ここ数日はリハーサルでホルストの組曲「惑星」より「木星」を、レッスンではチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」に加えて
モーツァルトの35番「ハフナー」を指揮していました。
アンサンブル・コモドさんとの「木星」初リハーサル。
未熟ながらも指揮という行為に携っていて良かったなあ、と心震える瞬間が時々訪れるけれども、「木星」のあの有名な主題は、まさにそうした時間でした。
倍管編成で100人近い巨大オーケストラがユニゾンで歌い上げ、はじめて会った演奏者たちの気迫や魂が共鳴して一つになっていく感覚。
それは言葉に尽くしがたい幸せで、同時に、他の何物にも代え難い喜びでもあります。
ホルストの「木星」はテンポや楽想の変化が激しく、音符上も非常に技巧的な曲ではありますが、初回二時間のリハーサルでひとまず通るようになり
大枠が出来たので、これから細部をしっかり詰めて行こうと思います。また次回が楽しみです。
一方でレッスンにて取り組んでいたチャイコフスキーとモーツァルト。
チャイコフスキーの弦楽セレナーデはモーツァルトへのオマージュとして書かれた作品で、本番でも演奏したことがある曲ですが、
何度やってもまだ師匠が要求して下さる音を出す事が出来ません。
「君の演奏では燃えていない。ボヤに過ぎない。チャイコフスキーはそんなもんじゃない。ぐいぐいと進んで行くエネルギーに溢れている!」
「突っ走るな!もっと折り目正しく、じっくり、たっぷり、焦らずに弦を目一杯満足に弾かせなければ!」
ぐいぐいと進むエネルギーを漲らせつつ、それでいて焦らず、たっぷり演奏すること。
これを矛盾なく共存させることを身につけなければなりません。
« I wrote from inner compulsion. This is a piece from the heart… »
(Серенаду же, напротив, я сочинил по внутреннему побуждению. Это вещь прочувствованная…)
これはチャイコフスキーがパトロンであったメック夫人に対して弦楽セレナーデについて書き送った言葉ですが、
この「inner compulsion内的衝動」とモーツァルトへの敬愛と模倣の要素のバランスをどのようにして取るのか、ということは
先程の師の言葉とも響きあう問題のように思われます。
そもそも、チャイコフスキーの「音」が一体どういうもので、チャイコフスキーを振るときのテンションの持って行き方がどういうものであるか、
それを僕はまだ全然理解していないし、そういえば「ロシア」というものについて何ら知らないのだということを痛感するばかりです。
さらにモーツァルトの35番。
ホルストの巨大スコアを見たあとにモーツァルトの35番のような「小さな」スコアを見ると、その簡素な美しさと磨かれた奥行きに目眩がするほど。
ベートーヴェン(2012年の間に交響曲を1番からずっと教わっていました)は音楽を動かすのにある種のエネルギーやテンションを必要としました。
モーツァルトは全く違います。気をつけないとこちらが勝手に動かされ、天才の掌で転がされてしまう。
一気呵成ではだめ、大袈裟な変化をつけてもあざとい。駆け足に流れず、しかし躍動を失ってはならない。
振り向かせようと一生懸命になると逃げられる。じゃあ、と様子見するとたちまち流れ去る。
モーツァルトの音楽には罠がある、という言葉を誰かが残していたと思いますが、久しぶりにモーツァルトを振ってそのことを強く感じました。
極めてシンプルな楽譜なのに・だからこそ、僕の今の棒では音色の引き出しもニュアンスもカラーも全然足りていないよということを突きつけてくれます。
その最小限で最大限の音楽ゆえに、モーツァルトを指揮するのはやっぱり飛び抜けて難しい。もっともっと勉強せねば!