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Twitter論 -文体と「なう」を巡る考察-

 

一月半ばからTwitterを始めている。

周りのみんなが「Twitterは凄いぞ」とあんまりにも言うものだから、天邪鬼な僕はTwitterに理由もなく疑いの目を向けていたのだが

いざ始めてみると「なるほどこれは凄いかもしれない。」と思うようになった。Twitterは、フォローする対象を自分で選択することが出来て、

一度選択するとフォローした人のツイート(つぶやき)がどんどんとタイムラインに表示されていくシステムである。

つまり「能動的に情報を選択し、受動的に情報を受け取る。」ことができるのであって、しかも「選択」への垣根はボタン一つととても低い。

フォローをやめたくなったらいつでもやめることができる。

 

そしてまた、フォローする人を限定して情報の量より質を取ることも可能だし、逆にフォローしている人を増やしまくって情報の洪水に

身を浸すことも出来る。あるいはニュースサイトを沢山フォローして、ニュースを読む場所として使うことも可能だろう。

とにかく、非常に広範な使い方が出来るという点がTwitterの強みであり脅威だと思う。

 

だが、僕が一番脅威に感じるのはTwitterというシステムが我々の「文体」に与える影響だ。

間違いなく、Twitterは文体を変える。140字という短い制限の中においては息の長い文章は書くことが出来ないし、書くことは

望ましくない。理由は簡単で、140字の枠の中では、修飾を駆使した文章や副文の多用された文は非常に読みづらく映るからだ。

僕も最初はこのブログと同じ文体でツイートを書いていたのだが、いつの間にか短い文章を重ねてつぶやくようになった。たとえば、

 

「昨夜は下北沢を堪能。後期教養の友達で呑みまくった。上海土産の酒を友達が持ってきたのでそれも呑む。52度。うまい。

みんなストレートでやって、みんなバグってた。無理しすぎ。 おかげで終電まで、潰れたやつを介抱する羽目に。何となく見慣れた展開。

でもこれはこれで楽しい。」

 

自分でもびっくりするぐらいブログの文体と違う。同じ人間が書いているのに、これほどまでに文体がシステムに規定・変形されている。

「ゲーム脳」という言葉があるが(本当かどうかはさておき)、Twitterだけで文章を書き続けていると「Twitter文」ともいうべき

現象が起こってしまうかもしれない。つまり、「長い文章が書けない」人々が増加するのではないか。

(たとえば、東大の日本史や世界史の大論述に対する受験生の解答。文と文との繋がりを重要視しなくなって、箇条書きのように

文章を書く人が増え始める、など。長文が息の長い文章の連続や接続詞によって作られるのではなく、短文の羅列に近づいてゆく。)

このように、Twitterの短い文章で慣れ親しんでしまうと、文章の「構成」への意識や接続詞への意識が希薄化する可能性がある。

 

 

しかしもちろん、僕は「短い文章」を非難しているわけではない。短い文章には短い文章なりの魅力があることは確かだ。

フォローさせて頂いている方に某広告代理店のクリエイティブディレクターの方がいらっしゃるが、この方のつぶやきは

一つ一つがコピーのようにキレが良くて人を惹きつける。文法構造とか「ら抜き言葉」とか、そんな問題を超越した魅力がある。

短いけれども意味が伝わる文章や、短いけれども内容の凝縮された文章を書くための場所としては、Twitterは最高の練習場所に

なるに違いない。だからTwitterでは短くてキレの良い文章を、ブログではちょっと長くて少し入り組んだ文章を書くことで

二つの文体を使い分けてゆきたいと思う。文体を使い分けてTwitterとブログがそれぞれ持っている特性を活用したい。

 

最後に、Twitterを語る上では欠かせない言葉である「なう」について少しだけ論じておこう。

Twitter語の代表に「なう」が挙げられる。「なう」。既に死語となって久しい「ナウい」と同じ語源を持つ言葉だから、ある意味では

「ナウい」の復活といってもよい。しかしTwitterの「なう」は「ナウい」と意味の重層性が決定的に異なる。Twitterの「なう」はただの

Nowではない。「なう」は、いま「ここにいる/こんなことをしている/こんなものを聞いている/これを食べている/etc」と、今の状況を

示すための言葉なのだ。つまり「なう」は、Nowの意味を持ちつつも、be(ing)であり、かつdo(ing)の意味を持つものなのである。

 

そしてまた、「なう」が「ナウ」という表記でない理由もここにある。このように「なう」はもはやNowの範疇を離れているから、

Nowに振られた読み仮名としての「ナウ」ではいられない。それは「なう」という平仮名で表される、新しい日本語なのである。

このような使い道の広さと文字の短さが「なう」の普及のまず一番大きな要因だと考えられるが、「なう」普及の要素はあと二点あると思う。

 

