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" La fille sur le pont " 邦題 『橋の上の娘』(Patrice Leconte)

 

 最近、映画評ばかりが続いています。

というのは近所のレンタルショップがたまにレンタル一週間190円セールをやってくれるので、その日に大量に借りこんできたためです。

フランス映画が中心なのはフランス語のリスニングにいいかなと思ったから。字幕あり/なしで二回見るとかなり勉強になりますね。

 

 さて、この『橋の上の娘』、1999年公開の映画にもかかわらず全編にわたってモノクロです。

最初はちょっと戸惑いましたが、観終わった後に「この作品はモノクロでないと!」と言わしめる内容を持っています。

ナイフ投げの男Gaborと、橋の上から飛び込んで自殺しようとしているところをGaborに救われナイフ投げの「的」にスカウトされた

Adeleの二人が織りなすストーリー。でも、ストーリー自体は非常に単純。後半の展開はほとんどの人が読めてしまうもので、

「もしかしてこれで終わるの・・・?」と思っていると下からエンドロールが上がってくるという、もうひと展開ぐらい期待したい

ストーリーではあります。この映画の素晴らしさはショットのスピード感ではないでしょうか。緩急を自在に操るカメラワークで、たとえば

Adele役のヴァネッサ・パラディが髪を切っていくところのスピード感溢れるショットや、試着室でドレスを次々に着替えていくところの

躍動感(音楽と動きを合わせてあるため、ダンスみたいに見えます)は見ていて「うまいなあー!」と思わされました。

モノクロであることがこのあたりのスピード感の表現に繋がっているのかもしれません。(モノクロで思い出しましたが、この映画には

虹を見て「虹ってイタリア語でなんていうの?」と問いかけるシーンがあります。モノクロの虹を見たのは初めてで、とても新鮮でした。)

 

 モノクロでなければならなかった最大の理由、それはこの映画の本質である「官能」を表現するためではないでしょうか。

Adeleはその眼差しを使って出会ったばかりの男たちとすぐ寝てしまいますが、ベッドシーン自体は殆ど描かれません。

むしろそれは大したものではないように描かれ、そこに官能性は皆無といって良いでしょう。しかし、Gaborのナイフ投げを「的」として

受けるときのAdele(そしてGabor)は違う。ナイフ投げのショーを無事に終えた後、

「恐怖と快感を同時に感じた事はある?」とAdeleが問い、「ある。さっきだ。」とGaborが答えるシーンがあるように、

この映画においてAdeleにナイフ投げを行うシーンはベッドシーンの表象だと言っても過言ではないはずです。

中盤、線路を渡った後のシーンで行われる「観客のいない二人だけのナイフ投げ」では、AdeleとGaborが

(ちょっとわざとらしすぎるほど)ベッドシーンを彷彿とさせる表情でナイフ投げを行っています。

暗闇に男の荒い息と鋭い眼つきが浮かび上がり、モノクロの肌のすぐ近くに輝く刃が突き立つ。

ここは監督のパトリス・ルコントが最も力を入れたであろうシーンではないでしょうか。官能と恐怖の近似をリアルに伝える映画でした。

あと、映画の内容にはあまり関係ありませんが、台詞で「コアントロー」と言っているところを字幕で「甘口のリキュール」と

訳しているのはちょっと興味深かったです。

 

 

  映画を見たのは例によって深夜で、夕方にはこれまた恒例のプロとの試合に行ってきました。

今日はいつもと違ってオイルがかなりあるレーンだったので、レフティの王道ラインである五枚目や場合によっては二枚目まっすぐ

というガターギリギリのラインで、横回転を主体にして手前を十分に走らせ、奥で一気に切れ込ませるラインをとりました。

このラインをとったのは本当に久しぶり(ホームのセンターはオイルが薄いので、いつもディープインサイドに立つ羽目になっています。)

だったのですが、このラインで投げるのは、大きく出し戻しするいつものラインに比べてめちゃくちゃ簡単に感じました。

気合いを入れて外を転がしておけばポケットに勝手に集まるし、入った時のタップも少ない。残っても7ピン一本だけがほとんど。

おかげで9ゲームでセミ・セミパーフェクトを含む224アベレージを叩く事ができ、プロに勝つことができました。

 

