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モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」@新国立劇場

 

二日ぶりの新国立劇場、今度はモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」に行ってきました。

コジ・ファン・トゥッテ、すなわち「女はこうしたもの」というタイトルのとおり

恋愛を巡る話なのですが、プッチーニの「蝶々夫人」とは全く違う恋愛観が展開されます。

自分の彼女が浮気するか確かめてみようぜと二人のカップルが実験して、お互いが

お互いの相手に見事に浮気してしまうという、モーツァルトでなければ許されないような

軽やかな笑いに満ちたオペラ・ブッファです。今回は演出が非常にポップであったこと

もあり、現代的な感覚で最後まで楽しませて頂けました。休憩時間、コジファントゥッテの

軽やかさに身を浸しながら、昼間からキンキンに冷えた白ワインを頂く幸せ。

これだからオペラは楽しいのです。

 

楽曲自体は非常に演奏が難しいことでも有名で、なぜなら

ほとんど二重唱や三重唱、四重唱になっています。明るい曲調が多くを占めますが、

ところどころにモーツァルトならではの明るさの裏に憂いを潜めた音楽が鏤められており

大笑いしたかと思うとその直後に唐突にやってくる旋律の美しさ・儚さに息を呑む事もしばしばです。

とくに後半でピアノ協奏曲27番の2楽章がこだまする部分には感動してしまいます。

音楽はもちろん、名台詞も沢山あってここには書ききれないほどですが、モーツァルトが

このオペラに込めたメッセージはつまるところ

 

「色々うまくいかないこともあるけど、理性を持ちつつ時には感情に身を委ね、

前向きに気持ちを持って、あなたの時代や人生を楽しめ!」

 

というふうに集約されるのではないでしょうか。

思わず「そうだ!それでいいんだ!」と膝を打ちたくなるぐらい

モーツァルトのそうした考え方が僕は大好きで、意気揚々と上機嫌で

新国立劇場を後にしたのでした。コジ・ファン・トゥッテ、おすすめです。

 

 

 

 

プッチーニ「蝶々夫人」@新国立劇場

 

立花ゼミのOBとなってもうゼミにもあまり顔を出していなかったのですが、

いつの間にか「木許オペラ」なる企画を後輩が立ててくれていました。

彼は、彼が一年生のときに僕がリヒャルト・シュトラウスのオペラ「影のない女」に誘った後輩で

それ以来オペラの魅力にハマってしまったそう。そこで上級生になったいま、オペラの楽しさを

後輩たちに伝えるべく、新しくゼミに入った一年生を誘って、僕と一緒にオペラを見に行く会を企画してくれました。

 

当日、新国立劇場に向かうとなんと12人もの後輩たちが参加して下さっていて、本当にびっくり!

みんなどこか緊張した面持ちで、スーツの着こなしも一年生らしいものでしたが、かえってそれが微笑ましく

「彼・彼女たちは今から楽しんでくれるかな。終わったときどんな顔をしてこの劇場を出るのかな。」なんて

考えてしまいます。そして、簡単な解説と聞き方だけを手短に説明したあとは、みなS席(学生の特権で5000円!)へ。

おそらくはじめて来たであろう劇場の壮麗な雰囲気に圧倒される一年生たちを見ていると何だか幸せになってしまい、

開演前にそっと一人で一杯だけ飲んでしまいました。

 

あっという間に一幕、二幕。そして三幕。

舞台セットはほとんど動かず、固定したままのもの。そのかわり照明と影に工夫が見られました。

あの照明の使い方は凄く好きです。白い壁に映し出されるシルエットが何とも雄弁に物語ります。

音楽としては、一幕ではやや前に前にと突っ込む感じとフレーズの終わりの処理があっさりしているのが

少し気になった(もう少し間が欲しい!)のですが、二幕以降は迫力でぐいぐいとシナリオを進めていたように思います。

そして改めて、プッチーニはやはり旋律に溢れた作曲家だなあと感動しました。

 