一つは「エクリチュール(書かれたもの・文字)としての見かけの可愛らしさと、パロール(発声されたもの・音声)としての可愛らしさ」だ。

「な+う」という曲線が醸し出す柔らかさ。それから「na/u」という短く丸っこい響き。程よく力の抜けた脱力感。それが人々を惹きつける

とともに、Twitterの持つカジュアルな雰囲気(そして字数制限)と相性が良かったのではないか。

 

さらにもう一点。キーの配列特性を考える必要がある。とりわけ携帯電話の文字配列が「なう」を普及させるに貢献したのではないか。

なう。「な」+「う」。

「な」は「な」行の先頭だから、キーの「な」のところを押せば直ちに画面上に表示される。「ね」のように何度もキーを押す必要がない!

そして最近の携帯にはたいてい予測変換機能が入っているから、何度か「なう」と変換していれば「な」のボタンを一度押しただけで

「なう」が表示されるだろう。

 

つまり【「な」を一回押して「な」を表示させ、「あ」を三回押して「う」を表示させる】という計四回の動作をするまでもなく、

【「な」を一回押して「な」を表示させ、予測変換で出た「なう」を選択する】という、実質一回か二回の動作で「なう」は画面上に表示される。

「のう」では予測変換を使ったとしても【「な」を五回押して「の」を表示させる】という手順を踏まなくてはならないが、「なう」であれば

キーにワンタッチするだけで「な」にアクセスすることができる。この物理的・心理的な手軽さが「なう」普及の一端を担ったのではないか。

 

以上が僕の考える「なう」普及の背景である。「なう」を使う人は多いが、「なう」について考察した人は未だ多くないんじゃないだろうか。

ちなみに僕は、まだこの「なう」という語を使ったことはない。特に理由は無いけれど。

 

 

「音を慈しむ」ということ。

 

ピアノをデザインに用いると、大抵は黒鍵と白鍵という「鍵盤部分」を使うことが多い。

だが、ピアノの一番美しい瞬間は鍵盤そのものではなくて、鍵盤を駆け巡る指先がピアノ・ブラックのボディに映っている様子だと思う。

白鍵と黒鍵、そしてその上を自在に駆け 巡る白く細い指。それが磨き抜かれた黒に映っている。

残響を慈しむようにピアニストが顔を上げると、立ちあげた蓋に自分が映る。ハンマーで叩かれて震えた弦から生まれた音は蓋に反射し、

四方へ散らばっていく。だが、蓋に映った映像は、いつまでもそこにある…。

 

いつかこんな情景をデザインに出来たら、と思うのだが、僕のテクニックではいまだ十分に表現することが出来ない。

作っては壊し作っては壊しを繰り返すうちに、思い描くものに近付いて行くのだろうか。今度のコンサートのポスターのお仕事でも

とりあえず試作してみたいと思う。

 

さきほど、 「音を慈しむ」と書いた。

僕はこの、「音を慈しむ」という表現がとても好きだ。いつくしむ。とても綺麗な日本語だと思う。

空間に確かに存在するが決して見えない「音」。演奏者は全身全霊でそれを生み出し、聞き、膨らませる。

けれども音はいつだってゼロへと向かう。世界に現れた瞬間から消え始める。

だからこそ、生みだした音を精一杯愛し、暗闇へ溶けてゆく瞬間を温かく看取る。音を慈しむとは、きっとそういうことだ。

 

 

 

Hommage à L3-15

 

ドイツ語のテストがようやく終わった。「第二外国語ドイツ語選択⇒フランス科進学」なんてイレギュラーなことをすると、二年生の四学期で

ドイツ語の試験勉強をやりながらフランス語の授業の準備をし、英語のプレゼンの発表を慌てて作るなどという瀕死状態に追い込まれる。

とはいえ、ドイツ語のザクザクっと言葉が切れていく感じは思考が整理されていくようで面白い。フランス語とはまた違った魅力がある。

ドイツ圏の音楽、たとえばブラームスにしろウェーバーを考えてみても、ドイツ語の性格と共通したところは沢山見つかる。

音楽は一つの言葉だから、作曲家の育った言語と無縁ではいられないのだ。

 

さて、昨日のドイツ語の最終テストを持って、前期教養学部のほとんどが終わったと言ってよいだろう。

クラス単位で何か授業を受けたりテストを受けたりする機会はもうない。つまり、ある意味では、昨日がクラス解散の日だったのだ。

入学して、いきなり渋谷に呑みに連れて行かれて顔を合わせたクラスの友達。あれから二年が経ったと思うと信じられない思いがする。

文Ⅲ十五組には、強烈なやつが沢山いた。強烈な奴たちと色々な事をした。夜を徹して呑み明かしたり議論したり、超ハイクオリティな

シケプリを制作しまくったり、旅行に何度も行ったり、オペラやコンサートや能を見に行ったり、学校行事に深く関わってみたり・・・

ここには書ききれない事が山のようにある。他のクラスではたぶん考えもしないようなことを沢山した。本当に居心地の良いクラスだった。

振り返ってみて、浪人して、なおかつドイツ語選択で入学して良かったな、と改めて思う。

二年間幸せでした。

 

