December 2009
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『ダニエラという女』(Combien tu m'aimes?)

 

 『ダニエラという女』を観た。監督はベルトラン・ブリエ。2005年の映画である。

原題は Combien tu m’aimes? つまり「私をいくらで愛する?」という感じになるだろうか。

原題から分かるように、ここで出てくる主役のダニエラは娼婦である。宝くじで大金を当てたといって

冴えない中年男(この冴えなさを演じられるベルナール・カンパンはある意味で凄い)が彼女、ダニエラを

「金が無くなるまで一緒に住んでくれ。」と言って買う。そしてそれを受けたダニエラは男の家に行き、

ソファーに座って彼女は自信たっぷりに言う。「特技は愛されること。私を見た男はみんな私を愛すわ。」

 

 確かにダニエラ(を演じるモニカ・ベルッチ)は凄いプロポーションで、自身に満ちたそのセリフにも

説得力があると言うものだ。とりわけ背中が美しいので、「女性の肩甲骨あたりにエロスを感じる。」という

方には是非見て頂きたい。ただし、シナリオは最終的に「なんじゃこりゃ」的な展開を見せるため、感動を

期待して見ると痛い目に合うと思われる。(個人的にはモニカ・ベルッチよりも中盤に出てくる

サラ・フォレスティエの方が好みだが、まあそんなことはどうでもいい。)

女優ばかりに目が行きがちな映画だが、異常なまでにコケティッシュな音楽の使い方も一聴に値すると思う。

ちなみに、本映画はR18指定。映像自体は「ベティ・ブルー」の方がよっぽどR18だったが、セリフの激しさは

こちらの方に軍配が上がるかもしれない。日本語字幕ではかなり控えめに訳されているようだが、

原語のセリフは間違いなくR18である。ちょっとここには書けないぐらいだ。

 

 しかし結局、この映画は何をやりたかったのだろうか。

金で居場所を転々とし、金で男に買われ、しかしそんな生活に誇りと満足を覚えていたダニエラは

最後に中年男のところへ戻る。ラストシーンの衝撃的な事実を知らされても、である。

中盤で彼女は言う。「私の自由は私のもの。金で私を買っても、私の自由は私のものよ。」

しかし、一方で彼女は、「自由になるのが怖い。」とも言うのだ。その二面性は一体何なのだろう。

このあたりにこの映画の意図が含まれているような気がする。

 

 色々と考えながら、ダニエラを演じるモニカ・ベルッチのその先に何も捉えていないような空虚な目を

見ていると、「今」も「未来」も何もかもが夢みたいに思えてくる。どこからが現実でどこからが虚構なのか。

確かなものなんて何もないし、一瞬先がどうなるかなんてもちろん分からない。

けれども、美しいものは確かに美しい。そんなふうに、我々が縛られている常識や規範の枠組みを超えた「

「美」礼賛の映画と見ることもできるかもしれないな、とふと思う。コケティッシュな美しさや性・愛を

このように堂々と、しかし狙い澄まして陳腐に描くベルトラン・ブリエは、やはり只者ではない。

 

 

左側通行の謎と雨の休日

 

 関西から上京すると、たちどころに違和感を感じるところがある。

そう、エスカレーターの立ち位置だ。関西では右側に立ち、左側が歩いて登っていく人のためのゾーンと

なっているが、関東ではその逆。左側に立ち、右側が歩いて登ってゆく人のスペースとなる。

エスカレーターにおいて、関西は「左空け」、関東は「右空け」のルールを持っていると言うことができるだろう。

 

 この地域差がどうして生まれてきたのか?それには信憑性の低いものからもっともなものまで諸説ある。

ところで、海外はどうなっているのだろうか?ちょっと調べてみると、

 

「左空け」・・・大阪、香港、ソウル、ロンドン、ボストンなどの都市や、ドイツなどヨーロッパの大陸系諸国。

「右空け」・・・東京、シドニーなどの都市。オーストラリアやマレーシア、ニュージーランド、シンガポール。

 

