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ある種の中毒

 
明け方までブラームスの一番とシベリウスの七番を勉強していた。眠りにつこうと思っても猛烈に楽器を練習したい気持ちが襲ってきて目が冴えるばかり。

無理矢理寝てみたものの、夢の中ではブラームスの「七番」が出来上がっていて眠った気がしない。

反動のように、今日起きてからは楽器を弾くことだけで陽が沈んだ。

夜に振りにいくブラームス一番に備えて、(僕のレベルでは無いに等しいとは言え)フルートで吹けるところを吹いてみて、

疲れたらピアノの前に移動して、飽きたら弾けないチェロを弾いて休憩している。それぞれ使う筋肉が違うので、こうして巡っていくのは悪くないなと思う。

頭と身体をすっきりさせてもう一度スコアの前に向かう。そうすると先程とは少し違うものが立ち上がってくるのだ。

Brise urbaine

 

四ッ谷のカフェで三時間ほど、現在の活動についての取材を受けた。

結局のところ、僕は、大学・大学院で学んだものと、指揮という芸術に関わって見出すものを融合させることに最大の楽しみを見出している。

ジャコメッティのデッサンについて考えることで指揮の哲学に新たな道が開ける。

ボードレールの一節に触れて、指揮の師が与えて下さった言葉にならぬ言葉を唐突に理解する。そういうことだ。

 

それが何か絶対的な真理であるなど到底思わないし、融合したものを誰かに押し付けたいなんて微塵も思わない。

けれども両者をポエジーの中に響き合わせる試みこそが(それを学問的でない意味において「比較芸術」と呼んでいたいのだ)自分が生きた証と言うに足る何物かへと繋がっているのだと思う。

 

帰り道の空は満月だった。夜風に身を委ねて行く先知らず。

また夏がやってくる。26歳がもうすぐ終わる。

 

五月の陽気に

 

週末にシベリウス七番のリハーサル、平日はブラームス一番のレッスン、それからバーンスタインとガーシュウィンのリハーサルがほぼ一日おき。

どれも大変な曲ばかりだけれど、勉強になること、教わることばかりで毎日が本当に充実していると思う。

 

五月晴れの今日も朝から夜までリハーサルだった。

さすがに疲れたけれども、頭が働いているうちに近くのカフェに飛び込んで今日のリハーサルで気付いたことを色々と纏めて書き出しておいた。

もっと棒で出来ることがある。音というより「空間」としか言いようのないものを纏めあげるという可能性について。

それから、ボードレールの「酔い」がもたらすイマージュ、時間の重みに屈しないことについて。

 

楽譜を閉じる。曲とは全く無関係だけれども唐突にNuovo Cinema Paradisoの名台詞が耳に蘇って来た。

La vita non è come l’hai vista al cinematografo: la vita è più difficile

(人生はお前が見た映画とは違う。人生はもっと困難なものだ。)

たしかにそうかもしれない、と思う。でも、台詞はこう続いたはずだ。

 

「行け、前途洋々だ」

 

ブラームス

 

Toute fin n’est jamais qu’un commencement. (どんな終わりも、何事かの始まりに過ぎない。)

終わりと始まりは同時に訪れる。この楽譜を開くということは、一つの終わりが近づきつつあることを意味している。

 

ついにこの曲を勉強する時が、そして振るときが来てしまった。もちろん僕には早すぎる。おそらく永遠に早すぎるままだろう。

少しでも近づきたい気持ちと、現実を認めたくなくてまだ遠くにいてほしい気持ちとが激しく交錯している。

 

僕がこの曲に命を注げば、病床にエネルギーが届く気がする。そう思うのはメルヘンにすぎるだろうか。

それでも何故か意地のようになって、起床してから日が変わる前まで、ひたすらこの一冊に向かい続けた。

僕の人生が一年短くなってもいい。どうかあと少しの時間を。

 

Une seule fois

 

本番を終えた楽譜を納めるとき、いつも言葉にならぬ寂しさに襲われる。

この曲を演奏する事はこの先何度もあるかもしれない。けれども、この曲をあのメンバーと演奏するのは二度と無い事なのだ。

音楽はいつも一回限り。儚く、しかしそれゆえに掛け替えない。

 

 

関西での本番を終えて、来たときと同様に新幹線で東京へ戻る。

抱えていた苦しみは一緒に演奏してくれた子供たちの笑顔と頂いた拍手で吹き飛び、また音楽したいという気持ちだけが強く残る。

明日からはラプソディー・イン・ブルーのリハーサル。どんな音色になるのか楽しみでならない。そして、きっとまた、沢山の人たちと出会うのだろう。

人と会って話すのが昔から好きだった僕にとって、指揮者というのはこれ以上なく恵まれた立場であることに今更気付くのだ。

行く先々でたくさんの人と会い、音楽で会話し、お酒を飲んで笑う。そんな日々を重ねていきたい。

 

