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輝く原点、子供の情景

 

 

昨夜の後輩のレッスンで、久しぶりにシューマンの「子供の情景」を聞いた。

「子供の情景」は我々の指揮法教室で必ず経験する曲で、ここからようやく「音楽」することを教わるといっても過言ではないだろう。

それだけにこの曲集は特別なのだ。僕が教わったときもそうだったけれど、指揮という芸術はこんなことが出来るのか、と感動せざるを得ない。

87歳となった師がこの曲をどう教えるのか出来るだけ近いところで見ていたくて、師の横で譜めくりをしながらレッスンを見ていた。

 

最初から最後まで、溢れてくる涙を止めるのに必死だった。

あと何回、師の指揮するこの音楽を聞く事が出来るのだろう。第一曲目のVon fremden Ländern und Menschen(見知らぬ国々と人々について)を

振りながら、「目にするもの全てが見知らぬもの、目新しいもの。そんな地に足を踏み入れた子供はどう思う?」と語る師を、あるいは

第二曲目のKuriose Geschichte(珍しいお話)で「君の振っている音楽だと珍しくないねえ。もっと珍しくしてごらんよ」と笑う師を、あと何度見る事が出来るのだろう。

そして第四曲目のBittendes Kind(おねだり)を愛おしそうに紡いで行く皺の刻まれた師の大きな手。

音が包まれていくように、あるべき場所にあるべきスピードと情緒でふわりと到着するのを霞む目で見ながら、今まで過ごして来た時間を振り返った。

 

この曲集を教わってからもう三年が経つ。

ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルザーク…たくさんの曲を、そして巨大な曲を振るようになるにつれ、

自分の手から溢れてしまう苦しさや、リハーサルで上手く音楽を作れなかった悔しさを味わった。

どうして僕は指揮をしているのだろう、と自問したことも何度もあった。

けれどもやはり。音楽を、指揮をすることは感動的で、楽しくて、温かい。

指揮という営みの楽しさと限りない可能性。「子供の情景」は、そのことを痛切に味合わせてくれる。

 

おそらく何十年先になっても、子供の情景は僕にとって立ち返るべき原点としてあり続けるだろう。

棒の一振りで音楽が息づき、色とりどりの宝石のように輝き始める。

夢見るようなロマンを湛えて詩人が語る。

全てはここから始まったし、全てはここにあった。

 

 

学問の師に出会う/大学院へ

 

この人にずっと教わりたい、という「師匠」のような存在に、学問でも音楽でもスポーツでも巡り会う事が出来たというのは

たぶんこれ以上ない幸せなのだろうと思う。それはただ技量や実力を盗みたくて側にいようと思う存在のことではない。

知性や感性はもちろん、佇まいから趣味まで含めて、感動し、憧れる存在のことだ。

スポーツ(ボウリング)の師に僕は17歳で巡り会った。そして音楽の師に22歳で巡り会った。

そしていま、理性と直感の二つで「この人だ!」と思えるような学問上の師に、学部時代の最後になって出会うことが出来た。

だから僕は、働くことを少し後回しにして、大学院へと進学する事を決めた。

 

学部時代の所属である東京大学の教養学部地域文化研究学科フランス分科は卒論をフランス語で書かねばならないという

非常にハードな場所だったけれど、そこで得たものは大きく、また適度に放し飼いにしてくれる姿勢が僕に取っては居心地が良いものだった。

けれどもあえてその場所を飛び出し、巡り会った先生がいらっしゃる東京大学大学院の比較文学比較文化専攻へと歩みを移そうと試みた。

(ちなみに、尊敬する学者であり、フランス科へ進学することを決定づけた金森修先生は

同じくフランス科から大学院で比較文化へと進学されている。はからずもこうして偉大な先生の跡を辿ることになった。)

 

今日ようやく合格発表を終えた。そうして、正式にこの大学院進学が決定した。

きちんとした名称は東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻比較文学比較文化分野。

長すぎて覚えられないほどだが、とにかく春からもまた相変わらず駒場で勉強する事になった。

専門は19世紀末周辺の比較芸術、あるいはフランスを中心とした文化史ということになるだろう。

卒論でも取り組んだ「光」を切り口に、世紀末の音楽や絵画、文学や詩を比較横断して、ある種の感性史に取り組む。

指揮活動(ある意味で比較芸術そのもの!)とも連続性を持てる研究領域なので、学問と音楽とを上手く触発させていきたい。

そして、長く駒場にいるからこそ、駒場という場所を充実させていきたいと思う。

 

蛇足かもしれないが今の一つの夢を書き残しておこう。

それは緑豊かな駒場キャンパスで、解説や論考と共に、曲のもとになったハルトマンの絵を展示しつつ、

ムソルグスキー作曲/ラヴェル編曲の「展覧会の絵」を演奏することだ。

音楽と絵画が響きあって生まれるイマージュの交感の探求と実践!