一幕最後、有名な「愛の二重唱」で「小さな幸せでいいから。」と蝶々夫人が

歌い上げる場面では思わずウルッと来てしまいましたし、幸せに満ちたその音楽の中に

数年後に迫る悲劇を案じさせる、呪いの動機(ボンゾが登場したときと同じフレーズ)が一瞬顔をのぞかせる

ところにはゾッとします。そして三幕の「私から全てを奪うのね!」と内から黒い感情を溢れさせる

場面の音楽なんて、憎しみと絶望と諦めの折り混ざった、暗い情念の渦巻く旋律で、

もうプッチーニの天才と言うほか無いようなものでしょう。

 

結末は非常に残酷なもので、蝶々夫人の自害した瞬間に子供が相対してバンッと電気が落ちる

瞬間には思わず涙を零しました。結末を知っているのに泣いてしまう。結末はずっと前から暗示されているのだけど、

なかなかその結末はやってこず(音楽と演出がそれを先延ばしに先延ばしにし、時間を自由に伸縮させるのです)

それだけに最後のカタルシスは壮絶なものがあります。「ああ、いい時間を過ごしたなあ」としみじみと思いました。

 

劇場から出てみると、後輩の女の子は目を赤くしていましたし、

感想を話したくて仕方ないという様子の子もたくさん。みんな次の公演の演目を

楽しみにしているようで、パンフレットを見て「これはどんな話なんですか。」と次々に

聞いてきてくれます。「なんだ、オペラって楽しいじゃないか!」と思ってくれたなら

僕としてはこれ以上嬉しいことは無く、これからもゼミのみんなで、あるいは友達や大切な人と

誘い合わせて、歌と音楽に満ちたこの時間を楽しんでもらえたらいいなあと願うばかりです。

企画してくれた植田君、そして一緒に来てくださった皆さん、どうもありがとうございました。

 

駆け出しながら音楽に関わるものとして僕はこれからもこのオペラという総合芸術を

応援していきたいと思います。そして、いつかは自分も指揮できるようになれたらいいな。

 

24歳になりました。

 

早いものでもう24歳になってしまいました。

楽しい事も辛い事もたくさんありましたが、まずは無事に、また一つ歳を重ねられたことに安心しています。

駒場キャンパスは一年生・二年生が主体の場所ですから、僕よりも5歳ぐらい下の学生たちが沢山いるわけですが

歳を理由に自分から壁を作ることなく、いつまでも若さの中に混じって朝まで騒げるようにありたいと思っています。

変に年上ぶることなく、けれども、いざというときには24歳に恥じない大人の立ち振る舞いが出来るようになりたいものですね。

 

幸いにして僕は素敵な年上の方たちに囲まれていますから、先達の方々から色々と盗みながら

両親にも出来るだけ心配をかけないように過ごしつつ、充実した一年にしていく所存です。

 

 

助川敏弥先生から教わったこと。

 

先日のコンサートの打ち上げに「子守唄」の作曲者である助川敏弥先生がいらっしゃっていて、

ワインを傾けながら色々とお話を聞かせて頂いた。

助川先生は僕の指揮の師である村方千之先生と藝大時代の同級生でいらっしゃったそう。

先生の懐かしいお話からはじまり、コンサートの感想、そして音楽論へと話は弾む。

 

僕が指揮したプロコフィエフ「古典交響曲」は、一楽章と四楽章(特に四楽章)で相当に早いテンポをとったのだが、助川先生は

「あれでもまだまだ。もっと早く。冗談みたいに。プロコフィエフのあの音楽はある種の冗談なんだよ。冗談音楽。」とおっしゃった。

「えっ、あれ以上早くですか?!」と驚く僕に、横から村方先生が

「でも、ただ早くというだけではない。フレーズ感を引き出すように指揮すれば早さを窮屈に感じないし、

音楽的になるんだ。木許はそれがまだ出来ていない。一本調子で、若い。」と付け加える。助川先生は笑いながら、

「でも、立ち姿が非常に良かった。オーケストラに放つものがあった。楽しみにしていますよ。」と言って下さった。

 

