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南京滞在記 二日目

 

ということで滞在二日目です。

今日は南京大学のもう一つのキャンパスまでバスで移動して、朝九時から三時間ほとんどぶっ続けの形で講義を受けました。

内容は福島先生による障害学の概説。とくに今日は、先生ご自身の経験や指点字についてのお話をされ、その延長線上で

「障害とは何か」「バリアフリーとは何か」などのテーマを軸にした講義を展開されていらっしゃいました。

 

講義が終わってからは院生との討論会を行いました。先程の福島先生の講義に関連して、「障害」についての日中間の取り組みや

スタンスの差異をお互いに発表しあいながら、いつしか話は「人文系の学問を研究するとはどういうことか」というテーマにも

広がってゆき、研究者の道を考えている僕としてはとても身になるものでした。

また、討論会の後でこのプログラムに参加されている東大の博士課程の先輩と、福島先生の述べる「障害」の定義について

少し話をしたのですが、そちらも大変面白いものでした。福島先生は「障害」を、「産業革命後に現れたもので、産業革命の際の

一人ひとりに対して期待される労働力(これは画一化されたものです)から外れるものを【障害】と定義していったものである。」

と説明されていたのですが、これはもちろん、フーコーの「狂気」に関する分析を彷彿とさせる考え方です。

 

「障害」という具体的なものが存在するのではなく、恣意的に想定される「正常」から外れたものを「狂気」として社会が定義したように、

「障害」も社会的に定義されるものなのです。そして「障害者」を一か所に集中させるやり方は、狂気の者たちを精神病院に収容し社会

から排除するかつてのやり方(このような状況に置いて働く見えない力学が「生権力」だと言えます)と極めて近いところがある。

だとするならば、「障害者」問題の根本的解決のためには、一か所に集めて特殊な訓練を施すのではなく、

「障害者」も健常者と同じ環境の中にその身を置いて社会参加することが重要になってくるわけであって、そのために政府がどのように

社会参加しやすい状況を作るかが重要な問題になってくるでしょう。福島先生はこのような試みの事を、本日の講義において

「バリアフリーを取り巻くバリアを外す試み」とおっしゃっていました。

 

討論が終わってからは自由時間でした。

僕が音楽に関わっている関係で、「もし可能ならば伝統音楽に触れる機会があれば嬉しいです」と伝えておいたところ、

南京大学の学生さんたちが昆劇のようなものに我々を連れて行ってくれました。昆劇とは中国伝統の歌謡と舞踊と音楽の融合した

劇のようなもので、簡単に言ってしまえば小規模なオペラです。歌詞や台詞はすべて中国語でしたのでイマイチ細かいところは理解

できませんでしたが、オペラと同じく電光掲示板の字幕に中国語の字幕が出ていたので、漢文で培った知識を総動員すれば

ある程度の内容は把握することができます。音楽は基本的に四拍子の曲がメインであり、伝統楽器の独特の音色が魅力的。

演奏者の人数は小編成の室内楽団ぐらいで、指揮者はおらず、打楽器を担当している男性が全体のリズムを引っ張っていたように

感じます。また、演奏の合間には南京大学の先生が突然壇上に上がってカラオケをやりだしたり、聴衆を舞台にあげたりと

割とカジュアル&何でもありな感じの演奏会でとても面白かったです。

わざわざリクエストを聞いてくれた南京大学の学生さんたちに心から感謝しています。貴重なものを見る事が出来ました。

 

そして一日の締めには、南京大学の学生さんたちと一緒に四川料理を食べつつ、杯を交わしました。

噂には聞いていましたが四川料理は本当に辛い!食べた瞬間はそうでもないのですが、じわじわと辛さが口の中に広がります。

そして、中国の方にとっては無くてはならないお酒である「白酒」を向こうの学生さんが持ってきて下さったので、それも中国のしきたりに

従って頂きました。度数は45度程度と中々の強さ。それをストレートでグラス(「公杯」と呼ばれるもの)に注いでみんなに回します。

全員に行き渡ったら、回転テーブルにみんなでグラスを打ちつけて乾杯し、まず一口グイッと呑みます。喉がカーッと熱くなります。

それから隣の人とグラスを当てて乾杯し、またグイッといきます。さらにまた別の隣の人と同じことをやり、少し離れた人とも同じことをやり、

これを繰り返していくわけです。つまり一人で飲むことはめったにしません。呑むときには大抵誰かと一緒に、同時に呑みます。

そして一度白酒を頼んだら、その飲み会はずーっとみんな白酒だけで通すそうです。日本のようにビール→日本酒→焼酎…みたいな

頼み方はしません。呑み方一つとっても日本と違う点が沢山あり、一つ一つが驚きでした。

あ、ちなみに「呑み放題」というシステムも無いそうですよ!

