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テスト終了!

 

 と喜んでみたものの、まだレポートが数本残っている。まあとりあえず、いわゆる「テスト」は終わったので一安心。

しばらく昼も夜も無い生活をしていたが、これで少しはまともな生活が送れそうだ。

 

 テストが終了したということで、昨夜は和館で上クラの人たちとコンパをした。

コンパと言っても、僕はレポートに追われていたので、酒を飲みつつレポート作りつつ喋りつつ、という何ともハードなコンパに。

途中で音楽室へ行ってハイドンのピアノ協奏曲の三楽章をソリストと一緒に組み上げていった。

軽く音を出すだけという話だったのだが、いつのまにかお互い真剣に。まず最初は、ソリストが弾くのを何度もよく聴く。

次に、僕の解釈とソリストの解釈とを擦り合わせながら、テンポやニュアンスをつけていく。三楽章はカデンツァがない代わりに

短調へ転じる部分が最大の聞かせどころとなる。ここを、聞き終わった後に「あそこが忘れられない」と言わせるような演奏にしたい。

だから最初のトリルだらけの転調部は少し重めの音で弾いてもらった。その上で第二音であるミの音を強調してもらう。

214小節目からはカデンツァのような扱いでいいと思う。オケは完全にリズムを刻んでいくだけで、その上でピアノが自由に

駆け巡ればいい。胸を締め付けられるようなニュアンスで、でも振りかえることなくサッと流れて行くような音をお願いしたら

ソリストが完璧にそんな音を出してきて感動した。やっぱり一つの楽器を真剣にやっている人の音は違う。これは完成が楽しみである。

 

 良く知られた話ではあるが、実際に音を出してやっていると、やっぱり指揮をするには言語能力が絶対的に必要だなと感じる。

頭の中で聴いている音と、実際に鳴っている音との違い。それから微妙なニュアンス。これらを何とかして「相手に」伝えなければ

ならない。そのためには自分で歌ったり、身体で動きを示したりして伝える事もあるが、やはり一番大きいのは言語による伝達だ。

映像的な表現を使ってみたり(秋の風がさーっと吹いて落ち葉を巻き上げるイメージで、とか)音楽と全然関係ない比喩を使ってみたり、

持てるボキャブラリーを総動員して何とか相手に「伝える」。これは指揮法の教程をいくら読んでも書いていない。優れた指揮者に

なるには音楽以外の要素が要求される、と言われる所以の一つであろう。マエストロと呼ばれる指揮者のリハーサル映像を

見ていると、この「言語化して伝達する能力」が抜群である事に気づかされる。何とかしてこの能力を磨いて行きたいと思う。

何十回か合わせた後、先輩のHさんにオーボエのパートをフルートで吹いてもらい、弦のパートを僕が歌って合わせつつ振った。

最後は胸のすくようなトゥッティ。音楽に真剣に打ち込めて、非常に充実した時間だった。

明日から波乗りに行くのでしばらく音楽は出来ないが、ポケットスコアを持って行って、寝る前には勉強しようと思う。

海辺でスコアを読むのも悪くない。あ、でもやっぱりやめよう。潮風でふにゃふにゃになりそうだ。

 

 そういえば先日、「討議力」というテーマでインタビューを受けたのだが、その様子を纏めた雑誌がネットで読めるようになっていた。

電通育英会 http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/ の中の育英ニュースVol47(2009年7月号)がそれだ。

11ページあたりから掲載されているので、お暇な方はPDFファイルをダウンロードして読んでみてください。

 

「入口」としての授業

 

 歴史Ⅰのテストが終わりました。

昨日の記事にも書いた、アナール学派とマルク・ブロックについての試験だったのですが、会心の出来の解答を書く事が出来て

満足しています。問Ⅰは「アナール学派とは何か」という設問だったので、昨日ここにアップした内容をガシガシと書いていきました。

もう年で記憶力も次第に落ちてくる頃なので、解答用紙のサイズにして45行あまりにも渡る文章をしっかりと覚えられているか

不安だったのですが、いざ書いてみると手が覚えていたり、リズムで記憶から文章を引き出してきたり、書きつけたページそのものを

ビジュアルに思い出したりすることが出来て、昨日アップした内容とほぼ一言一句(ひとつだけ書き忘れましたが)違わない解答を

再現する事ができました。このテストの結果は進学に結構大きく影響してくるものであっただけに、一安心です。答案を書きながら

「もっと字が綺麗だったらなあ・・・。」「〈問Ⅰについてはブログ参照〉で終わらした方が先生もこんな悪筆を読まずに済むし、

僕も書く手間が省けるし、お互いの幸せに貢献するのではないだろうか。」などと考えたりもしましたが、流石にそれは無理ですね(笑)

