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魔弾を射る

 

レッスンでしばらくウェーバーに取り組んでいた。

「オベロン」「オイリアンテ」と来て最後に「魔弾の射手」序曲を振った。

魔弾の射手は大好きな序曲の一つ。指揮を学び始める前に見たカルロス・クライバーのリハーサル動画が焼き付いている。

この曲を指揮出来るのか、と思うと幸せで、なんとしても目一杯学びたいと一際気合いを入れて臨んでいた。

 

冒頭の暗闇の応答が終わったあとにはじまるホルン。

僕が振ったのち、師が「まだ君は景色を見ようとしているね。そういう次元に留まらず、一つ飛び越えてみると良い」と言って

振り始める。導入の一小節の伴奏の豊かさ。とたんに悠々と広がる角笛の響き。部屋が深い森にワープしたような、というか

ホルンという楽器が森に響くならばこうして響くだろう、としか思えない音が空間を満たす。歌に溢れていて、残響にすら色がある。

「という感じだ。どうだい?」と問われて僕は言葉に詰まり、考えた末に出て来たのは、「…幸せです」という何とも間の抜けた、

しかし最も素直な言葉だった。そして同時に、そのような音の変化をなぜ起こすことが出来るのか、かつては見えなかったものが僅かに見えた気がした。

 

帰ってから卒論を放り出し、翌日のレッスンに向けて今日のレッスンで見たもの・聞いたもの・感じたものを考え抜く。

昼になって、大学の銀杏並木をぼんやりと歩いているときに突如として閃く。

五月までの自分-ベートーヴェンの一番・二番・四番・五番・三番、ブラームスのハイドン・バリエーション-に取り組んでいたころの自分と

六月からの今までの自分-ベートーヴェンの六番・七番・八番・九番、そしてブラジル風バッハとピアノ協奏曲第四番や尾高のフルート協奏曲-が

ようやく繋がったと思えて、一つ壁を越えたのではないか、という直感があった。

 

はやく振りたい、と心から思えた。

始点と終点だけでなく、いまは少しだけ(ほんの少しだけ)その過程を操作することが出来る。

二拍目に余白を生むことができる。音符から少しだけ自由になれる。

「風景に浸るのではなく、その場で風景を生成変化させていくのだ」という言葉の意味が自然と理解される。

 

そしてレッスンで、気付いたら僕は楽譜を開く事もなく暗譜でこの曲を振っていた。

未熟なところは山ほどあった(相変わらず、伸ばす音や休符は思ったより短くなってしまうものだ)と思うけれど、

振り終えてから師匠は「これなら満足出来る」と一言。帰り際にも「今日のは良かった」と言葉を下さった。

自分でもそれなりに良い演奏をしたんじゃないかな、という実感があった。入り込みながらも自由でいられた。

楽想に応じて自然と表情が変わってくるのを感じた。コリオランと英雄を振ったとき以来かもしれない。

こういう感覚は久しぶりだった。

 

音符の見え方が変わる。余白が沢山出来るからこそ仕掛けることや表現する事が可能になる。

余白のある充実。楽譜を読むことが、棒を振ることが楽しくて仕方がない。

10月の終わり、心の底からまたそういうふうに思えるようになった。

 

 

再現ではなく生成を。

 

ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ一番」のレッスンを終えたあと、師匠がこうおっしゃった。

「最近、癖が出てきたな。」

 

癖。誰よりも癖が出ないように、基礎に忠実であろうと学んで来たのに、どこで付いたのだろう。

そして、癖とは具体的にどういうことを指しているのだろう。

映像を見れば自身の動きにいくつか思い当たるところはある。そういったことなのだろうか。

けれども、「成長するための過渡期なのだと思うけど、色々やりすぎているんだな。」

という帰り際に重ねて頂いた言葉を考えると、そういう「動き」だけの問題ではないような気もしてくる。

「癖」という言葉に師匠が託したものは何か。注意して下さった真意は何か。

その言葉が数日間ずっと離れなくて、考え続けていた。

 

 

