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七月の終わりに。

 

迷いが晴れた。

チャイコフスキーの交響曲第五番の一楽章を振り終わって、「何があったんだ。」と師匠が言葉を下さる。

何かがあったわけではないけれど、ここ三ヶ月で一番気持ちが乗った。

と同時に、揺れ動いていたものがピタリと腰を据えて、「大きな流れ」としか言い様のない全体が見えたのだ。

こういう気分になるときはいつも、スコアの見え方が全く違う。ある程度暗譜しているスコアとはいえ、

一度目を落とした瞬間に全体が飛び込んでくる。それもアーティキュレーションの細かな部分まで。

それはスコアだけではない。なぜか今いる部屋の隅まで詳細にズームイン可能な錯覚すら覚える。

ずっと先まで広々と見通せる気分のまま、もう一人の自分が上から自分を見下ろすような気分のまま、

理性のもとで感情に突き動かされるようにして棒を振る。

ウェーバーの「魔弾の射手」序曲を振って以来遠ざかっていたあの感覚が久しぶりに戻って来た。

 

ただただ、楽しかった。

偶然の産物ではなくて、暗闇を抜けた先に少しだけ到達したのだという確信がある。

一つの暗闇を抜けてしばらくするとまた次の暗闇がやってくるかもしれない。

それでも今の気持ちを忘れないようにしようと思う。

音楽は厳しくも、その本質はこんなに楽しかったのだ。

 

 

 

二十六歳の夏休み

 

小林康夫先生の『こころのアポリア――幸福と死のあいだで』(羽鳥書店)刊行記念トークセッションがYoutubeにアップされていたことを知って観ていた。

(URLはこちら:http://www.youtube.com/watch?v=u30VQGYoauU)

この半年間、小林先生と一緒にボードレール、そしてモデルニテの絵画を勉強させて頂いたわけだけど、

「学者になろうと思ったのではない。書くという行為に携わり続け、書くという行為に生きるために大学に残ることを選んだのだ」という言葉は

いつ聞いても響くものがある。それが良いとか悪いとかではなく、少なくとも僕には、ある種の憧れと共感を持って響く。

 

院生としての最初の半年間の授業は早くも先日で全て終わってしまった。

学部以上に、大学院の授業は授業というよりは「刺激」と呼ぶのが正しい気がしていて、

沢山頂いた「刺激」を自分のうちにどう取り込んで「書く」か、そこに殆どが掛かっているのだと痛感する。

小林先生から頂いたボードレールとマラルメ(ミシェル・ドゥギーの『ピエタ・ボードレール』読解を通して)、モデルニテの絵画を辿るうちに現れたカイユボットとドガの「光」、

そして寺田先生から頂いた文学史の見通しと19世紀のスペクタクルの諸相をいかにして書くか。まずは京都の出版社の友人が下さった連載に対して、僕はいったい何を書きえるのか。

 

 

同時に、読まねばならぬ。

助手として二ヶ月近く立花先生と一緒に関わっていたことが一区切りし、五万部印刷されたものの一部を手元に頂きに久しぶりに猫ビルへ伺った。

小さいものだけれど、こんなに印刷されるものに関わらせて頂けることは滅多にないなと思うと感無量なものがある。

しかしその感動はすぐに消え去った。猫ビルの膨大な書籍に囲まれ、立花先生とお話しさせて頂くと、自らの無知に改めて気付かされ、悔しくなる。

僕は何も知らないし、何も読んじゃいない!

 

相変わらず立花先生はものすごい。指揮はどうなの,研究はどうなの、あの本は読んだ?と質問攻めにして下さる。

しかも、その質問の仕方は自然かつ絶妙で(これがインタビューの達人の業だ)僕の拙い発言を確実に拾いつつ、何倍にも広げて返して下さるのだ。

そしてまた、絵画の話になったとき、膨大な書籍の山から迷わず一冊の場所を僕に指示して引き抜きつつ、

「このアヴィニョンのピエタの写真と論考が素晴らしいんだ」と楽しそうに語られる様子に、凄まじい蓄積と衰えぬ知的好奇心を垣間見た思いがした。

その一冊が『十五世紀プロヴァンス絵画研究 -祭壇画の図像プログラムをめぐる一試論-』で、丸ノ内KITTE内のIMTでお世話になっている西野先生の学位論文であり、

渋沢・クローデル賞を取られた著書であったことには、色々な方向から物事が繋がって行く偶然の幸せを感じずにはいられなかった。

 

