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複雑さを失わず。

 

修士論文の締切が迫って来ていて、最近はほとんどの時間を執筆に当てている。

睡眠時間が減るのかと思いきや、逆に眠っている時間が増えた。深く眠っていないのかもしれないけれど、ひとまず眠りの中に落ちることが大切に思えるようになった。

というのは、眠っている間に閃くものや、夢の中で書き進めたものは、理性から離れてとても自由だからだ。

覚醒しているときには絶対に辿り着かないような議論に至り、閉塞を破ることができる。ある種の「降霊術」と個人的に呼んでいる。

 

さてさて。もうこの時期だから大体の見通しは出来ているのだけれども、第三章がパシっとこない。頭の中には出来ているのに、文章が上手く纏まらない。原因は自分で分かっている。

おそらくそれは、カレーを作るのに冷蔵庫の具材を全部引っ張りだして来て、まな板に並べてしまっているからだ。(二年間の間に少しは「買い付け」に行ったのだ)

美味しい野菜だけれども敢えて使わないという取捨選択の必要。具材を全て使い切ることは不可能ではないけれども、全部入れても美味しくなるためにはルーに相当な包容力が要求される。

 

そんなふうに浮かんだイメージのままに書いてみて、カレーとのアナロジーは結構いいなと思う。論文に限らず文章を執筆するときの感覚と良く響き合う。

僕はコクトーの「ギリギリまで引き絞って射る」というスタイルに憧れるし、そうでありたいと思うのだけれど、先程のアナロジーに変奏するならばそれは

まな板の上に転がった食材の数々を睨みながら、それでも限界までルーをねり続けて味見を繰り返すことなのだ。

 

フランス語で執筆した卒論では、語学的な限界からどうしても安易な構図・単純な論理に回収してしまいがちだった。

複雑さを捨てずに記述できるほどのフランス語の力が僕には無かった。(今もそうだ)

けれども現象は綺麗に分けられることばかりではないし、論理を見通しよく整理してしまうことが必ずしも良いとは限らない。複雑なものの複雑さを残しながら明晰に議論すること。

マルセル・ダイスのマンブールみたいに、重層的に絡まり合う複雑な味を持ちつつ、その複雑性と齟齬しない強烈な統一感(それを「フィネス」と言って良いのだろうか)が通っていること。

そうしたことがモノを書くという行為にとって、特に感性史を専門とする上で最も大切なことだと気付く。

徹底した史料批判の精神と飛翔する想像力の矛盾なき総合。「出来事」に敏感であり、一つの言葉の中に宿る複雑さを鋭く見つめ続けること。

修士課程でお世話になった二人の先生から教わったものは、そういうことだったと思う。

 

あと少しだ。

じりじりと迫ってくるタイムリミットに耐えながら、煮詰まって焦げる直前の美味さに一歩でも近づきたい。

 

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