招待して頂いたある演奏会 — チャイコフスキーの第六交響曲「悲愴」— を聞いている時に、突然その答えを見つけた気がする。

ああ、そうか。僕は音楽を少しだけ(ほんの少しだけ)動かせるようになったから、強引に動かそうとしていたのかもしれない。

ここはこうやる。ここでツメる、先へ送る。そして全体はこうなる。

そんなふうに、全体の見通し=フォルムを作ろうと考えて、細部まで「こう表現するぞ」と決めすぎていたのではないか。

そしてまた、昨年にレッスンで見て頂き、また本番でも指揮した「ブラジル風バッハ一番」を

昨年やった演奏、教わった事柄を実行するよう、過去を再現するかのごとく指揮していたのではないか。

おかしい、去年はもっと動いたのに今日は動かない。ならば動かしにかかろう。

そういうふうに、「いま/ここ」の流れを無視し、自らの気持ちばかりが先行して意固地になっていたのではないか。

 

 

音楽はそれでは動かない。

なぜなら、音楽は生身の人間の営みだからだ。恋愛と同じく、一方的に求めるばかりでは相手は離れて行く。共に生きなければならない。

convivialitéという言葉を思い出す。「共に生きる/楽しみを共有する」という意味を持つこの言葉は、

convive(会食者)という単語に由来する。「会食」— それはすなわち、一人が持って来た出来合いのお弁当を広げて配っていくのではない。

その場でその会のために料理されたものがテーブルを彩る。

そして、その日集まったメンバーとしか成立し得ない会話を楽しみながら、共に食卓を囲むのだ。

 

 

同じように、今日には今日の、今には今の演奏の形がある。

考えることと感じることが別物であるように、感じてくる事とその場で感じることは全く違う。

過去を再現するのではない。何度も演奏した曲であっても、その場で、新しく、無から創造するのだ。

あの日の僕は過去に生きていた。今という瞬間を無視して、死んだ音楽をしようとしていた。

 

 

「もっとリードしなきゃだめだ。笑顔でいるだけではだめなんだ」

それは六月のコンサートを終えて学んだことだったけれども、何もかもリードする必要なんてないし、出来る訳もない。

気持ちばかりが先走り、「違うんだ、違うんだ!」と満たされない思いを繰り返す。

頭の中で鳴っている形に寄せようとエネルギーを使い、夜を昼に変えることを目論むかのごとく -19世紀末のパリ!-隈無く照らし出そうとする。

そういうふうな、右へ崩れて行く波に左向きに乗って行くような真似はやめよう。欲を捨て、自然に帰れ。

色々しようと思うあまり、不自然な要素がいつしか自身の内に混入していた。

ブラジル風バッハを誰よりも愛奏した師が、「癖」というその短い言葉の内に含めたものは、こうした事ではなかったか。

 

 

演奏者は白紙じゃない。何時いかなる時においても、どうやりたいか、どう弾きたいかという意志をそれぞれ持っている。

スタートのエネルギーを与えるのは確かに指揮者の役目だ。

その後は、いま奏でられた音に潜む方向性を共有して、自然な流れに招いて/誘っていかなければならない。

表現したい要素が増えたからこそ、任せるところは上手く任せられるようになろう。その場で響いた音に柔軟であろう。

 

 

銘記せよ。ある種の自由さ、そして無から生成する躍動がなければ音楽は死ぬ。

そうした要素のことをこう言い換えても、遠く離れてはいないはずだ。

「一回性」— ヴァルター・ベンヤミンの言う「アウラ」— と。

 

 

 

 

 

インバル×都響のマーラー第1番「巨人」@みなとみらい

 

インバル×都響でマーラーの交響曲第一番を聞いてきました。

この曲はかつて生で二回聞いていて、CDでもテンシュテット×シカゴの録音などを浪人中から愛聴していました。

どこか惹かれるものがあって、継続的にスコアを読んでいる曲でもあります。

 

 

一楽章のテンポ設定は今まで聞いた中で一番しっくり来るもので、「ゆっくり」でも「じっくり」でもない落ち着いた呼吸でした。

一楽章には Langsam, Schleppend, wie ein Naturlaut -Im Anfang sehr emachlich-

(ゆっくりと、引きずるように—終始極めてのどかに—)という表記があるのですが、まさにそうした表記を反映した作り方だったと思います。

一楽章から二楽章へアタッカで行ったのはびっくり。弦の人々が物凄い勢いで譜めくりしていらっしゃいました。

二楽章では三つ振りと一つ振りを混在させた面白い振りをしていましたが、それによって長い音符は長く、動かす音符は動的に、というふうに

きちんと伸び縮みがつけられていて、Kraftig bewegtという通り「力強い動き」が感じられる作りでした。

三楽章ではコントラバスの素晴らしさもさることながら、三楽章に入ってからの音色の変化がとても鮮やかで

(ステージ上に暗い夢のような雰囲気がモヤモヤと漂っていた!)プロ奏者の凄みを改めて目の当たりにしました。

四楽章はインバルとしてはもう少し激烈に行きたい部分があったのでは、というように見えましたが、

全体を通じて見通し良く丁寧な演奏だったのではないでしょうか。

 

