森ビルで開かれている『医学と芸術展』へ行ってきた。感想は「おすすめ!」の一言に尽きる。
展覧会の正式タイトルは「医学と芸術展 生命と愛の未来をさぐる -ダヴィンチ・応挙、デミアン・ハースト」
(MEDICINE AND ART Imaging a future for Life and Love -Leonard da Vinci,Okyo,Damien Hirst)
というもの。森美術館のホームページから企画概要を引用しておこう。
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人間の身体は我々にとって、もっとも身近でまたもっとも未知の世界です。人間は太古の時代からその身体のメカニズムを探求し、
死を克服するためのさまざまな医療技術を開発してきました。また一方で、みずからの姿を、理想の美を表現する場の一つと位置づけ、
美しい身体を描くことを続けてきました。より正確な人間表現のために自ら解剖を行ったレオナルド・ダ・ヴィンチは科学と芸術の統合を
体現する業績を残した象徴的なクリエーターと言えます。本展は、「科学(医学)と芸術が出会う場所としての身体」をテーマに、
医学・薬学の研究に対し世界最大の助成を行っているウエルカム財団(英国)の協力を得て、そのコレクションから借用する約150点の
貴重な医学資料や美術作品に約30 点の現代美術や日本の古美術作品を加えて、医学と芸術、科学と美を総合的なヴィジョンの中で
捉え、人間の生と死の意味をもう一度問い直そうというユニークな試みです。また、英国ロイヤルコレクション(エリザベス女王陛下所蔵)
のダ・ヴィンチ作解剖図3点も公開します。
第一部 身体の発見
人間がどのように身体のメカニズムとその内部に広がる世界を発見してきたのか、その科学的探究の軌跡と成果を多数の
歴史的遺物によってたどり、紹介します。
第二部 病と死との戦い
人間が老いや病、そして死をどのようなものと捉え、またそれに対して、いかに抗ってきたのかを紹介します。
医学、薬学、生命科学の発展の歴史だけでなく、老いや病、生と死についての様々なイメージが登場します。
第三部 永遠の生と愛に向かって
最先端のバイオテクノロジーやサイバネティクス、そして脳科学などに基づき、人間はなぜ生と死の反復である生殖を続けるのか、
人間の生きる目的や未来を読み解くことは可能なのか、そして生命とは何であるのかを、医学資料やアート作品を通して考察します。
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(以上、http://www.mori.art.museum/contents/medicine/exhibition/index.htmlより)
医学と芸術を併置させたその構成は『十六世紀文化革命』(山本義隆)で描かれた世界を彷彿とさせる。
それが現代のバイオエシックスの諸問題と接続されたような展覧会なのだから面白くないわけがない。
必死にノートを取りながら見て回った。展示数も相当なものなので最後まで飽きずに楽しむことが出来るだろう。
ただし、デートにはあまり適さない展覧会なので要注意である。(実際、会場でかなり微妙な空気になっているカップルに多々遭遇した)
中でも、円山応挙の「波上白骨座禅図」は衝撃的。
大きく描かれた座禅を組む骸骨に一瞬ギョッとするが、見ているうちに不思議な落ち着きを感じる。
会場でもいくつかの解釈が示されていたが、僕はそれらとちょっと違って、
この絵から「からっぽ」を感じた。
座禅をやったことのある人なら納得してもらえると思うのだが、座禅が上手く組める
ときには頭の中がからっぽになったような感覚を覚える。
座禅はひたすら自分を無に近づけていく試みなのである。
そしてこの絵で描かれているのは骸骨(=肉体のない、からっぽの人間)であって、
彼は座禅を組むことによって、自己の存在を限りなく消去しつつある。
そして同時に、彼は波の上にいる。
これもまた波乗りを経験したことのある人には納得してもらえると思うのだが、
海に浮かんで波に揺られているとどこまでが自分でどこまでが海なのか段々
分からなくなる。不規則なように見えて、「寄せては帰す」という基本的なリズムを
持っている波の性質がそうさせるのだろうか。波のリズムに揺られているうちに
頭の中はからっぽになる。体が無くなったような錯覚を覚える。