 

 

 

 

ホルスト、チャイコフスキー、モーツァルト

 

ここ数日はリハーサルでホルストの組曲「惑星」より「木星」を、レッスンではチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」に加えて

モーツァルトの35番「ハフナー」を指揮していました。

 

アンサンブル・コモドさんとの「木星」初リハーサル。

未熟ながらも指揮という行為に携っていて良かったなあ、と心震える瞬間が時々訪れるけれども、「木星」のあの有名な主題は、まさにそうした時間でした。

倍管編成で100人近い巨大オーケストラがユニゾンで歌い上げ、はじめて会った演奏者たちの気迫や魂が共鳴して一つになっていく感覚。

それは言葉に尽くしがたい幸せで、同時に、他の何物にも代え難い喜びでもあります。

ホルストの「木星」はテンポや楽想の変化が激しく、音符上も非常に技巧的な曲ではありますが、初回二時間のリハーサルでひとまず通るようになり

大枠が出来たので、これから細部をしっかり詰めて行こうと思います。また次回が楽しみです。

 

 

一方でレッスンにて取り組んでいたチャイコフスキーとモーツァルト。

チャイコフスキーの弦楽セレナーデはモーツァルトへのオマージュとして書かれた作品で、本番でも演奏したことがある曲ですが、

何度やってもまだ師匠が要求して下さる音を出す事が出来ません。

「君の演奏では燃えていない。ボヤに過ぎない。チャイコフスキーはそんなもんじゃない。ぐいぐいと進んで行くエネルギーに溢れている!」

「突っ走るな!もっと折り目正しく、じっくり、たっぷり、焦らずに弦を目一杯満足に弾かせなければ!」

ぐいぐいと進むエネルギーを漲らせつつ、それでいて焦らず、たっぷり演奏すること。

これを矛盾なく共存させることを身につけなければなりません。

« I wrote from inner compulsion. This is a piece from the heart… »

(Серенаду же, напротив, я сочинил по внутреннему побуждению. Это вещь прочувствованная…)

これはチャイコフスキーがパトロンであったメック夫人に対して弦楽セレナーデについて書き送った言葉ですが、

この「inner compulsion内的衝動」とモーツァルトへの敬愛と模倣の要素のバランスをどのようにして取るのか、ということは

先程の師の言葉とも響きあう問題のように思われます。

そもそも、チャイコフスキーの「音」が一体どういうもので、チャイコフスキーを振るときのテンションの持って行き方がどういうものであるか、

それを僕はまだ全然理解していないし、そういえば「ロシア」というものについて何ら知らないのだということを痛感するばかりです。

 

 

さらにモーツァルトの35番。

ホルストの巨大スコアを見たあとにモーツァルトの35番のような「小さな」スコアを見ると、その簡素な美しさと磨かれた奥行きに目眩がするほど。

ベートーヴェン(2012年の間に交響曲を1番からずっと教わっていました)は音楽を動かすのにある種のエネルギーやテンションを必要としました。

モーツァルトは全く違います。気をつけないとこちらが勝手に動かされ、天才の掌で転がされてしまう。

一気呵成ではだめ、大袈裟な変化をつけてもあざとい。駆け足に流れず、しかし躍動を失ってはならない。

振り向かせようと一生懸命になると逃げられる。じゃあ、と様子見するとたちまち流れ去る。

モーツァルトの音楽には罠がある、という言葉を誰かが残していたと思いますが、久しぶりにモーツァルトを振ってそのことを強く感じました。

極めてシンプルな楽譜なのに・だからこそ、僕の今の棒では音色の引き出しもニュアンスもカラーも全然足りていないよということを突きつけてくれます。

その最小限で最大限の音楽ゆえに、モーツァルトを指揮するのはやっぱり飛び抜けて難しい。もっともっと勉強せねば!

 

 

 

 

 

 

音楽は天を穿つ

 

東北で指揮させて頂いたオーケストラから再びお声をかけて頂いて、3月の東京チャリティーコンサートでまたご一緒させて頂くことになった。

100人近くいらっしゃるオーケストラを振ったのはこれが初めて。普段指揮しているドミナント室内管弦楽団(最大でも5プルト)とのサイズの違いに少し戸惑う。

指揮者用の椅子に座って、金管楽器の方々が随分遠くにいるものだなあと驚いた。

人数の問題ではないが、これだけ多くの人たちの時間や身体を預かっているのだな、と思うと改めて身が引き締まる思いがした。

至らない所も沢山あったと思うけど、その都度その都度出来る限りのことを濃密にしたい。大きな編成も受け止められるように視野と懐を広くしよう。

 
Sound of Musicメドレーの最終曲を振りながら、指揮という営みに関わる事が出来て良かったなと思うと同時に、

ボードレールの「音楽は天を穿つ」(La Musique creuse le ciel)という言葉がよぎった。

例えばG線の深い音が手元に膨れ上がって来るあのコーダを指揮している時よりも、あるいはブラジル風バッハ第四番の

音に感情が宿って凝縮し抜けてゆく「あの」瞬間よりも幸せな時間があるだろうか。

今まで生きてきた時間は短いものだとは言え、25歳の僕は、それ以上に幸せで心震える時間をまだ知らない。

 

二月がはじまる。

天を穿つような音楽を引き出せることを目指して、また虚心に学ぶのみ。

 

 

 

 

ネオ・インスタント

 

二十五歳学生独身、特技はインスタントラーメンの限界に挑戦することです。こんばんは。

醤油味のインスタントラーメンを美味しく作る方法を発見したので記録しておきます。

鍋に湯を沸かします→鰹節を大量に投入します→麺を入れて茹でます

→あとは普段通りに、茹で汁でインスタントラーメンのタレを溶いて麺をよそいます

→これでインスタントラーメンにコクが出て、一気にランクアップ!!卵、葱、海苔を入れるとなお良し。

たぶんこの流れで行くと、最初に昆布や煮干しでダシを取ったりしても美味しくなる予感がします。

それはもはや「インスタント」の意味を為していない、という指摘は受け付けません。以上です。

 

 

グリーグと「茶弦」リハーサル

 

一緒に演奏して下さったことのある奏者たちが何人か所属されている、お茶の水管弦楽団の室内楽コンサート「茶弦」の

リハーサルに遊びに行ってきました。学生指揮でグリーグの弦楽アンサンブル曲「ホルベアの時代より」をやるそうで、

その指揮を少し見てほしいという話を頂いた事からお邪魔する事になりました。

僕のような駆け出しの棒振り見習いを温かく迎えて下さり嬉しかったです。

 