 

 

満席!ベガ・ジュニアアンサンブル 7th Concert

 

 

ベガ・ジュニアアンサンブル第七回コンサート、無事に終演致しました。

開場前から長蛇の列ができ、なんと満席!関西で最初に指揮させて頂いたコンサートが満席御礼というのは幸せなことです。

来て下さった方々、本当にありがとうございました。家族を自分の指揮するコンサートにはじめて招待することもでき、一つ夢を叶えることが出来ました。

 

当日のプログラムは以下になります。

2014.3.23@宝塚ベガホール

1.鉄腕アトム
2.ブルック・グリーン組曲
3.パイレーツ・オブ・カリビアンメドレー
4.カルメン組曲
—休憩—
5.ハイドン:交響曲第101番「時計」
6.プロコフィエフ:「ピーターと狼」
7.星に願いを(アンコール)

 

小学生から大学生までの奏者の皆さんと一緒に、今出来る限りの演奏が出来たと思っています。

パイレーツオブカリビアンでは、どのリハーサルよりも良い音が鳴っていて、みんながノリノリの表情で弾いていて下さっていたのが印象に残っています。

プロコフィエフの「ピーターと狼」で共演した中学二年生でフルートのソリスト脇坂さん、そして人形浄瑠璃の豊竹希大夫さんの語りともタイミングばっちり。

打ち上げで奏者の皆さんから頂いた、「指揮を見ていたら弾けた。今までで一番楽しかった」という言葉や、トレーナーの先生方から頂いた

「ベガジュニアの黄金期がやってきた」という言葉には、幸せに身が震える思いでした。

 

未熟ながらも指揮をやっていて良かった。アンコールに演奏した「星に願いを」の響きが今も頭から離れません。

悩むことも多いけれど、本番の楽しみはやっぱり何物にも代え難く、演奏中に目が合ってにやりとする一瞬の喜びをまた味わえるように明日からも勉強しようと思います。

弦楽器の先生方の厳しくも温かいご指導、ベガホールという素晴らしい空間、本当に恵まれた環境でした。また皆さんと一緒に演奏する日が訪れますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神戸新聞に掲載頂きました。

 

3月23日に指揮するベガ・ジュニアアンサンブルの第七回演奏会を神戸新聞に取り上げて頂きました。

贅沢な事に本番会場のベガ・ホールでリハーサルを重ねていますが、噂には聞いていたけれど雰囲気も音響も最高のホールで、今まで演奏した中ではダントツで好きなホールになりました。

シャンデリアと煉瓦の組み合わせがいかにも神戸・宝塚らしく、ヴィオラを筆頭に響きがとても美しい。本当に素晴らしい空間です。

 

それにしても人形浄瑠璃の方とのプロコフィエフ「ピーターと狼」は本当に刺激的!

比較芸術を専門にする身としても異なる領域とこうしてステージをご一緒させて頂けることは嬉しくてならず、語りが入るたびに「!!!」とニヤニヤしてしまいます。

演奏者は小学生から大学生まで、20歳以下の方ばかりですが、皆さんとても真摯に取り組んで下さる様子が伝わって来て、指揮していてとても楽しいです。

トレーナーには指導経験豊富な素晴らしい先生方がついてくださっており、非常に的確なアドバイスや、雰囲気を考えて言葉を選んで下さるご様子に僕も多くを教えて頂く日々です。

 

先生のお一人は桐朋時代にあの斎藤秀雄先生(僕の師の師です)の指揮で演奏されたことがあるそうで、その先生から初日のリハーサルの際に

「斉藤先生の姿が見える…」というお言葉を頂いた事は、一生忘れられないほど嬉しいことでした。師匠に報告すれば「100億年早い」と一喝されてしまうでしょうが、

斉藤先生の教えを徹底的に守り続け、伝え続けていらっしゃった村方先生に日々教えを頂く身として、このお言葉はちょっと涙無しでは聞けないもので、

遠くで見守っていて下さるであろう師に心から感謝するばかり。フィリピンで一緒した奏者の皆さんがわざわざ東京から聴きに来て下さることも幸せでなりません。

皆さんの期待とご声援に応えられるよう、精一杯指揮させて頂きたいと思います。

 

ベガ・ジュニアアンサンブル(神戸新聞)

