発表に備えて、大澤真幸『意味と他者性』のうち「規則随順性の本態」という論文を精読していました。
大澤氏の本はほとんど全て読んできましたが、中でもこの本は僕にとって、一・二を争う分かりづらさに映っています。
ヴィトゲンシュタインやクワイン、クリプキなど、分析哲学系の話題を(社会学として)扱おうとしているからでしょうか。
それ以上に、本書は極めて抽象度の高い議論が延々と展開されていることにあるのかもしれません。
いつもの大澤氏なら具体例や社会事象を引いて分析してくれるのに。
とはいってもそれはある意味で当たり前。
この1990年の論文は、のちに大澤氏の理論のキーとなる、「第三者の審級」概念の「形成」を扱ったものだからです。
この概念を応用するのではなく、この概念をどうやって導いてきたかということについて、抽象度を維持したまま、論理的で細かい
議論がひたすら展開されます。このことから、「第三者の審級」概念を考える上では必須の文献といってよいでしょう。
では、本論文で述べられていることは一体何か。そして「第三者の審級」概念とは一体何なのか。
ちょっと要約してみましょう。
【 「行為随順性の本態」(『意味と他者性』) の要約 】
われわれはいかにして、何らかの行為が可能であることを示しうるのか?そしてまた、「規則に従う」ことはいかなる意味を持つのか?
ヴィトゲンシュタイン-クリプキによって示された懐疑論的解決では不十分であり、これを超えるためにはコミュニケーションという事態の
不可欠な構成素たる「他者」の本性を問い直す必要がある。他者は、対象を捉える心の働きである「求心化作用」と、この作用と
必然的に連動してしまう「遠心化作用」(対象となるものに、私とは異なる固有の心の帰属場所を発見させる作用)によって不可避に
与えられる。私の存在は、(物理的意味合いではなく)他者の存在に常に伴われており、他者と共存している。
そして、私がまさにこの私であるという自同性のうちにすでに他者の存在ということが含まれるため、私の存在は他者の存在の
裏返しの形態であり、自己と他者は不分離の関係にあることになる。この自己と他者という二つの体験の源泉ゆえに、
体験される事柄は二重の偶有性を帯びざるを得ない。だが一方で、私の存在は他者の存在の必然性でもあることは、心的現象が
私に帰属していることの必然性が他者に帰属していることの必然性へと転換されて現れうる。
従って、他者とは、「他でありうること」=「偶有性」を確保する場所であるが、他方では「他ではありえないこと」=「必然性」を構成する
場所としても機能するのであって、この他者の両義性こそが、「規則」という現象を可能にする。
規則にしたがっているとみなされる行為においては、まさしくこの偶有性と必然性の交錯が起こる。
行為が妥当であるためには、妥当ではないという可能性が留保されていなくてはならないから、偶有的でなくてはならない。
一方で、心的現象が他者へ帰属することで対象の「なにものか」としての在り方とそれに相関する行為は必然性の様相を帯びる。
しかし、ここでの「他者」は否定的に表れる。すなわち、直接に現前しないということにおいて現前するのである。
このとき、他者は、第三者的な超越性を帯びたものとして転化されうる。この第三者的な超越性を帯びた他者を、「第三者の審級」と
呼ぶ。この第三者の審級は、私の経験に対して常に先行している「先行的投射」という性格を持つものであり、私からも、
私が直面していた他者からも分離された存在である。それゆえに、規則の妥当性を基礎づけることになる。行為の妥当性を承認する
他者は、単なる「他者」ではなく、特別な他者、「第三者の審級」であり、この第三者の審級に承認されていることの認知が
規則という実態についての錯覚を生みだす。
この第三者の審級は直接の現前から逃れているが、具体的な他者との間に代理関係を持つことによって間接的に現前しうる。
すなわち直面する他者が第三者の審級を代理するものとして認知されているときには、直面する他者が第三者の審級に相当する
権威を帯びるのである。ある者が権威を帯びた他者として表れる事がありうる、ということがわかれば、教育という現象
(行為の妥当性/非妥当性を決定し、行為を訂正しうるもの)が成立することも理解されよう。教育者が、教育を受ける者たちにとって
第三者の審級を代理するものとして定位されていることによって教育という行為は成立するのである。
だが、第三者の審級が具体的な他者に代理されて現実化するならば、同様の理由から、私自身が私に対して君臨する第三者の
審級を代理することも可能だろう。なぜなら、そもそも私と私が直面する他者とは同格的な存在であり、
私とは一種の他者であるからだ。だ。このとき、私自身が、私の行為を承認したり否認したりすることの権威をもつものとして表れうる。
従って、私が自身の行為について「私は規則に従っている。」と認定することが可能となるのである。
(ただしそれが有意味になるのは、私の行為が他者とのコミュニケーションの関係におかれているかぎりである。)
このような第三者の審級が成立すると、他者に伴う偶有性(他でありうる可能性)が潜在化してしまう。
特定の可能性のみが生じ得るものとして信頼され、他の可能性がありうることについての予期が端的に脱落してしまうことになる。
そして、この作用こそが、規則随順の本態である。
【ちょっと気になったこと】
P.77「心的な対象の特定の現れがこの私に帰属している、ということは、この同じ現れが私に直面している他者つまり「あなた」に
(共)帰属していることをも含意してしまうに相違ない。」
⇒なぜ「含意してしまうに相違ない」のか?私と他者が不可分の関係である以上、心的な対象の私への現れが他者に帰属する
可能性は確かにあるだろう。しかし、それはあくまでも帰属する可能性、「含意する可能性を持つ」にすぎないのではないか?
この部分だけでなく、偶侑性と必然性を述べている部分において、必然性がなぜ必然なのかについての論理展開が甘いように
感じる。この部分が「規則」という概念と「第三者の審級」をつないでいるので、ここが曖昧では説得力を失うのではないか。