こんなふうに書くとこれで今生の別れみたいになってしまうけれど、実際にはそんなことはない。

クラスメーリスは今後もガンガン活用して、コンサートに能にと走り回りたいし、またみんなで集まる機会も何度だってあるだろう。

ほとんどの人は本郷キャンパスに進学してしまうので、もう駒場キャンパスにはあんまり寄らないのかもしれないが、たまには

戻ってきてくれたら嬉しいなと思う。僕はずっと駒場にいるので訪れた時には連絡してください。イタトマでコーヒーぐらいならおごりますし

みんなが来てくれないと酒瓶が片付かないので、時間ある時はまたウチで呑み明かしましょう。

専門課程での話や活躍を聞くのを楽しみにしています。これからもよろしく!

 

 

スキー旅行記その1

 

生きてます。スキーから帰ってきて以来、レポート⇒願書⇒レッスン⇒吞み会のコンボでしばらく更新出来ずにいました。

Twitter上では携帯から結構つぶやている(ブログの記事にするための備忘録代わりに使っている)のですが、こちらのブログの方は

パソコンの前に座ってゆっくりと時間を取れないことには書けないので、どうしても更新が遅くなってしまいますね。

そういう意味では、140文字で何の気兼ねもなく思い思いのつぶやきを投稿するというTwitterのシステムは巧妙だなあと感じます。

 

さて、スキー旅行については一緒に行った立花ゼミの栄田さんが大量に写真を撮ってくださったので、栄田さんが落ち着き次第

(僕以上にレポートに追われているようです。お忙しい中スキーを計画してくださってありがとうございます。)写真を頂いてアップする

予定です。というのは、僕の写真よりも栄田さんの写真のほうがクオリティが高いので。このスキー中には、栄田さんのフォトグラファー魂が

炸裂していました。ウェアの右ポケットと左ポケットに別々のデジカメを入れ、2300mの標高から2000mぐらいの距離を

手にデジカメを構えて動画モードで撮影しながらボーゲンだけで(手ブレを抑えるため)滑ってくる栄田さんはもはや伝説です。

上半身と手に構えたデジカメを全く動かさずに中級者コースの曲がりくねった道を滑り降りてくる姿に修学旅行生たちがビビっていました。

彼らの青春の思い出としてその雄姿が焼きついたことでしょう。(僕と西田君の目にも焼き付きました。栄田さんすごい。)

 

夜にはフランスのウォッカであるシロックウォッカを雪の中に埋めて冷やし、栄田さん持参の絶品リンゴジュースで割ってウォッカアップル

にしてみたり、降り積もったばかりの新雪を氷にしてロックで呑んでみたりしていました。いずれも最高に美味しかったです。

少し呑んだ後にホテル内をうろついていると、ホテルに併設されたバーにビリヤード台を発見しました。

これはやるしかないでしょう。ということで、一時間だけ球を突くことに。バイトらしき外国人のお姉さんに英語で「ビリヤードしてもよいか」

と尋ねて酒(グラスの白とロゼ)を頼み、玉突きに集中します。西田くんは安定感のあるスタイルで次々球を沈めていきますし、

ビリヤードはこれがはじめて、という栄田さんは、異常なほどのペースで上達していました。面白くなってきてついつい二時間延長して

閉店時間までビリヤードをやることに。男三人の夜はこうして更けてゆくのでした。

 

L’analyse de la pub de CHANEL N°5

 

シャネルのNo.5のCMで一つレポートを書きあげました。(http://www.chaneln5.com/en-ww/#/the-film)

オドレイ・トトゥ演ずるこのCMは、CMという枠を超えた内容を持っています。台詞はほとんど存在せず、ナレーションも最後の一言のみ。

商品の内容や性能は一切説明されることがありません。ですが、見る者にシャネルの五番を強烈に印象付けます。

それは、このCMの狙いが「空間に漂う香り」そのもの、あるいは「香りがもたらすストーリー」を表現したものだからです。

 

シナリオは二つの対称的なテーマ群によって構成されています。

一つは、〈開放〉と〈閉鎖〉の切り替わり。駅へと走るシーンは鳥が青空へと飛んで行くのを見ても感じるように開放的ですが、

夜行列車に乗ってしまえばそこは閉鎖空間。人の気配をすぐ近くに感じる空間であり、窓を開けてもその外に出る事は出来ません。

ですが、いったん目的地(イスタンブール)について降りると、そこには開放的な空間が再び広がっています。

閉鎖空間ならではの「すぐ近くに相手がいる感覚」は霧散し、開放空間ならではの「相手がどこか遠くへ行ってしまった」感覚が

場を支配します。

 