 

そんなこんなで、45度の酒をストレートでこうやって呑んでいたら酒が苦手な人にとっては当然死亡フラグなわけで、

ちょっと辛そうにしている学生さんもいましたが、とりあえず美味しく最後まで頂いてボトルを一本空にして店を出て、キャンパス内の

ホテルへの帰路に着きます。南京大学は全寮制で寮とキャンパスが一体化しているので、キャンパス内にはまだ沢山の学生が

行き来していました。同じアジア人だからでしょうか、言語がほとんど分からないのにも関わらず、彼らが行き交う中に身を置いても

居心地の悪さは全く感じません。むしろ親しみすら覚えます。生活感と連帯感、そしてエネルギーが溢れるこのキャンパスの雰囲気

はとても素敵ですね。あと一週間ほどある滞在期間を、目一杯勉強して交流して楽しもうと思います。

南京に来ています。

 

今日から集中講義で南京に来ています。

ま成田空港から北京へ行き、北京から国内線に乗り換えて南京へ向かうルートで南京に到着しました。

飛行機の窓から遥か下に広がる風景を見ながら思ったのは、中国は田畑が多いということ。大きな河が至る所に流れていて、

それに寄り添うように田畑が綺麗に区画化されて広がっています。緑というよりは土の色が目につく感じで、そうかと思えば

住宅が集中しているところは本当に特定の一ブロックの中に集中している印象を受けました。

先生のお話によれば、中国では住宅に許された面積が決まっていて、広い家に住みたい場合は横に広げるのではなく縦に広げる

のが基本だそうです。従って、平屋→二階建て→三階建ての順に階層が分けられるということになります。

 

さて、今回の南京大学集中講義では、「身体論」を軸に据えて色々な講義が行われます。

僕が派遣されるこの一週間では、福島先生による障害学の講義と清水先生によるトランスジェンダー論の講義が開かれていて、

それらの講義を聞いた後で南京大学の大学院生たちと討議を何時間にもわたってやったり交流したりすることになります。

南京と聞けばすぐに思い浮かぶのはやはり南京大虐殺ですから、日本人の我々は肩身の狭い思いをするかと思いきや、

南京に到着してすぐににこやかな笑顔で南京大学の学生さんたちが迎えてくれたのはとても嬉しかったです。

向こうの学生さんたちと一緒に晩ご飯も食べてきて、何人かとは仲良くなることが出来ました。みなさん親しく接して下さいますし、

彼・彼女らの日本語の上手さと日本の文化に対する知識・興味の深さには日本人の我々が舌を巻くほどです。

僕も中国語で考えを伝えられればいいのですが、やり始めて二週間ほどではやっぱり挨拶程度しか出来ず、

英語と日本語を行ったり来たりしつつ、どうにももどかしい思いをしています。中国語やっとけば良かったなあ。

 

明日からの討論会でしっかりと自分の意見が伝えられるか少し心配ではありますが、とにかく出来る限りの事は話してこようと

思っています。受験生の頃に使っていた世界史のノートのうち中国史の部分だけ抜き出して持ってきたので、歴史問題に話が

発展しても大丈夫なように今からザッと見直してから寝ることにします。それではおやすみなさい。

 

Twitter論 -文体と「なう」を巡る考察-

 