 ということで、世界の大多数は「左空け」が主流らしい。なぜこのような違いが生まれるのか。

まず、世界の左空けと右空けの分布を見たとき、すぐ気付くことがある。

右空け(の都市を持つ)の国に共通するのは、島国および島嶼部である。

では島国なら右空けになるのか?しかし、ロンドンが左空けであることを考えるとそうとも言えない。

(イギリスはヨーロッパとの関わりが大きかったから「島国」としてカテゴライズすべきではないかもしれないが)

ただ、「右空け」に島国の割合が大きいことは確かだ。

エレベーター自体はアメリカのオーチス・エレベーター社が1850年代に開発したもので、アメリカで販売した

あと、国外に向けてはまずカナダ近辺で売り始めたらしい。そのあと、次々にヨーロッパ諸国へ向けて

売り出してゆく。ならばアメリカ、カナダ、ヨーロッパ諸国は、開発国であるアメリカの風習を受けて

「左空け」になったのだろうか。だとすると、なぜアメリカで「左空け」のルールが生まれたのだろうか。

うーむ。よくわからない。

 

 とりあえず日本で考えてみよう。やはり、なぜ地域差が出るのか、ではなく、「そもそも左空け/右空けの

意味は?」と問うところから始めるのが良さそうだ。エスカレーターの無い時代から考えてみよう。

先日読んでいた『読み方で江戸の歴史はこう変わる』(山本博文、東京書籍)には、

「(参勤交代において)左側通行になるのは、お互いの刀の鞘などが触れ合わないようにするためである。」

という一節が見られる。江戸時代の武士は刀を左側に差していていた(右手で抜くため)から、進行方向に

対して左側に寄らねば、自分の体の幅から飛び出ている刀の鞘が前から来た相手とぶつかってしまう。

それを避けるために左側を歩いた、というのだ。

 

 問題はどの地域までこの風習が行われていたのかということだ。

参勤交代で人が集中する場所は、むろん江戸周辺である。参勤交代から自分の藩へ帰る行列、

参勤交代へ向かう行列が交差する場所は、なんといっても江戸周辺であろう。したがって、江戸周辺では

左側通行(右空け)のルールが成立したはずだ。これは、東京のエスカレーターが「右空け」であることと

符合する。

 

 では、江戸周辺以外では大名行列は道のどちらを歩いたのだろうか。岐阜を超えたあたりから右側歩き

(=左空け)に切り替わればエスカレーターの話と符合するのだが、それは良く分からない。

そもそも武士が刀を差している以上、江戸に限らず左側通行・右側空けのルールで過ごした方が

刀の鞘が触れて問題になるケースは減るだろうから、この風習が江戸だけのものだったとは考えづらい。

(このルールが生まれたのは江戸周辺であっただろうが、江戸周辺から地方へも伝播してゆくはずだ。)

 

 たとえば大阪は「商人の町」であったから、武士よりも商人が主体となって活動しており

刀の鞘が触れる云々などは大した問題ではなかったから左側通行が浸透しなかった、などの理由には

ちょっと無理が感じられる。これを発展させ、武士の帯刀ゆえに左側を歩いたこととパラレルに

「商人の経済活動においては、(右利きが大多数であるから)右手に荷物を持っていることが多かった。

だから人に荷物が当たらないように右を歩いた。」などといってみてもちょっと胡散臭い気がする。

(そもそも、江戸時代の立ち位置と現代のエスカレーターの立ち位置に直接の関係があるかどうか怪しいが)

持ち物が歩き方を決めるなら、「西洋では右にピストルを下げて右で取り出していたので、左側を空ける。」

みたいな理由も通ってしまいそうだ。1900年代に西洋人の多くがピストルを腰に下げていたとは考えづらい。

 