もう一つの軸は、〈偶然の擦れ違い〉と〈運命的な出会い〉。そしてそこに生じる〈視線〉の特異。

男と女は徹底的に擦れ違います。夜行列車の中で、ボスフォラス海峡を渡る船の甲板で。

そして、二人の視線はほとんど交わることがありません。夜行列車のガラスを通して、あるいはカメラのモニター(とファインダー)を

通してのみであって、直接的に交わることはほとんどないのです。夜行列車で扉一枚隔てて男と女が反対方向を見つめあうショットは

その最たるものであって、間違いなくお互いがお互いの事を考えているのに、視線は正反対へと向いています。

ラストシーンで運命的に男と女が巡り合っても、男と女の視線は交錯せず、男は女を後ろから抱きしめ、首(香水をつけている場所)に

唇を寄せるにとどまります。女に惹かれているというよりはむしろ、女の香り(=シャネルの五番)に惹かれている様に見えます。

 

このようにして、広告対象そのものが押し出されることはなく、広告対象が引き起こす出会いを美しい映像の中で描くことで

この香りそのものの空気感を表現していると言えるでしょう。本当によく計算されたCMだと思います。このCMでは途中にビリー・ホリディの

I’M A FOOL TO WANT YOU (恋は愚かというけれど)が流れるのですが、歌詞が

I’m a fool to want you. I’m a fool to want you.

To want a love that can’t be true.  A love that’s there for others too.

I’m a fool to hold you. Such a fool to hold you…

と流れる中で、歌い手がブレスを入れる場所を狙いすましたように汽笛の音が挟まれます。歌い手の声色と汽笛の音色の相性、

そしてこのタイミングが素晴らしいため、汽笛の音が合いの手のように聞こえます。巧すぎる構成!とにかく一度見てみてください。

2004年のニコール・キッドマンを登用したNo.5のCMも素敵な出来なので、ぜひこちらもどうぞ。youtubeで検索すればヒットします。

 

さて、それでは以前書いたように今日から2月の2日まで志賀高原へスキーに行ってきます。久しぶりのスキーなので、

71リフト全制覇するぐらいの心意気で滑り倒してくるつもりです。しばらく更新は出来ませんが、帰ってきたら旅行記と写真をアップします。

なお、先日からTwitterを始めており、Artificier_nuitで検索してもらえば引っかかるはずです。良かったらフォローしてやって下さい。

Twitterのほうは旅行中も稀に更新するかもしれません。では行ってきます。

 

 

LANGAGE ET PARENTÉ 完読!

 

ようやくレヴィ・ストロースの『構造人類学』に収められたLANGAGE ET PARENTÉ (言語と親族)を原典で読み終えた。

かなり丁寧に読んでいったので相当な時間がかかったけれども、文法事項から表現、そして内容に至るまで、得たものは大きい。

この達成感と徹夜明けの妙なテンションが自分の中で偶然の出会いを果たし、昼には一人で駒場東大前近くの蕎麦屋で上天ざる

1100円を頼んでしまった。徹夜明けの身体に食後の蕎麦湯がしみる。満足だ。財布の中身は見て見ぬふりをするのがコツである。

 

ここ数日間は毎日何かしらのレポートや小論に追われている。既に書き終わったものだけでも生命倫理、メディア論、映像分析、

身体論、音楽と詩などがある。これから書くものは広告論、科学技術倫理、ヨーロッパの心性史、ディルタイの哲学などがある。

そこに加えて比較法学のテストがあったりドイツ語のテスト勉強をしたり、指揮のために楽譜を読み込んだりしているので、毎日が

大変なことになってしまっている。にもかかわらず、30日の夜から2日の夜までは志賀高原へスキーに行くことにした(笑)

 

ゼミ旅行と銘打ったこの旅行、志賀高原を力の限り攻める予定である。

71のリフトを乗り継ぎまくって初級コースから上級コースまで幅広く制覇したいと思う。志賀高原全山のスキーコース中で最も手強い

丸池の一部のコースと焼額山の「熊落とし」と呼ばれる急斜面+コブだらけのコースをどう乗り切るかがポイントになるだろう。

スキー旅行記については写真とともに後日ここで公開するつもりなので、どうぞお楽しみに。

ハイドンの45番「告別」

 

久しぶりに更新。前の記事に書いたスケジュールをなんとかひと通りこなしました。

その間、フルートでA氏のピアノとアンサンブルして遊んだり、センター試験の問題を見たりしていましたが、今年のセンターリスニングの

内容を見てびっくりしました。なんとハイドンの「告別」シンフォニーについての話が出題されています。

 