一月半ばからTwitterを始めている。

周りのみんなが「Twitterは凄いぞ」とあんまりにも言うものだから、天邪鬼な僕はTwitterに理由もなく疑いの目を向けていたのだが

いざ始めてみると「なるほどこれは凄いかもしれない。」と思うようになった。Twitterは、フォローする対象を自分で選択することが出来て、

一度選択するとフォローした人のツイート(つぶやき)がどんどんとタイムラインに表示されていくシステムである。

つまり「能動的に情報を選択し、受動的に情報を受け取る。」ことができるのであって、しかも「選択」への垣根はボタン一つととても低い。

フォローをやめたくなったらいつでもやめることができる。

 

そしてまた、フォローする人を限定して情報の量より質を取ることも可能だし、逆にフォローしている人を増やしまくって情報の洪水に

身を浸すことも出来る。あるいはニュースサイトを沢山フォローして、ニュースを読む場所として使うことも可能だろう。

とにかく、非常に広範な使い方が出来るという点がTwitterの強みであり脅威だと思う。

 

だが、僕が一番脅威に感じるのはTwitterというシステムが我々の「文体」に与える影響だ。

間違いなく、Twitterは文体を変える。140字という短い制限の中においては息の長い文章は書くことが出来ないし、書くことは

望ましくない。理由は簡単で、140字の枠の中では、修飾を駆使した文章や副文の多用された文は非常に読みづらく映るからだ。

僕も最初はこのブログと同じ文体でツイートを書いていたのだが、いつの間にか短い文章を重ねてつぶやくようになった。たとえば、

 

「昨夜は下北沢を堪能。後期教養の友達で呑みまくった。上海土産の酒を友達が持ってきたのでそれも呑む。52度。うまい。

みんなストレートでやって、みんなバグってた。無理しすぎ。 おかげで終電まで、潰れたやつを介抱する羽目に。何となく見慣れた展開。

でもこれはこれで楽しい。」

 

自分でもびっくりするぐらいブログの文体と違う。同じ人間が書いているのに、これほどまでに文体がシステムに規定・変形されている。

「ゲーム脳」という言葉があるが(本当かどうかはさておき)、Twitterだけで文章を書き続けていると「Twitter文」ともいうべき

現象が起こってしまうかもしれない。つまり、「長い文章が書けない」人々が増加するのではないか。

(たとえば、東大の日本史や世界史の大論述に対する受験生の解答。文と文との繋がりを重要視しなくなって、箇条書きのように

文章を書く人が増え始める、など。長文が息の長い文章の連続や接続詞によって作られるのではなく、短文の羅列に近づいてゆく。)

このように、Twitterの短い文章で慣れ親しんでしまうと、文章の「構成」への意識や接続詞への意識が希薄化する可能性がある。

 

 

しかしもちろん、僕は「短い文章」を非難しているわけではない。短い文章には短い文章なりの魅力があることは確かだ。

フォローさせて頂いている方に某広告代理店のクリエイティブディレクターの方がいらっしゃるが、この方のつぶやきは

一つ一つがコピーのようにキレが良くて人を惹きつける。文法構造とか「ら抜き言葉」とか、そんな問題を超越した魅力がある。

短いけれども意味が伝わる文章や、短いけれども内容の凝縮された文章を書くための場所としては、Twitterは最高の練習場所に

なるに違いない。だからTwitterでは短くてキレの良い文章を、ブログではちょっと長くて少し入り組んだ文章を書くことで

二つの文体を使い分けてゆきたいと思う。文体を使い分けてTwitterとブログがそれぞれ持っている特性を活用したい。

 

最後に、Twitterを語る上では欠かせない言葉である「なう」について少しだけ論じておこう。

Twitter語の代表に「なう」が挙げられる。「なう」。既に死語となって久しい「ナウい」と同じ語源を持つ言葉だから、ある意味では

「ナウい」の復活といってもよい。しかしTwitterの「なう」は「ナウい」と意味の重層性が決定的に異なる。Twitterの「なう」はただの

Nowではない。「なう」は、いま「ここにいる/こんなことをしている/こんなものを聞いている/これを食べている/etc」と、今の状況を

示すための言葉なのだ。つまり「なう」は、Nowの意味を持ちつつも、be(ing)であり、かつdo(ing)の意味を持つものなのである。

 

