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雪から陽射しへ

 

燕尾服を納めて、スーツケースの鍵を閉じた。まさか自分が指揮者として飛行機に乗る事になるなんて思わなかった。

明日からフィリピンのセブ島で、UUUオーケストラとセブ・フィルハーモニックオーケストラと共演させて頂き、10日間のコンサート・ツアーを指揮させて頂く。

日本とフィリピンの国歌から始まり、吹奏楽で「オリエント急行」と「三つのジャポニスム」、そして現地のフォークソングメドレー、

プロコフィエフのピアノ協奏曲第三番、ベートーヴェンの交響曲第五番、そして世界初演の曲まで、盛りだくさんのプログラム。

10日間で8公演もするということなので、体調を崩さないようコンディションを整えて望みたい。

英語でリハーサルをするのははじめてだ。少しだけ勉強したタガログ語とセブアノ語と共に

うまく言葉を使いながら、指揮で、音楽そのもので沢山の会話をしたい。

 

プログラムの一つであるビゼー「アルルの女」のスコアを読み直す。大好きなアダージェットに再び心奪われる。

この組曲を教わったのは2011年の7月。「もっと色彩を、どの拍も一つたりとて同じではない。」

当時、師から教わった言葉がスコアに書き込まれている。あの時はその意味するところが分からなかった。きっと今だって存分に分かっていないと思う。

それでも僕は棒を振りたいと思うし、指揮をすることに、今は単純な楽しさや幸せだけではなく、

ある種の苦しさも含めて「生き甲斐」としか言いようのないものを感じている。

 

とはいえ指揮者は、やっぱり一人では何にも出来ないのだ。

僕の未熟な棒で時間を一緒に過ごしてくれる人たちがいなければ十分な勉強すら出来なかった。

日々命を燃やして教えて下さる師匠、そしてピアニストの方々に、今まで一緒に演奏してくださったオーケストラの皆さんに心から感謝している。

楽しいことばかりでは勿論無かったけれども、一つ一つの経験が掛け替えない血肉となり、レッスンで、あるいは奏者から貰った言葉が確実に響いて今に繋がっている。

指揮を学び始めた、と言ったときに怪訝な顔をしつつ、それでも応援してくれた両親と友人たちは、少しは納得してくれるだろうか。

 

雪の降り積もった道に足跡をつけながら空港へ向かう。休学を決めたあの日も確か雪だった。

それがいつだったか調べてみて驚く。2011年の2月13日と14日、ちょうど3年前のこの日に、僕はこう書いていた。

 

「一つの考えが形になりつつある。いまこの機会を逃すと僕は永遠に後悔するだろう。

二度と起こらないことが分かっている出会いに自分の全てを賭けてみるのも悪くない。

力不足なのは分かっている。けれども、息の止まるような感動に人生を捧げたい。学べる限りを学んで再びこの場所へ。

コクトーが、ヴァレリーが遥か遠くから背中を押す。そして、たぶん僕の師も。」

 

想像の世界がいつの間にか現実になっていた。

一本の棒に限りない可能性を信じて、今日、海を渡ろう。

 

 

雪の駒場

 

この一週間はタガログ語を勉強していました。

フィリピンで指揮する曲に現地のフォークソング・メドレーが含まれているので、作りを考えるにあたって、

原曲を辿ってタガログ語の歌詞と曲想を把握しておく必要があったからです。

ただでさえ不得意な語学、しかも全くの付け焼き刃に過ぎませんが、ang/ng/saフォームとリンカー概念を知ると

ほんの少しだけ読めるようになってき た感触があり、とりあえずそれぞれのフォークソングの歌詞と国歌を解読できるようになりました。

フィリピン国歌が結構激しい歌詞で驚いたと共に、最後にDahil Sa yoが出てきて、なるほどという感じ。

勉強にはこのサイト(https://learningtagalog.com/grammar/)を用いました。インターネットですぐに勉強できるのは本当にありがたいことです。