グリーグのこの曲は、指揮を習い始めて一年少しした時に振ったことがあるのですが、指揮のアドバイスをするにあたって

そのときのスコアを引っ張りだしてきたものの、スコアの書き込みを見ただけで当時の自分が何にも分かっていなかったことが

痛いぐらい分かりました。棒の技術的な問題が伴わなかったのはもちろん、この曲に宿っている「霊感」としか言い様のない

雰囲気や音色を何にも掴めていなかった。

あるいはサラバンドがどういう踊りであるか、グリーグのアーティキュレーションがどんな意味を持つかということも。

もちろんそれは今も不足したままですが、少なくとも以前より見えるものは増えたし、

自分が何にも分かっていなかったことを分かることは出来るようになっていました。音楽に完成や完璧という次元が無い以上、

こうした無知を知る経験を重ねていくしかないのでしょうし、過去の自分に「ぜんぜんダメだ!」と言えなくなったら、それはある意味で

成長が止まったという事なのかもしれません。そうならないよう、常に至らなさに気付き、至らなさと向かい合って行きたいものです。

 

リハーサルでは、指揮をする上での基本的な(しかし重要な)いくつかのアドバイス

- 不必要な動きを削ること、予備運動で音が決まっているということ、音を受ける間を作ってあげることなど -

と、パート間のバランス、それからアーティキュレーションの意味についてなど、チェロパートの中に一緒に入らせてもらいつつ

要所要所で思う所を伝えさせて頂きました。(ただし、彼らの作ってきた音楽の邪魔をしないよう、彼らの考えるテンポやイメージに出来る限り添うような形で)

それにしてもちょっとした意識の持ちようで音楽に流れが出てくるのだから、音楽は不思議なものですね。

こうして自分が指揮することなくリハーサルに参加しているというのは物凄く得るものが大きくて、弾かずに-振らずに後ろから見ていると、

今、何が問題で何がどうなっているのかということが良く分かります。たぶん今回のリハーサルで一番勉強させて頂いたのは僕でしょう。

僅か一回のリハーサルでどれぐらい力になれたかは分かりませんが、とにかくお声をかけて頂いて有り難かったです。

今日のような、アンサンブルを練り上げていくためにはどういう道のりを辿り・作れば良いかという勉強も今年は沢山重ねていきたいと思います。

 

練習後は団員の方々にお誘い頂いて飲み会にご一緒することに。

行きつけだというそのお店は中々シブい立ち呑み屋さん。あんまりにも楽しくて、皆さんと思わず終電近くまで音楽トークに華を咲かせ、

マーラー九番いいですよね!とホルンの方と固く握手をして電車に乗ったりと、新しい出会いとともに幸せな時間を過ごさせて頂きました。

第二回「茶弦」、1月20日に紀尾井ホールの小ホールだそうです。グリーグの他にも魅力的な曲が満載のコンサート、素敵なステージになりますように!

 

 

初心の断章

病に倒れている間に僕は初心を思い出した。

色んなしがらみや関係に窮屈になりすぎていた。難しいことは何も無かった。

小さい頃好きだった広場の鬼ごっこやサッカーのように、楽しいから一緒にやろうよと声をかけて自然とはじまる。

それだけで良かったのだ。だから、今年はこの曲を取り上げよう。あのメンバーと演奏したいと思うから。

 
 

年が明けて最初に開いたのは、限りなくシンプルで執拗なこの楽譜だった。

読み返すたびに見えてくるものが違う。前に読んだ時は苦しさを感じたけれど、今は裏に刻まれた優しさを思う。

正解も完成もない。結局は心が通うかどうかの問題で、それには演奏しないとはじまらない。

 
 

読み返すたびに思う事は変わって行き、見えてくるものも増えてくるけれど

完全に固まることなんてあり得ない。だから固まるのを待とうとしたり、神格化して飾るようなことはもうしない。

うまくやってやろう、と思えば思うほど本質から遠ざかる。ある種の挑戦と冒険に立ち戻る。

今年の僕は、熱を十分に冷ましたら外に出す。

 
 

時間は限られている。

新しい年度に入って、自分の年齢のみならず、友人たちの年齢にはじめて意識が向いた。

あと何曲を一緒に演奏出来るだろう、舞台の上でいくつの瞬間を共有することが出来るだろう。

背負わねばならないものは次第にお互い重くなって行くけれど、それを引き受けつつも初心に返る。
 
 
 

やりたいことを、好きな人たちとやる。

欲を捨て、気負いも捨てて、純な楽しさに仕えるように、無心にボールを蹴ろう。

 

 

あけましておめでとうございます。

 

 

あけましておめでとうございます。風邪&ロタ(?)ウイルスに苦しめられた年末でしたが、

なんとか回復し、ベッドの上でひたすら卒論を書き続ける元旦を過ごしています。

昨年は学問や音楽をする楽しさと共に、その裏にある苦しみを味わった一年でした。

 

学問上は19世紀後半から20世紀初頭のフランス文化史を専門にすることを決め、

それまでに読んできたものが一挙に繋がってくることに言葉に尽くしがたい刺激を受けました。

同時に、「フランス語で書く」ということがこんなに難しいことで、自らの語学に対する不真面目さと共に、

普段の自分がレトリックや曖昧な思考に頼って物を書いているかを突きつけられたような思いがして、

書きたい事が書けない苦しみに現在進行形で悩み続けています。

ともあれ卒論提出まであと二週間。大見得を切ってしまったタイトルに負けないよう最後まで詰めて書いて行きたいと思います。

(タイトルは、La naissance d’une nouvelle sensibilité à la lumière artificielle : Le rôle des Expositions universelles de Paris 1855-1900)

 