 

 まあとにかく、アナール学派について学んだ事は大変有意義なものとなりました。これらについて学ぶうちに、

 僕の興味関心の一つであり続けている「音」や「香り」について研究しており、「感性の歴史家」と呼ばれているアラン・コルバン

の著作に出会う事が出来たのが最も大きな収穫だったと思います。コルバンの著作は、昨年僕が書いた「モード」についての小論

に応用できるところが多々あって、昨年のうちに出会っていればあの研究の方向性は少し変わっていたかもしれません。

面白かったのはアナール学派と呼ばれる人々の著作を手当たり次第に読んでいくうちに、ミシェル・パストゥローの名前に

遭遇したこと。アナール学派であるとは知らないまま、彼の『青の歴史』を昨年の小論に参考文献として用いたのですが、

今読み返してみると、パストゥローがとる手法や描き出す歴史像は極めてアナール学派的なアプローチだと気付きます。

『青の歴史』にしても『紋章の歴史』にしても、様々な角度から切り込んで、些末な事象や事件史に留まらぬ包括的な歴史を

描いていて、この人がアナールの第四世代に位置づけられるのも納得がいくところです。

 

 このように、新しく得た知識が他の知識や過去に得ていた知識と結合され、「!」と手を打ちたくなる瞬間を多く経験する事が大学生活

の面白さの一つではないかと思います。東京大学の教養学部の授業にはそういう瞬間を与えてくれる授業が非常に多くて、

一見つまらない授業でも理解していくうちに突如として自分の関心ある分野と繋がったり、別の授業の内容と繋がったりする事が

良くあります。もっとも授業に期待しすぎるのは見当違いというもので(大学で教壇に立つのは研究者です。)授業を諸学の「入口」として

活用し、授業に関連する本を自分でガンガン読み進めていく事が必要になってきます。ある程度本を読んで知識を持ってはじめて、

先生の喋っていたカオスで電波な内容が、とても魅力的で重要な意味を持つ内容だったことに後から気づく、なんてのもしばしばです。

そういう意味で、「大学生ならとにかく本読んどけ。」「大学生のうちに読んだ本が将来のベースになる。」などの嫌というほど

聞き慣れたフレーズは決して的外れなものではないと思います。

 

 話が大きくなってしまいましたが、とにかく今回の歴史Ⅰ「マルク・ブロックを(自分で)読む」という授業は、

そのように知の連結へのきっかけを与えてくれるものでした。テストの最終設問であった三番の

「あなたが過去に問うとしたら、どのような事を問いたいか。そしてそれは何故か。」という設問は、「感想を書け」と同じような類の

漠然とした設問に見えますが、その実、アナール学派の本質である「問いかけの学問」というテーマに立脚したものであって、同時に、

まさに上で書いたような「知の連結を経験したかどうか」を見る問に他なりません。一緒にテストを受けていたクラスメイトのかっぱ君が

テスト終了後、「3番を書いているうちに何か色々見えてきた。」というような内容の事を言っており、その後に自らが3番で書いた

内容に関する本を購入していましたが、そういう効果を与える事の出来る問題は凄いと素直に思いました。

確かにこの問は書いていて楽しかったです。

 

 珍しく真面目に書いてしまいました。今気づきましたが、そもそも今日はなんで丁寧語なんでしょうね(笑)

あ、そういえば7月30日に「食を考える」ワークショップの第4回が行われます。夏休みスペシャルということで、場所は

KIRINの横浜工場で、ビールづくりに関する見学・講演を聴いたあと軽食を頂く(もちろん無料)という形です。

また例によってフライヤーのデザインを担当させてもらいましたので、参加されたい方や詳しく知りたい方は

東京大学教養学部付属 教養教育開発機構のページ http://www.komed.c.u-tokyo.ac.jp/ をご参照下さい。

 

 さて、そんなわけでまた朝の4時になってしまいました。超朝型生活ですね。もうすぐ波乗りに行くのでちょうどいい、ということで。

今からは買ったばかりの三浦篤『自画像の美術史』および佐々木正人『アート/表現する身体 - アフォーダンスの現場 -』を

読みながら、レポートの構想を練りたいと思います。 

Qu'est-ce que l'école des Annales? 