中学生や高校生のときにこれぐらいネットを使えてい たら少しは英語も出来るようになっていたのかなあ、と自分の不勉強を棚に上げて妄想するばかり。

ちなみに行き先のセブ島で一般的なのは、タガログ語ではな くビサヤ語だそうで、スペイン語とポルトガル語ぐらいの違いかなと思っていたら

かなり異なるものがあって困惑しました(笑)とりあえずは国内でのリハーサルもすべて終了したので、あとは現地に行ってから頑張りたいと思います。

 

写真は先日の大雪の日に駒場にて。演奏会用のプロフィール写真を友人のカメラマンに撮影して頂いた際の一枚です。

こんな大雪は10年ぶりとのことで、この先10年後に僕が駒場キャンパスにいるかどうかは分からない事を考えると、

二度と訪れない雪景色になったのかもしれません。栄田さん、本当にありがとう。

 

大雪の駒場にて。Photo by Yasutaka Eida

フォースの技法

 

自分の中に入り込んで朝七時までかかって文章を綴るうちに、一つのブレイクスルーを経験した。

それが実際の棒に反映されるようになるのにどれぐらいかかるか分からないが、立ちはだかる壁を越えるものを見つけたような気がしている。

19世紀の写真技術が(いわば逆説的に)古くからあった版画の技術を参照して発展したように、ヒントは自らの過去の動きにあった。

指揮-音楽の言葉で決して言いあらわすことのできない領域とは、実のところ、弱拍の中にこそ宿っているのではないだろうか。

再帰動詞

 

具体例や経験を重ねて行き、それらを思考で掘り下げて行くと、ある概念に達することが稀にある。

あるいは、時間の中で一滴ずつ蓄積されたものが言葉として結晶する。それは世界の誰もが使った事のない言葉である必要は無い。

形なきものに自分の語彙である種の輪郭を与えること。透明で不可視なものを、言葉という魔法によって半透明な存在へと肉づけること。

それこそが哲学-思想と呼ばれて然るべきものではないだろうか、と不遜にも思う。

 

昨夜は2014年度初回のレッスンだった。

シュトラウスのレッスンを終え、また初級の方々にレッスンをさせて頂き、師と対話するうちに、唐突に一つの言葉が結晶した。

それはεὕρηκαと叫んで走り回りたくなるほどの感動を伴う経験であり、身体の中に流れる血の温度が上がるのが分かるほどに興奮を覚える一瞬でもあった。

これまでにも幾つかの言葉に至った事がある。けれどもそれは名詞でしかなく、名詞では説明しきれないはずだという根拠なき不足感を抱えていた。

2014年になってはじめて僕は動詞に至った。それが正しいものであるかどうか、意味を持つものであるかどうか、そんなことには興味がない。

僕は未熟者に過ぎないし、この言葉であらゆる現象を説明しうるとも到底思えない。しかし今の僕にとっては決定的な概念-言葉に掘り当たったのだ。

 

 

嵐のような年末から、家族の温かさに包まれて平穏な年始を過ごした。

今年は「最後」の年になるだろう。もう僕の残り時間に猶予はない。書いて、読んで、振って、動く。

昨夜たどり着いた動詞に様々な目的語や主語を戯れさせながら、弓が切れる限界まで引き絞ったものを放つ一年にしたい。

 

 

 

 

霜葉は二月の花より紅なり

 

京都に旅行に出かけた友人が紅葉の美しさについて触れた文章を読んで、「霜葉は二月の花より紅なり」(霜葉紅於二月花)という一節を思い出す。

この一節がある漢詩の最終行であることは知っていたのだけど、全体を知らなかったのでこの機会に覚えることにした。

晩唐の詩人、杜牧の「山行」という七言絶句だ。以下横書きで引用しておこう。

 

遠上寒山石径斜

白雲生処有人家

停車坐愛楓林晩

霜葉紅於二月花

 

やはり最終行の鮮やかさに惹き付けられる。

それはただ、扱われている内容が鮮やかなだけではない。

それまでの行で描いてきた目と心の動きから一気に重心が舞い上がるような鮮やかさだ。

「週刊読書人」11月8日号に書評を掲載頂きました。

 