音楽活動について、レッスンでは一月から十月までひたすらベートーヴェンの交響曲と取り組み、

「千の会」にてブラームス、ドミナント室内管弦楽団とオール・ベートーヴェン・プログラム、

アンサンブル・コモドさんと東北遠征公演でポップス&クラシックステージ、コマバ・メモリアル・チェロオーケストラとヴィラ=ロボス、

クロワゼ・サロン・オーケストラと音楽鑑賞教室…どれも忘れ難い時間で、その度ごとに沢山の出会いや学びがありました。

うまく行ったこともうまく行かなかったことも沢山ありますが、一緒に演奏してくださった方々やコンサートを支えて下さった方々に、

そして貴重なお時間の中でコンサートにお越し下さった方々に心から感謝しています。

一月に卒論と院試を終えたら、三月にはまた本番が二つ。

自らの年齢に自覚的でありながらそれに焦ることなく、矛盾する要素を常に引き受けながら、

一つ一つじっくりと学んで行きたいと思います。今年も素敵な一年になりますように。

 

コマバ・チェロ・オーケストラ2012

アンサンブル・コモドさんと東北遠征公演にて。

 

音楽と言葉、2012年の終わりに。

 

毎年恒例のようになっていますが、今年もまた、この一年間にレッスンで見て頂いた曲や勉強した曲を

その時にメモした断片的な言葉と共に一覧にしておこう思います。

 

<2012年1月>

ベートーヴェン:レオノーレ第三番、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第一番

 

・密度の高い音を出せるように、そして相手に任せて相手のエネルギーを上手く使うことを工夫する。

・腕の重みを感じながら空気と空間を圧縮していくイメージ。

・意志の力が通っていて、一つの音符・和音の中に無数の小さな音符がぎっしり充填されたような、そんな音を引き出せるように。

・タイがいかに重要な役割を果たしているか!

・スコアを忘れて流れに身を浸すこと、ppの中で歌うこと。

 

<2月>

ベートーヴェン:交響曲第二番、交響曲第四番、交響曲第五番

・言葉はいらない、自然と音楽が流れはじめる。束縛されている感覚は全く無いのに、隅々まで意志が行き渡っていて、師匠の考える音楽を「弾かされて」しまう。

・指揮は何と繊細で奥深く、底知れない芸術であることか!意識がもっと先へと伸びていないとだめなんだ。

・スポーツでもそうだけど、音楽も上手くいかないときは「その一つ前」に問題やヒントが隠れているものだ。とりわけ、「動き出す前の動き」にこそ。

・自分の身体に落とし込んで、最後には全て忘れる。棒の持ち方が崩れそうになっていたことには要注意だ。

 

・第四番からは三番「英雄」の姿も見えてくるし、次の五番「運命」に繋がる要素も沢山見出せる。

・そういう意味で四番は過渡期 であり、様々な要素を含むからこその魅力に溢れている。複雑な要素が均整の取れた姿形に収まっていて、フィネスという言葉を思い起こす。

・改めて勉強してみて、クライバーの四番の演奏でなぜ背徳感に似た気持ちを覚えたのか分かった気がする。

・音楽をぐいぐい流しながら、沢山ある楽想を華麗に「無視」(適切な表現ではないかもしれないが)していくからだ。

・言うなれば、高速道路を爆速で走りつつ、オービス(速度監視カメラ)が至るところにあるのを十分に知りながら、しかしニヤリと笑ってそれを無視して駆け抜けるような…。

・つまり、この曲に潜んでいる「動き」の要素を抉り出し、極端なぐらい強調し、sfの「長さ」を「鋭さ」に読み替えたのではないか。

 

・ベートーヴェン四番一楽章で滅多切りにして頂く。実に二時間にわたる壮絶なレッスン。もっと重厚で変化に満ちた曲なのだ。今までで一番難しい。

・ベートーヴェン四番二楽章、なんと二小節しか進まず!瞬殺。この二小節にこんなに沢山のものがあったとは!

・バス内でベートーヴェンの四番を譜読み。スキーからそのままレッスンへ。ストックを指揮棒に持ち替えます。

・師匠に「もっと色気が出るといいねえ」と言われる。苦笑いしている僕に続けて師匠、「まだ年齢が足りないんだね。とはいっても、僕は中学生から色気があったと思うけど」

・レッスン終わり!ベートーヴェン四番を暗譜で通し合格を頂くも、「もう少し、もう少しロマンティックな曲なんだよ。まだ若いんだね」とニヤリ。

・レッスン後、師匠と呑む。流されずに生きて、未来に本当の「指揮」を見せてやれ、と強い言葉を頂く。未熟な身にも震える言葉だった。

 

 

<3月>

ベートーヴェン:交響曲第五番

ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲

・今日は右足に乗る。表現しよう、とするあまり、余計な動きが混入していた。削る。シンプルに、シンプルに。

・表現したいと思うことが増えて表現出来る部分が少しずつ増えてきたからこそ、基本に立ち戻る。

・「きちんと立つ」というただそれだけのことが何と難しいことか。

・運命、一度四楽章を通すだけでもこれだけのエネルギーを使うのだから、作曲したベートーヴェンはどれだけエネルギーを使ったことだろう。

・ある意味では、耳が聞こえていなかったからこそ耐えきれたのではないだろうか、とさえ思う。

・運命四楽章の譜読み。なんという単純で凝縮した楽譜。

 