 なんとなく思いつくままに色々書いてみたものの、謎は謎のままである。

「ルールが当初どんな意味を持って、どこから生まれ、どのようにして広がっていったか」という問いは

このエスカレーターの立ち位置問題に限らずとても面白いと思うのだが、解明することは難しい。

と、ここまで書いてふと思ったのだが、エスカレーターの登り路線と下り路線が並列してあるところでは、

どちらに登りを置いてどちらに下りを置くのか決まっているのだろうか。

歩行と違って、エスカレーターの問いでは、エスカレーター一本の中だけで立ち位置を考えるのみならず、

逆向きのエスカレーターとの関連を考えなければいけないのかもしれない。つまりエスカレーターにおいては、

1.構造上の立ち位置(対抗エスカレーターの位置)と、2.慣習上の立ち位置(単線上で左右どちらに立つか)の

いわば「二重の縛り」に行動が規定されていると言えそうだ。

 

そんなどうでもいいことを考えながら、雨の土曜日はコーヒー片手に家で本と音楽に戯れる。

雨の夕方に合うものは、と考えてCHET BAKERの ‘CHET+1′ (Riverside)を棚から引っ張り出してきた。

このアルバムは一曲目にALONE TOGHETHERを持ってきたセレクトが神だと思う。チェットの甘くてどこか

ダルさの漂うトランペットと、ビル・エヴァンスの前に出過ぎないしっとりした音が絶妙。

ALONE TOGHETHER、つまり「たった二人で」の曲名にぴったりな音。ボーカルが無くてもあの歌詞が

浮かんでくる。Alone together, beyond the crowd…こんな音が出せたなら良いのになあ。

HOW HIGH THE MOONのスローテンポも、SEPTEMBER SONGのKENNY BURRELLのギターも最高で、

これを聞きつつ加藤尚武『現代を読み解く倫理学』(丸善ライブラリー,1996)を読了。合間にあるコンクール用

のエッセイを書いていたが、10枚ぐらい書いたところで愛用している満寿屋の原稿用紙が切れたので中断。

立花先生から頂いたChez Tachibana原稿用紙を使おうかと思ったが、勿体ないので置いておくことにした。

 

 雨が止んだら新宿へ原稿用紙を買いに行こう。ついでに知り合いの研究員さんが推していたLamyのStudio

を試筆してみるつもりだ。レーシンググリーンのインクもそろそろ補充しておきたいし、MDノートの横罫と

カバーももう一セット買っておきたい。5ゲームぐらい投げてちょっと体を動かしたい気もする。

二時間ぐらいぼーっと玉突きするのも良いかもしれない。土曜なら知り合いの常連さんたちがいるだろう。

 

 

 決まった予定が無い日は久しぶり。慌ただしい師走を一日ぐらいゆっくりと、好きなように過ごそうと思う。

やりたいことは沢山あるけれども、行くかどうかは天気次第。そんな自由がたまらなく幸せだ。

 

 

 

12月の満月

 

 今日は月がびっくりするぐらい大きく、明るかったですね。今まで見た月で一番迫力があったかもしれません。

空気も澄んでいたので表面の模様までよく見えて、しばらく見とれてしまいました。

以前にギリシャ哲学の大教授がおっしゃっていた、「太陽はあんなに明るく大きいのに地上の我々から見れば

空にある太陽は足の幅の大きさのように見える。それは、本来の大きさだと我々はその輝きに目を

見開くことができないからだ。これは〈真理〉と似ている。真理が眼前にあると、真理が放つ光が激烈過ぎて

我々はそれに目を見開くことができない。だから真理はとても遠くにあって、その弱い光を我々は見ているに

過ぎない。だが、哲学するものは、みずからの身を焦がすことを恐れず、眩しすぎる真理へと挑んでいく。」

という言葉をなんとなく思い出しました。

 

まあそんなわけで、先日の記事が固かったので今日は近況を軽く書いておくことにします。

 

