ブレッソンの幻の映画、『白夜』を見た。
多くを語るべきではないだろう。この作品にいま出会えた事を、そして誘ってくれた友人に感謝する。
激しい雨に歩道が輝く帰り道に幸せを思う。今日は雨でなければならなかった。
四日間の幻想。あるいは迫真の現実。「あなたは私のことを愛していないから好き」と語る女の目のゆくえ。
そして女の裸はどうしてこうも美しいのか。イザベル・ヴェンガルテンが鏡にその肢体を映すシーンに僕は何の官能も感じない。
美に対する感動が先に訪れる。そうした欲を掻き立てるものがあるとすれば、それは彼女のまなざしでしかないだろう。
観るものの視線をまっすぐ受け止めながら、その奥にわずかな揺らぎが見えて、ただその一瞬にのみゾクリとした。
光。水。色。音。
色と音がセーヌ川に煌めく。水は、光にとって零度のキャンバスなのだ。光を光として描き出すことのできる唯一の素材なのだ。
終わり近くで水面に揺らぐ光が一瞬だけ静止するシーンがあった。そういえばこの映画において光はいつも揺らいでいた。
この映画を貫く一つのテーマがここにある。静止していることと揺らいでいること。日常と非日常、現実と夢想。
だが、声は?いまここで発した声とレコーダーから再生されるその声とでは、果たしてどちらが静止したものだと言えるのだろうか。
長くなった。パラフレーズした問いを置いて終わりにしよう。
白夜は果たして夜なのか、と。