波の上にいる骸骨はこの感覚を表現しているのではないだろうか。
そう考えて見てみると、「奥に描かれた波に対して手前に 大きく描かれた骸骨」
というこの構図の意味が見えてくる。
波に揺られて頭がからっぽになると身体が海に溶ける。境界線がはっきりしなくなる。
最初に感じていた、海と自己との大小関係が曖昧になってくる。
無理やり現代風に表現するならば、海というレイヤーを背景に
敷いて、その上に透明度20パーセントぐらいで「じぶん」という
レイヤーを縮尺を無視して海全体に重ねた感じだ。
この絵は、そのような自己の存在を滅却してゆく簡素さ、「からっぽ」を表現しているように思う。
触れたい作品は他にもたくさんあって、Alvin Zafra のArgument from Nowhere には度肝を抜かれたし、
Walter Schels のLife Before Death の持つ、静かで厳かな迫力は忘れられない。とりわけAnnie Catrell の Sense は、
いま集中的に取り組んでいる論考に大きな刺激を与えてくれた。詳しくは足を運んで見てみて頂きたい。行って損はしない。
学生なら1000円で入ることができるので、冬休みにいかがでしょう。
確かに、よく見れば意外とすがすがしい絵に感じられるね。
とすると、骸骨に対する現代人と江戸時代人の感性が同じだったかどうか。ギョッとするのは我々が現代人だからに過ぎないかもしれない。江戸時代の人もギョッとしたのかもしれないけど。
時間があったら行くかも。でもこの年末年始には行かないな、やることあるし…
めっちゃ面白そう。特に第3部に興味あるなぁ。
生と死の反復である生殖を繰り返す意義か・・
死の概念なんてどのレベルで定義するかで変わってくると思う。
ヒトという種でみれば(どこからヒトかはおいとくとして)誕生以来一回も死んでない(絶滅してない)ことになるし、単純に個人個人でみれば100年くらいで大体死ぬし、細胞単位でみれば毎日死んでる。
個人的にはより大きな単位を存続させるために死ぬんだろうと思う。
細胞は体内のホメオスタシスを維持するためにアポトーシスするし、ヒト単体は種を存続させるために生殖でDNAを混ぜ合わせてより環境に適した個体を創ろうとする。用が済めば空気を読んで死ぬ。何故死ぬのか?
他の方法がないから。細胞が自分で自分を修復して癌細胞への道を免れるならそうするだろうけどそれはできない。だから周りを巻き込まないように空気を読んで死ぬ。ヒト単体で環境にどんどん対応していけるならそうするだろうがそれはできないから生殖で次の世代にそれをたくして自分は死ぬ。
そう、他に方法がないから・・
じゃあ他に方法があったら?
生物誕生以、生と死の反復でしか環境に適応してこれなかったけど別の適応方法を見つけつつあるのかもしれないね。
再生医療のめざす先はその生と死の反復の呪縛からの解放なのかな~などと思いました。
長々と持論を失礼しました。
まあヒトの場合現在の環境に適応しすぎてるからがらっと環境が変わればすぐ全滅なんて言われたりもしてるみたいやけど。
とりあえず種の存続云々なんてどうでもいいから俺は死にたくないけどね(笑)
・・東京じゃなかったら行くねんけどな。
>ばーど氏
確かに、江戸時代の人たちは骸骨の図を見てどんな感想を抱いたんだろうね。
骸骨の図を見て感じることってその当時の死生観とダイレクトに繋がってるような気がするので
調べてみると面白いかもしれない。この展覧会はかなりおすすめなので暇ができたらぜひどうぞ。
>聖氏
死の概念はほんと定義次第で、いくらでも伸ばしたり縮めたり出来るね。
死のスパンは生のスパンと表裏の関係にあると思う。脳死を人の死と認めたりするような発想は皮肉なもので、
科学的進歩ゆえに生のスパンが縮められている(=死の射程を延ばす)好例ですね。
「空気を読んで死ぬ」というのは福岡伸一氏の著書で読んだことがあるフレーズです。
たしか『生物と無生物のあいだ』だったかな。細胞って極めて微細なものが全体性を意識して活動している
っていうのはちょっと衝撃でした。
再生医療がこれからどんな進歩を遂げ、同時にどんな問題を生んでいくのかは今後注視して行きたいなと
思っています。どこまでがtherapyでどこからがEnhancementかという生命倫理の議論にも繋がっていくはず。
この展覧会は二月の末までやってるようなので、もし東京に来る機会があれば行ってみてください。
その時はまたうちで飲み明かしましょう。