・86歳の師に運命を教わりにいく。いつかみんなと運命を演奏する日を思いながら。

・運命について。「こういう曲は、期待して聞きに来た聴衆に、それ以上のものを聞かせなければいけない」、そんな言葉を頂く。忘れ難いレッスンだった。

・運命をみんなとやれる日が来たら、いつもあの言葉を思い出そう。聴衆の「運命」への期待を良い意味で裏切れるか。それには何年かかるか分からないけれど。

・今日は気持ちに動かされて指揮している感覚だった。終えて師匠はただ一言、「そうだよ」と微笑んで下さった。

・運命三&四楽章、振り終えて師匠から「文句なし!これは立派だ」と笑顔で言葉をもらう。疑っていたら、数秒の沈黙のあと師匠が、「でも ね。」と口を開く。

・「君が僕ぐらいに歳を重ねれば、もっと良い演奏が出来るよ。いくぞ」と棒を取り上げる。言葉にならない凄まじさ。震えた。

 

・ハイドン・バリエーションを勉強していると、木で出来た歯車が見える。最後にはゆるやかにその回転を止め、一瞬の沈黙が訪れたあと、一気に…。

・所属や進路を決めてゆく、というのは、 一つの夢を現実にしていくことであると同時に、複数の夢を手放していくことなのかもしれない。

・いつまでも夢や可能性を描き続けることは本当に難しいことな のだ。春が滲む三月の終わり、出勤する人々で満員の電車に揺られながら、ぼんやりとそんなことを思う。

・電車で正面に座った赤ちゃんが、僕の方を指して「あれは?あれは?」と笑顔で言う。

・何だろうと思ってその子の視線を追うと、僕の座席の後ろの窓を見ている様子。

・釣られて僕も後ろを振り返ると、窓の外には何ともいえない美しさの夕暮れと夜のグラデーションが広がっていた。

 

・休学中の最後のレッスンだった。良い一年間だった。数えられないほど沢山のものを教わった。明日からいよいよ「運命」!

・楽しいからやる、という気持ちを忘れたら死ぬ。楽しいと思えなくなったら迷わずやめる。だから楽しさをいつも見出せるように学ぶ。

 

 

<4月>

ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲

ベートーヴェン:エグモント序曲(二回目)

 

・エグモントの思い出話。斎藤秀雄にレッスンを受けたとき、冒頭の一小節をひたすらダメ出しされて、ここだけ何十回もやりなおした、と。

・「だから君も何十回もやらさせる」と同じようにダメだしの嵐。確かに難しいし、うまくできない。

・完成したものを一旦壊し、過去を慎重に再現するのではなく、その場で即興的に作り上げてみよう。

・自在に変奏しながら、しかし変奏と変奏を繋ぎ止めながら、即興が必然と化す一点。

・ピアノ線のように細くも確かな意志の糸を最初の一音から最後の一音に向けて通す。

・楽譜通りにやれば良い、ということと、楽譜に書かれているのは最小限の要素だ、ということは矛盾しない。

 

 

<5月>

シューマン:子供の情景(二回目)

ベートーヴェン:交響曲第一番(二回目)、ピアノ協奏曲第四番、交響曲第三番「英雄」

 

・コンサートを終えて師匠の指導が四割増ぐらいで細かくかつ厳しくなった。

・師匠が教えて下さることが少し変わった。「その感じ方じゃない」「そこはもっと音をシメてみろ」こんな言葉は今まで貰えなかった。

・いまは少し振るのが怖い。見えているものを棒で拾いきれない。棒の網目が掬うべき要素に比して荒い。零れていくものが見えてしまう。

 

・二年ぶりに、シューマンの「子供の情景」を見て頂く。あらためて感動で泣いてしまった。なんという深さ。

・「そうだね、また十年後にやってごらん。人を愛し人生を重ね、子供を育て…そうするうちに二十代の君に今は見えないものがきっと沢山見えてくるよ」

 

・ブラームスの底無しの面白さ。

・プロの奏者の方々から沢山教わる。音楽に関わることの出来る喜びと苦しみを改めて味わった。

 

・英雄。まだ到底表現出来ないけれど、この一楽章が何を言いたいのか少し分かる気がする。

・ナポレオンというよりはギリシャの英雄。個人ではなく英雄「的なもの」 だ。

・二番と三番の間には確かに飛躍があるけど、三番と四番には強く共通する発想があるように思う。

・英雄。師匠の最も愛した曲を見てもらえる幸せ。振るとこんな気持ちになるんだな。今まで経験したことの無い感情が湧いてきた。

・見せて下さるものを受けこぼしたくない。全感覚を逆立てて見る、聞く、感ずる。

 

・統一感をとりつつ一気呵成にならぬよう移ろうことの難しさ。

・ダンテの『響宴』、天使は「その形相においてほとんど透明」(quasi diafani per la purita de la loro forma)と形容されている。

・バシュラールの凄み。「時間とは瞬間の上に局限され、そして二つの虚無のあいだに宙づりにされた実在である」

 

6月

ベートーヴェン:交響曲第三番「英雄」

 

・英雄二楽章、ぶっ飛んで難しい。描いているものは見えすぎるぐらい見える。

・でも、単に情景を描くのではないし、深く沈み込んでいるだけでは死んだ水みたいになる。

・死の中に潜んだ生、生から滲み出す死。葬列、彼岸の揺れを音楽の中に刻むには。

 

・「そうだね。僕も若い頃は君みたいに考えていた、でもこの歳になって思う。葬送とは、死を送るとは、こういうことだ。」

・その言葉と共に振って下さった時に空間を満たした音の深みと孤独、今の僕にはどんな言葉を持ってしても表現できない。

・慟哭か有りし日の栄光か。音が決して抜けないように、光が差し込まないように、僅かな幅に凝縮させて振り続ける。

・「なんでこれが唐突に出来るようになったか分からないけど、さっきより出来ている」と言われた部分。

・見返してみると半分ぐらいヤケクソになっていて、そのおかげで先へ先へと作っていけていることに気付く。ギリギリのズレで置き去りにしていくこと。

 

・英雄四楽章を勉強していると鳥肌が立つ。あらゆる要素が結びついて変奏されてゆく。

・音響や和声だけではなく、明らかに「時間」を操作している。

・レッスン終わり。英雄、暗譜で四楽章まで。これまで暗譜で通して来た1、2、4、5番と全然違う。

・気をつけないと曲に飲み込まれる。楽譜から自由になるどころか、零れ落ちてゆくものに唖然とした。

・終わってから師匠が「英雄が特別だ、という理由が分かっただろう」とニヤリと笑う。未熟!!