まず「ハイドンの告別交響曲についての説明を聞いて以下の問いに答えよ。」とあって、設問は

「『告別交響曲』の結びでは誰が舞台に残っているか」(問23)

「なぜその田舎の宮殿では音楽家たちは不幸せだったのか」(問24)

「ハイドンのこの交響曲に込められたメッセージは何だったか」(問25)

の三問となっています。クラシックをよく聞く人にとってはリスニングするまでもなく回答できる問題だったのではないでしょうか。

(Wikipediaでこの曲を検索すると「2010年のセンターに出題された」との解説が既に加わっていてびっくりしました。)

 

しかもこの「告別」交響曲は昨年(2009年)のニューイヤーコンサートでダニエル・バレンボイムがプログラムに入れており、

TV中継では演奏の際に「告別」交響曲についてのエピソードが流れていたので、それをたまたま見た人も結構いたと思います。

ついでに国語の現代文では中沢けい『楽隊のうさぎ』という有名な本から出題されていたりと、今年は音楽をやっている人間にとって

少し有利な出題だったかもしれません。指揮法の同門の先輩方に一度見せてみたいと思います。

 

肝心の指揮法自体もかなりいいペースで進んでおり、エチュード四番に奇跡の一発合格を頂いたので次の曲、第五番に入りました。

五番はBeethovenの交響曲一番の二楽章なので、しっかりと気合いを入れて望まないとすぐにボロが出てしまいそうです。

楽譜屋さんからフルスコアを取り寄せて、教程に乗っているピアノ編曲版と見比べながらじっくりと勉強することにします。

一番はあまり日常的には聞かない曲なのですが、CDラックをちょっと整理してみたら意外にも十枚ぐらい持っていました。

ただ、一番単独(あるいは他の交響曲とのカップリング)のCDは少ないですね。ほとんどはBeethovenの交響曲全集としてです。

手始めにフルトヴェングラーの54年ライブ(Radio-Sinfonieorchester Stuttgart)とムラヴィンスキーの82年ライブ、それから

カラヤンの61年の録音を引っ張り出して聞いておきました。二楽章の四~六小節目の歌わせ方にそれぞれの特徴が良く出ています。

 

師匠を超えて。

 

 冬休みもあと数日。地元にいられる時間は僅かしか残されていません。

というわけで、帰省中に必ずやっておきたかったことの一つを終えてきました。ボウリングの師との再戦です。

電話をしてボウリング場で待ち合わせ、夏と変わらずお元気なお姿でフロアの向こう側から飄々と歩いてくる師匠はもう75歳。

師匠にボウリングの面白さと奥深さを教わってからもう6年が経ちます。月日の経つ早さに驚かされながら、がっちりと握手をして

レーンへ向かいました。

 

 夏休みに勝負したときは僅差で僕が勝ちましたが、師匠はその年齢もさることながら、使っているボールがラウンドワンの

キャンペーンボール一球のみ(他のボールは近くのレーンに入った若者にあげたらしい。そんな気前の良さには本当に憧れます。)

という状況だったので、僅差では勝ったことになりません。そこで、今回は自分に二つの制限を課して勝負に臨みました。

まず、投げてよい球は二球のみに制限。練習投球の様子から、Second Dimension と Black Widow Nasty の二球に絞りました。

そしてアベレージにして30ピン以上差をつけること。師匠はどんなに転んでも180アベは叩いてくるので、僕は最低でも210アベを

超えねばなりません。この二つの条件を満たしてはじめて「勝った」と思おうと決めました。

 

 そして試合開始。正月で沢山のお客さんが投げているからか、レーンがかなり難しい状態に荒れていることに気づきます。

外早中遅の上、左右差が微妙についています。極端な左右差ならボールを変えたりして対応できるのですが微妙な差となると

細かく調整していくしかありません。しかも外早なので外に向けて出し過ぎると即ガター。これはかなり集中して投げないと、とても

210アベどころではありません。Black Widow Nastyを15枚ぐらいからちょっとだけ外に向けて投げ、ピン前の切れこみを利用して

倒すラインを選択しながら、目一杯集中して投げました。

 

 師匠はと見ると、スピードを落として僕と同じ15枚目ちょい出しラインを選択しています。それを見て、このラインはかつて師匠から直々

に教わった、師の最も得意とするラインだったことを思い出しました。投げ方はあの頃から随分変わりましたが、今でも僕のライン取りは

ほとんど師匠譲りのもののようです。アプローチに立って構えながら、心の中で師匠に感謝しました。

微妙なアジャストも成功して、六ゲーム終わってみればアベレージ228となかなかのスコア。対して師匠は194。

精一杯のことはやりました。最終ゲームで師匠が、「もうこれからは勝てないな。」と笑顔でそっと呟かれたのが耳に残って離れません。

心から嬉しかったし、同時に少し寂しかった。師匠を超えるときがついに来たのかもしれません。

 