 

勉強させて頂いた所もたくさん。

指揮のテクニックで言うところの「分割」を出来る限り削っていけ、と師匠が折りに触れておっしゃる理由を肌で体感しました。

分割すればアンサンブルは整うかもしれないが、必然の場で上手くやらない限り、それまでに作って来た音楽の流れや音色、

音のテンションや方向性が分割によって切断されてしまう事がありえる。

 

ついついテンポや自分の問題で分割してしまいがちですが、何のために/誰のために分割するのか、ということを良く考えなければいけない。

音楽の向きや奏者が作っている音色を大切にして、流れに預ける所を預けて自由に振れるように勉強せねばなりません。

駆け出しの身にはマーラー1番は遥かに遠い曲ですが、様々な発見と共に、幸せな時間を過ごさせて頂きました。

 

瞬間を生む

 

空間と空間、時間と時間の隙間に生まれる、息を飲む一瞬。

その快楽に魅せられて僕は指揮をやっているし、サーフィンを、ボウリングを、ゴールキーパーをやり続けている。

本来は存在しないはずの「あの瞬間」を作り出すこと、あるいは時間の間に身を滑り込ませること、

そしてそれを壊すことが、好きで好きでたまらない。

 

 

白小路紗季さんのソロ・コンサート

 

約十五年ぶりに会う、小学校一年生の頃のクラスメイトである白小路紗季さんが招待して下さったソロ・コンサートに行ってきた。

つい最近まで、僕は彼女がヴァイオリニストとして活躍していることを知らなかったし、

彼女ももちろん僕が駆け出し指揮者をやっていることなんて知らなかっただろう。

会場について開演を待つ間、十五年振りに姿を見ることに何だかとても緊張した。

静まった中に入って来てスポットライトを浴びた彼女は、一年生の頃の面影や仕草を確かに残しながら、

鮮やかなドレスの似合う、美しく凛とした佇まいの大人の女性になっていた。

 

 

前半の最後に痺れる。

弓の速さ・圧の抜き。ブラームスのヴァイオリン・ソナタ三番のある箇所で、弓が一瞬宙に舞った瞬間、物凄いスピードで空間を切り抜く。

そうして響いた音は鋭いだけの音ではなく、とても中身の詰まった豊かな音だった。

 

後半も楽しみだなあ、と期待しているうちに始まったイザイの無伴奏ソナタ三番。これは本当に凄かった。

前半より集中力がさらに増しており、何かに取り憑かれたような演奏。会場の空気が彼女の振る舞いに凝縮していくのを感じた。

彼女の弓使いはまるで刀のよう。弓を目一杯使ったあと、鋭く跳ね上げて一瞬の間を作り出し、迷い無くザッと断ち切る。

空間と空間、時間と時間の隙間に生まれる、息を飲む一瞬。その一瞬から血が噴き出して鮮やかに散るような錯覚。それは美しく、壮絶だった。

三番のあとにはイザイの無伴奏五番、そのあとにサン・サーンスのワルツ・カプリース、そしてヴィエニャフスキの華麗なるポロネーズ二番が続く。

これも勢いに乗った素晴らしい演奏で、特にワルツ・カプリースの華やかな音色の変化には耳を奪われたが、頭は先程のイザイ三番の衝撃から覚めやらず。

それぐらい凄い演奏だったと思う。余韻の残る中、アンコールはモンティのチャルダーシュを遊びたっぷりに!