 

 

・コンチェルトの本番を終えてから、色々な楽器の方々より一緒にコンチェルトをしたいというメールを頂くようになった。

・自分の勉強が追いつかないのでまだお受けすることは出来ないけれども、嬉しいことだなあと思う。がんばって勉強しなければ。

 

 

<7月>

ベートーヴェン:交響曲第六番「田園」、交響曲第七番

・田園一楽章の一瞬g-mollになるところが好きすぎて悶絶せざるを得ない。

・雲に太陽が隠れる光景が、快さの中にふと不安や翳りのよぎる心の動きが鮮烈に立ち上がる。

・田園、ドとソばっかりだ。

・田園二楽章を譜読み。ナイチンゲールのフルート、ウズラのオーボエ、カッコウのクラリネット。

・冒頭低弦による三連符は小川のせせらぎ。地上を流れる川と上方を舞う鳥という二つの次元が楽譜/楽器で表現されている。

・そしていつしか小川は川となり、鳥は群を成す。

 

・田園のレッスン、多くを教わる。とりわけ二楽章で頂いた言葉。

・「君はまだ若いから難しいかもしれないけど、いつか分かるよ。繊細に大らかであれ。二つとも君が持っているものだ、同居させてごらん」

 

・田園四楽章「嵐」を勉強。ゆっくりスコアを見たのは初めてで、感動している。

・ここで空に雲がかかり、雨が落ち始め、雷光が鳴り、雷鳴が遅れて轟く。

・その様子、そして自然の猛威を前にした人間の気持ちが楽譜から鮮やかすぎるほどに立ち上がる。雨が振る角度の変化すら、ありありと!

・嵐。世界がモノクロになり、再び色を取り戻していく…。嵐において、なぜコントラバスにこんな無茶なパッセージを書いたか、少し分かる気がする。

 

・五楽章。神様への感謝という感情を含ませて、そして景色がズームイン/アウトするように振ろう。

・嵐のあと、優しい風が樹々を揺らし、鳥が再び囀りますように。

・けれども小細工も恣意もいらない。必然だけが自然に宿るように。

 

・田園を最初から最後まで通す。田舎について、小川のほとりを歩き、踊りと歌を楽しみ、嵐が過ぎる。

・五楽章に辿り着いたとき、こんな気持ちになるのか。内側から幸せがあふれてくる。

・そして一つの物語を閉じる最後の音。信じられないほどの充実感!

 

・ベートーヴェン七番、二楽章まで。そしてブラームス四番一楽章冒頭。ああ、そういうことだったのか。

・詳しく書けないし書こうとも思わない。とにかく忘れ難い時間になった。

 

・自由でなければ息絶える。

・言葉を放つのも、言葉を飲み込むのも、すごくエネルギーのいること。

・金に擦り寄る気配やウケを狙う様が透けて見える芸術ほど醜い物はない。心しよう。

・だから、好きな人たちと好きなことをする。焦ることはない。

 

 

<8月>

ウェーバー:「オベロン」序曲

ビゼー:「カルメン」組曲

 

・サーフィンへ。熱海に近づくにつれ窓の外に広がる海を見ながら、昨年の今頃は「白鳥の湖」を勉強していたのだな、と思い出す。

・あれからもう一年経ったとは。海は、一瞬たりとも同じではいないその揺れ動き、複雑さによって、いつまでも外部を見つめることを可能にする。

・同時に海は、その茫漠とした単純さによっ て、人が自らの内へと静かに意識を向けることを許す。

・二つの性格に通底するのは「時間」であり、それは終わりなき差異と反復の連鎖だと思う。海を見つめることで、人は空と海の境界を喪失する。

・そしてまた、人は海の中に身を投ずることによって、身体と身体の外部との境界感覚を失い、世界へ溶け出でる。

・年齢を重ねるにつれ、奔放でいられなくなる。僕はそれが嫌いだ。守りに入らず、いつもゾクゾクする波と一緒にいたい。

・奔放と誠実は同居しうる。

・再現というよりは、忘却。そして生成。

・相対化し続ける作業は必要だ。苦労して手に入れたものや今にしがみつかず、篩にかけ続ける。

・そして、それでも残るものを大切に。

・夏の陽射しに貫かれた自分の影を見ると一層思う。冬になって、この影のどれほどが残るのか。

 

・初回練習四日前に三つの楽譜が渡され、三日前にまた一つ楽譜が渡されるというエクストリームな状況を体験している。

・大変だが、信頼して頂いているのだと思って勉強時間を捻出してきちんと乗り切るしかない。

・被災地にて。海は凪いでいる。見渡す限り無。風が吹き抜けて緑を揺らす。草地の中に残された泥まみれの上履きが残酷だった。

・宮城県での演奏会、すべて終了。三公演とも同じ曲だけど同じ演奏は無い。最後のフェルマータを伸ばしながら、ああ、終わってしまうのだなと思った。

・見た光景も、会った人々のことも、一つたりとて忘れはしない。

・夢の中で、この三日間で会った人たちの顔と声と音が流れていた。

 

 