 個人的なものなので他の人の参考になるかは分かりませんが、特に肘を入れて投げる方は、ボールの下に手が来た時に手のひらを

のばす(当然フィンガーも伸びる。手のひらが全体的に張るような感じ。)ようにするとカップをブロークンにする際に親指を抜きやすく

なることに気がつきました。この動きは本当に一瞬のものですが、調子のいいときにはしっかりとこの動作を意識する事が出来るし、

出来たときには球に乗ってくる回転数が段違い!これが出来てはじめて、小指に意識を向けることによる回転角度のアレンジが

可能になってくるはずです。ここまでくれば「手のひらがボールを追い越す感じ」も味わえます。出来るとかなり気持ちいいですよ。

リフト&ターンの動きを考えてみたとき、肘を入れずに投げる方でもリリースの瞬間に掌をのばしてみる(全力で「パー」をする)と、

親指が綺麗に抜けてフィンガーに乗ってくる効果が得られるかもしれません。

 

 新聞配達のバイクが去っていく音がしました。

そろそろ朝ですね。七月・八月ごろと違ってまだ空は明るくなりそうな気配がありません。

空つながりというわけではないですが、今からアラン・コルバン『空と海』(藤原書店)を読んで寝ることにします。

東大ガイダンスのブログの記事と母校から小論の寄稿を頼まれているのでこちらも早く完成させなければ。

指揮法のレッスンやフルートのレッスン、デザインの仕事など、夏休みの終わりになって段々と予定が増えてきた感があります。

この調子のまま学校が始まったら毎日どうなるんでしょう(笑)

 

『ベティ・ブルー インテグラル』(1986,Jean-Jacques Beineix)

 

 うーむ。

とんでもない映画を見てしまった気分になった。

日本では『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』として公開された作品の完全版がこの『インテグラル』で、原題は37°2 le matin という。

これは「朝、37.2度」と訳されるもので、女性が妊娠する確率が最も高い体温のことを指すそうだ。

このことだけからも分かるように、本映画はとにかく激しい。冒頭からいきなりびっくりさせられる。

この映画は見る人の性別によってまったく評価が変わってくると思うが、男の僕からすると、最後までベティの激しさに困惑し、

振りまわされ続け、ときに「もう手に負えんなこれは。」とイライラしつつもどこかで惹かれ続け、悲劇的な結末に言葉を失った。

印象的なセリフも場面も沢山あるが、あらすじに関する部分を書いてしまうと一気につまらなくなるから、それは実際に見てもらう

(特に女性の方はこの映画にどんな感想を持つのか聞いてみたい。)ことにして、ここでは映像の美しさを語るに留めようと思う。

 

 この映画、とにかく「青」が美しい。

とりわけ朝、夜と朝の境界の時間だけに差し込む光の青だ。

この青は白いものを神秘的に染める。擦りガラスの白、テーブルクロスの白、猫の毛の白、女の肌の白・・・これらが青に染められる

様子をこの作品は見事に捉えている。そして、この青が届く場所と届かない場所を分けて明確に対比させている。

ラスト直前のあのシーン、ベティを包むシーツには青の光が届かない。建物の壁は青く塗られているが透明な青ではなく、俗悪だ。

対してゾルゲの後ろにある窓から差し込む光の青はこの青、ベティ・ブルーとも言うべき青である。

そしてラストシーン、ゾルゲが机に向かい小説を書く姿の後には、瓶に入った水がぞっとするほど美しい青に照らされてそこにある。

炎のように燃えるベティの激情や血が全編を貫きながらも、観終わった後にある種の静謐さを感じるのはこの青のせいだろうか。

 

 夜明けと朝の境界の青。

神秘的なこの色に包まれて、身を破滅させるほどに激しく鮮烈な物語が夢のように消えていく。

朝四時、ちょうどベティ・ブルーがあふれる時間がやってきた。カーテンを開けよう。

 

" Pas sur la bouche " (邦題 『巴里の恋愛協奏曲』)