とにもかくにも、夏休み。

幸せなことにまた幾つものオーケストラでリハーサルがはじまる。

昨年指揮させて頂いた団体から今年も、と声をかけて頂けるのは嬉しいことだ。

東北でまたコンサートをさせて頂き、フィリピンに行くオーケストラの合宿をし、オール・シベリウス・プログラムのオーケストラの設立記念演奏会に関わらせて頂く。

毎年恒例のチェロ・オーケストラも今年はさらにメンバーを充実させて開催することが出来そうだ。

長らく温めていたけれど、そろそろ自分の団体についても動き出して良い頃だろう。

並行して、駒場と丸ノ内で頂いている室内楽の企画も進めて行かねばならぬ。

 

日々の苦しみと同じぐらい、楽しみなことがたくさんある。

一つ一つ大切に棒を振り、めいっぱい読んで、書く夏休みにしようと思う。

触発する何かが生まれる事を信じて。

 

 

 

 

半過去についてのまとめ

 

L’imparfait(半過去)についてLe bon usageほか色々な文法書を使って勉強していたので、まとめをアップしておきます。

自分用にメモがてら作ったものなので正しいとは限りません。ご注意下さい。

 

<半過去の基本的な意味と用例>

☆過去の一点で、まだ完了していない出来事を表す。それゆえに始点や終点を示すものではない。

→ここから、半過去は継続や反復を表すのに適することが導かれる。したがって習慣も表しうる。

例:Je me promenais souvent au bord de la mer.

複合過去が点的な過去であるとすれば、半過去は線的な過去だと言える。

単純過去や複合過去が物語の骨子を述べる時制だとすれば、半過去は物語の環境を描く時制である。

一回きりで終わる動作でないから、過去の情景描写や状況説明で用いられる。

例:On était vaincu par sa conquête.(V.Hugo, Les Châtiments)

参考:19世紀の自然主義文学は半過去の用法について非常に意識的。対してカミュの『異邦人』、複合過去のオンパレード。

 

<半過去の特殊な用例>

1.他の出来事の避けがたい結果として半過去を使う事がある。条件法過去と似た意味になる。

例:Elle mit la main sur le roquet. Un pas de plus, elle était dans la rue.(V.Hugo, Les Misérables.)

また、過去時制におかれた主節に導かれて、「過去における現在」を表すこともある。(時制の一致)

 

2.基本的な意味に反するが、叙述的、あるいは歴史的な半過去は、過去のあるはっきりした瞬間に行われた、繰り返されない出来事を表す。

例:Giannni revenait au bout d’une heure. (Edmond de Goncourt, Frères Zemganno)

Brunetièreによって書かれた、絵画的で、分断し、囲い込む(?)半過去というものもある。

 

3.口語においては、我々が会話し始める前に始まった出来事が半過去で表されることがある。

 

4.条件法Siのあとには、半過去が義務的に使われる。これは現在あるいは未来における仮定的な出来事を表すためである。

例:Si j’avais de l’argent, je vous en donnerais.

 

5.幼い子供達やペットたちとの会話という特別な用途に限定されるが、愛情を表す半過去、甘えたようなニュアンスを醸す半過去というのがある。

例:Comme il était sage!

 

6.直接法半過去には、一歩引いて口調を和らげる働きがある。

例:J’avais [...]

両端から燃える蠟燭のように。

 

 

One must be like a candle that is burning at both ends. (Rosa Luxemburg)

 

 

 

教えることと教わること

 

四月の終わりから、未熟な身であるにも関わらず、師匠に代わって大学生の学生指揮者のレッスンをさせて頂いている。

レッスンというより伝えることを通して自分も教わっているようなもの。

そうして自分自身学んでいけ、そして基礎に忠実であれ、基礎の大切さを教えるうちに痛感せよ。

そういうメッセージを師匠から頂いたと思って、僕に出来る限りのことをやろうと試みている。

 

昨夜はその学生指揮者の女性が今度振るという吹奏楽曲をレッスンさせて頂いた。

師匠の椅子に座って、その子が振るのを見ながら、言葉だけではなく「そこはそうじゃなくて」と代わりに振ってみせることを何度もした。

レッスンが終わってからその子が、「音の変わりように鳥肌が立ちました…。」と言って下さった。

そこまでガラリと音が変わったのは奏者の方が協力して下さったからこそだが、それでも僕にはその言葉がとても嬉しかったのだ。

 

僕は指揮を習い始めて以来、師匠が自分に代わって振って下さるのを見て・聞いて、数えきれないほど感動した。(今もそうだ)

そしてそのことが、僕を「指揮」という営みにのめりこませていった。

何だか分からない、自分では音を鳴らさない棒の一閃が明らかに音を変える。

それまでニコニコしていた人の身体からエネルギーが湧き上がり、その場に「何か」を生成させる。

息を呑み、言葉を失い、痺れるほかない驚異の瞬間!

