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Twitter論 -文体と「なう」を巡る考察-

 

一月半ばからTwitterを始めている。

周りのみんなが「Twitterは凄いぞ」とあんまりにも言うものだから、天邪鬼な僕はTwitterに理由もなく疑いの目を向けていたのだが

いざ始めてみると「なるほどこれは凄いかもしれない。」と思うようになった。Twitterは、フォローする対象を自分で選択することが出来て、

一度選択するとフォローした人のツイート(つぶやき)がどんどんとタイムラインに表示されていくシステムである。

つまり「能動的に情報を選択し、受動的に情報を受け取る。」ことができるのであって、しかも「選択」への垣根はボタン一つととても低い。

フォローをやめたくなったらいつでもやめることができる。

 

そしてまた、フォローする人を限定して情報の量より質を取ることも可能だし、逆にフォローしている人を増やしまくって情報の洪水に

身を浸すことも出来る。あるいはニュースサイトを沢山フォローして、ニュースを読む場所として使うことも可能だろう。

とにかく、非常に広範な使い方が出来るという点がTwitterの強みであり脅威だと思う。

 

だが、僕が一番脅威に感じるのはTwitterというシステムが我々の「文体」に与える影響だ。

間違いなく、Twitterは文体を変える。140字という短い制限の中においては息の長い文章は書くことが出来ないし、書くことは

望ましくない。理由は簡単で、140字の枠の中では、修飾を駆使した文章や副文の多用された文は非常に読みづらく映るからだ。

僕も最初はこのブログと同じ文体でツイートを書いていたのだが、いつの間にか短い文章を重ねてつぶやくようになった。たとえば、

 

昨夜は下北沢を堪能。後期教養の友達で呑みまくった。上海土産の酒を友達が持ってきたのでそれも呑む。52度。うまい。

みんなストレートでやって、みんなバグってた。無理しすぎ。 おかげで終電まで、潰れたやつを介抱する羽目に。何となく見慣れた展開。

でもこれはこれで楽しい。」

 

自分でもびっくりするぐらいブログの文体と違う。同じ人間が書いているのに、これほどまでに文体がシステムに規定・変形されている。

「ゲーム脳」という言葉があるが(本当かどうかはさておき)、Twitterだけで文章を書き続けていると「Twitter文」ともいうべき

現象が起こってしまうかもしれない。つまり、「長い文章が書けない」人々が増加するのではないか。

(たとえば、東大の日本史や世界史の大論述に対する受験生の解答。文と文との繋がりを重要視しなくなって、箇条書きのように

文章を書く人が増え始める、など。長文が息の長い文章の連続や接続詞によって作られるのではなく、短文の羅列に近づいてゆく。)

このように、Twitterの短い文章で慣れ親しんでしまうと、文章の「構成」への意識や接続詞への意識が希薄化する可能性がある。

 

 

しかしもちろん、僕は「短い文章」を非難しているわけではない。短い文章には短い文章なりの魅力があることは確かだ。

フォローさせて頂いている方に某広告代理店のクリエイティブディレクターの方がいらっしゃるが、この方のつぶやきは

一つ一つがコピーのようにキレが良くて人を惹きつける。文法構造とか「ら抜き言葉」とか、そんな問題を超越した魅力がある。

短いけれども意味が伝わる文章や、短いけれども内容の凝縮された文章を書くための場所としては、Twitterは最高の練習場所に

なるに違いない。だからTwitterでは短くてキレの良い文章を、ブログではちょっと長くて少し入り組んだ文章を書くことで

二つの文体を使い分けてゆきたいと思う。文体を使い分けてTwitterとブログがそれぞれ持っている特性を活用したい。

 

最後に、Twitterを語る上では欠かせない言葉である「なう」について少しだけ論じておこう。

Twitter語の代表に「なう」が挙げられる。「なう」。既に死語となって久しい「ナウい」と同じ語源を持つ言葉だから、ある意味では

「ナウい」の復活といってもよい。しかしTwitterの「なう」は「ナウい」と意味の重層性が決定的に異なる。Twitterの「なう」はただの

Nowではない。「なう」は、いま「ここにいる/こんなことをしている/こんなものを聞いている/これを食べている/etc」と、今の状況を

示すための言葉なのだ。つまり「なう」は、Nowの意味を持ちつつも、be(ing)であり、かつdo(ing)の意味を持つものなのである。

 

そしてまた、「なう」が「ナウ」という表記でない理由もここにある。このように「なう」はもはやNowの範疇を離れているから、

Nowに振られた読み仮名としての「ナウ」ではいられない。それは「なう」という平仮名で表される、新しい日本語なのである。

このような使い道の広さと文字の短さが「なう」の普及のまず一番大きな要因だと考えられるが、「なう」普及の要素はあと二点あると思う。

 

一つは「エクリチュール(書かれたもの・文字)としての見かけの可愛らしさと、パロール(発声されたもの・音声)としての可愛らしさ」だ。

「な+う」という曲線が醸し出す柔らかさ。それから「na/u」という短く丸っこい響き。程よく力の抜けた脱力感。それが人々を惹きつける

とともに、Twitterの持つカジュアルな雰囲気(そして字数制限)と相性が良かったのではないか。

 

さらにもう一点。キーの配列特性を考える必要がある。とりわけ携帯電話の文字配列が「なう」を普及させるに貢献したのではないか。

なう。「な」+「う」。

「な」は「な」行の先頭だから、キーの「な」のところを押せば直ちに画面上に表示される。「ね」のように何度もキーを押す必要がない!

そして最近の携帯にはたいてい予測変換機能が入っているから、何度か「なう」と変換していれば「な」のボタンを一度押しただけで

「なう」が表示されるだろう。

 

つまり【「な」を一回押して「な」を表示させ、「あ」を三回押して「う」を表示させる】という計四回の動作をするまでもなく、

【「な」を一回押して「な」を表示させ、予測変換で出た「なう」を選択する】という、実質一回か二回の動作で「なう」は画面上に表示される。

「のう」では予測変換を使ったとしても【「な」を五回押して「の」を表示させる】という手順を踏まなくてはならないが、「なう」であれば

キーにワンタッチするだけで「な」にアクセスすることができる。この物理的・心理的な手軽さが「なう」普及の一端を担ったのではないか。

 

以上が僕の考える「なう」普及の背景である。「なう」を使う人は多いが、「なう」について考察した人は未だ多くないんじゃないだろうか。

ちなみに僕は、まだこの「なう」という語を使ったことはない。特に理由は無いけれど。

 

 

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