「週刊読書人」11月8日号に小宮正安さま『音楽史 影の仕掛人』(春秋社)の書評を掲載頂きました。

まだ修士の身分にも関わらず、このような機会を下さった読書人さまに心から感謝いたします。

 

『音楽史 影の仕掛人』はいわゆる「音楽史-西洋音楽史」で扱われる作曲家の背景にいた人々を描いたものです。

扱われる25人それぞれがそれぞれに魅力的で、また独特な関わり方をしているので、包括的に記述することはなかなか難しかったのですが、

「楽譜の流通」「演奏するための空間の整備」「演奏の担い手の存在」という三点に注目して書かせていただきました。

このスリリングな本の魅力を少しでもお伝えすることができましたら幸いです。ご笑覧ください。

http://www.dokushojin.co.jp/backnumber/2013%E5%B9%B411%E6%9C%8808%E6%97%A5

合宿にて。

 

UUUオーケストラの初回練習&合宿を終えました。

一日目、宿に到着すぐからひたすら分奏&合奏。自己紹介を兼ねたSound of Musicメドレー合奏にはじまり、

夜は自由参加で初見大会&記憶だけを頼りにした楽譜無しアンサンブルを朝3時すぎまで。アルルの女、カルメン、チャイ コフスキーの五番、新世界…

深夜だけでいったい何曲やったのか分かりません。

 

二日目も朝から合奏。

運命とプロコフィエフのピアノ協奏曲第三番を除いて、今回演奏する曲を通して演奏してみました。

初回練習かつ人数が揃っ ている練習であったため、とりあえず合わせてみることから初め、今回演奏する曲の構成や作り方の大枠を提示して共有して頂くことを二日間通じて心がけした。

今後のことを考えて、どこをどういうふうに練習すれば良いのか、どこがどういうイメージであるのかを重点的にお話しさせて頂いたつもりです。

 

思ったことを書き始めるとキリが無いので書きませんが、音楽-アンサンブルは「再現」ではなく「生成」であるということを改めて強く感じました。

指揮者と奏者がそれぞれのエネルギーを放出しながら、目に見えないアンテナを立てて触発しあう一回限りの営み。

弾き慣れているとかリハーサルをたくさん重ねたと か、そんな事実を超えたものとして大切なことがあって、緊張感と集中力を高めた状態で演奏したときの音は明らかに違います。

たとえば「運命」のような曲に はその変化が残酷なほど出てしまうし、指揮する僕は勿論のこと,奏者全員の精神が集まって行かないと音楽にならない。

そして当然ながら、奏者の精神を集められなかった責任もやはり指揮者の責任だと思うべきでしょう。

あそこでああ進めなければ良かった、と思い返せば後悔もあり、自らの精神力の未熟さを実感するばかりです。

「運命」は精神的に難しいんだよと師 が語っていた理由を肌で実感しました。

(そういう意味では、運命一楽章の初振り下ろしで響いた音は凄く良い音だったと思います。ホルンが素晴らしかっ た!!)

ともあれ、初回練習にしては充実しすぎるぐらい充実した二日間になったと思います。

ハードな二日間お疲れさまでした。変拍子の複雑なトリプティークやリズ ムの難しい「三つのジャポニスム」を一発で通すことが出来たのは、

皆さんが一生懸命練習して下さって、初合奏にも関わらずしっかりと棒について来て下さったおかげです。

また新しく素敵な奏者の方々に出会えたことも幸せでしたし、今まで一緒に演奏したことのあるメンバーと再び演奏出来ることも嬉しいことでした。

僕が指揮し始めた当時は高校一年生だった彼と、こうやって一緒に演奏できる日がやってこようとは!

