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探求の時期

 

Certaines recherches, dont l’exigence est illimitée, isolent celui qui s’y plonge. Cet isolement peut être imperceptible : mais un homme qui s’approfondit a beau voir des hommes, causer, disputer avec eux, il réserve ce qu’il croit de son essence et ne livre que ce qu’il sent inutile à son grand dessin. Une part de son [...]

ヘッセの庭

 

ヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』に出会って衝撃を受ける。

庭のことを考えて、庭を必要としていることに気付く。

しかし今は「満開の花」という一篇を引用するに留めよう。

 

桃の木が満開だ
どの花も実になるわけではない
青空と流れる雲の下で
花たちはやわらかにバラ色の泡と輝く

桃の花のように想念がわいてくる
日ごとに幾百となく
咲くにまかせよ 開くにまかせよ
実りを問うな!

遊びも 童心も 過剰な花も
みんななくてはならぬものだ
さもないとこの世は小さすぎ
人生になんの楽しみもないだろう

 

 

 

祈りの宛先

 

端的に言って、年が明けてからずっと、「祈り」ということを考え続けている。

久しぶりに高熱を出した前夜も、うなされながらずっとそのことを考えた。

翌日ふらつく頭で「展覧会の絵」とバーバーのアダージョを振りにいったときも、頭の中ではずっとこの問題が流れていた。

何か特定の宗教に関することではなく、行為としての「祈り」。彼岸の領域を超えるもの、生と死を繋ぐもの。

演奏するときに、指揮するときに特別な時間が訪れるのは、内面からこの「祈り」と言うほかない感情が溢れてくるときだと気付くのだ。

 

だとすれば祈りとは何か。祈りの宛先はどこか。いまだ言葉にはならないけれども、考えは徐々に形を取り始めている。

「指揮者としての私は、ただ音楽に奉仕する存在なのです」というカルロ・マリア・ジュリーニの言葉と、小林康夫の一文が重なり合う。

「祈りが目指している出来事に対して、祈る者は非力であるのでなければならない。

激しくそれを願うが、しかし願い祈る以外のいかなる世界内的可能性も絶たれている者にとってのみ、はじめて祈りは可能になる。」

物を書くとき、話すとき。それから指揮するとき。おそらくは何かしらの出来事を呼び込むという点において、「祈り」という身振りは全てに共通する。

だからこそ、この身振りに対して、僕は自分の人生を賭けようと思う。

 

新幹線の車窓から「天使の梯子」がふと見える。その中を舞い上がる飛行機の姿に感動する。

気付かないだけで、身の回りには奇跡的な出来事がたくさん宿っている。

今年一年は「祈り」という問題を考え続けながら、日常の奇跡に敏感でありたいと思う。

 
 

さあ、今から奈良でリハーサル。新しく沢山の人たちに会うだろう。

音楽に関わることが出来るということもまた、僕にとっては一つの奇跡なのだ。

 

 

 

 

出発の儀式

 

 

あけましておめでとうございます。

大晦日に一年のまとめをしようかと思ったものの、譜読みに集中したりバタバタ片付けをしたりしている間に2015年になってしまいました。

昨年は海外含め26回のコンサートを指揮させて頂き、修士論文を提出するというハードな一年でしたが、体調を崩さず過ごせたことに感謝しています。

 

しかし何より大きかったのは12月に師匠を亡くしたこと。悲しみは未だ消えませんが、それを直視しなければ僕の2015年は始まらないと思えて、

元旦の朝には師匠から頂いた日本酒(木許にはこれだ、と旅行の際に選んできて下さったもので、飲みきるのが惜しくて少しだけ残してありました)を

コートのポケット に入れて新幹線の始発に飛び乗り、早朝から湯沢に登ってきました。

 

本当は山頂で朝陽を見ながらと思っていたのですが、現地は大雪だったため、ひとまずガーラから石打へ向けてしばらく滑走。

午後になると少し晴れ間が見えた ので、眼前に広がる魚沼平野を見下ろしながら最後の一口を頂きました。涙が出るほど美味しかった。

そして、ベートーヴェンの「田園」を教わったときの「君は田園の景色をまだ知らないねえ」と笑うあの声が聞こえたような気がして、しばし呆然。

時間だけが容赦なく流れて行く….。
 
 
Je partirai! /Steamer balançant mâture, /Lève l’ancre pour une exotique nature!
 
