの哲学を想起

させる。ベルクソンの記憶論を、実例を用いながら検証しているような思いにさせてくれる章であった。

第八章から第十一章の「ストーリー」は、実際に本書を読んでドキドキするのが一番だと思うので、ここには書かない。

『生物と無生物のあいだ』のみならず、『もう牛を食べても安心か』や『動的平衡』など、福岡伸一の本は今までハズレが無かったので

今回も楽しみにして買ったのだが、予想よりも遥かに面白い本であった。文系・理系関係なく、気楽に読んで楽しめる本だと思う。

 

 新幹線を降りると京都特有の湿った暑さが立ち込めていた。

エスカレーターではみんな右側に立っているし、周りから聞こえてくる言葉も関西弁ばかりなのでホッとした気分になる。

帰省しているのはわずか二週間に過ぎないが、予定は大量に詰まっている。母校の会議に出たり高校時代の友達とサッカーをしたり、

浪人時代の友達と会ったり、生き別れ(?)になってしまった僕のボウリングの師を探す旅に出たり・・・。

しばらく京都や大阪、神戸を行ったり来たりすることになるだろう。駿台神戸校で恩師の授業にも潜り込んでみようと企んでいる。