 

 現在、朝の四時半。数時間後に控える歴史の試験のため、アナール学派について纏めてみようと思う。

タイトルをフランス語で書いたのは、タイトルが意味する日本語を検索ワードに打ち込んで直前にシケプリを探す不届きなヤツ

(そんなヤツがいるのかは知らないが)の目に留まらないようにするためである。

さて、それではアナール学派について以下に概説しよう。といっても、物凄い分量になってしまったので、明日の試験時間内に

書き切れるかちょっと不安だが、そこは気合でカバーということで。

 

 アナール学派とは、1929年にマルク・ブロックとリュシアン・フェーヴルによって創刊された雑誌、

「社会経済史年報 Annales d’histoire économique et sociale」にちなんだ歴史学の一派である。アナール学派のはじまり、

すなわち「社会経済史年報」(この雑誌は以後、何度もサブタイトルを変えてゆくが、一貫して【社会 sociale】の文字は含まれていた。)

の創刊には、「地理学年報」「社会学年報」「歴史総合評論」という三つの雑誌が大きく影響を与えている。

 

 まず、ポール・ヴィドル=ド=ラ=ブラーシュによって1891年に創刊された「地理学年報」は、歴史学者の視点と地理学者の視点を

融合させたものであり、ブロックに「地理学者が現在の事を知るために過去に目を向けているのと同じように、歴史家は過去を知るため

に現在に目を向けなければならない」という思いを抱かせるに至った。

 次に、エミール・デュルケームによって1898年に創刊された「社会学年報」は、「人間の営みを何よりも集合的事象と捉え、

人間社会を諸要素の関連から生まれる全体構造と捉える」ことを主張するものであり、これは専門化・個別分野への特化が進んでいた

当時の歴史学に対する「様々な学問を横断的に抱える歴史学」という構想をブロックらに与えたのである。

 そして最後に、1900年にアンリ・ベールによって創刊された「歴史総合評論」における、「歴史の視点を軸としつつ諸学の統合に至る」

というコンセプト、さらにはアンリ・ベールによる「人類の発展」双書の作成や、総合研究国際センターの設立などが、ブロックら

アナール学派の創設に極めて大きな影響を与えることとなった。

 

 以上のような背景から、アナール学派は、人間事象をすべて相互連関のうちに捉えようとし、諸専門分野との対話や相互乗り入れを

試みようとする、という性格を持つ。そして、事件史中心ではなく、人間の生活文化すべてを視野に収めた総合的な歴史学を目指そうと

するものとなった。さらに、(西洋と異なる)「他者」を認める、という「エスノセントリズムからの脱却」を掲げ、現在の視点からのみ過去を

解釈しないこと、すなわち「アナクロニズムからの脱却」をも目指すという性格を持つものでもあった。

 また、人々の「感じ、考える、その仕方」を扱う心性史mentalité や、下から上へ、つまり庶民に立脚して王侯貴族にまで至る包括的

な歴史を描こうとする全体史histoire totale という分野を特徴的に含むものであった。ブロックが『歴史のための弁明』で

「歴史学が捉えようとするのは人間たちなのである。そこに到達できないものはせいぜい考証の職人に過ぎないのであろう」

と述べるように、人間をあらゆる角度から全体として捉えようとするアナール学派は、現在から過去に問い、過去から現在に

問い返すという「問いかけの学問」であって、タコツボ化していた従来の歴史学に対して

「新しい歴史学 Nouvelle histoire」であったと言う事が出来よう。

 

 アナール学派は、今に至るまで、大きく四つの世代に分ける事が出来る。

まず第一世代は、伝統的政治学に反発して、地理学・社会学・文化史への関心を強く打ち出したマルク・ブロックや

リュシアン・フェーヴルらの時代である。

 第二世代は、数量的手法の洗練を受けて数量史が勃興した時代である。数量的手法は、価格史・経済史の研究へと応用され、

第二世代を代表するフェルナン・ブローデルを生むことになる。

 続く第三世代は、第二世代の期に洗練された数量的手法や統計分析の手法が出生率などの統計へ応用された時代であり、

人類学的手法への接近を強めるとともに知的細分化が起こった時代でもある。第三世代の代表として、ジャック・ル=ゴフや

アンドレ=ビュルギュエール、アラン・コルバンらが挙げられる。

 そして、『中世歴史人類学試論』のジャン・クロード=シュミットらが活躍する第四世代、すなわち「いま」に至るまで、

アナール学派は歴史学の自己革新の動きをリードし続けていると言えるだろう。

 