・ベートーヴェン七番の四楽章、スコアを見ると驚かずにはいられない。

・今まで半年かけて一番から六番まで勉強してきたが、どの六曲にも比して音符が整然と、そして執拗に密集している。

・舞踏や狂乱という言葉で表現されてきた理由も良く分かる。

・レッスン終わり、ベートーヴェン七番を最終楽章まで見て頂く。

・四楽章、前回はっちゃけすぎて怒られたので、今日は自重気味にやろうとしたら、もっと激しいものだと言われる。

・距離やテンションのシビアさ。

 

 

<9月>

ベートーヴェン:交響曲第八番

尾高尚忠:フルート協奏曲

平井丈一郎:チェロ・アンサンブルのための頌歌

 

・「コンサートをしよう、さあ場所はどうする」という発想も良いけど、 「この空間で何かしたい、さて何をやろうか」という発想も好きだ。

・駒場の施設をめいっぱい活用して演奏していきたい。

・日本人の曲を取り上げる、という姿勢も師から受け継ぎたい。そして僕は日本人の曲が好きだ。

 

・ベートーヴェン八番四楽章、ここから何かの言葉を読み取ることは今の僕にはどうしても出来ない。
・工夫と遊びに溢れた精巧な楽章なのは分かるけど、あまり好きにはなれない…。観賞用の美女という感じ。

 
 

・波の待ち方、波の乗り方。そのウネリは海という大きな「全体」の中 でどんな波なのか。
・波の一つ一つを精緻に見ながら、海という全体の中に位置づけなければならぬ。
・海面に少し立てるようになったら、次はもっと高くに自らを 飛ばし、広々と見渡さなければならない。そういうことだ。

 

・一緒に演奏して下さった奏者が出演する演奏会には、出来る限り行きたいなあと思う。曲はもちろん、人で音楽は繋がっている。

 

・先のことなんか分からない。病は悪化するかもしれないし、明日死ぬかもしれない。とりあえず毎日楽しんで一生懸命生きるしかない

・帰ってきて少し進化した。前に出来なかったことが一つ可能になっている。低音と休符。滑らかな時間、条理の入った時間の中で取る整合性。

・息をゆっくり吐こう。密度と脱力。去年の課題に立ち戻り、苦しまずにのびのびと。

・右足を出す。左手が出る。肩が風を切る。そういうことだ。不自然なものは何も無かった。

 

・昨日とは違うことが出来そうな気がする、というこの不思議な予感に魅せられて音楽をしている。

 

<10月>

ベートーヴェン:交響曲第九番(一楽章のみ)

ヴィラ=ロボス:ブラジル風バッハ一番

ウェーバー:オイリアンテ、魔弾の射手

 

・音楽しているときと学問しているときとで明確に気持ちを切り替えられるように、しかし両者が敏感に触発し合うように頭の中を作っていきたい。

・15年ぶりに会う友人から、15年前にあの子はあなたの事を好きだったのよ、と聞かされて、アルルの女のアダージェットを思い出した。

・そして小六の自分が 書いた文章が今も彼女の記憶にある事を聞く。数行に全身全霊を込めて書いたあの幼い文章が、まだ誰かの中で生きているとは。

・一年前の自分の演奏を聞いて、何にも分かっていなかったことが分かった。おそらくまた来年も、再来年も、前を振り返ってそう思うに違いない。

・そういうふうにして少しずつ積んで行くしかない。何にも分かっていなかった!と思えなくなったら、その時はもう音楽をやる資格を失った時なのだと思う。

 

・ヴィラ=ロボス。自分にとって最も大切な曲の一つ、と言える曲を振りに行く。本番も楽しみだ。

・一生この曲を取り上げていくつもりだし、何度も何度も師から教わりたい。いつまでも勉強し続けたい。

・過去を再現してはダメなのだ。一からその場で作り直す。その時のあらゆる要素に影響されながら、無から生まねばならないのだ。

 

・数回の迷いから脱出した。孤独でいることは大切だが、孤独に入り込んではいけないのだ。

 

・信じられない事だが第九を勉強していたら朝になっていた。天地を創造しにいくぞ、という気持ち。

・いつか第九を振りたい。

・一楽章がこんなに凄まじい音楽だったとは勉強してみるまで分からなかった。空間を動かすエネルギー。

 

・魔弾の射手が好きすぎて打ち抜かれることも辞さない。

・魔弾の射手、師の至芸を見た。

・「中々良いね。でも君はまだ景色や物語を見ている。それを超えるとさらに面白いことがわかるよ」と振り始めると、

・とんでもなく悠々と広々とした音がふわり。笑顔にならざるを得ない。「どうだい?」と聞かれて思わず「…幸せです…」と答えてしまった。

・風景に入り込むか、風景をその場で生成させるかの違いだ。

・一週間後、魔弾の射手を暗譜で通す。こんなに気合いが入ったのは久しぶり。

・振り終えて師匠はぽつりと「これなら満足できる」と一言。帰り際に「今日は良かった」と言葉を下さる。

・足りぬ所はたくさんあるけど、今は素直に喜んでおこう。

 

・音楽も光も香りも、空間と時間をコントロールする芸術なのだ。

・結局は想像力の問題で、僕はそこに惹かれている。

・想像力を掻き立ててくれるような、あるいは想像力を鍛えてくれるようなモノや行為と関わり続けていたい。

・舞踏会のように人を愛す。涼やかな秋風に柔らかな笑顔が宿る。

 

<11月>

メンデルスゾーン:「フィンガルの洞窟」序曲、交響曲第四番「イタリア」

グリンカ:「ルスランとリュドミュラ」序曲

リスト:「前奏曲」(レ・プレリュード)

 