(出で立とう!備わる帆柱の総てを揺振っている蒸気船よ、異国の自然を目指して、いまこそ錨を掲げるのだ!)
 
 

——マラルメの「海の微風」を思い返し、ひとつの決意を固めてから、一気に麓まで滑り降りて帰りの新幹線に。

今年は出発の一年になりそうです。2015年もどうぞよろしくお願い致します。
 
 

降霊術

 

どのタイミングでそれが訪れるのか自分でも分からないのだけれど、表面張力から溢れるようにして一気に言葉が出てくる瞬間があるのだ。

そのためにはおそらく、限界まで追い込まれるか、ギリギリまで自分を追い込む必要がある。

 

今晩も唐突にそれは訪れた。

今からやるぞ、と決心したわけではないし、それまではどうでもいいネットサーフィンばかりしていたのに、(なぜ買う予定も予算も無いD750と7Dmark2の比較などをしているのか)

何気なく机の前に座った瞬間からスイッチが入って、結局15時間ぐらい連続で書いていたことになる。

溢れてくるものを零さないように言葉にしていく時間。こういうときは疲れるどころか、書けば書くほど頭が明晰に動き始める。空腹も喉の乾きも感じない。

そろそろ休憩して夕食にしようかな、と椅子を立てば朝四時半。びっくりして再び椅子に戻ってしばらくして顔を上げると、また時間をワープしたように7時だった。

 

何か悪いクスリでもやっているような(やったことはない)集中のやり方。昔からそれは変わらないけれども、年を重ねるにつれ、それが更に顕著になってきているように思う。

自分で面白いと思えないうちは、筆を動かす気にはなれない。面白いと思えるものに辿り着くまで粘り続ける。

一方で自分で書いていて面白いと思えるようになってくれば、いくらでも進んで行ける。堰を切ったように他人にこの面白さを話したくなるような感覚。

ともあれ朝だ。少し眠って、また降霊術の続きが出来ますように。

 

冬の雨の日に

 

ひたすら執筆。

雨の冬場はいい。家から出ないで机に向かい続けることが不健康に思わないで済むから。

文献によって足の踏み場の無くなった部屋で恩師から頂いたスピーカーを鳴らし、バルザックも真っ青な勢いでコーヒーを摂取して書き続ける。

届いたばかりの加湿器に自分でブレンドしたアロマオイルを差して、モーツァルトのピアノ協奏曲を順番に流す。時々口笛で合わせて吹きながら鍵盤を叩く…。

ギリギリまで足場を組むことに集中して、直前で一気に立ち上げ、ステンドグラスを嵌めて行く。そういう感覚で書いている。

 

中学受験勉強をしていた小学生の頃を唐突に思い出す。

ワケもわからず聞いていたけれど、とにかくモーツァルトのピアノ協奏曲(それからフルート&ハープ)が一番大好きな音楽だった。

あるべきものがあるべきところに落ちてくるようで、音楽の専門教育を受けていた身でない自分にとっても、何か自然な音楽であるように思えた。

たとえ短調であっても、どこかで人の心を明るくしてくれるような微笑みを感じて、これを聞いていると上機嫌でいることが出来た。

指揮するようになった今、改めて聞いていてもその感想は変わらないけれども、溢れてくるような幸せと同時に、モーツァルトの仕掛ける遊びにハッとする。

あんなにシンプルな音符の数々から光と影の移ろいが生まれる。雄弁なバスライン。いい笑顔で寄り添いながら時々繋いだ手を振り回してくれるような音楽。

十五年が経った今でも、僕が一番好きな音楽はモーツァルトのピアノ協奏曲かもしれない。

 