 

 これが大問Ⅰで、あと二問あるのに解答用紙が足りなくなりそうです(笑)そもそもこの内容を暗記するのだけでも一苦労ですね。

なお、この文章を作成するにあたって、いつも読ませて頂いている「のぽねこミステリ館」という西洋中性史を研究されている方の

ブログで挙げられた文章や本を大いに参考にさせて頂きました。このブログで、以前スーツの研究に際して読んだミシェル・パストゥロー

の名前を見つけたときはちょっと驚きました。アナール学派と昨年の自分の関心が、思いもしない所で繋がったな、と。

パストゥローのみならず、今年は服飾に加えて色や音、香りなど五感の歴史に興味を広げていたので、そんな矢先に

アラン・コルバンという歴史家(「感性の歴史家」という、まさに今の自分の関心そのものでした。)の名前を知り、

そしてのぽねこさんのブログに導かれてコルバンの著作に何冊か触れる事が出来たのは本当に幸せな出会いでした。

ありがとうございます。

 

(ちなみに、少し前に流行った映画「パフューム、ある人殺しの物語」には原作があって、パトリック・ジュースキントの”Das Parfum”が

それなのだが、さらに、このジュースキントの小説は下敷きにしている本がある。それこそがアラン・コルバンの

「匂いの歴史 Le miasme et la jonquille, l’odorat et l’imaginaire social 18e~19e siecles」であった。

コルバンが描きだした匂いの歴史を、ジュースキントが小説にし、そしてトム・ティックヴァー監督が映像化した、というわけだ。

映画のオチには首を捻らされたものの、映像の描写が不気味なまでにリアルだった理由が分かった気がする。)

レポート・ラッシュ

 

 民法(法Ⅰ)のテストが終わった。「隣人訴訟判決について10行から15行で、指定語句に下線を引いた上で論述せよ。」

という問題があって、何となく東大入試の世界史第一番を思い出した。入試のとき、下線を引くのを忘れていないか妙に気になったのを

覚えている。しかも本番の解答用紙のマス目はかなり小さいので、僕のように悪筆かつ字が大きい人間には、このマス目が

最大の難関となった。しまった間違えた、と思って一行消すと、上の一行や下の一行まで消えてしまう。これに対処するため

ペン型の細い消しゴム(TOMBO MONO ZERO)を直前期になって購入した。この消しゴムによってかなり助けられた感がある。

国語の解答欄にも有効なので、東大入試を受けなきゃならない人にはお勧めです。

 

 そんなわけで一つテストが終わったので、次のマルク・ブロックとアナール学派についてのテストまでは

山のように溜まっているレポートを書いていくことにする。各レポートのテーマはだいたい決まった。

記号論はバルトの「神話作用」に依拠して、デノテーションとコノテーションの概念から現代のモードを分析するというテーマで

書くつもりだ。基礎演習で書いたテーマを発展させ、見方を少し変えた内容である。

表象文化論はパフォーミング・アートについてであれば何でも良いそうなので、趣味に走った内容にしてみようと思っている。

タイトルだけは先に決めた。「カルロス・クライバー、舞踊的指揮と指揮的舞踊」というタイトルである。中身はまだ全く書いていない(笑)

生権力論は以前書いた「マスクと視線の生政治」というテーマで、TONFUL騒動について生権力・生政治の観点から分析する。

ついでに少し前にここに挙げた(「生命倫理会議」というエントリーで)「臓器移植法A案」をビオス/ゾーエーの観点で捉えてみる、

すなわち「A案が極めてゾーエー的な内容である」という事もこのレポートに入れようと思っていたが、某女帝に

「その内容で書こうと思ってたからやめて」と言われたので大人しくやめておくことにしよう。

美術論は年代の限定がキツイため、下手をすると扱う画家がみんなと被ってしまう。有名どころは大抵被るだろうと読んで、

昨年出会って衝撃を受けたマリー=ガブリエル・カペの自画像で書くつもりだ。この女性はほとんど無名の人だが、「自画像」の魅力は

凄いものがある。輪郭がどうだとか、眼が綺麗だとかを超えて、「美への自信」が感じられる。一度見ると忘れられない。

あと、神道についてのレポートを書かねばならないのだが、こちらのテーマも何とか決まった。

神道を語る上で外せないであろう、「雅楽」について比較文化論的に書く。(ただし時間が無ければ諦めるかもしれない。)