 でも、師匠からはまだまだ学ぶべきところがありました。

とりわけ、僕がいま集中的に取り組んでいる「静」の部分。「静」と「動」に注目して師匠のフォームをじっくりと後ろから見てみました。

びっくりしました。師匠の構えは「ビタッ!」と音が出るように静止しています。止まっているのは時間にして僅か数秒。

ですがその静止の中に、「これから起こるであろう動き」が完全に含まれているのが感じられます。

「構えただけでストライクが出そうな気配を放っているなあ。」とボウリングを始めたての頃に何となく思ったのも今は良くわかります。

一瞬の呼吸。スラックスの裾の揺れすら完全に動きを止めた一瞬の静けさ。この背中に憧れて僕はボウリングをはじめたのでした。

 

 「静」だけでなく、レーンを読む早さと緻密極まりないコントロールはまだまだ師匠の足元にも及びません。

師匠は6ゲーム通じて2-10のスプリットを3 回残したのですが、なんとその3回とも取ってしまいました!

一度だけならまだしも、三回とも全て取るなんて芸当はトッププロにも難しいことでしょう。レーンを読み切っていて、さらにそこから導いた

わずか数枚の幅に確実に投げられるコントロールがあってはじめて可能になる技ですね。肘を入れたハイレブの投げ方で投げていると

多少ポケットからずれても倒れてくれるので、ついつい精密なコントロールやレーンの読みが甘くなりがちですが、本当は僕らのような

ハイレブ型の投法で投げる人こそ、コントロールとレーンの読みを学ばねばなりません。ストローカーのコントロールと経験からくる

レーンリーディングの早さを基本として、そこにプラスアルファで高速・高回転の球を多様なアングルで投げれるようにすることが

最強ではないでしょうか。師から教わったレーンリーディングのコツを、東京に帰ってまた投げ込みながら、自分のものにしていきたいと

思います。

 

 夏休みには今よりも腕を磨いて帰省します。師匠もお元気で。そう伝えて固い握手を交わし、帰路へと向かいます。

夏ならまだ明るかった午後四時。冬の午後四時は、夕焼けと日没がグラデーションになって空を彩っており、心地よく疲れた体に

冷たい風が沁みました。

 

 

New Year Concert 2010 と弾き初め

 

 先日のNew Year Concert2010はここ数年で最高の演奏会だったと思います。

プレートルは大きくテンポを動かし、溜めるところではかなり溜める(とりわけドナウの「間」は絶品でした。)指揮をしていました。

かといって昨年のバレンボイムのようにずっしりした重さを感じさせるものではなく、軽妙洒脱という言葉がぴったりの華やかな演奏。

最初の「こうもり」序曲から最後まで通じて感じたことですが、管が弦に埋もれないようにやや強めに吹かせている印象を受けました。

「酒、女、歌」などでその傾向が特に顕著だったように思います。「クラップフェンの森で」では鳥の鳴き声を模した楽器(名称不明)

を吹かせまくって目立たせてみたり、「シャンパン・ギャロップ」では実際にシャンパンを注がせてみたり、遊びも満載。

そうかと思うと「ラインの妖精」序曲では会場が静まり返るような繊細なトレモロを出させてウィーン・フィルの弦の

素晴らしく精緻な響きを楽しませてくれたりと、見どころ・聴きどころともに十分なコンサートでした。

 

 音楽だけでなく映像にも様々な工夫が感じられました。いくつかに分けて見てみましょう。

 

・フラワーアレンジメント

これについては全くの門外漢なので単なる感想でしかありませんが、エレガントさよりは元気の良さを感じさせる配色だったと思います。

いわゆるビタミン・カラーが中心のアレンジメントでした。黄色・オレンジ・赤といったホット・カラーを手前に持ってきて奥に緑や白を

入れることで、メリハリのついた見映えになってたように感じます。花はチューリップ、バラ、デイジーなどでしょうか。

 

・照明

照明にも一手間加えられていて、曲想に応じて光量が調節されていました。「ラインの妖精」の際には客席後方の上部ライトが

かなり落とされていましたね。

 

・バレエ

普段はウィーンだけなのに、今回はパリとウィーンの二つのバレエ団の踊りが収録されていました。「朝刊」で見せたバレエは

撮影場所の建築をうまく使ったショットが沢山あって感動させられました。衣装(色とりどりの「花のドレス」)もとても好みです。

 