その後も助川先生とお話させて頂いたが、とりわけ印象に残ったのは、

「作曲者の目から見れば、テンポがあるのではない。リズムがある。リズムからテンポが生まれるんだ。」という言葉だった。

そういえば自分はテンポのことばかり考えていた。テンポは作るものではない。リズムから必然的に生まれるものなのだ。

そうしたところまで考えの及ばなかった自分の未熟さを痛感する。

 

音を鳴らすだけなら簡単だ。だけど音楽的に音楽をすること。

それがどれほど難しく底の知れない面白さを持った営為であるか。

コンサートを終えて、より一層、頭が音楽のことでいっぱいになった。

助川先生、沢山のアドバイスを下さりありがとうございました。これからも精進致します。

 

 

きみ、ツィオルコフスキーについて知ってる?

 

猫ビル(立花隆事務所)で作業を少しして、帰ろうと思ったところで、

「きみ、ツィオルコフスキーについて知ってる?」と立花さんに呼び止められた。

 

立花隆の話はいつも唐突だ。さっきまでアウシュヴィッツの話をしていてコルベ神父のエピソードを調べていたのに、

今度は突然ロシアっぽい名前が飛んできた。ツィオルコフスキー。

初めて聞く名前で言葉に詰まる僕に、立花さんはバサバサと本を棚から引き抜きながら雄弁に説明する。

「彼が今の宇宙研究の基礎を作ったんだよ。ロケット開発は彼の研究があってこそ。

日本ではなぜかあまり一般に取り上げられることのない人だけれど、この人は相当変な人だったみたいだよ。というのはね…」

 

言葉と知識が溢れ出す。

本当に楽しそうに話す立花さんのその様子に僕も楽しくなりながら、同時に自らの知識の狭さに悔しくなる。

早く帰ろうと思っていたのも忘れて、こっそりネットでツィオルコフスキーのことを調べてウェブで関連書籍を注文する。

次に立花さんがツィオルコフスキーの話を振ってきたときにはスラスラと答えられるように。そうやってこの一年間勉強して行こうと思う。

 

立花さんの好奇心の炎は途切れる事がない。あの人の頭の中では、取材や本や思考を通じて、世界が一瞬一瞬広がっている。

張り巡らせたアンテナの感度、その反応の早さ!気になったらすぐに足で調べる。手に取って読む。専門家に聞く。

自分の生きている世界は狭いものだけれど、それでも、世界は、いつでも広げる事の出来る可能性をその内に秘めているのだと思い知らされる。

 

 

 

何だか分からないもの

 

On peut, apres tout, vivre sans le je-ne-sais-quoi, comme on peut vivre sans philosophie, sans musique, sans joie et sans amour. Mais pas si bien.

結局、この「何だかわからないもの」が無くても生きていくことは出来る。哲学や音楽、喜びや愛が無くても生きていけるように。だけどそれでは、つまらない。

 

 

「分類できない哲学者」(Philosophe inclassable)と呼ばれた、ウラジミール・ジャンケレヴィッチの著作から。

僕はいつまでも、まさにこの「何だかわからないもの」(le je-ne-sais-quoi )こそを追い求めたいと思う。

 

 

休学という選択、夢中になれるもの。

 

東京大学を休学することにしました。

何を突然、と思われるかもしれませんが、実はずっとずっと考えていたことです。

 

立花隆のもとで、一年間助手をして過ごします。

立花さんと一緒に日本を飛び回りながら、昼間は猫ビルに籠り、あそこにある本を読める限り読みつくそうと思います。

村方千之のもとで、一年間指揮を集中的に学びます。

おそらくもう二度と日本に現れる事のない不世出の大指揮者だと僕は信じて疑うことがありません。

「知性」と「感性」の師、そして「死」を意識するこの二人の巨匠と接して以来、

この機会を逃してはならない、と思い続けてきました。

 

