M-1グランプリ2009を観た。目当ては笑い飯。いつも決勝近辺まで行くのになぜか勝てないこの二人が今年は
どんな伝説を作るか楽しみにしていた。結果は決勝までダントツで進んで、最終的には2位。ある意味伝説の展開だ。
ここまで来ると、「こいつら実は優勝する気ないんちゃうか」と思ってしまう。それがまた面白いといえば面白い。
M-1で笑い飯と言えば多くの人が真っ先に思いつくの2003年の「奈良県立民俗博物館」というネタだろう。
あれはまさしく神だった。テンポ感もネタの構成も最高。掛け合いはどんどん加速していき、笑いもどんどんクレッシェンドしていった。
この奈良県立民俗博物館ネタには及ばないものの、今年の一回目のネタ「鳥人」は2003年に次ぐ名作だったと思う。
ボケとボケの掛け合いが生む勢いだけで笑わすのではなく、絶妙なテンポ感に加えて、言葉遊び的な笑いの要素が上手くミックス
されていた。さらに、笑い飯の真骨頂とでも言うべき「イメージ」の伝達がとても巧みだった。
奈良県立民俗博物館と鳥人(に限らず、笑い飯の漫才のネタの多くがそうだと思う。「コロンブス」とか。)の共通点は、どちらも
「存在しないもの」「大多数の人は観たことがないもの」でありながら、「言われてみれば想像できる」ものであること。
ということは同時に、観客に自分たちのイメージしているものが伝わらないことには始まらないネタだと言える。
つまり、笑い飯が思い描くイメージが完璧に観客へと伝わり、イメージを共有できた時に、彼らのネタは笑いに変わる。
奈良県立民俗博物館と鳥人で提供したイメージは「博物館によく置いてある縄文時代の人々の像」と「頭だけ鳥で体が人」であった。
なんとなくリアリティを感じさせるこれらのイメージを観客と共有しつつ、あとはそのイメージから引き出されるシナリオを展開しながら
言葉遊びと主題のズレ(たとえば奈良県立民俗~における「ええ土!」、鳥人における「チキン南蛮」など)によって話を広げてゆく。
そこに漫才の「技術」である節回しや表情、テンポが加わることで彼らの漫才は構成されていると思う。
想像力と言語力に強烈に働きかけてくる笑い飯、まだまだ彼らから目が離せない。
それにしても、笑い飯の漫才に漂うシュールさは吉田戦車の漫画に良く似ている。帰省したらまた吉田戦車の『殴るぞ』と
『感染るんです(うつるんです)』を読もうと思う。というわけでそろそろ帰省の準備をしなければならないのだが、軽くリストアップしてみた
だけで凄まじい量の荷物になってしまった。服、パソコン、本10冊、ドイツ語とフランス語の辞書、フランス語関連の演習本、単語帳、
ボウリングのボール×3、指揮棒、楽譜、フルート、バイオリン、筆記用具、万年筆のインク・・・これではいくら鞄があっても足りない(笑)
年末・年始で料金が高いことが予想されるのでボールは持って帰らなくても良いのだが、帰省するからには師匠と一回ぐらい投げたいな
と思うと、やはりボールは外せないという結論に至る。こうして荷物は全く減らないのであった。
なお、本日は大畑大介『不屈の「心体」なぜ闘い続けるのか』(2009,文春新書)と加賀乙彦『不幸な国の幸福論』(集英社新書)を
読了。それからあるコンクール用に書いていたエッセイを提出した。『記憶を纏う』と『ガラス越しの香り』という題名の二編である。
結果発表はまだまだ先なので、あんまり期待せずに待つことにしよう。