カンディンスキーの『回想』に描かれたモスクワの黄昏時、とても美しい一節。
僕はモスクワの風景を残念ながら全く知らないけれども、それでも強く喚起されるものがある。以下引用。
「太陽はすでに低く、太陽が一日を通じて探し求め、一日中切望していた最高に充実した力をその手にしている。
が、この光景は、長くは続かぬ。あと数分で落 ちんとする。そしてその陽射しは緊張のあまり紅に染まり、しだいにその濃さが増してゆく、はじめは寒色、やがてしだいに暖色系に変わりつつ。
太陽は全モスクワを一色に溶かしてしまう。まるで、内面全体、魂のすみずみまでを震撼させる、あの狂おしいチューバの響きのようだ。
否、この赤一面がもっ とも美しい時間ではないのだ!それはそれぞれの色彩がその生命のかぎり輝き、
全モスクワを大オーケストラの力強いフォルティッシモのように響かせ、支配す るシンフォニーの終止和音にすぎぬ。
バラ色、ライラック、黄色、白、青、浅緑の、真紅の家々や教会-それぞれが自分たちの歌を-風にざわめく緑の芝生、低いバスでつぶやく樹々、
あるいは千々 の声で歌う白雪、葉の落ちた樹々の枝のアレグレット、それに無骨で無口なクレムリンの赤い壁の環。
…このときを色彩で描く事こそ、芸術家にとって至難の、 だが至上の幸福である、とわたしは考えたものである。」
(カンディンスキー『回想』西田秀穂訳, 美術出版社)