・立花ゼミ

先生方と国際関係論と音楽とデザインについての喧々諤々の議論(?)をやっている間に

今日のゼミの時間が終わってしまい、今週はゼミに出ることができませんでした。ちょっと悲しい。

立花ゼミの「二十歳の君へ」書籍化企画が着々と進んでいる中、その企画の一環として

「立花隆対策シケプリ」を作る予定なのだが、それについてゼミ生がどの分野を担当するか決めやすいように

各自の得意分野・専門分野をメーリスに書いて流したらどうか、という提案をしようと思っていましたが

言う機会を失ってしまいました。まあここに書いておけば何人かは読んでくれるでしょう。

あと、僕が細々とやっている芸術企画の一環として「香り」について問うプロジェクトをやろうと思っています。

ただいまインタビュー先のリストアップ中です。

 

・ボウリング

かなり安定してきました。210アベレージをここ数週間コンスタントに維持できており、プロにも二連勝しました。

ホームにしているセンターのレーンはかなり遅く結構荒れていることが多いので、回転数の多い僕にとっては

結構苦しむレーンなのですが、無理せずボールを走らせる技術をようやく完全に会得した気がします。

あとはスコアの振れ幅を出来るだけ小さくしていく(ちょっと前には245の後に128を出しました…。)ことが

必要ですね。あんまり崩れてしまうと、精神的に次のゲームがきつくなるので、ローゲームは180ぐらいまでで

留めておきたいところです。

 

・フルート&指揮

フルートは中音域を響かせるコツというか、息を当てるポイントが掴めてきた気がします。

適当にそのへんの曲を吹きながら、オクターブの練習をひたすらやっています。

指揮は練習曲その1にじっくりと取り組み中。「もっとスマートに振らなきゃ。」と帰り際に師匠に言われて、

「スマートって一体何だ・・・。」と帰りの電車で考え込んでしまいました。「もっと自然に!」というのも

師匠から良く言われることなのですが、こちらも中々難しいことですよね。力が入ってしまっているのは

自分でも分かるときはありますが、かといって力を抜くのはとても難しい。ですが、この「脱力」こそが

指揮の奥義の一つの筈なので、なんとかしてこれをマスターせねばなりません。何年かかることやら・・・。

 

・本

ここ数日かけてブルデューの『ディスタンクシオン』(藤原書店)を上下二巻読み切りました。

ブルデューの議論に通底するものは、一言でいえば「再生産」だと思います。

この本でも、ディスタンクシオン(卓越化)という言葉と、「ハビトゥス」という概念を用いて、個人の「趣味」が

本人の自由意思のみに基づいて形成されるものではなく、個人の職業や社会的階層、あるいは

両親の職や学歴や環境に大きく規定されていることが明らかにされます。有名な例では、一巻の第一章に

ある、「好きなシャンソン歌手・音楽作品」と「所属階級・学歴」の相関表。シャンソンのことはよくわからない

ので、シャンソン歌手との相関については何とも言えないのですが、音楽作品として挙げられている

『美しく青きドナウ』『剣の舞』『平均律クラヴィーア』『左手のための協奏曲』だけを見ても、上流階級・知的職

になるに従って『平均律クラヴィーア曲集』を好む人の割合が増え、一方で庶民階級は『美しき青きドナウ』や

これに続いて『剣の舞』を好む人が多いというデーターがあります。このように諸作品につけられた価値の

「差異」が学歴資本の差に対応している、とブルデューは結論付けます。そしてこうした文化の価値は

「フェティッシュの中のフェティッシュともいうべき文化の価値は、ゲームに参加するという行為が前提として

いる最初の投資のなかで、つまりゲームを作りだすとともに闘争目標をめぐる競争によって絶えず

創りなおされるところの、ゲームの価値に対する集団的信仰の中で生まれてくる。」(P.386)と言います。

 

 なかなか分厚い本ですが、最後まで息切れせずに読ませる面白さをこの本は持っています。

名著と呼ばれて久しいのも納得です。興味がある方や社会学部に進学される方は是非読んでみてください。

立花ゼミの「貧困と東大」企画の参考になるかもしれません。

 