 

 ” Pas sur la bouche “、つまり「口ではなく」という映画を見た。監督は『夜と霧』のアラン・レネ。

感想は・・・なんじゃこりゃ、という感じ。(笑) 音楽と衣装と舞台がゴージャスな、フランス語でテンポよく演じられる吉本的コメディ。

真剣な場面は一切なく、すべてがユーモアと歌に溢れている。1920年代のオペレッタをそのまま映画化した作品だそうで

映画というよりはミュージカルっぽい。何も考えずにリズミカルな曲と衣装のきらびやかさに浸っていられるので見ていて疲れない。

何度も何度も歌われるため、この映画を見れば「口」がフランス語で女性名詞(la bouche)であることは確実に記憶できるはずだ。

 

 『アメリ』の主人公役で、最近では『ダヴィンチ・コード』のヒロインであるソフィー・ヌヴーを演じたオドレイ・トトゥがとても綺麗で、

彼女がシャネル役を演じる『ココ・アヴァン・シャネル』を観るのが楽しみになった。(公開は今年の九月十八日。あと一週間ちょっと。)

ラストシーンで流れる曲の歌詞が、『このオペレッタ、笑ってくれると嬉しいな。それではさようなら。(しばらく間奏)

・・・あれ、まだ残ってくれてたの?フィナーレまで残って観ていってくれてありがとう。また観てね!」という内容だったのがニクいところ。

聴いていて楽しい曲が沢山あったのでサウンドトラックを買ってみようと思っている。頭の中で何曲かリフレインされていて寝づらい・・・。

 

『僕のピアノコンチェルト』(原題:Vitus フレディ・M・ムーラー監督 2006)を観た。

 

 『僕のピアノコンチェルト』を観た。予想していたようなシナリオとはまったく違う、良い意味で予想を裏切られた作品。

天才であるがゆえの苦悩、そして音楽を無理やり押し付けようとする親が前半では描かれる。

後半は捻りの効いた展開。恋愛というテーマも絡んでくる。

「女性は年上が理想だ」と説明する時のヴィトスのなんとロジカルなことか。天才の中に子供っぽさが見えるショットで印象的だった。

 

「決心がつかないときは大事なものを手放してみろ」という祖父の言葉、

「少し時間が必要ではないですか。Zeit,zeit,zeit,zeit…」という先生の言葉が最後で効いてくる。

その描き方(とりわけ、ラスト直前の着地シーン)には、不思議な爽快さがある。

ラストのシーンについて少し。

一瞬指揮者がティレーマンに見えた。まさかと思って調べてみると、これはテオ・ゲオルギューのピアノ、ハワード・グリフィス

という指揮者で、チューリッヒ室内管の実演だったそうだ。二つ目の和音がずれていたり、妙にリアルに感じる演奏なわけだ。

リアル、に関して言えば、イザベラがあのタイミングで入ってくるのは酷い。実際のコンサートであんなことしたら袋叩きにされる(笑)

音楽は沢山のクラシックが使われているが、テーマになっているシューマンのピアノ協奏曲というセレクトは素晴らしい。

ロマンチシズムに溢れたこの曲は、大空に思いを馳せるこのシナリオと合っている。まるであのおじいちゃんの遺志のようだ。

 

 ついでに。シューマンのPコンはリパッティ-カラヤンの演奏と、ミケランジェリ‐チェリビダッケの演奏を愛聴している。

前者は有名な演奏だが、後者は意外と知られていない。ミケランジェリとチェリビダッケという、個性最強レベルの演奏家二人の

タッグは、どの演奏も印象に残る強烈な美しさがあり、忘れる事が出来ない名演が繰り広げられている。

このタッグ、ラヴェルのコンチェルトなんかもお薦めです。ラヴェルはyoutubeで動画が見れます。

 

 

Jeder für sich und Gott gegen alle  「カスパー・ハウザーの謎」 試論

 