十二月の朝

 

完全に昼夜逆転して執筆を進める日々。

太陽が沈んだころから書き始めて、ほとんどノンストップで10時間ぐらい集中して机に向かったのち、太陽が昇るころに眠る。

今日はここまで。残り時間が短くなるのに合わせて完成が見えて来た。ふと巡り合ったThierry Lang, Guide Me Homeの美しさにハッとして、眠る。

 

複雑さを失わず。

 

修士論文の締切が迫って来ていて、最近はほとんどの時間を執筆に当てている。

睡眠時間が減るのかと思いきや、逆に眠っている時間が増えた。深く眠っていないのかもしれないけれど、ひとまず眠りの中に落ちることが大切に思えるようになった。

というのは、眠っている間に閃くものや、夢の中で書き進めたものは、理性から離れてとても自由だからだ。

覚醒しているときには絶対に辿り着かないような議論に至り、閉塞を破ることができる。ある種の「降霊術」と個人的に呼んでいる。

 

さてさて。もうこの時期だから大体の見通しは出来ているのだけれども、第三章がパシっとこない。頭の中には出来ているのに、文章が上手く纏まらない。原因は自分で分かっている。

おそらくそれは、カレーを作るのに冷蔵庫の具材を全部引っ張りだして来て、まな板に並べてしまっているからだ。(二年間の間に少しは「買い付け」に行ったのだ)

美味しい野菜だけれども敢えて使わないという取捨選択の必要。具材を全て使い切ることは不可能ではないけれども、全部入れても美味しくなるためにはルーに相当な包容力が要求される。

 

そんなふうに浮かんだイメージのままに書いてみて、カレーとのアナロジーは結構いいなと思う。論文に限らず文章を執筆するときの感覚と良く響き合う。

僕はコクトーの「ギリギリまで引き絞って射る」というスタイルに憧れるし、そうでありたいと思うのだけれど、先程のアナロジーに変奏するならばそれは

まな板の上に転がった食材の数々を睨みながら、それでも限界までルーをねり続けて味見を繰り返すことなのだ。

 

フランス語で執筆した卒論では、語学的な限界からどうしても安易な構図・単純な論理に回収してしまいがちだった。

複雑さを捨てずに記述できるほどのフランス語の力が僕には無かった。(今もそうだ)

けれども現象は綺麗に分けられることばかりではないし、論理を見通しよく整理してしまうことが必ずしも良いとは限らない。複雑なものの複雑さを残しながら明晰に議論すること。

マルセル・ダイスのマンブールみたいに、重層的に絡まり合う複雑な味を持ちつつ、その複雑性と齟齬しない強烈な統一感(それを「フィネス」と言って良いのだろうか)が通っていること。

そうしたことがモノを書くという行為にとって、特に感性史を専門とする上で最も大切なことだと気付く。

徹底した史料批判の精神と飛翔する想像力の矛盾なき総合。「出来事」に敏感であり、一つの言葉の中に宿る複雑さを鋭く見つめ続けること。

修士課程でお世話になった二人の先生から教わったものは、そういうことだったと思う。

 

あと少しだ。

じりじりと迫ってくるタイムリミットに耐えながら、煮詰まって焦げる直前の美味さに一歩でも近づきたい。

 

言葉をめぐって

 

納得せざるを得ないほどの説得力を求めつつ、たとえば言葉で回収しきれない不思議なものに、原因不明なものに惹かれ続ける。

神秘が存在するのは非神秘があるゆえだ。こうした姿勢が矛盾と呼ばれるものなのだとは僕には思えない。

ひとことで言えば、言葉が決定的に重要であるということ。

 

ヘルダーリンの帰郷

 

 

Was du suchest, es ist nahe, begegnet dir schon.

「君が探しているもの、それは近くにあって、もう、君に出会っている」