線路を横目に歩いて行くと、いつしか線路は見えなくなり、一面に砂漠が広がるだろう。
遠くから鳴り響く汽笛を頼りに元来た方角を伺うことはできる。歩みを戻すことも今なら不可能ではない。
そのまま前進した先に何があるのか?
想像もしなかったような壮大な景色に至るのか、蜃気楼すら掴めずに果ててゆくのか。
おそらく足場は泥濘んでゆく。陽射しに焼かれることもあるだろう。
それでも振り返らない理由があるとすれば、それは好奇心という言葉でしか説明できない。
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線路を横目に歩いて行くと、いつしか線路は見えなくなり、一面に砂漠が広がるだろう。 遠くから鳴り響く汽笛を頼りに元来た方角を伺うことはできる。歩みを戻すことも今なら不可能ではない。
そのまま前進した先に何があるのか? 想像もしなかったような壮大な景色に至るのか、蜃気楼すら掴めずに果ててゆくのか。 おそらく足場は泥濘んでゆく。陽射しに焼かれることもあるだろう。 それでも振り返らない理由があるとすれば、それは好奇心という言葉でしか説明できない。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲のリハーサルを終えた翌日の早朝、 いまだ鳴り響く三楽章をリフレインしながら、日が昇る前に出発して友人たちと三人で千葉までドライブ&プール&温泉に行ってきた。 早朝の「海ほたる」で珈琲を飲みながら作品とタイトルをめぐる議論。 水の中で散々笑ったのちに真面目な話を少し。駆け出しながらも表現に携わる人間として、どうやって生きて行くのか。 それぞれジャンルは違えども、表現することに限りなく魅かれて止まない。 美学と志を分かち合える良い友に恵まれた、としみじみ思う。
日が沈むころ、千葉の温泉から新木場まで送って頂いてリハーサルに直行。 僕がいない間の分奏では気心知れた奏者のお二人が素晴らしいリードを取って下さっていて本当に助かった。 指揮したのは芥川也寸志のトリプティークと真島俊夫の三つのジャポニスム。 温泉宿で芥川也寸志を指揮する、という体験を昨年にしたのだが、温泉に行ったその足で芥川也寸志を振るという体験を今年早々にするとは思わなかった。 ジャポニスムのリハーサルでは、鳥肌が立つ瞬間を味わう。 一つのイマージュを共有することで音の質が(身体の使い方も含めて)がらりと変わるのだ。 音符が詩情を得て活き活きと響き始める。 その瞬間の感動に震えるばかり…。
翌日、月曜日。 もう長い付き合いになるヴィオラの友人と二人で、ピアニストのグルダの命日にしてモーツァルトの誕生日を祝って飲む。 リハーサルでもっとコミュニケーションできるはずだ、という彼の言葉に深く頷く。 いちばん良い棒を振ることは当然ながら、棒以外の手法を加えて、たとえば三時間のリハーサルをもっと充実した三時間にすることができる。 飛び交うコミュニケーションを逃さないようにしよう。指摘する事を躊躇していては前に進めない。 良い意味で遠慮を捨てることも時に必要なのだ。
一緒に過ごしてくれる人、力になってくれる人、指摘してくれる人…たくさんの人に支えられて今があることを思う。 一人でいる時間無くして僕は生きて行けないが、一人で生きて行けるわけではない。 孤独の中で強靭に練り上げつつ、場を共にしてくれる人たちとその場で即興的に柔軟に作り上げる。 音楽(に限らず多くの表現行為)の難しさと楽しさはたぶん、火と水を同居させるような、こうした試みの中に宿っているのだろう。
空気から鋭さが消えた。 一月がもうすぐ終わる。春だ。
具体例や経験を重ねて行き、それらを思考で掘り下げて行くと、ある概念に達することが稀にある。 あるいは、時間の中で一滴ずつ蓄積されたものが言葉として結晶する。それは世界の誰もが使った事のない言葉である必要は無い。 形なきものに自分の語彙である種の輪郭を与えること。透明で不可視なものを、言葉という魔法によって半透明な存在へと肉づけること。 それこそが哲学-思想と呼ばれて然るべきものではないだろうか、と不遜にも思う。
昨夜は2014年度初回のレッスンだった。 シュトラウスのレッスンを終え、また初級の方々にレッスンをさせて頂き、師と対話するうちに、唐突に一つの言葉が結晶した。 それはεὕρηκαと叫んで走り回りたくなるほどの感動を伴う経験であり、身体の中に流れる血の温度が上がるのが分かるほどに興奮を覚える一瞬でもあった。 これまでにも幾つかの言葉に至った事がある。けれどもそれは名詞でしかなく、名詞では説明しきれないはずだという根拠なき不足感を抱えていた。 2014年になってはじめて僕は動詞に至った。それが正しいものであるかどうか、意味を持つものであるかどうか、そんなことには興味がない。 僕は未熟者に過ぎないし、この言葉であらゆる現象を説明しうるとも到底思えない。しかし今の僕にとっては決定的な概念-言葉に掘り当たったのだ。
嵐のような年末から、家族の温かさに包まれて平穏な年始を過ごした。 今年は「最後」の年になるだろう。もう僕の残り時間に猶予はない。書いて、読んで、振って、動く。 昨夜たどり着いた動詞に様々な目的語や主語を戯れさせながら、弓が切れる限界まで引き絞ったものを放つ一年にしたい。
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