はじめて立花事務所、通称「猫ビル」に入らせて頂いた時の感動は忘れられません。

僕が憧れていた本に囲まれた乱雑な空間がそこにありました。図書館とは違う空間。

陳列や収集の空間ではなく、一人の人間の「頭のなか」そのもの。

何万冊もの本が書き込みと付箋だらけでそこかしこに散らばっている。

一つの本を書いたり話したりするためにこれだけの勉強をされていたんだ、と背筋が伸びる思いをしました。

 

そしてまた、村方千之にレッスンを見て頂いた時、また師のコンサートで「ブラジル風バッハ四番前奏曲」を聞いた時の

感動は生涯忘れる事が無いでしょう。「シャコンヌ」の堂々として祈りに満ちた気品、ベートーヴェンの「運命」や

ブラームスの一番の何か太い芯が通ったような強靭さ。息の止まるような感動をなんど味わったことか。

眼を閉じて聞いているだけで感動が抑えきれなくなるような純然たる「音楽」がそこにありました。

 

本と音楽が好きな僕にとって、これ以上の出会いは無いでしょう。

ですが、お二人に接する事の出来る残り時間は限られている。

巡り会えたという喜びと、もう時間はあまり無いのだという焦りとを同時に味わいました。

この機会を逃すと僕は一生後悔する。そしてこれらは片手間に勉強できるものではないし、片手間に勉強することが許されるものではない。

二浪していて僕はすでに23という歳ですが、もう一年を賭けてもいいと思えるぐらいの衝撃を受けたのでした。

 

休学を考えていた頃に巡り会った、コクトーの文章が背中を押してくれました。

コクトーはこう書きます。

 

「孤独を願うのは、どうやら社会的な罪であるらしい。一つ仕事が済むとぼくは逃げ出す。ぼくは新天地を求める。

習慣からくる弛緩を恐れる。ぼくは、自分が技術や経験から自由でありたい ―つまり不器用でありたいと思う。

それは、奇人、叛逆者、曲芸師、空想家であることなのだ。そして賛辞としてはただ一つ、魔術師。」

 

「彼(エリック・サティ)はそこで自分を軽石で磨き、自分に反撃し、自分にやすりをかけ、

自分の繊細な力がもはや本源から流出するしかなくなるような小さな孔をきたえあげたのだった。」

 

浪人中に僕はそんな時間を過ごしました。

いま、そうした時間を自分が再び必要としていることに気付かされます。

ヴァレリーの言葉に「夢を叶えるための一番の方法は、夢から醒めることだ。」というものがありますが、

その通り、夢中になれるものを見つけたなら、自分の身でそこに飛びこまないと夢のままで終わってしまう。

だからこそ、レールから外れて不安定に身を曝しながら、一年間学べる限りのことを学んでいきたいと思います。

 

この選択を快く許してくれた両親には心から感謝していますし、回り道が本当に好きだなと

自分でも改めて呆れてしまいますが、後悔は少しもありません。

どんな一年間になるのか、どんな一年間を作っていけるのか、ワクワクしながら2011年の春を迎えています。

 

 

 

フランス科卒業パーティ -Convivialité-

 

今日は東京大学の学位授与式だった。

授与式のあと、僕の所属する学科である教養学部地域文化研究学科フランス分科でも、卒業生の方々を囲んで歓送会が開かれた。

例年ならば渋谷か下北沢で飲みながら華やかにお祝いをするところだが、今年は地震の影響を考慮して中止も囁かれたぐらいの雰囲気。

だが、幹事である我々三年生や先生方と打ち合わせた結果、「せっかくの卒業の日に何もせず先輩方を送り出すのは申し訳ない」ということに

話がまとまり、研究室でささやかに歓送会を行う事になった。アルコールはもちろん無し。料理もスナック程度。

開催することは出来たけれども、これではさすがに寂しくなるなあ、と不安を感じながら当日を迎えた。

 