というわけで次は『ルーマン 社会システム理論』(新泉社)へ。第三者の審級概念についての大澤論文を

読んでいて、自分のルーマンのシステム論への知識が圧倒的に不足していることを痛感させられたので

12月はルーマンを集中的に攻めたいと思っています。まずこの概説書を読んでから、次に

長岡克行『ルーマン 社会の理論の革命』へ、そして馬場靖雄『ルーマンの社会理論』を読みつつ

ルーマン自身の著作に取り掛かる予定です。それから冬休みにはカール・ポランニーの『大転換』と

ちくま学芸文庫から出ている『経済の文明史』と『暗黙知の次元』を読む予定。あとずっと読みたかった

東浩紀『存在論的、郵便的 -ジャック・デリダについて-』も読みたいですね。浪人中に立ち読みしてみた

もののさっぱり理解できず、「これはもっと勉強してから読もう・・・。」と諦めた経緯があります。

サントリー学芸賞受賞作は分野問わず全て読もうと企んでいるので、やっぱり本作を外すわけには

いきません。再チャレンジします。

 

学術書ばかりになってしまいましたが、小説では上橋菜穂子『獣の奏者』を読んでいます。

まだ一巻の途中ですが、段々面白くなってきました。このあとの展開が楽しみです。

 

・モノ

PILOTから出ているバンブーという万年筆が今年の夏に廃番になっていたことを知りました。

夏にはまったく欲しいとは思わなかったのですが、廃番と聞くとちょっと欲しくなりますね。

とくにMニブの青軸は有名どころの文具店では軒並み完売だそうです。意外と地方の文具屋さんでは

残っていたりするかもしれませんね。もし発見された方がいらっしゃったらご一報下さい。

 

大澤真幸『意味と他者性』を読む。

 

 発表に備えて、大澤真幸『意味と他者性』のうち「規則随順性の本態」という論文を精読していました。

大澤氏の本はほとんど全て読んできましたが、中でもこの本は僕にとって、一・二を争う分かりづらさに映っています。

ヴィトゲンシュタインやクワイン、クリプキなど、分析哲学系の話題を(社会学として)扱おうとしているからでしょうか。

それ以上に、本書は極めて抽象度の高い議論が延々と展開されていることにあるのかもしれません。

いつもの大澤氏なら具体例や社会事象を引いて分析してくれるのに。

 

とはいってもそれはある意味で当たり前。

この1990年の論文は、のちに大澤氏の理論のキーとなる、「第三者の審級」概念の「形成」を扱ったものだからです。

この概念を応用するのではなく、この概念をどうやって導いてきたかということについて、抽象度を維持したまま、論理的で細かい

議論がひたすら展開されます。このことから、「第三者の審級」概念を考える上では必須の文献といってよいでしょう。

では、本論文で述べられていることは一体何か。そして「第三者の審級」概念とは一体何なのか。

ちょっと要約してみましょう。

 

【 「行為随順性の本態」(『意味と他者性』) の要約 】

われわれはいかにして、何らかの行為が可能であることを示しうるのか?そしてまた、「規則に従う」ことはいかなる意味を持つのか?

ヴィトゲンシュタイン-クリプキによって示された懐疑論的解決では不十分であり、これを超えるためにはコミュニケーションという事態の

不可欠な構成素たる「他者」の本性を問い直す必要がある。他者は、対象を捉える心の働きである「求心化作用」と、この作用と

必然的に連動してしまう「遠心化作用」(対象となるものに、私とは異なる固有の心の帰属場所を発見させる作用)によって不可避に

与えられる。私の存在は、(物理的意味合いではなく)他者の存在に常に伴われており、他者と共存している。

そして、私がまさにこの私であるという自同性のうちにすでに他者の存在ということが含まれるため、私の存在は他者の存在の

裏返しの形態であり、自己と他者は不分離の関係にあることになる。この自己と他者という二つの体験の源泉ゆえに、

体験される事柄は二重の偶有性を帯びざるを得ない。だが一方で、私の存在は他者の存在の必然性でもあることは、心的現象が

私に帰属していることの必然性が他者に帰属していることの必然性へと転換されて現れうる。

 