・メイキング

第一部と第二部の休憩時間の間には、大抵アナウンサーとゲストのトークが挟まれているのですが今回はその時間帯に

「プレートルのリハーサル風景」と「バレエの衣装デザイン」という二つのメイキング映像が挟まれており、トーク無しになっていました。

個人的には今回の構成のほうがいいなと感じます。リハーサル風景やデザインのメイキングムービーなんかは僕のような人間に

とって垂涎のものでした。来年からもこの構成で放送してくれることを切に願います。

 

・カメラアングル

映像では今回ここに一番注目される点がありました。カメラアングルがいままでにない豊富さだったのです。

客席最後部の上から天井の彫刻を映し出した後、フリップしながら客席→ステージへと移していくカメラワークもさることながら、

指揮者のはるか上からのアングルは今までになかったのではないでしょうか。二つ目のバレエの終わりと最後のラデツキー行進曲の

終わりで見せた、「上から舞台を捉えるショット」はフランス映画の十八番の構図だと思います。たとえば「シェルブールの雨傘」や、

新しいところでは「ココ・アヴァン・シャネル」の宣伝ムービー(シャネルのページから無料で見れます。セリフはほとんどありませんが

風景・人物の撮り方が本当に綺麗で感動します。一度見てみてください)で目にすることができるでしょう。このあたり、もしかすると

フランスの指揮者ジョルジュ・プレートル仕様なのかもしれませんね。上からのショットは頻繁に活用されており、

ステージ頭上のハープを持った女性の彫刻の上から写して、彫刻のハープをカメラに収め、そのあと次第にステージへズームしていって

(オーケストラで実際に弾いている)本物のハープを彫刻の向こう側に遠近つけて写す手法には感動しました。これは巧い。

 

 というわけで非常に満足な演奏会だったので、三日の再放送もスコア片手にじっくりと見入ってしまいました。

ついでに家にいる間に色々弾いておこうと思い、今年度の弾き初めも兼ねて六年ぐらい前に演奏会で弾いたガーシュウィンの

プレリュードNo.3を弾きました。あの頃は指が回っていたのに今はもう全然です。中盤で止まりまくりです。悲しい。

 

 そのあとピアノの横にある楽譜用の引き出しを整理していたところ、高校生の時に書いた小品の楽譜が発掘されました。

ちょっと弾いてみましたが、自分で作っただけあってこちらはスラスラ弾けてしまいます。でも弾けば弾くほど恥ずかしくなる曲。

メロディーだけで作ったのがバレバレで全く厚みがない。当時はこれを傑作だと本気で信じて友達に弾いて聴かせていたのですから

怖いもの知らずですね。穴掘って土下座したいぐらいです。

そして曲の内容にもまして恥ずかしいのが曲名。あの頃ハマっていた三島由紀夫のある作品から採ったのが透けて見えます。

楽譜ごと燃えるゴミの日に出してしまおうと思いましたが、なんとなくそうすることも出来ず、改めて引き出しの一番奥にしまって

記憶から抹消しておくことにしました。きっとまた何年後かに発見して破りたくなることだと思います(笑)

 

 フルートは東京へ置いて帰ってきてしまったので吹くことができず。東京へ戻ったらしっかり練習します。

指揮の方は叩き・跳ね上げ・平均運動・しゃくい・先入を毎日筋トレのようにやっているので弾き初めという感じは特にありません。

今度の課題曲No.3(Haydn No.20 Andante grazioso)の譜読みは昨年中に終えましたが、次は暗譜するためにさらに読み直す

ことにします。曲自体はとても単純なのですが、先入・半先入・分割先入という技法をフル活用することが要求されているので、

指揮するのは結構大変かもしれません。頑張って練習します。

 

 なお、新年一発目はレヴィ・ストロースの『パロール・ドネ』(中沢新一 訳、2009,講談社選書メチエ)を読了。

これはコレージュ・ド・フランスでの講義の報告書を訳したもので、とても読みやすい本です。レヴィ・ストロースの著作を読んだことがある

人にはとてもおすすめ。これを読みつつレヴィ・ストロース本人の著作を読めば本人の著作がぐっと分かりやすくなるはずです。

訳者の中沢新一が後書きでこんなことを書いています。

 

「いったん書き始めると、レヴィ・ストロースはただの人類学者でなくなって、一人の作家ないし文人と呼ぶにふさわしい、おそるべき

文体の人に変容するのであった。シャトーブリアンやフローベールに学んだという彼の文章は、まさに螺鈿細工のように複雑にして

精緻を極めたフランス語の名文であった。そのために、フランス語に堪能でない私たちは大いに泣かされてきた。

ところが、講義中のレヴィ・ストロースは、(中略)まったく飾り気のない平明極まりない言葉で自分の思想を明確に伝えることだけに

専念している、一人の人類学者に立ち戻っているのだ!」(同書P.366より)

 

 原文で読んでいないのでこの講義録がどれほど平明なのか僕は日本語訳を通して推し測るしかありませんが、

確かに『構造人類学』に比べるととても読みやすい。これぐらい読み易ければ『構造人類学』ももっと早いペースで訳せるのになあ、

と思いつつも、「螺鈿細工のように複雑で精緻なフランス語の名文」に接することが出来る幸せを同時に覚えます。

そんなわけで、あと二日で提出せねばならない『構造人類学』訳文のレジュメ作成にまたもや苦しまされるのでした。

 

 

Ich wünsche Ihnen ein glückliches neues Jahr!