心配は杞憂に終わった。

外で食べるよりも豪華だったかもしれない。確かにアルコールは一滴も無かった。シャンパンもワインもビールもなし。

だが、なんと先生方や院生の方々が手製のお料理を持ってきて下さった。何を置けばいいんだろう、と思うぐらい広く感じていた

研究室の机は、持ち寄った料理でぎっしりと埋まった。教授がフランスにいたころにレシピを覚えたという帆立のテリーヌ。

わざわざ炊いてくださったお赤飯。見た目もおめでたい海老の揚げ物。洒落たサンドウィッチ。デザートに苺、そしてティラミス。

よく本でお名前を見るぐらい有名な先生方や、研究や学内行政で忙しいはずの先生方が、ご自分の時間を割いてこのお料理を作ってくださったのか、と

考えると、司会をやりながら言葉に詰まるぐらい感動してしまった。

 

突然の日程変更にも関わらず、狭い研究室には20人を超える方々が詰めかけ、

今までのどんな飲み会よりも温かい雰囲気が終始流れていた。先生方の「贈る言葉」は堅苦しくないのに含蓄とユーモアに富むもので、

さすがフランス科と唸らされるようなものばかり。話が突然フランス語になったり身体論の話が出たり、いくら聞いても飽きないほど。

中でも、イヴァン・イリイチのConvivialityという概念を引用して、「宴」の意味を持つこの言葉に「共に生きる」という意味が響いていることを

今回の震災の話に引きつけながら話された分科長のスピーチは、身体の深いところまで沁みるような思いがした。

 

フランス科は温かい。

一学年には四人ぐらいしか学生がおらず、授業は信じられないぐらい厳しいし、卒論をフランス語で書き切らなければならないけれど、

そこにいる人はみんな温かい。僕は第二外国語がドイツ語で、フランス語を授業で取った事は一度も無かったのに進学振り分けの時に

不思議な勢い(今考えてみれば、金森先生と話させて頂いた影響が大きかった)に突き動かされてこの分科に進学した。

語学があまり得意でないこともあり、はじめは「進学先を間違ったかな…。」と思ったこともあるが、先生方や先輩方の温かさに触れ、

そんな心配は綺麗に消え去った。もう一度進学振り分けをやり直せるとしても、今と同じく、フランス科を躊躇無く選択するだろう。

卒業して院に進む先輩方は笑顔で言う。「まだフランス科に顔を出せるのが幸せ。」と。

卒業して社会に出る先輩方は、晴れやかな顔でこう言った。「フランス科ではフランス語を学ぶのではなく、フランス語を使って、文化や思想の奥にある<何か>を

学んだ。これからフランス語を使う機会は少なくなるかもしれないけれど、フランス科で積んだ経験はいつか必ず活きることを確信している。ヒートアップする世の流れに乗らず、

それに対してNonを唱え、あえて違う道を探ること。理性的だが感情を失わないスタンスで社会に臨みたい。」

ああ、いいな。この学科に来て良かったなと思った。

 

 

時間は流れ、人は未来へと送り出されてゆく。先輩方のご卒業を心からお祝い致します。

 

 

Il faut être voyant.

 

アルチュール・ランボーのドメニー宛書簡より。

 

「というのも、〈私〉は一個の他者なのです。(JE est un autre) 銅がめざめてラッパになっていても、なんら銅が悪いわけでは

ありません。それはぼくには明白なことです。ぼくはいま、自分の思考の開花に立ち会っているのです。それを見つめ、それに耳を

傾けています。ぼくが楽弓をひと弾きする。そうすると交響楽が深みで動き出す。あるいは、舞台上に一気に躍り出る。」

 

「ぼくは言います。見者でなければならない、見者にならなければならないと。〈詩人〉は、あらゆる感覚の長期的な、広範囲にわたる

論理に基づいた錯乱によって、見者となるのです。 あらゆる形の愛、苦痛、狂気によって。詩人は自分自身を探求し、自分の内から

あらゆる毒を汲み尽しては、その精髄だけを保持するのです。」

 