「雅楽」について調べると、面白い事が大量に出てくる。西洋の音楽との比較だけでも十分面白いし、その性質からして

宮廷文化史とも関わっているから、「雅楽」的なものが伝播した地域の宮廷文化史・王朝史を比較するとそれぞれの特質が見えてくる。

 

 話は全然変わるが、先日、AKGのK-702というヘッドフォンを購入した。定価の30パーセントという超破格値でゲット。

姉妹機のK-701(やたら売れているらしい。アニメ「けいおん」で、あるキャラがつけていた事が理由だそうな。)と違ってシックな色合い

かつケーブルが取り外しできるようになっている。購入当初は音がやや曇っていて、値段ほど音場に拡がりが感じられなかったが、

しばらくエイジングしていると音場がどんどん広がって、高音の抜けも素晴らしいものになった。楽器の位置がはっきり分かる。

前に使っていたヘッドフォンATH-A900と違ってオープンタイプであるから音漏れは盛大だが、そもそも自宅でしか使わないし、

オープンタイプの良さが存分に感じられるものなのでこれで十分だ。K-702はフルオーケストラにも合うけれども、小編成の室内楽的

な曲にこそ、その真価を発揮しているように思う。ピアノ・トリオにも最適だし、編成の小さなコンチェルトなんかも素晴らしい。

特に、これで聞くハイドンのピアノ協奏曲は絶品だ。今度これを振る事になるかもしれないので、今日はスコアを眺めつつ演奏者を

取り換え取り換えひたすらリピートして聞いている。おかげでレポートが全然進まないが、アイデアはいつもこのような時間から

生まれるものなので、それでいいのだろう。Und die Ideen? の答えはlange Weile、そしてLangweileなのだから。

 

  

「ライオン」の魅力

 

 今抱えているデザインの仕事やレポート作成に詰まったので、FRESH STARTの同窓会の前に、

個人的な癒しの場所に行ってきた。それは渋谷の、最も怪しげな街並み(だと一般的に思われているはずだ)の一角にある。

道玄坂をまっすぐ上がって百軒店通りへ入る。ネオンに輝くイカガワしい看板、辺りに立ち込める濃いラーメンの匂い。

少し歩くと、時代を超越したように古びた喫茶店が突如現れる。「名曲喫茶ライオン」がその店名だ。

知っている人はきっと中まで良く知っているし、知らない人は絶対に足を踏み入れようとする事は無いような外装。

レトロ、などという言葉では足りない。何せ創業は昭和元年だ。触るのが憚られるような入口の扉の前で耳を澄ますと、

何やらクラシックが大音量で流れているような気配を感じることが出来るだろう。

 

 そう、ここは日本でもかなりの歴史と愛好者を持つクラシック喫茶である。クラシック喫茶とは何か?

簡単に言えば、クラシックをバカでかいスピーカーでもって良質な音で聞かしてくれる喫茶店だ。

曲はオーナーが気分で選ぶ事もあれば客がリクエストを出したりもする。喫茶店だけあって珈琲も紅茶も注文できる。

(ここのアイスコーヒーは最初から甘みがついているが、ほっとする甘みなので無糖派でも満足できるものだと思う。)

この「ライオン」の面白いところは、何と言っても「私語厳禁」の空気が辺りに流れていること。

少しぐらいの会話なら許されるだろうが、それをさせない雰囲気がある。皆が思い思いに、本に目をやり、あるいは音楽に集中し、

背もたれに頭を預けて眠りの世界に入っている。注文を取る店員さんも最小限の音しか出さない。

 

 それだけではなく、「ライオン」は内装も凄い。圧倒されるほど巨大なスピーカーに、木の机と椅子。天井からぶら下がるシャンデリア。

照明は薄暗く、水が青白く見えるほど。眼が慣れるまでは本を読むのにも難儀するかもしれない。

空間を時間と音楽だけが支配している。ここを訪れた人や、過ぎた時間の重みがこの信じられないような場所を作っている。

ここにいると時間の感覚が失われ、代わりに時間の単位は「一曲」になる。

予定の時間が迫っていても、音楽が終わらなければ立ち上がる気にならない。

再び眼を本に落とす。万年筆のペン先が控えめに輝いて美しい。

何となく、ここで文章を書いている作家志望の青年が過去に、あるいは今も、絶対にいるだろうと思った。

 

