なぜ人は、手を握ることしか出来ないのか。
一つの決意を伝えて帰ってきた。涙を流さないように必死に我慢しても溢れてくる。永遠にも思える一瞬だった。
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なぜ人は、手を握ることしか出来ないのか。 一つの決意を伝えて帰ってきた。涙を流さないように必死に我慢しても溢れてくる。永遠にも思える一瞬だった。
Un jeune homme ne doit pas acheter de valeurs sûres.
ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」の構造を、そしてサルトルの「Tourniquet 回転扉」を巡って楽しく議論した翌日、ひたすら修士論文の執筆に集中する。 蓄積したものを一気に形にする時がいよいよやってきたのだろう。どの切断軸で切るか。どの面を艶やかに見せるか。 ナイフが自然と落ちる瞬間はまだやってこない。ひたすらに待つ。歩く。引き絞る。
研究室に誰もいないのをいいことに、ささやかにスピーカーで音楽を流しながら書いていた。懐かしい旋律が聞こえてくる。 無言歌のOp.30-3「慰め」だ。時間というのは不思議なもので、これほどまでにグールドの弾く「慰め」が沁みたことはなかった。 そういえば、と唐突に思い出す。ピアノを習っていた時期の発表会で最後に弾いたのは、無言歌の中の「狩人の歌」だった。
Toute fin n’est jamais qu’un commencement. (どんな終わりも、何事かの始まりに過ぎない。) 終わりと始まりは同時に訪れる。この楽譜を開くということは、一つの終わりが近づきつつあることを意味している。
ついにこの曲を勉強する時が、そして振るときが来てしまった。もちろん僕には早すぎる。おそらく永遠に早すぎるままだろう。 少しでも近づきたい気持ちと、現実を認めたくなくてまだ遠くにいてほしい気持ちとが激しく交錯している。
僕がこの曲に命を注げば、病床にエネルギーが届く気がする。そう思うのはメルヘンにすぎるだろうか。 それでも何故か意地のようになって、起床してから日が変わる前まで、ひたすらこの一冊に向かい続けた。 僕の人生が一年短くなってもいい。どうかあと少しの時間を。
朝から渋谷で用事を一つ終え、天気が良いから駒場まで歩こう、と思う。 机に向かっている時間より、一人でぼんやり歩いているときやお風呂に入っているときにこそ良いアイデアが生まれるような気がしている。 修士論文の執筆を開始したこの一年は、部屋に籠りながらも良く歩かねばならない。
松濤の桜のそばをゆっくりと歩く。 昨夜まで読んでいたLes Cahiers de médiologieのことを考え、「プロメテウス」の問題をめぐって自分の知識を整理する。 「書きたい事は山のようにあるだろうが、書かない勇気が大切だ」という指導教官の言葉を思い出しながら。 それは師の指揮の哲学-盛るのではなく削る美を-に通ずるところがあって、ハッとさせられたのだ。
温かい陽射し。サマージャケットを引っ掛けて軽装で歩くのが気持ち良い。 ぐるぐると歩き、思考がひとつ纏まったころ、美味しそうなランチの看板を見つける。紙に書き出しながらとりあえず珈琲といこう。 就職した友人たちに比べてお金の余裕はないかもしれないけど、今自分が過ごしている時間が限りなく贅沢な時間である事を疑わない。 また新しい春の訪れを、僕は僕なりに慈しむだろう。
キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』と格闘して、ジェラルド・フィンジを弾いたあと、休憩がてら春の夜を歩く。 既に散り始めた桜を浴びる。周囲の環境の変化に焦らずに一歩ずつ踏みしめて行こう。
春宵一刻直千金 (春の夜は、わずかな時間であっても黄金千金の値打ちがある) 花有清香月有陰 (花はさわやかな香りを放っているし、月には朧げな暈がかかる) 歌管楼臺聲細細 (歌声や笛の音が響いていた高楼も、今やひっそりと静まって) 鞦韆院落夜沈沈 (あとに残されたものはぶらんこ。ぶらんこがかけられた中庭に、夜はしんしんと更けゆく。)
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