 

もちろん、僕には師匠のような次元でその変化を見せることは到底出来ないのだけれど、「指揮してみせる」という同じやり方で

僕が師匠から頂いた感動のほんの僅かでも彼女に伝わったとすれば、それは本当に幸せなことだろう。

だから改めて思ったのだ。この先生のもとで指揮を学んでいて良かった。

行き詰まることも行き違うこともあるけれど、これからも必ず学び続けよう。

自らの棒にすべての原因を求めることは精神的に過酷だが、その厳しさを引き受けよう。

 

気付いてみれば東京の他でも指揮する機会を今年も頂き、2014年には海外で指揮する機会も頂いた。

焦らず学び続けていれば機会はやってくる。

言葉にしがたい驚異の瞬間を何度も何度も味わいたいし、少しでも与えられるようになりたいだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Partout dans l'air court un parfum subtil.

 

昨夜ドビュッシーを振ってみて、もう本当に言葉にならないほど幸せな気持ちになった。

風を操っているような感覚。夢の中でもずっと「小舟にて」のフルートが水面に反射していた。

 

ドビュッシーを勉強するのは楽しい。

学問上専門にしているフランスものだから、ということもあるけれど、ポエジー、としか表現の出来ないものに強烈に惹き付けられる。

「小組曲」の第一曲目「小舟にて」第二曲目「行列」にインスピレーションを与えたとされるヴェルレーヌの詩集を参照すれば、「小舟にて」の詩の美しさに感動する。

Cependant la lune se lève/Et l’esquif en sa course brève/File gaîment sur l’eau qui rêve.

小舟は昼間に走らない。描かれているのは、月明かりの中、金星が映る、空より暗い水面をゆく小舟。

 

第三曲目「メヌエット」はヴェルレーヌではなく、同名のバンヴィルの詩集が踏まえられていて

バンヴィルの詩を用いてドビュッシーがかつて書いた歌曲「艶なる宴」のメロディを転用したもの。

Partout dans l’air court un parfum subtil.(「空にあるものは全て、幽かな香りを漂わせる」)

というドビュッシーの世界を凝縮したようなバンヴィルの一節はこのメロディに当たるのかと納得。

そして「艶なる宴」について考えて行くと、やはりヴァトーの絵にまで行き着く。

音楽から詩へ、詩から絵画へ。比較芸術の研究と指揮の勉強が重なりあう幸せな瞬間…。

 

そういうヴェルレーヌの空間を過ごし、今日は朝から授業でミシェル・ドゥギーのボードレール論を原典購読する授業。

もちろんボードレールを(「悪の華」を)折りに触れて参照しながら読むわけだけど、そこにはヴェルレーヌと全然違う世界がある。

駒場をもうすぐ去られる大先生のインスピレーションに満ちた「読み」が凄すぎて、鳥肌が立った。

pietàとpieuse、「悪の華」のあの「無名」の100番目の詩の21行目から、ミケランジェロのピエタ像とのコントラストを用いて

「逆転したピエタ」と表現してしまう、あの煌めくような読みを、他の誰が出来るだろうか!

 

 

豊かなイマージュの世界に音楽と学問で遊べる幸せ。今年も充実したゴールデンウィークを過ごしている。

 

強度、未完成であること。

 

手当たり次第に読んでいるうちに、がつんと頭を殴られるぐらいの衝撃を受ける言葉に時折出会うことがあるけれど、今晩もまたそういう体験をした。

死の二年前のボードレールが、世に受け入れられぬことを嘆く三十三歳の友人マネに宛てて送った手紙の一節。

「いったい君はシャトーブリアンよりも、ワグナーよりも天才だとでもいうのか。ところが彼らだって存分に嘲弄されたではないか。彼らはそれがもとで死にはしなかった。

また、君に慢心を吹き込みすぎない為に付け加えて言いたいのは、この人たちは、それぞれ自分の領域において、しかもきわめて豊かな一世界の中で、それぞれ亀鑑なのであり、

これに対して君は、君の藝術の老衰の中での第一人者に過ぎぬ、ということだ。」

Avez-vous plus de génie que Chateaubriand et que Wagner ? On s’est bien moqué d’eux cependant ?  Ils n’en sont pas morts.

Et pour ne pas vous inspirer trop d’orgueil, je vous dirai que ces hommes sont des modèles, chacun dans son genre, et dans un monde très riche et que vous,

vous n’êtes que le [...]

