東北でのコンサートから帰ってきて以来、ずっとチャイコフスキーの五番とシベリウスの七番を勉強している。
チャイコフスキーの五番は壮絶だ。楽譜を読んでいるだけで色々な感情が湧き上がってくるし、冷房の効いた部屋ですら汗をかいているような錯覚に陥る。
「名曲は多様な解釈に耐える」そんな言葉を聞いた事があるけれど、確かにそうなのかもしれないなと思う。
勉強するたび、振るたびに新しい発見や可能性を見せてくれる。
一方で、シベリウスの七番は当たり前だけど全く違う世界だ。
温かさと冷たさ、情景と論理が絡み合った精密な織物のようだ。「孤高」と呼ばれるほど近寄りがたい造形美を持ち、荘厳であり、祈りすら感ずる。
もし僕がヴィオラを弾けたならこの音楽の22小節目からを弾きたいと思うし、トロンボーンが吹けたなら60小節目からのAino-Themeを(そしてその再現を)吹きたい。
もちろん他にも弾いてみたい曲はあるけれど、そう思ってしまうほどにこの曲は凄い。
あらゆる要素が「折り畳まれて」含まれていて、各箇所が別の場所と緊密に結びついている。
二分の三拍子ならではの巨大さ、六度のローテーションモティーフ、二度の多用、Gに行きたくても行けない苦しみ…
細かく見るのはもちろん、目を離して大きく見てみれば、細かさが細かさと響きあって拡大する、入れ子のような関係性に気付いて更に驚愕する。
シベリウスかあ…と思っていた数ヶ月前の自分はどこにいったのやら、寝ても覚めてもこの音楽が頭から離れない。
本番は来年。まだ理解するには遥かに遠い曲だけれど、26歳でこの曲に出会えたことを幸せに思う。