 

秋の気配を感じる三日

 

<9月3日>

今日は用事で武蔵野音大にお邪魔しました。武蔵野音大の知り合いは多いのに、校舎に潜入するのははじめて。

「のだめカンタービレ」のモデルになった大学として、見覚えのある場所が沢山ありました。

色々なオーケストラで出会って一緒に演奏して下さった事のある方たちがわざわざ会いに来て下さって嬉しかったし、

廊下で大好きな二人のトランぺッターにばったり会えたのも幸せでした。

聞けば、授業やレッスンの僅かな合間を縫って来て下さったとのこと…皆さん本当にありがとうございます。

 

解散してから、近くの知る人ぞ知る珈琲屋さんでチャイコフスキー五番の譜読みに集中。

カップを選ばせて下さったので、大ぶりのものを失礼して一時間半ほどゆっくりと。

店内にはシューマンとグリーグのピアノ協奏曲が流れていて、珈琲はもちろん、デザートに無料で頂ける珈琲ゼリーが絶品でした。

池袋でいつもお 世話になっていた珈琲茶房というカフェが閉店してしまってから落ち着ける場所が無かったのですが、ようやく巡り会えた気がします。

そのあと3日・4日とかけてチャイコフスキーの五番をレッスンで全楽章通して見て頂き、燃え尽きて眠りに落ちる日々。

二ヶ月ずっと取り組んだチャイコフスキー五番からは沢山の学びがありました。演奏出来る日がいつかやって来ますように…。

来週からは、月末のリハーサルに備えて、改めてベートーヴェンの五番をレッスンに持って行きます。

運命を振るのは一年ぶり。当たり前だけど、スコアの見え方は一年前と随分違います。この凝縮度をどこまで棒で表現出来るかな。

 

 

<9月5日>

京都の美術系出版社で編集者をしている友人が東京に来たので、美術系の知り合いを招いて我が家で突発的飲み会を開催しました。

一枚の絵の名前を挙げた時、そこにいる人全員に共通の一枚のイメージが浮かぶのはとても楽しいことです。

フランス文化史×ベルギー象徴主義×アメリカ現代美術×ロシア絵画×観相学…マネからドガへ、デュシャン、クノップフ、ヴルーベリ。

絵画から詩へ、音楽と文学へ。時にCDをかけながら、本棚に並んだ本を引き抜きながら、心地よい酔いと共に語る時間でした。

それは容易ではないけれど、「徹底した史料批判の精神と飛翔する想像力の矛盾なき総合」を目指してゆっくりと歩いてきたい。

 

 

<9月6日>

とある書評の原稿依頼を頂き、嬉しさに飛び上がりました。

まだ修士課程の僕には身に余るほどのお話。日頃の恩返しが出来るよう、精一杯書かせて頂きます。

そして音楽の方でも嬉しいお話…コマバ・メモリアル・チェロオーケストラの2013年度公演の日程と場所が確定しました!

 

日時:2013年11月30日(土)16時30分開演

於:丸ノ内KITTE内、IMT(インターメディアテク)

演奏:コマバ・メモリアル・チェロオーケストラ

指揮:木許裕介

 

今年もまた、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ一番」をメインプログラムに据えて、気心の知れたチェリストたちと演奏します。

昨年までは8人〜9人のチェリストたちと演奏していましたが、今年はいよいよ、12人のチェリストたちとこの曲を演奏する事になりました。

12人のチェリストの予定を合わせるのはある意味で演奏以上にヴィルトゥオーソな作業になるため、相当に大変なものがあります。

しかしそれを全く苦に感じないのは、「好きだから」ということに尽きるのでしょう。

まだリハーサルもはじまっていませんが、今年もきっと良いコンサートになると思います。

 

この「ブラジル風バッハ一番」を演奏して三年目になります。

師にとっても僕にとってもいちばん大切な曲の一つを毎年一回演奏できるというのは本当に幸せなことで、

自分にとってのバロメーターのような曲だと言えるかもしれません。最初にこの曲をレッスンで見て頂いた時、師がぽつりと

「この曲はとても自由な曲なんだ…一回一回新しい。この魅力に惹かれて僕は何度も演奏した。君もきっと、何度もやりたくなる。」

と語った言葉の通り、この曲の魅力に僕はすっかり取り憑かれてしまったのでした。

(余談ですが、昨年のチェロ・オーケストラの公演動画を見直していて、アンコールのあとに僕の指導教官が後方カメラの映像に映り込んでいらっしゃったことに気付きました。

足をお運び下さったのは知っていたけれど、こうやって改めてお姿を拝見すると凄く嬉しくて、学問上でも素敵な師匠に恵まれたなあと感謝するばかりです。)