 リクエストで、ショパンのポロネーズがかかる。凄いルバートをかける演奏だ。思わずスピーカーを見上げてしまう。

僕はタバコは吸わないが、このような空間にいて音楽に耳を澄ませていると、タバコを吸いたくなる人の気持ちが分からないでもない。

左前に座った年配の男性が書類に目をやりながら紫煙をくゆらせる姿は、この空間にとても似合っていて素敵である。

続いてブラームスの二番。テンポはゆっくり目で、内声部を丁寧におさえた指揮だが、神経質な感じではない。

音楽が進むにつれ、コンサート会場で感じる、音の渦に巻き込まれていくような感覚を味わう事が出来た。

 

 扉を開けて外に出る。ここが東京、しかも渋谷であったことを思い出す。

神戸で浪人していたころにお世話になっていたクラシック喫茶「アマデウス」は、神戸の町外れにあったが、この「ライオン」は

文字通りの繁華街のど真ん中にある。街は光や声や広告で溢れているが、その中で「ライオン」は情報の波にビクともせず佇む。

だからこそ、無言の中に自身の時間を楽しむため、様々な年齢層の人たちがこの特異な場所を訪れる。

入口は一見すると気難しいイメージがあるかもしれないが、実際に入ってみれば時間も場所も忘れ去って気楽になれる場所が

この「ライオン」である。東京にいる限り、僕はここへ足を運び続けるだろう。

 

ETANT DONNES (JEAN-PHILIPPE VIRET TRIO)

 

 久しぶりにCDを買った。一週間に二枚のペースで買っていた浪人中から考えると、本当に久しぶりと言ってよいだろう。

一人暮らしをはじめるとCD購入に資金を回せなくなるのだ。お金はプリンターのインクやパンクした自転車のタイヤに消えていく。

(そんなわけで、CDは一人暮らしを始める前に買い込んでおくことを強くおススメしておきたい。 )

 

 にもかかわらず購入したこのCD、はっきり言って凄い。タワレコで何となく試聴したTrack 2のDERIVESにやられた。

ピアノ・トリオで背筋が震えるような経験は何年振りだろう。これはこの場で聞き続けるのは危険と判断して即座にレジに持って行き、

急いで家に帰る。ヘッドフォンアンプと愛用のER-4Sに繋ぎ、ソファ‐に座って誰の邪魔も入らない空間でじっくりと聞く。

 

 圧倒される。Track 1 のLA FEE BLESSE 冒頭の暗いベース。捉えどころが無い拍子を手探りで歩くようだ。

展開を待つ。厳かな気配の中からピアノが立ちあがってくる。ベースの裏で伴奏していたピアノがいつの間にか前に出始める。

どこか宗教的な深みに沈み込み、そして光が差し込んでくるような感覚。

突如、似たような曲調のCDがあったことを思い出した。そういえばベースの音も似ている。もしや、と思ってCDラックを漁り、

このCDを出してきて、演奏者を確認してみた。

ヴィレットの二枚のCDと僕のバイオリン。値段の割にいい音が鳴ります。

写真、左側のディスクがそれだ。

L’ORCHESTRE DE CONTREBASSESによる

” Transes Formations “ というCDで、六本のコントラバス

だけで全曲が演奏されている。胴体を叩き、ピチカートし、

アルコ(弓で弾くこと)でももちろん演奏し、六本のバスで

新しいジャンルの音楽を作り出しているCDだ。

この六人のコンバス弾きの一人が右のCDのTrioの

リーダー、ヴィレットだった。そして左のCDに収められた曲

の多くは、ヴィレットの作曲したものだった!

そういえば左のCD一曲目のFather moqueur(嘘つきの神様)にしろ、

七曲目から十一曲目のMesses basses(ベース・ミサ)という

「祈り」をテーマにした作品群にしても、

暗がりの中の瞑想を得て光が差し込んでくるような曲調である。

これらの作曲者とETANT DONNESに収められた曲の作曲者が同じだというのは、比べて聞けば誰もが納得すると思う。

 

 だが、Piano Trioというジャズの中では超定番な編成を取っているにもかかわらず、ETANT DONNESにおける楽曲は

4ビートや8ビートに縛られない変拍子がしばしば聞かれるように、実験的・現代的なニュアンスを多く持っている。

そう言えばアルバム名のETANT DONNESとは、あのマルセル・デュシャンの遺作のタイトルに見られるものではなかったか。

デュシャンの遺作のタイトルは ” Etant Donne  1 La Chute d’Eau 2 Le Gaz d’Éclairage “

すなわち、「1.落ちる水 2.照明用ガス (この二つが)与えられたとせよ」というタイトルであった。真偽の程は定かではないが、

収められた楽曲の性格からして、ヴィレットは恐らくこのデュシャンのタイトルを知っており、このアルバムの名に取ったのだと僕は思う。

 