  「カスパー・ハウザーの謎」という映画がある。昨年、僕はこの映画を表象文化論のある教授に見せて頂き、レポートを書いた。

枚数制限もあったし書くのに使える時間もそう長くはなかったのでたいしたものではないが、せっかくなのでここにあげてみようと思う。

レポートのタイトルは、「カスパー・ハウザー、絶対の孤独」という。

 

【1】異質なものへの距離

 言葉にしがたい後味を残すこの映画は、カスパー・ハウザーという一人の「純粋な」人間を通して、階級やジェンダー、論理や

宗教といった既存の常識や社会への批判を投げかけるものである。その中でも宗教に投げかける懐疑や皮肉の強さは特筆される

だろう。カスパーが体を洗ってもらって「見なさるのは神様だけ」と言われる時、外の動物がしっかりとカスパーを見ているし、話が少し

進むと「とにかく信じるんだ!疑うことよりまず信じる事が大切だ!」とカスパーに信仰を押し付けようとする牧師が登場したりする。

その直後のシーン「賢いリンゴ」はエデンの園の話を踏まえた皮肉のように思われるし、「聖歌が恐ろしい叫びに聞こえた」とカスパーが

言うシーンも存在する。何よりもJeder für sich und Gott gegen alleという原題がそもそも宗教批判ではないか。

とはいえ批判を投げかけるだけではない。人間という存在とは一体何か、自分自身の問題として考えてみよというのが監督である

ヘルツォークの問題提起であろう。ラスト近く、カスパーが水面に自らを映し、水面を波立たせることで水面に映った自身の姿を揺らす

シーンはそのことを表しているのではないだろうか。それにしても、異質なものに対する人間の醜さは凄まじいものがある。

見世物小屋のシーンで世界四大神秘なるものを見に来る観客は、次第に身を乗り出して好奇と侮蔑の眼差しを注ぐ。

(注:見世物にされる4人には共通点がある。それは言葉から疎外されているということだ。 一人目のプント王国の王様なる人物は、

そもそも話す機会を与えられない。 二人目の穴(ドン・ジョヴァンニが最後に落ちる地獄の事か)に思いを馳せるモ少年は読み書きを

覚えられなかった。 三人目の笛を吹く男は先住民の言葉以外話せないうえ、先住民の言語を観客の目の前で話すよう強制され実際

に発話する事で、言葉からの疎外を一層明らかにする。 四人目のカスパーは言うまでもなく言語を自由に操ることができない。)

調書を取る人物は、終始一貫してカスパーを記述できる形に収めようとし、解剖を経ては

「ハウザーに異常が発見された、ついにあの奇妙な人間に証明がついた、これ以上見事な解明はない」

と言って喜んで帰路に着く。彼らだけでは無く、カスパーを取り巻く人物は、どんなにカスパーを大切に思っているように見えても、

ふとした拍子にカスパーとの距離を見せてしまうことになる。例えば、

 

 1.言葉を教える子供ユリウス・・・救貧事業に取り組んだカエサル(=ユリウス)と同名なのがまず面白い。女の子が歌を教えるとき、

彼は窓際の高い所からカスパーと少女(とカメラ)を見下ろして、「単語しか知らないから歌はまだ無理だよ。」と切り捨てる。

 

 2.ダウマー・・・いつもカスパーを大切にしているように見えるが、全面的にカスパーを大切にしているのではない。

早世した若者たちの名前を読み上げるシーンで彼が単なる慈善家であることがわかる。決定的なのはラスト近く、カスパーが

刺されて血みどろでやってくるシーンでの彼の行動だ。彼は手に持っていた本を開けたまま閉じようとも置こうともしない。

では、本を置くのはいつか?それはカスパーを、襲われた現場のベンチにもたせかけた時だ。ダウマーはここで、カスパーを

支えるためではなく、ただポーチを拾い上げるためにようやく本を置くのだ。そして、カスパーが血まみれでいるにもかかわらず、

ダウマーはこう言う。 「まず包みをみてみなきゃな。」

 