・フィンガルの洞窟のスコアを読んでいると、海鳥が空を舞うのが見える。

・フィンガルを振って、沢山のことに気付いた。ボードレールの万物照応。異なる時間の混入。

・記憶が「よぎる」こと。明日はもっと4Dにやる。

 

・バレエのレッスンはめちゃくちゃ面白かったし勉強になった。ちょっと考え方が変わりそう。

・一瞬の産み方掴み方、加速減速による「滑らかな時間」の混入など、指揮に繋がるところが山ほどあった。

・心の持ち方はもちろん、技術的・身体的なほんの僅かなズレで意図した音から遠ざかる。

・昨日の僕は手首が少し内側に入っていた。腕の重さが狙い通りに集まっ てこないと冒頭のあの音の厚みは引き出せない。

・音量ではなく質の問題。そう言語化することで意識に叩き込み、レッスンへ向かう。いつだって原因は基礎にある。

・ルスランとリュドミュラを振っていて凄い事が起きた。

・最後のフェルマータ(ティンパニロール)の和音を鳴らした瞬間ジャストで地震。大地が鳴った。

 

・レプレの譜読み。気付いたら泣いていた。苦しい。なぜCのピチカートが二回あるのだろう。二回の違いは。意味は。Dとの関係は。

・レプレ、読むだけでどっと疲れる。ある種の狂気が宿っていて、そしてそこが好き。

・細かい音符を拘束するのではなく、invite出来るように意識。

・その瞬間に何十人もの身体を預かっている、ということをもっと考えよう。

 

 

<12月>

リスト:前奏曲(レ・プレリュード)

レスピーギ:リュートのための第三組曲(古代舞曲とアリア)

ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲

J.シュトラウス:「こうもり」序曲

 

・レプレ、凄まじいレッスンだった。ここ数ヶ月で一番濃かったかもしれない。

・実に一時間半ぐらい見て頂いて、昨日も同じ曲をやったはずなのに全く違うものが響いていた。

・言葉抜きに音楽で師と会話してその度ごとにその場で作って行く感覚。極めて刺激的。

 

・前回の激しいレッスンを踏まえて何が出来るか。断片を統一させる。無理矢理にではなく、あくまでも自然に。

・音がボケてる、という師の指摘はまさに。光景を目の前で作って行かなければならないところで、先に光景へと入り込んでいた。

・このバランスの微妙さ!あくまでもキャンバスに色を落として行く画家でなければならず、描かれる光景の中に生きてはならない。

・目の前で絶えず作り変えていくこと。光景はその結果の産物。音符は音符じゃないんだけど音符。禅問答みたいな真実。

 

・弓の速度と息の速度を考えること。

・ウネリと全弓と管の音の密度。圧ではなく深さ。真っ黒なCとグリザイユのD。ロマン派の音楽の距離感の難しさ。

・終わってから師に「先生は楽譜とどれぐらいの距離なんですか」と抽象的な問いをぶつける。

・簡潔だがしかし深い、仙人のような答えが帰って来た。

・昨日まで取り組んでいたリストの前奏曲とはもう全然違う世界、古代舞曲とアリア(第三組曲)。

・二楽章のメドレーを一つずつキャラクターを立たせていくのは簡単ではないけれど、テンポも拍子も表情もころころ変わるので振っていて楽しい。

・今年最後のレッスン終わり。こうもり序曲を楽しく。この曲は難しい顔では振れない。

・終わってから、昭和24年(だったか?)に金子登さんがこうもり を日本初演した時にアシスタントをしていたという師の思い出話を聞く。

・懐かしいなあ、と遠くを見ながら話していらっしゃった。オペレッタや オペラ、そして序曲は沢山のことを教えてくれる。もっとやりたい。

・pのレンジとニュアンスをもっと考えよう。音色の問題にもっとシビアになろう。大きな流れを掴めるように。

 

・一年間の振り納め、気恥ずかしくなるほど鮮やかな薔薇の花束を頂いて帰宅し、本番用の指揮棒をケースに戻す。

・協奏曲や東北遠征公演など、沢山の本番を頂いて幸せだったと同時に、もっともっと勉強せねばと思う一年間だった。

 

・自身の変化を感ずる一年だった。年齢じゃなくて環境がそうさせる。年齢なんて所詮数字で、体や頭の諸々の変化は誤差の範疇だ。

・にも関わらず変わらせるものがあるとすれば、それは自らが経験した事であり、出会った人であり、悩んだ時間であるだろう。

 

 

 

こうして並べてみて、ベートーヴェンで頭がいっぱいになった一年間だったことを確認しました。

25歳の一年間が87歳の師よりベートーヴェンの偉大な交響曲を教わっていく一年間であった事が幸せです。

一年前にまっさらだった九冊のシンフォニーの楽譜は、持ち歩き、書き込み、本番でも演奏するうちに、

いつしかボロボロになって本棚に眠っています。

 

レッスンのみならず、一年間に七回の本番を頂き、色々なオーケストラで色々な曲を振っていくうちに

音楽をすることの楽しさだけではなく、苦しみを知った一年間でした。

教えを下さった方々に、そして一緒に演奏して下さった方々に心から感謝します。

孤独に悩み、何を守るべきか迷った時もあったけれど、しかしそれでも、僕は指揮をやりたいと思う。

来年も沢山の曲を学び、沢山の感情と人とに出会い、沢山のステージを経験できますように。

2012年の終わりに。

 

 

 

来年の課題

 

音楽の大きな流れをつかむこと。ひとつの音の中にあるたくさんの要素を聞き取り表現すること。

十分に用意しながら、けれどもその場で響いた音に柔軟であること。

任せる所は自由に任せ、ここぞという肝心の場所と全体の見通しとでしっかり引っ張っていくこと。

そして最後に、失うことを恐れないということ。