 曲については澤野工房のホームページやCD店で試聴して頂くとして、最後にアルバムのジャケットについて触れておきたい。

さきほどの写真、なぜかCDの後ろにヴァイオリンが写っていたのを覚えているだろうか。ヴァイオリンの弦の端、色がついているところ

を見て欲しい。その色と、ETANT DONNESのジャケットに描かれた曲線の色とは不思議に一致している。

(コントラバスは持っていないのでヴァイオリンで代用した。しかしコントラバスの弦も似たような色遣いである事が多い。)

ジャケットのデザイナーはこれを意識したのかもしれない。澤野工房から出ているヴィレットのアルバムは殆どこの色遣いをしているし、

特にファーストアルバムなどはとりわけ弦を意識させるデザインになっている点から考えても、そんな気がしてくる。

ちなみにETANT DONNES では華やかな色合いの表と異なり、裏面は演奏者達がモノクロで渋い感じに写っているのだが、

その対比も鮮やかで唸らされる。ジャケット、内容ともにスタイリッシュで、いささかプログレッシブな中毒性のあるCDだ。

もしCDショップで見つけたらぜひTrack2を大音量で聞いてみて下さい。きっとハマると思います。

 

 

生命倫理会議

 

 という会議がある。東大でも教えていらっしゃる小松先生や、僕が師と仰ぐ金森先生らが所属している、

生命倫理に関する議論にコミットする団体である。特に臓器移植法に関して先日記者会見を行ったので、耳にされた方も多いだろう。

生命倫理会議の総意として、臓器移植法A案可決に対して反対の立場をとっており、この主張には僕個人としても全く賛同出来る。

臓器移植A案を端的に言えば、「脳死は人の死」と認定し、ゆえに「脳死になった際に臓器提供するかしないかをはっきりして

いなかった人からは家族の承諾があれば臓器提供を可能とする。以上より、臓器提供の年齢制限は撤廃される。」というものだ。

この案には多大な問題が含まれていることを生命倫理会議は主張している。詳しくはhttp://seimeirinrikaigi.blogspot.com/を

参照して貰えば良いと思うが、とりわけ、「人の生死の問題は多数決に委ねるべきではない」という小松先生の言葉は重い。

 

 また、このページから金森先生の記者会見動画を見る事が出来る。

わずか二分ほどの時間、慎重に言葉を選んでいつもの半分ぐらいのスピードで話される先生の頭にあったのは、

ジョルジョ・アガンベンが述べるビオスとゾーエーの議論、そしてフーコーのビオ・ポリティーク概念だったのではないか。

(アガンベンの「ホモ・サケル」第六節には、脳死に関する言及が見られることにも注目すべきだ)

A案は人の死生観や「最後の瞬間」への認識を変えてしまう可能性がある、という言葉には、ビオスにゾーエー的なものが

侵入してくること、生政治が強力に発動されることへの危機感があるように思う。

人はあくまでも「伝記の対象となる可能性」や「特定の質」を持った存在、ビオス的な存在である。

もちろん「カタカナのヒト」=「ヒトという種」というゾーエー的な意味合いを我々は内に含んでいるだろうが、我々がそれを意識することは

ほとんど無いと言ってよい。いわばゾーエーは悠久の大河であり、ビオスはそこに浮かぶ泡、一瞬一瞬周りの風景を映し、変化させ、

そしていつしか消える泡である。しかし、人の生の本質はこの泡、ビオスにこそある。

このようなビオスとゾーエーの概念を今回の臓器移植法A案に適用するならば、この案がある意味でゾーエー的な案である事が

分かる。個人の意思を勘案しないことはいわばビオスの排除であり、ゾーエーの管理ではないか。

脳死を一律に人の死と認定する事で、個人の意志とは無関係に臓器が提供されてしまう。この定義においてビオスを剥がれた

ゾーエーたる「脳死」は「生きるに値しない生命」という概念との距離を近づける。

誰かを「生かす」ための措置が、誰かを確実に「殺す」ことに繋がっている。

 

 