【2】音楽

さて、次に本映画における音楽に少しばかり考察を加えてみたい。この映画では、音楽がとても印象的に使われるだけではなく、

ストーリー的にも重要な意味を持つ。たとえば、カスパーは貴族に紹介されるシーンで「音楽は我々を道徳的に高めるとともに人格形成

に役立つ」と言われたことを受けて、モーツァルトのへ長調ワルツを弾く。音をはずし、リズムもアクセントもめちゃくちゃに。

このめちゃくちゃなモーツァルトの演奏は、カスパーの人格形成が周囲の期待したようなものでは無い事を表象する。

最も印象的なのはやはり、映画のはじまりと終わりで流れるモーツァルト「魔笛」中の「なんと美しい絵姿」のアリアだろう。

なぜ、この変ホ長調のアリアがここで使われているのか。このアリアの歌詞を見る事でその理由が明らかになる。

オープニングで流れる歌詞は、このアリアの最初、すなわち Dies Bildnis ist bezaubernd schonから始まり、

Wie noch kein Auge je geseh’n! Ich fuhl’ es, wie dies Gotterbild. Mein Herz mit neuer Regung fullt.までである。

映画の終わりではこの次の歌詞からアリアが歌いだされる。つまり、 Diess Etwas kann ich zwar nicht nennen! から始まり、

Doch fuhl’ ichs hier wie Feuer brennen. Soll die Empfindung Liebe seyn? Ja, ja! [...]

「Nuovo Cinema Paradiso」を観た。

 

 久し振りに晴れた一日、五月祭の話や本の話やら書きたい事は沢山あるのだが、この映画について書かないわけにはいかない。

名作の誉れ高き、ジュゼッペ・トルナトーレ監督による「Nuovo Cinema Paradiso (New Cinema Paradise)」をついに観た。

なんだこれは。疑いようもなく、今まで見てきた映画で最高の映画だ。最後のシーン(完全版に入っている「あの」シーン)だけでなく

至るところで泣かされた。涙だけでなく、体が何度も震えた。主人公が彼女の家の下で待っている時のシーンなど、一切台詞無しに

そのショットだけで金縛りにあったような感動を与えてくれた。暗い青、壁の苔、落ちる影、そして遠くにあがる花火。

奇跡のように美しいショットだ。あげていけばキリがないぐらい素晴らしいショットやシーンがこの映画にはある。

冒頭の波の音とともに暗闇に風が吹き込んでくるようなショットに始まり、雷の鳴る中で回り続ける映写機をバックにして

彼女と会うショット、錨を前にして海で話すショット、「夏はいつ終わる?映画なら簡単だ。フェイドアウトして嵐が来れば終わる。」

と語ったあと豪雨の中で眼前に彼女が突然入ってくるショット、五時を確認しようとする時の時計の出し方、

映画とリアルの素早い交錯、電車が離れていく時にアルフレードだけ視線を外している様、どれも上手すぎる!

再会するシーンで編みかけのマフラーがほどけていく構図、明滅する光を互いの顔に落としつつ話すショット、最初の葬儀のシーンと

最後の葬儀のシーンとでのトトの成長を映しつつ周囲の人や環境の変化をさり気なく見せる対比の鮮やかさ、そして最後のあの

フィルムを見るときの少年に戻ったような様子などは天才的としか言いようがない!!青ざめた光と暗闇の使い方が神がかっている。

 

 ショットだけでなく、胸に刺さるようなセリフも沢山ある。

「人生はお前が見た映画とは違う。人生はもっと困難なものだ。行け。前途洋洋だ。」

「もう私は年寄りだ。もうお前と話をしない。お前の噂を聞きたい。」

「炎はいつか灰になる。大恋愛もいくつかするかもしれない。だが、彼の将来は一つだ。」というアルフレードの台詞、

「あたしたちに将来は無いわ。あるのは過去だけよ。あれ以上のフィナーレは無い。」というエレナの台詞、どれも忘れる事が出来ない。

それとともに音楽の何と上手いことか。使われている音楽はさほど多くないが、メインテーマを場面に応じて微妙に変奏し、旋律楽器を

変え、リズムを崩し、何度も何度も繰り返す。繰り返しが多いだけに、途中で突然入ってくるピアノのjazzyな和音連打を用いた

音楽が頭に残る。そして、この特徴的な音楽を、最後のシーンでなんとメインテーマに重ねてくる!凄いセンス!!