そしてまた、「なう」が「ナウ」という表記でない理由もここにある。このように「なう」はもはやNowの範疇を離れているから、

Nowに振られた読み仮名としての「ナウ」ではいられない。それは「なう」という平仮名で表される、新しい日本語なのである。

このような使い道の広さと文字の短さが「なう」の普及のまず一番大きな要因だと考えられるが、「なう」普及の要素はあと二点あると思う。

 

一つは「エクリチュール(書かれたもの・文字)としての見かけの可愛らしさと、パロール(発声されたもの・音声)としての可愛らしさ」だ。

「な+う」という曲線が醸し出す柔らかさ。それから「na/u」という短く丸っこい響き。程よく力の抜けた脱力感。それが人々を惹きつける

とともに、Twitterの持つカジュアルな雰囲気(そして字数制限)と相性が良かったのではないか。

 

さらにもう一点。キーの配列特性を考える必要がある。とりわけ携帯電話の文字配列が「なう」を普及させるに貢献したのではないか。

なう。「な」+「う」。

「な」は「な」行の先頭だから、キーの「な」のところを押せば直ちに画面上に表示される。「ね」のように何度もキーを押す必要がない!

そして最近の携帯にはたいてい予測変換機能が入っているから、何度か「なう」と変換していれば「な」のボタンを一度押しただけで

「なう」が表示されるだろう。

 

つまり【「な」を一回押して「な」を表示させ、「あ」を三回押して「う」を表示させる】という計四回の動作をするまでもなく、

【「な」を一回押して「な」を表示させ、予測変換で出た「なう」を選択する】という、実質一回か二回の動作で「なう」は画面上に表示される。

「のう」では予測変換を使ったとしても【「な」を五回押して「の」を表示させる】という手順を踏まなくてはならないが、「なう」であれば

キーにワンタッチするだけで「な」にアクセスすることができる。この物理的・心理的な手軽さが「なう」普及の一端を担ったのではないか。

 

以上が僕の考える「なう」普及の背景である。「なう」を使う人は多いが、「なう」について考察した人は未だ多くないんじゃないだろうか。

ちなみに僕は、まだこの「なう」という語を使ったことはない。特に理由は無いけれど。

 

 

取材旅行記2 -生理学研究所 -

 

取材旅行記その2。

愛知県は東岡崎の生理学研究所で、鍋島先生に「脳内のイメージング」についてお話をして頂きました。

三時間にわたるインタビューだったために記事が相当長くなってしまいましたが、グリア細胞の働きから幼児の「発達」まで

非常に刺激的な内容で、当日は息つく暇もありませんでした。(なお、幼児の「発達」については、記事を改めて書きます。)

 

・・・・・

生きている動物では細胞や神経ネットワークの構造を見る事は技術的に難しい。

けれども、「多光子励起顕微鏡」なるものを使えばそれが可能になる。この多光子顕微鏡は

①赤外光=組織への透過力が強いため、深部まで届く

②多光子=ピンポイントでの観察が可能

という二つの特徴を組みあわせたものであって、この二点によって、生体内部を深く・細かく観察することができる。

これを用いた例として、頭蓋骨の骨細胞イメージングを見せて頂いた。(色素SR101を全身投与してある)

これが物凄い迫力であって、僕は本当にビックリしてしまった。どんどん脳の奥深くまで入り込んでいって、細かく細かく分かれた細胞を

見て行くその様子は、枝の生い茂る森の中を分け入っていくようであり、「こんなものが自分の頭の中に広がっているのか」と

不思議な気分になる。

 

次に見せて頂いたのは、ミクログリアという脳の中の免疫細胞が活動する様子。簡単に用語を説明しておくと、

シナプス=細胞間の情報の受け渡し部位

ニューロン=神経細胞

グリア細胞=神経細胞の伝達を効率化する細胞。(何種類かある)

であって、グリア細胞の中の一種であるミクログリア細胞を見せて頂いたのである。

 

ミクログリアは、幼少期にマクロファージが脳の中に入ってきて居座ったものであって、「シナプスの監視」という仕事を担っている。

その仕事をする瞬間をリアルタイム生体イメージングで見せて頂いたのだが、これもまた感動せずにはいられないものだった。

シナプスに対してミクログリアが手を伸ばして盛んにタッチする様子が見える!しかもタッチする瞬間に、ミクログリアの先端が

聴診器のように膨れてシナプスを触診しているのだ。正常回路の場合はミクログリアは「一時間に一回、約五分ごと」に監視を行う。

(しかもかなり正確な間隔で) しかし、頭を叩いたりして神経活動を起こしたりすると、「二時間に一回、約五分ごと」に監視のリズムが

変わる。つまり、神経活動のアクティビティに監視のリズムは依存している。これがヴィジュアルに見えるのだ!