従って、他者とは、「他でありうること」=「偶有性」を確保する場所であるが、他方では「他ではありえないこと」=「必然性」を構成する

場所としても機能するのであって、この他者の両義性こそが、「規則」という現象を可能にする。

規則にしたがっているとみなされる行為においては、まさしくこの偶有性と必然性の交錯が起こる。

行為が妥当であるためには、妥当ではないという可能性が留保されていなくてはならないから、偶有的でなくてはならない。

一方で、心的現象が他者へ帰属することで対象の「なにものか」としての在り方とそれに相関する行為は必然性の様相を帯びる。

しかし、ここでの「他者」は否定的に表れる。すなわち、直接に現前しないということにおいて現前するのである。

このとき、他者は、第三者的な超越性を帯びたものとして転化されうる。この第三者的な超越性を帯びた他者を、「第三者の審級」と

呼ぶ。この第三者の審級は、私の経験に対して常に先行している「先行的投射」という性格を持つものであり、私からも、

私が直面していた他者からも分離された存在である。それゆえに、規則の妥当性を基礎づけることになる。行為の妥当性を承認する

他者は、単なる「他者」ではなく、特別な他者、「第三者の審級」であり、この第三者の審級に承認されていることの認知が

規則という実態についての錯覚を生みだす。

 

この第三者の審級は直接の現前から逃れているが、具体的な他者との間に代理関係を持つことによって間接的に現前しうる。

すなわち直面する他者が第三者の審級を代理するものとして認知されているときには、直面する他者が第三者の審級に相当する

権威を帯びるのである。ある者が権威を帯びた他者として表れる事がありうる、ということがわかれば、教育という現象

(行為の妥当性/非妥当性を決定し、行為を訂正しうるもの)が成立することも理解されよう。教育者が、教育を受ける者たちにとって

第三者の審級を代理するものとして定位されていることによって教育という行為は成立するのである。

 

だが、第三者の審級が具体的な他者に代理されて現実化するならば、同様の理由から、私自身が私に対して君臨する第三者の

審級を代理することも可能だろう。なぜなら、そもそも私と私が直面する他者とは同格的な存在であり、

私とは一種の他者であるからだ。だ。このとき、私自身が、私の行為を承認したり否認したりすることの権威をもつものとして表れうる。

従って、私が自身の行為について「私は規則に従っている。」と認定することが可能となるのである。

(ただしそれが有意味になるのは、私の行為が他者とのコミュニケーションの関係におかれているかぎりである。)

このような第三者の審級が成立すると、他者に伴う偶有性(他でありうる可能性)が潜在化してしまう。

特定の可能性のみが生じ得るものとして信頼され、他の可能性がありうることについての予期が端的に脱落してしまうことになる。

そして、この作用こそが、規則随順の本態である。

 

【ちょっと気になったこと】

P.77「心的な対象の特定の現れがこの私に帰属している、ということは、この同じ現れが私に直面している他者つまり「あなた」に

(共)帰属していることをも含意してしまうに相違ない。」

 ⇒なぜ「含意してしまうに相違ない」のか?私と他者が不可分の関係である以上、心的な対象の私への現れが他者に帰属する

可能性は確かにあるだろう。しかし、それはあくまでも帰属する可能性、「含意する可能性を持つ」にすぎないのではないか?

この部分だけでなく、偶侑性と必然性を述べている部分において、必然性がなぜ必然なのかについての論理展開が甘いように

感じる。この部分が「規則」という概念と「第三者の審級」をつないでいるので、ここが曖昧では説得力を失うのではないか。