 

 熱中して観て、呆然とし、そしてこれを書いていたらもう朝の5時だ。そろそろ寝なければならない。本当に時間の経つのは早い。

最後になるが、この映画に流れるテーマも「時間」に他ならないと思う。人の成長、恋愛、生死、周囲や環境の変化、技術の進歩、

そして時間を操る芸術としての映画!どれも時間を背負うことで成り立つものだ。本映画は「時間」を軸にして沢山のものを描いている。

 

 この映画に出会えたことを、心から幸せに思う。

 

 

「ROUNDERS」を観た。

 

 こういうギャンブル映画はやっぱり夜に見るのが王道だろう、と思って深夜二時から「ROUNDERS」という映画を観た。

監督はジョン・ダール。出演はマット・デイモン、 エドワード・ノートン、 ジョン・タトゥーロ、 ジョン・マルコヴィッチなど。

見終わった後に思ったのは、「うーむ・・・。」という言葉にしがたい微妙さだ。

じめじめしているわけでもないし、爽快なわけでもない。メッセージ性があったか、と言われても、

「ギャンブルにおいては、相手をいかにして自分の敷地(精神的にも肉体的にも)に引きずり込むかが勝敗を分ける。」という程度に

留まってしまう気がする。このメッセージは大きい意味を持っているものの、そこに至る流れが先読み出来てしまうストーリなのが残念。

カジノに着くまでの一連のショットはマーティン・スコセッシの「カジノ」に比べると生彩を欠いてどこかB級っぽいし、

ラストシーンのグレッチェン・モル(かなり綺麗です。)が扉のガラス越しに映るシーンなどにおいても、どことなく安易な感が漂う。

 

 主人公に感情移入して観る、というよりは、「やめとけって・・・。」と主人公を冷ややかな目線で見てしまったからか、

最後の山場のシーンでもさほどドキドキさせられなかった。他の登場人物では、相棒(というよりは単なる厄病神)のワームは

見ていて本当に腹が立った。あのニヤニヤした笑い、人に押し付けて平然としている様、どこを取っても超一級品の憎まれ役だ。

エドワード・ノートンの演技力が光っている。演技力とは関係ないが、教授役のマーティン・ランドーが使っているペンがペリカンだった。

一番印象に残った台詞は、「どうしてそんなに未熟な自分が、ゲームに勝てるなどと思うのか。」という主人公の独白。

この台詞が本映画を説明し尽くしている。

 

「OCEAN TRIBE」を観た。

 

 ウィル・ガイガー監督による「OCEAN TRIBE」を観た。

いやー、いいですよこれ。本当にいい。どんなラストシーンが用意されてるか分かってるのに、やっぱりラストで泣ける。

五月祭前日だというのに朝三時まで食い入るようにして観てしまいました。

「ブラームスの弾けるサーファーは彼一人だ」なんて五人を紹介していく冒頭のシーンもいいし、

病院から誘拐してくるシーンもスリリングでたまらない。高校生のころみたいにはちゃめちゃな悪ふざけ。

馬鹿みたいに明るい五人だけれども、それぞれにそれぞれの悩みを抱えているし、死を目の前にした人間とそうでない人間の

間にはどうやっても埋まらない距離があるのを感じさせてくれる。

「病院での六年より、海での一分の方がいい」と叫ぶボブを誰が止めれるだろうか。

 

 サーフィンのシーンも実に効果的に使われている。

 「水に浮かんでいると体が無限に広がっていく気がした。明けの明星を見ていると、空より高いところに登っていくようだった。

まるで空と海に抱かれているようだ。」という言葉は、波乗りをやったことがある人ならきっと理解できる言葉だろう。

サーフボードの上に寝て夕暮れの波間に浮かんでいると、空と海に挟まれて自分がいったいどこにいるのか分からなくなる。

自然や世界と肌で繋がる感覚、海を媒介に遥か彼方まで触れているような感覚、その一方で波に浮かぶ自分の小ささを感じる。

この映画からは、そういった自然への畏怖、海の大きさ、命のちっぽけさ、そんなものが良く伝わってくる。

訳には時々首を傾げる所がある(「ウィリアム・ブレイクの詩だ」と話しているところを「有名な詩だ」と訳していたり)ものの

セリフ回しも楽しいし、所作明け方のサーフ・シーンでイルカと遭遇するところの音楽をはじめ音楽も高水準。

揺れるようなカメラワークも波間に漂うような雰囲気に満ちていて良い。

 