 

演奏後、十五年ぶりの再会を果たして色々と話し、近いうちに一緒にヴァイオリン協奏曲をやろうと約束する。

小学校一年生の頃はこんな話をするなんて考えたことも無かったね、と二人で笑いながら。

 

彼女と音楽したいな、と心から圧倒された時間だった。

コンチェルト、必ず実現させよう。また一つ目標が出来た。その日に向けて一生懸命勉強せねばならぬ。

 

向日葵が海に背を向けて咲いていた -東北で指揮して-

 

この夏に新しく出会った東北遠征オーケストラ(Commodo)と、演奏旅行に出かけていました。

慶應と武蔵野音大の方がメインのこのオーケストラ、アウェーの環境であるうえ、短い練習時間しか用意されていなかったので

どこまで仕上げることが出来るか指揮者として少し不安でしたが、みなさん最後には猛烈に練習して下さったこともあって、良く纏まりました。

今の僕に出来る限りの役目は果たせたかなと思います。

 

曲目はビゼーの「カルメン」やオリジナルのクラシックメドレー、サウンド・オブ・ミュージックのメドレーなど、全八曲。

阪神大震災を少なからず経験した身として、震災と津波の傷痕深く残るこの場所で指揮することには迷いも意義も感じていました。

(昨年も別団体から音楽による支援として指揮を打診されたのですが、まだその時期ではないだろうと思って断ったという経緯もあります。)

 

実際に現地を訪れてみると込み上げてくるものは祈りの感情で、津波の被害を受けた海岸沿いの地を静かに歩いているうちに

歩みを進めることが出来ないほど痛切な感情に襲われました。東北を回っている間に書きつけた文章の一部をここに掲載しておきます。

空は青く、雲は既に秋の軽やかさを見せていた。

海の音が迫ってくる。眼前には何もない。そう、一年前までそこにあったであろう物が何もない。

見渡す限り、無。ただ海だけがある。振り返っても背後は山まで一望できてしまう。悲痛な景色。

 

山から伸びる雲が海と繋がろうとしている。

大地はひび割れ、家であっただろう場所、線路であったはずの場所に草が生い繁る。

海から吹き付ける風に黄色が揺れる。向日葵が海に背中を向けて咲いていた。

波の音。どこまでも静かな景色、喪失の静けさ。

草地の中に残された泥まみれの上履きが残酷だった。

 

 

 

心から心へ届くように、あらん限りの祈りを。

アンコールとして演奏したyou raise me up、そしてsound of musicメドレーの

deep feelingと記された最終変奏にはとりわけそうした想いを、言葉を込めたつもりです。

全三公演、演奏した先々で涙を流しながら聞いて下さった方々が沢山いらっしゃったということを後から知りました。

音楽に何が出来るのかは今もって分からないけれども、少しでも心に届くものがあったならば…。

お聞き下さった方々、そして一緒に演奏して下さった皆さん、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

半世紀の至芸

 

この間のレッスンで見た、ブラームスの交響曲第一番三楽章、第二括弧からの師匠の振りが頭から離れない。

ある小節で、本来あるはずの場所から手が消えた。シンプルなその動きのまま、ふっと風に吹かれたかのようにワープした。

筋目の入った時間からすり抜けて、滑らかな時間へとその身を移し、時間が追いつくのを悠々と待っていた。

その動きに対応して、音があとから吸い付いてくるのが見える。リタルダンドでもパウゼでもない、フレーズの絶妙な収まりと始まり。

四小節の中での支配―非支配の関係が、基礎的な拍感に対応していた。強を支配し、弱を任せ、強のために懐を開けて待ち構える。

縛られている感覚は一切ない。モノが自然の理に従って本来辿り着くべき所にふわりと落ちるような、これ以外ありえないと思える心地よさ。

 

一小節、いや、一拍たりとも同じ振りは無いが、余剰は無い。これは削りの芸術、削りの至芸だ。

何かを付け加えるのではなく、基本の動きを徹底的に削り続け、磨き続けた結果、些細な変化が際立つ。

飾り立てるのではない。押し付けるのでもない。

磨き、削ることによって生まれる、大吟醸の香りのような豊穣な美しさだった。

 

「そういえば、指揮を教え始めて五十二年になるんだなあ。半世紀だ。」と八十六歳の師は笑って語る。

半世紀ものあいだ、一つのことを追い求め続けて生きることの難しさはどれほどか。

ましてや一本の棒と自らの身体だけで臨む、指揮という形の見えぬ芸術を。

 