回帰と決意

 

大学院に進学して、最初の半年間はボードレールを集中的に勉強しようと思っている。

卒業論文で十九世紀の感性史を扱って以来、ボードレールの及ぼした影響力というのが強烈であることを実感したし、結局のところ十九世紀後半の芸術は

何をやっていても(今レッスンで振っているドヴォルザークの九番「新世界より」を勉強していも!)ボードレールの影がどこかに現れてくることが分かった。

 

そういう思いで阿部良雄『群集の中の芸術家 -ボードレールと19世紀フランス絵画-』(中央公論社)を読み進めていたら、懐かしい絵に巡り会う。

ドラクロワの「シュヴィッテル男爵の肖像」。

右も左も分からぬ大学一年生の四月、最初の授業であった「基礎演習」でスーツに関する表象文化史に取り組んでいたころ出会った絵だ。

はからずも大学院一年生の四月にまたこの絵に出会った事には、不思議なものを感じずにはいられない。

コンテクストは違えど、五年という時間の中で自分の興味関心が一巡りしたのだろうか。

そして、同時に、種々の関心の底にあった関心(それはたぶん、「モデルヌ」の雰囲気への興味だ)が浮き上がって来た気がする。

 

 

それにしてもこの本は面白い。

「立ち居振る舞いの驚嘆すべき確実さとのびやかさ、それに加えて、この上もなくあたたかな人の好さから、まったく非の打ち所のない慇懃無礼に至るまで、

まるでプリズムのようにあらゆるニュアンスを使い分ける行儀の良さ」を獲得していたドラクロワに、ボードレールは憧れとダンディスムの理想を抱いていたという。

『現代生活の画家』に見られるように、ボードレールにとって

「ダンディスムとは、思慮の浅い多くの人々が思っているらしいような、身だしなみや、物質的な優雅を度外れに追求する心というのともまた違う。

そうしたものは、完璧なダンディにとっては、自分の精神の貴族的な優越性の一つの象徴にすぎない。」

のであり、情熱的で激しやすい魂を内に秘めながら、いかなる場合にも決して節度を失うことのない自己規律と自己統御、

いわば「精神的ダンディスム」であったという。

 

この言葉で言い表されるものは、現代においても「表現」に携わる者にとって極めて重要だろう。

少なくとも指揮を学んでいる身には、これほどまでに的確な言葉は無いのではとも思える。

かつては楽譜や音楽から感情を感じることが難しかったが、今は違う。

感情が湧き上がってきて、そこに飲み込まれてしまいそうになることがある。

そういう時に師は決まって「やりすぎだ」と指摘するように、感情に突き動かされながらも、しかし没入してはだめなのだ。

節度を失うことのない自己規律、三人称の視点をどこかに持つこと。

「精神的ダンディスム」という言葉は、こうした情熱と冷静のバランスのあり方を的確に表現しているように思われて、今の僕には鋭く響く。

 

 

四月、大学院生としての生活が始まる。

「学究の道はたいへんなことも多いものですが、険しい道をのぼった分だけ眺めの良い高みに到達することができます。」

そんな素敵な言葉を下さる学問上の師にも巡り会えた。指揮の師が文字通り命の炎を燃やして伝えて下さることも全身全霊で吸収せねばならない。

音楽と学問の間を彷徨う日々、とはもう言わないようにしよう。音楽と学問の間を往来し、触発できるように。

高邁な怠惰、精神を緊張させた日々の中で、精神的ダンディスムを少しでも獲得できるような一年にしたい。

 

 

リハーサル見学

 

尊敬するヴァイオリニストの方が主催する弦楽合奏団のリハーサルを見学させて頂く機会に恵まれた。

エルガー、レスピーギ、チャイコフスキー。エルガーを除いてどちらも本番で指揮したことのある曲だ。

自分のものとしておきたいので敢えて細かくは書かないが、勉強になったという一言では到底尽くせないほど充実した時間だった。

ヴァイオリンの弓はこんなに豊かに使うことが出来て、楽器はこんなふうに鳴らす事ができるのだ。

音楽の全体的なイメージを共有した上で奏法に変換していく。その手際の良さとバリエーションの豊かさ。

会話をするときの和やかな雰囲気と弾き始めてからの獲物に飛びかからんばかりの緊張感と激しさ。

どこまでもストイックで誰よりも謙虚。プロ中のプロ、とはこういう人のことを言うのだと思う。

一度共演させて頂いただけなのに僕のことを覚えていて下さって、固く握手して下さったのが何よりも嬉しかった。

 

色々なオーケストラで指揮させて頂くようになったからこそ、現場ならではの問題に直面し始めている。

どうやったら上手く伝わるのか。どうやれば音楽を効率よく、具体的に作って行けるのか。

師のレッスンを一回一回大切にしながら、今年は沢山リハーサルを見学して音楽の作り方を「盗む」一年にしたい。

 

 

句読点でritをかける。

 

ある短い原稿を書いていた。

どうしても納得いかなかったものが句読点を2つ動かしただけで、もうこれ以上動かせない満足な仕上がりになった。

長いフレーズを作っておき、最後に向けて徐々に読点を増やして行くことで文章のリズムにリタルダンドをかけてゆく。

それだけで終わりの気配が漂い始める。音楽と同じことだ。