 

正常回路でない場合、ミクログリアの動きは変わってくる。障害シナプスに対しては、たとえば20分ぐらいずっとタッチしたままになり、

しかも聴診器のように膨れてタッチするのではなく、シナプスの周りをラッピングするようにタッチして精密検診を行う。

(つまり、正常回路でない場合はミクログリアの働きの時間と方法が変わる)

 

このような非正常回路の場合において、ミクログリアが精密検診を行っている最後の10分間をリアルタイム・イメージングしてみると

障害しているシナプスが除去される(ストリッピング)様子が見える。ミクログリアの検診によって、シナプスが消えたり、新生したり

組み換えが起こったりするのである。つまり、ミクログリアは神経ネットワークの再編成に関係している。

 

ミクログリアとシナプスの間には、何らかのケミカルなインタラクションがあると想像されているが、ミクログリアがシナプスにタッチしている

間に何が起こっているか、具体的にはまだ分からない。というのも、この状況を取り出した瞬間にミクログリアが活性化してしまうからである。

ミクログリアは頭をたたくだけでも活性化するし、頭蓋骨の中を見るために少しでも骨を削ろうものなら生体リアクションが起きてしまう。

そのために、最先端のイメージングサイエンスは頭蓋骨を開けることなく、その内部を見ようとしているのだ。

 

今回のNINSシンポジウムのタイトルには「ビックリ!」というキャッチがついているが、それに偽りはない。来て、見てほしい。

シナプスとミクログリアのインタラクションが国際フォーラムのスクリーンに映し出された時、あなたはきっと「ビックリ!」することだろう。

 

 

 

取材から帰ってきました。- 分子科学研究所 -

 

愛知県・岐阜県を横断してのサイエンスの最先端取材旅行から帰ってきました。

愛知県の東岡崎にある自然科学研究機構というところからスタート。まずは分子科学研究所を訪れ、斉藤先生のお話を聞きました。

分子運動の時間スケールというのは1フェムト秒(1000兆分の1秒)と極めて微小なものであり、そのために動的な観察が難しいのですが、

シミュレーション映像を上手く用いて研究することで現象をとらえやすくなります。そこで斉藤先生が見せて下さったのは、

水の結晶化過程のシミュレーション映像。乱れた構造である水が、どのようにして秩序を持った氷へと変化するのか。

これをシミュレーション動画で見せて頂いたのですが、正直感動してしまいました。

最初は乱れた水素結合が画面上に映っているだけなのですが、しだいに安定な水素結合の核が出来てゆき、、水素結合ネットワークが

成長して、欠陥が少しずつ減って六角形の結晶構造がどんどん成長していくのです。カオスな状態が時間とともに秩序立てられていく

様子はとても美しいものでした。(ミクロな世界に秩序が自生してゆくことで最終的には物質の態が変わっていくのです。これはすごい。)

 

水だけでなく、タンパク質のイメージングも見せて頂きました。体内で水の次に多く存在しているのがタンパク質であり、中でも細胞の

増殖はRasというタンパク質の活動と休止によって制御されています。そして、Rasの突然変異により細胞増殖の信号がonになり続けると、

ガンに繋がります。先生によれば、ヒトの癌の30パーセントはRasの変異に関係しているとのこと。つまり、Rasというタンパク質の研究は

ガンを考える上で非常に重要になってくるものなのです。そこで先生が見せて下さったのが、RasとGAPの複合体形成過程の

シミュレーション映像です。これがどのようなものであったか、というのは理系のゼミ生に任せますが、とにかく迫力があってびっくり。

このようにシミュレーションを上手く用いることで、ガンの分子論的な理解に繋がるということを先生は主張されていらっしゃいました。

 

Rasの生物学的機能