 映画を観ていて、高二の時に友達と一緒に波乗りに行った時のことを思い出した。

青春十八切符で乗り継ぎ、海の最寄駅に着いたのが夜の12時前。駅から海までは山を二つ越えてバスで30分程度。

そんな距離を、真っ暗な中、ボードを背負って10人ぐらいで歩いた。夜中、ライトもあまり無い山道だったから、途中で

何度も車に轢かれそうになって、何とか山道を越えた時には冷たい汗でびっしょりになっていたのを覚えている。

浜辺に着いたのが朝3時。辺りはまだ真っ暗で、波が打ち寄せる音しか聞こえない。10人ぐらいで浜辺にシートをひいて、

他愛無い話をしながら、波の音に耳を澄ませて目を閉じた。波の音が近寄ってくるような気がして、慌てて起き上がって歩数で

波打ち際までの距離をみんなで交代して測り、その結果潮が満ちてきていることが判明して焦ったりしているうちに、

水平線の向こうがゆっくりと黒からブルー・ブラックに染まってくる。黒からブルーブラックへ、そして次第に明るい空色へ。

何重にも層のかかった青色と、どこまでも広がる海の黒。あのグラデーションと空にかかった月の綺麗さは一生忘れないだろう。

(ちなみに、航空幕僚長講演会のパンフレットに使った写真はこのとき撮ったものである。)

 

映画のレビューのつもりが違う話になってしまったが、とにかく、この映画は自然と生死について考えさせてくれる名作である。

自然との共生を説いた100の本を読むより、本映画を見たり波乗りをしたりする方が自然への畏怖を持つことに繋がるに違いない。

 

「ランジェ公爵夫人」を観た。

 

 ジャック・リヴェット監督による 「ランジェ公爵夫人」を観た。

手短に感想を言ってしまえば、これはたいして面白くなかった。

バルザックの小説を映画化したものであるから仕方無いと言えば仕方無いのだが、持ってまわったようなシーンが長々と続いて

段々と飽きてくる。一言喋るごとに公爵夫人が立ち位置を変えるのをずっと見ていると「何だかなあ」と思わずにはいられない。

読み飛ばせる小説と異なり、映画はどのシーンも同じスピードで見るものだから、そこに緩急がつけられないのは苦痛であった。

まあそれはともかく、最後まで見終わって、この映画の通奏低音は映画論的な用語で言うところの「不在」ではないかと感じた。

公爵夫人と将軍の関係は将軍が夫人の前から姿を消した時(=第一の不在)に逆転する。そしてまた、後半で将軍の前から

公爵夫人が姿を消した時(=第二の不在)、再び逆転する。求める相手が不在だからこそ一層求め、捜し求める。

このように不在が強く表象されているのは、将軍と夫人の二者関係だけではない。種類の違う不在が表れている。すなわち、

恋愛は恋愛する当事者以外にとっては無関心なものである、という「他者の不在」性が至る所に散りばめられている。

例えば、「毅然として」や「悲劇だ」という単語を乱発すると文学的になる、といって将軍の友達が笑う場面があるが、

その友達は知らずとも、「毅然として」「悲劇」などといった単語がまさに将軍と夫人のやりとりそのものであったことに我々は気づく。

恋愛が二者の中で完結している事をほのめかす、ある意味ではこの映画一番の名場面である。

つまり、恋愛は当人以外にとっては何の価値も持たないのだという事が暗示されているのだ。

ラストのシーン、「もう女ではないから海に捨ててしまえ」という場面も同様に考える事が出来るだろう。

詳しく書いてしまうとネタばれになるからこれぐらいにとどめておく。あまりお勧めしたいと思う作品ではありません。