 

 Je vous souhaite une bonne et heureuse année! 

あけましておめでとうございます。曇りの予想を裏切って明け方は晴天でした。

外へ出てみると、吹きつける冷たい風の中、眩いほどに光を放つ太陽が空に輝いていて思わず眼を細めてしまいました。

昨夜の満月も綺麗でしたし、天気に恵まれた年末年始になりましたね。

 

新年といっても、たった一日が過ぎただけ。何かが変わるわけではありません。

でも、外の空気はなんとなく昨日と違う清々しさを感じさせます。昨日とは明らかに違う何か。30日と31日の違いにはない何か。

それは僕が新年を意識しているからか、それとも沢山の人々が新年を意識して生きていることから生まれるのか

よくわかりませんが、何はともあれ今年も無事に新年を迎えることが出来たことを素直に喜びたいと思います。

 

 日の出を見てから、家族で京都の北野天満宮へ恒例の初詣へ行ってきたのですが、北野天満宮は雪がうっすら積もっており、

ところどころ氷が張っているほどでした。弟と一緒に御神籤を引いてみたところ、なんと弟が「大吉」で僕は「吉」。

数日前からデジカメの充電器が見当たらず、デジカメが使用不能状態にあって困っていたのですが、僕の引いた籤の「失物」の

ところには「家の外を捜しなさい。」という、「諦めなさい。」とほぼ同義のお告げが書かれていました。

ほとんど範囲の狭まらない余事象です。家の外って・・・ほとんど全てじゃないですか(笑)

 

 御神籤にひとしきり突っ込んだ後、これまた恒例、境内にある長五郎餅という絶品の羽二重餅を購入。

それから天満宮前にある梅餅(いまだこれを超える餅には出会ったことがありません。甘酸っぱくてとても上品な味。最高です。)

を買いに行ったところ、行った時間が早すぎたのか餅屋さんが寝過ごしたのか、シャッターが下がっており、買えませんでした。

これはちょっと悲しい。また日を改めて買いに行くことにします。

 

 元旦ならではということで、あと数時間で放送されるウィーンフィルのNew Year Concert 2010について少し書いておきましょう。

今年の指揮者は2008年にも登場したジョルジュ・プレートル。あのアンドレ・クリュイタンスに指揮法を師事したフランスの指揮者です。

2008年以前はあまり有名ではなかった(CDに恵まれなかっただけで、プレートルは素晴らしい指揮者だと思います。1990年代初頭に

ヴァルトビューネコンサートを振った録音・録画があるのですが、そこでもプレートルは驚くほど素晴らしい演奏を引き出しています。)

指揮者ですが、2008年以来急速に脚光を浴びていると言えるでしょう。優雅で、かつ芯のある音楽を作る大指揮者です。

 

 2008年の演奏はフランスに関係する曲目を織り交ぜつつ、全体として自由で柔らかい演奏でした。

プレートルはあまり拍を振ることもなくザッツだけ出してあとはデュナーミク(音量の強弱)やアーティキュレーションを示すだけ。

リハーサルではかなり細かく指示を出していたらしいですが、本番は「あとは好きなようにやってください。」という感じで

とても自由な指揮姿。ウィーンフィルが相手だから出来るワザですね。プレートルの笑顔がとても優しくて、見ているとなんだか

幸せになるような演奏でした。とくにポルカ 「とんぼ Die Libelle」はカルロス・クライバーの演奏に次ぐ名演だと感じました。

 

 2010年の曲目は「こうもり」序曲に始まり、ポルカ「恋と踊りに熱狂」、ワルツ「酒・女・歌」、シャンパンポルカにシャンパンギャロップと

非常に華やかなラインナップです。「パリの謝肉祭」があるのも見逃せません。オペラ指揮者として鳴らしたプレートルは「こうもり」序曲を

どんなテンポで、どんな風に演奏するのでしょうか。きっと拍手鳴りやまぬうちに三つのあの華やかな和音を始めるのでしょう。

色々参考にしようと思って、今日演奏される曲のフルスコアをいくつか実家の本棚から引き出してテレビの前に積んでおきました。

85歳を超えたプレートルの円熟の指揮がとても楽しみです。