 

 

 

 

<Music & Science>No.5 「スタンダード・ジャズ - いつか誰かと…」を終えて

 

ゲストとして参加させて頂いたFreshman Festivalが無事に終わりました。

なんと10社以上のメディアから取材依頼があったそうです。僕は大したことをしていませんが、新入生の方々の嬉しそうな表情を見ていると、ああ良かったなあと思えました。

在校生が手作りのイベントで新入生をもてなす。こういう「歓待」の精神はとてもいいですね。

 

夜は丸ノ内インターメディアテクで企画している室内楽コンサート<Music & Science>No.5 「スタンダード・ジャズ」へ。

吹き抜けの空間で素晴らしい音色と自在なアドリブを楽しませて頂きました。お客様からのリクエストを受けてアンコールに演奏されたMy Favorite Thingsがとってもお洒落!

つい最近オーケストラでこの曲を演奏した直後ということもあって、こんなふうに旋律を展開していけるのだなあと鳥肌と共に感動するばかりです。

 

これにて丸ノ内での室内楽コンサートは一区切り。

学問上の研究テーマの一つでもある19世紀のパリ万国博覧会において、「音楽の展示」というコンサートが行われていたということが

このコンサートを発案する上で大きなヒントになったのですが、こうして連続して企画させて頂くことが出来たのは本当に幸せなことでした。

 

第一回「対話編」:チェロとバンドネオンによる17世紀バロック音楽とアルゼンチン・タンゴ

第二回「驚異の口笛、そしてギター」:口笛とクワトロ&ギターによるベネズエラ音楽

第三回「ケルトの響き、時空を超えて」:フィドル、バウロン、コンサティーナ、ホイッスル、ダブルベースによるケルト音楽

第四回「群れ集うチェロ弾きたち」:チェロ・オーケストラ(チェリスト15名+指揮)とフルートによるブラジル音楽 (レビューはこちら)

第五回「いつか、誰かと…」:ピアノ、サックス、トランペット、ウッドベースによる、スタンダード・ジャズ

 

 

全五回の内訳は以上です。僕なりのコダワリから、室内楽コンサートとしてはおそらく相当異色なプログラミングで企画および演奏させて頂きました。

ただワールドワイドな音楽を並べただけはなく、楽器と音楽が有する「驚異」を十分に味わえるように、

奏者と観客が出来る限り近い距離を共有することができて、展示の空間と音楽が対話を重ねることができるようにと考えた結果です。

奏者はこれまで一緒に演奏して来てその人柄と腕を良く知っている友人たちに打診させて頂き、美学を共有できる運営メンバーのお二人にも恵まれて、

幸せなことに毎回とてもご好評を頂くこととなりました。音楽の純粋な楽しさはもちろん、博物館で演奏するということによって立ち上がる

「場」の楽しみを少しでも感じて頂けたとすれば嬉しいです。

 

演奏して下さった方々、一緒に企画して支えて下さったIMTやJPタワーのスタッフの方々、お忙しい中に足をお運び頂いたみなさま、本当にありがとうございました。

次年度以降の予定はまだ決まっておりませんが、もしも継続出来ることになりました際には、どうぞよろしくお願い致します。

 

第四回「群れ集うチェリストたち」開演前

 

海をつくる

 

 

帰国して一週間以上経つというのに耳から子供たちの笑い声と歓声が離れない。

フィリピンでの日々がどれほど自分に衝撃を与えたか思い返している。

 

フィリピンについた二日目、僕はマクタン島の海に行った。

遠くへ伸びた突堤の先端まで一人で歩きながら、この十日間で海をつくろう、と決心した。

海は、どんなものだって受け入れる大きさを持ちながら、確かな方向性を持っている。

様々な要素を包み込むことと、大きな流れを見失わないこと。海のイマージュに託して考えたのはそういうことだった。

 

 

包み込むこと。

オーケストラには考え方や性格や技術の異なる色々な人がいる。それはそういうものだし、それこそがオーケストラなのだ。

無理に一つに整えようと躍起になるのではなく、それぞれの個性を最大限に尊重しながら自然と同じ方向へ導いて行く。

一人一人が自由に奏でた結果、同じ流れの中に合流して大河を生む。

それは簡単なことではなく、時間のかかることかもしれないが、技術の巧拙を超えて「志」を持った温かい音はそこから生まれると信じる。

 

 