その一振りに半世紀の歳月が宿る。衰えるどころか、さらに深まる削りの美。

巡り会ったからには、師が人生を賭して磨き続けるものを全身全霊で学ばねばならぬ。

 

 

 

 

 

瞬間に捧ぐ。

 

今年もまた、プロ・オーケストラの前で棒を振る。

演奏会直前になると授業や卒論のことなんて一時的にどうでも良くなってしまうのは避け難い。

頭の中で、どの瞬間も音楽が鳴っている。ぼんやりと自分の時間にいるときはもちろん、

本を開いている時も、人と話しているときすらも、ブラームスのあの寄木細工のようなバリエーションが響いて離れない。

本番を迎えることが楽しみで、同時に、終わってしまう事を恐怖する。

一度しかない時間だから、その一度だけの瞬間に、それまでの僕の全ての時間を集めたいと思う。

変奏の終わりに。(2012.5.5 演奏:SEN室内オーケストラ 指揮:木許裕介 写真:栄田康孝)

傾く思考

東京で桜が満開になった日、桜を辿ってふらふらと歩いたあと、本屋をゆっくりと巡っていた。

しばらく探していたヴォルフガング・シュヴェルヴュシュ『闇をひらく光 -19世紀における照明の歴史-』を発見して購入。

おそらく卒論で使うことになるだろう。

 

数えてみれば、三時間ぐらい一つの本屋にいたことになる。

Amazonなどで自宅にいながらにして簡単に本が買えるようになったけれども、立花さんが言うように、

定期的に大きな本屋を散歩することは大切で、買うとも無しに本棚と本棚の間を歩いて背表紙の数々を眺めていると

自分が無知であることに改めて気付かされる。

インターネットで本を買うときは「自分が本を選んでいる」感覚だが、本屋に足を運び、質量や手触り、かさを伴う「本」に囲まれると

まるで自分が「本に選ばれている」気分になる。このフロアに並べられた本のうち、僕が読んだことがあるのは本の0.000…%で、

自分の興味がある分野の棚に限っても、実際に読んだ事があるのは僅かにすぎない。棚から棚へ、フロアからフロアへ。

足の疲れとともに、ゲーテの『ファウスト』を持ち出すまでもなく、「何にも知らない」ことに愕然とするのだ。

 

Read, read, read. Read everything–trash, classics, good and bad, and see how they do it.Just like a carpenter who works as an apprentice and studies master. Read! You’ll absorb it.Then write. If it is good, you will find out. If it’s not, throw it out the window.(William Faulkner)

 

休学を終えて大学に戻るにあたって、頭が学問の方向に再び傾きはじめたのを感じる。

もちろん音楽のことも忘れてはいない。音楽への興味を抑えるつもりは無いし、今までと変わらず学んでいく。

ただ、気持ちをうまく切り替えていかないと卒論と両立は出来ないだろうなと思う。

音楽、そして指揮を学ぶことは、僕にとってそれぐらい劇的で、魅力的なことだから。

 

 

東京駅を降りて丸善へ歩くと、リクルートスーツの人たちと擦れ違う。

入学した時の同級生たちが社会に出て働き始めたのを見るたびに、

さらには後輩たちが就職への準備を進めていくのを聞くたびに、

僕はこのまま就職活動をしなくて良いのだろうか、果たして生きて行けるのだろうかという不安が浮かんでくる。

けれどもやはり、焦るまい。少しばかり年齢は嵩むが、僕は大学院へ進もうと思う。

まだ何にも知らないのに、今からようやく面白くなってくるところなのに、まだ大学での時間や

指揮を学ぶことを終えるには早すぎる。あと半分残っている20代、お金や地位を求めるのではなく、

自分にヤスリをかけるように、弓をギリギリいっぱいまで引き絞るように過ごす。

そのうちにいつか自然に将来が開けてくると信じて。

 

 

ぼんやりとそんなことを考えながら、夕陽が綺麗にさしこむ喫茶店に入って珈琲を頼み、

角砂糖をひとつ放り込んでから、角砂糖についた紙の包装ごと珈琲に入れてしまったことに気付く。

春である。

 

L'ensemble, non troppo.

 

 

Le vrai but est de crèer le orchestre qui peut s’harmoniser avec non seulment le son , mais le humain.

C’est une èquipe,  qui a un credo dans les membres.   Cela ne presse pas.