読み返すたびに・指揮するたびに得る新しい発見を大切にしながら、焦らずじっくりと、一生かけて演奏していきたいなと思っています。

 

 

江古田の名店にてチャイコフスキー五番と格闘。

 

 

チャイコフスキーの五番とシベリウスの七番

 

 

東北でのコンサートから帰ってきて以来、ずっとチャイコフスキーの五番とシベリウスの七番を勉強している。

チャイコフスキーの五番は壮絶だ。楽譜を読んでいるだけで色々な感情が湧き上がってくるし、冷房の効いた部屋ですら汗をかいているような錯覚に陥る。

「名曲は多様な解釈に耐える」そんな言葉を聞いた事があるけれど、確かにそうなのかもしれないなと思う。

勉強するたび、振るたびに新しい発見や可能性を見せてくれる。

 

一方で、シベリウスの七番は当たり前だけど全く違う世界だ。

温かさと冷たさ、情景と論理が絡み合った精密な織物のようだ。「孤高」と呼ばれるほど近寄りがたい造形美を持ち、荘厳であり、祈りすら感ずる。

もし僕がヴィオラを弾けたならこの音楽の22小節目からを弾きたいと思うし、トロンボーンが吹けたなら60小節目からのAino-Themeを(そしてその再現を)吹きたい。

もちろん他にも弾いてみたい曲はあるけれど、そう思ってしまうほどにこの曲は凄い。

あらゆる要素が「折り畳まれて」含まれていて、各箇所が別の場所と緊密に結びついている。

二分の三拍子ならではの巨大さ、六度のローテーションモティーフ、二度の多用、Gに行きたくても行けない苦しみ…

細かく見るのはもちろん、目を離して大きく見てみれば、細かさが細かさと響きあって拡大する、入れ子のような関係性に気付いて更に驚愕する。

シベリウスかあ…と思っていた数ヶ月前の自分はどこにいったのやら、寝ても覚めてもこの音楽が頭から離れない。

本番は来年。まだ理解するには遥かに遠い曲だけれど、26歳でこの曲に出会えたことを幸せに思う。

 

贅沢について

 

自分にとって贅沢とは何であるか。

美味しいお酒、美味しい珈琲、素敵な音楽に包まれること…考え始めると無数にあるけれど、

「ちょっと高級なシャンプーを買って帰る」ことの贅沢感は異常だと再認識した。

一日リハーサルで疲れたあと、まだ時間も早い夜にシャワーを浴びて髪をわしゃわしゃしながら

「うーむ…このシャンプー…神か…いやギャグではなく…」とひとり呟く、そんな夕暮れ。

それはささやかな時間でありながら、とても贅沢で幸せな気持ちにさせてくれる。

 

ささやかな時間、ささやかな幸せという言葉を綴っていて、ある文章を唐突に思い出す。

中学三年生のときに触れて以来、ずっと大好きな文章だ。

それは原田宗典の『優しくって 少しばか』というエッセイ。「神は小さきところに宿る」という言葉を変奏した手紙の一節。

 

僕は神さまはあまり信じませんが、この場合の神は愛に置き換えられるような気がします。

ごく些細なこと……例えば階段を下りる時に君の足元から 目を逸らさずにいること。眠る前に肩が出ないように毛布を掛け直してあげること。

悲しそうな顔をしていたら理由は聞かずにそばにいてあげること。そんな所に、愛は宿っていると思えるのです……だからそんな所から、ぼくは君と始めたいと思います。

 

 

 

あれから十年。

読み返してみても、やっぱりいいな。