大きな流れ。

細かな視点から書き上げれば、一つの音符の方向性にはじまり、主題の作り方、楽章ごとの持っていきかた、曲そのものの持っていきかた、

そして曲と曲の非連続/連続性=プログラミングに至る。細かな要素一つ一つに「流れ」があり、同時にそれはマクロな流れの中に位置づけられる。

そういう意味で当然ながらプログラミングの重要性は大きく、相当なこだわりを持って毎回のプログラムを作って行った。

(フィリピンではいわゆるコンサートホールのようなものが十分に存在しないこともあり、

演奏会場についてから音響とお客様の様子を考慮して、その場でプログラムを決定させて頂いた)

 

それ以上に大きな流れ。それは、「十日間続くコンサート」という連続した日々の流れだ。

一回一回のコンサートの流れが小説のチャプター一つずつにあたるとすれば、これは小説全体の流れにあたる。

一回一回のコンサートが支流を作るようなものであったとすれば、この最も大きな流れを捉える思考は鳥の眼差しだ。

それぞれの川がいつしか集まって一つの「海」を作っていたことを見出すような…。

 

 

どこまで果たせたかは分からない。

けれども、最後の演奏会を指揮しながら、僕には確かに海が見えたのだ。

 

海をつくる

 

 

 

 

信じること

 

フィリピンでの全てのコンサートを終えた。

もう一日だけフィリピン滞在を延長して、波の無い静かな海、しかしどこまでも広がる海を目の前にこの文章を書いている。

 

終わったという満足感と、終わってしまったという喪失感が同時に押し寄せる。全部で何千人の人たちに演奏を聞いて頂いたのだろう。

荒い部分や未熟な部分は沢山沢山あったと思うけれど、どのコンサートでも盛大な拍手で迎えて頂いた。

「オーケストラに入りたい!」「指揮者になりたい!」

終演後、子供たちは駆け寄って来てくれて、さきほどまで演奏した曲のメロディを口ずさみながら、真っ直ぐな目でそんな言葉をくれる。

最終日のベートーヴェン五番を振り終えたとき、満席の人々が立ち上がり、拍手を下さる光景には

心の底から湧き上がってくる感情と涙を抑えることが出来なかった。

苦悩から勝利へ。なぜならば、ベートーヴェンの「運命」は、僕にとってこの十日間そのものだったのだ。

 

トラブルやアクシデント、言語の壁や文化の壁、想像も出来ない数々にこの期間中は本当に苦しめられた。

時に楽器は壊れ、様々な都合に左右され、効果的なリハーサルが出来る環境や状況にはほど遠く、音響も非常に難しい場所ばかりだった。

奏者のみんなが動揺し、不穏な気配が侵入するのも肌で痛いほど感じていた。

それでもやはり、たとえどんなに苦しくても、僕は最後の乾杯の瞬間までは決して心を揺らさず、笑っていようと誓っていた。

僕が疑いの目で見られても、僕は奏者を信じ続ける。信じ続け、尊敬を忘れなければ、必ず最後には心が通う瞬間が訪れる。

根拠もなくそのことを確信していた。

 

精神の強度。指揮者にとって絶対的に必要なもので、前に立つ資格としておそらく唯一のものだ。鋼のように固く、しかし大きく包み込める懐でいなければならない。

同時に身体の強靭さ。代えは効かない。言い訳は効かない。体調を崩した状況で前に立つことはできない。奏者すべてに迷惑をかけることになる。

不慣れな異国の地で日々を過ごすうちに疲労が重なっても、ひとたび棒を持てば全力を尽くす。

最後のコンサートに至るまで、十日間の日々を楽しく過ごしながらも、厳しく自律して精神と体調を維持しよう。

そのたびごとに今の僕に出来る限りの棒を振ろう。

 

不思議なことだけれど、コンサートを重ねるにつれ、僕の身体は軽くなっていった。

指揮が徐々に伝わるようになった感覚。次第にコミュニケーションが始まった。

自分が送り出した言葉に返事が帰ってこないと疲れは溜まるばかりだけれども、会話できるようになるとこれほど楽しいものはない。

送り出せば送り出しただけ帰ってくる。棒でやろうとしていたニュアンスが音に反映されていく。

巨大な岩を動かしているような以前と違って、その場で一緒に、絵を即興的に描いて行くような楽しみ。

大切なところで奏者と目があってにやりとし、必要なところで奏者たち同士が音楽の中で目を合わせて遊ぶのを見守る。

いつのまにか、気持ちの通じ合った「オーケストラ」が生まれていた。

 

 

心から出で、心へ至らん。

師がいつも贈って下さるベートーヴェンの言葉を少しは受け継ぐことが出来ただろうか。

一緒に音楽してくれてありがとう。そして、一生の思い出をありがとう。