「この言語は、魂から発して魂へと伝わるものとなるでしょう。さまざまな香り、音、色彩など、思考をひっかけて引き寄せるような思考の

要素すべてを要約するのです。詩人は、自分の時代に普遍的な魂のうちで目覚めつつある未知なるものの量を、はっきりさせる

ことでしょう。つまり彼は、より以上のもの―自分の思考の表現形式や、〈進歩〉へと向かう自分の歩みの記録などを超えたものを与える

ことでしょう。規範をはずれたものが規範となり、それが万人に吸収されて、詩人はまさに進歩を増大させる乗数となることでしょう。」

 

 

東大世界史最終講義 -冬来たりなば 春遠からじ-

 

11月から飛び込みで「一対一で教えてほしい!」と頼まれた東大受験生に、最後の講義をしてきました。

彼はすでに大学一年生で、仮面浪人として東京大学の文科三類を受験したいとのこと。僕は二浪を経験していますから、そうした

浪人してでも受験を志すという姿勢には共感を覚えます。11月から今まで、週一回でわずか13回の講義しか出来ませんでしたが、

世界史について、時間の許す限り・僕の知識の許す限りのことを教えてきました。基本は講義で、論述の添削なども入れていくという形で

すすめてきたのですが、彼の飲みこみの良さには驚くばかりでぐんぐんと文章のクオリティが上がっていくのを目の当たりにしました。

 

最初の講義で、「軸を定めて陣を貼る」という論述の文章の書き方を教え、そのあと、問題文の分解・解読方法を詳説。

東大の世界史はただ知識があるだけでは書けないし、ただ知識を詰め込むだけでは面白くもなんともない。それぞれを

有機的に関係させながら、たまには大学以降で学ぶことも先取りしながら、論理的に「読める」文章を書く必要があります。

そこからはじめて、とりあえずは13回でなんとかほとんどの過去問に目を通すことが出来たかと思います。

 

僕はコレージュ・ド・フランスの講義の形式が大好きで、「教える側がまさにいま学んでいることを門外漢にも分かるように伝える」

という形式でやってきました。高校レベルの世界史の話をしながら、主権国家体制や革命総論、思想史、世界システムの話をし、

時にフランス語やドイツ語も使いつつ、アナール学派の歴史の見方やヴァレリーの「精神の危機」、フーコーの「人口」概念や

公衆衛生という概念の誕生など、いま自分が学んでいることを出来るだけ噛み砕いて、教えてきたつもりです。

こうした話をするたびに、彼が目を輝かせながら一心不乱にノートをとってくれているのが嬉しくて、教えるのが毎回楽しみでした。

 

最後の授業では、1848年の変動について説明しながら、世界の大きな見取り図を描きました。

1848年の変動こそが、それ以前、それ以後の世界を繋げる契機となるように思われたからです。革命というものの性格が変動すると

ともに、国家、国民という概念も揺らぎ始め、世界中に衝撃が走る。20世紀はかなり最初のほうで説明しておきましたし、

前回の講義はフランス革命とドイツ統一について説明したので、このダイナミズムで締めるのが最適だろうと考えてのことです。

 

なぜか最後の最後に英語の前置詞のイメージを説明しはじめて大幅に延長してみたりもしました(もとはacrossという前置詞は「横切る」

だけでなく、「至る所から」というニュアンスも持っていて、それはヨーロッパ的な考え方ですね、という話をしたところからです。

東大英語でも前置詞は頻出するので、気になってつい全部説明してしまいました)が、こうして僕が受け持った授業は終わりました。

 

最後に、仮面浪人という辛くも勇気ある一年を選択した彼になら響くだろうと思い、僕が浪人中ずっと机の前に飾っていた言葉、

イギリスの詩人シェリーのOde to the west wind(『西風に寄せる歌』)という詩の末句、

If winter comes, can spring be far behind? (「冬来たりなば 春遠からじ」)

を送りました。仮面浪人は大変だったと思うけど、よくここまで頑張ったね、と。

 

 

「身体に気をつけて。駒場で待ってる。」と握手した時、彼の眼が潤んでいるのに気付いてしまい、僕も少し泣きそうになってしまいました。

慌ただしい日常の合間を縫ってでも彼を教えて良かった。春が来ますように。