 このような事をぼんやりと考えながら、(僕の浅い理解では根本から間違っているかもしれない。だがいずれにせよ、臓器移植法を

巡る政府の行動が「生政治」そのものである事は確かだ。)獣医学のレポートを書いた。

取り上げたのは「動物の脳における性差」と「天然毒の研究と創薬」と「ペットとヒトとの新しい共存」の三つ。

書くうちに詰まってきたので、さっぱりしそうなBastide de Garille VdP d’Oc Chardonnay Cuvee Fruitee を飲んだ。

Bastide de Garille VdP d'Oc Chardonnay Cuvee Fruitee 2007。1000円ちょっとのクオリティとは思えない美味しさである。グラスはSCHOTT ZWEISEL 社のDIVAシリーズの白。何とも艶やかなフォルムだ。

 

合わせたのは意表をついて「そうめん」である。

氷をゴロゴロ入れてキンキンに冷やし、このワインに合うようにめんつゆを

作る。合わせて厚焼き卵を作り、これも一緒に食べる。ふわっと広がる砂糖の

甘みと、そうめんのさっぱりした味、そしてライチのようなフルーティーさと

まろやかな酸味のあるワインとがあいまって食が進む。

日本とフランスの素敵なマリアージュ、生きてて良かったと思う瞬間である。

 

時計を見るともう夜中の三時。週末に力を充填したので、また一週間

頑張れそうだ。とりあえずは明日のソフトボールに備えて寝るとしよう。

 

 

 

反抗的タッチパッド

 

 人口論にまつわる議論をパソコンで整理しなおそうと思って、愛用のVAIO SZ-95Sを立ち上げた。

いつもどおり指紋認証をしてログインし、デスクトップ画面が表示される。

が、しかし。なぜかポインタの挙動がおかしい。タッチパッドを右に動かすとポインタが左に、左に動かすと右に動く。

左右だけではない。上に動かすとポインタが下へ、そして下に動かすと上に動く。なんという反骨精神だ。

これは使いづらい。何度か再起動しているうちに自然治療されたのだが、また起動しなおすと元通り、革命的な動きを見せてくれる。

どうしようかなあと思っていじっているうちに、実は上下左右逆でもそう不便でないことに気づいた。

慣れてしまえばどうという事は無い。もとより左利きな事が関係しているのか、かなり早い段階でこの動きに慣れた。

ちょっと面白いので、あえて直さずにこのまま使ってみようと思う。フランク・ミューラーのCrazy Hourのような動きになってしまうと

使用困難だが、今のままなら全然問題ない。実際には修理するのが面倒なだけだ(笑)

 

 ついでに、暑い夜を快適に過ごすべくブロードウェイ・ブルー・マティーニを作ってみた。

ブロードウェイ・ブルー・マティーニと「月夜」 ボトルから透けて見えるインクの色とブルーキュラソーの色が合っていて美しい。

 

 

名前から分かるように、ブロードウェイ・マティーニのレシピを

ベースにしたオリジナルのカクテルである。

レシピは、タンカレーNo.10ジンを40ml、ピーチ・ツリーを

10ml、CHARLES  VANOTのブルーキュラソーを10mlで

シェークして、最後に細かく刻んだミントリーフを浮かべる。

ピーチツリーの甘みとジンの鋭さをこのミントがキリッと

絞めてくれる。ミントの味を強調したいときにはミントリーフを

入れた上でシェークしても良いだろう。

爽やかで美味しいのでどうぞやってみてください。

 

 

 

 

 

 

 

必修のテストが終わりました。

 

 やっと必修のテスト二つが終わった。ドイツ語のテスト翌日に英語のテストはキツい。

canと書きたいところをkannと書いてしまったり、動詞が二番目に来ていないと(ドイツ語の大原則)妙な違和感にかられたりする。

とはいえThe British Empireに関する英語のテストは異常に簡単だったのでホッとしている。先生の優しさに感謝。

アトリーはどこの政党に属していましたか、なんて設問はDVDを見てリスニングするまでもなくみんな答えを書いていた。そりゃそうだ。

 

 必修のテストは終わったものの、選択科目のテストやレポートが何個か残っている。具体的にはハンドボールのレポートや、獣医学

・宇宙科学のレポート、そして生権力論・記号論のレポートなど。(こうやって並べてみると無秩序でいい感じですね。教養学部らしい。)

成績がかかっているのでこれらをキッチリと片付けつつ、しばらく休憩していた立花ゼミの活動にもコミットしていきたいと思う。

テスト期間中に読んだ8冊の本のレビューも書かねばならないし、「運命の七冊」企画にも本腰を入れねばならない。

といいつつ、KIRINさんとのワークショップのフライヤーを依頼されているので、週末はこれのデザインを考えるのに時間を注ぐ。

第四回はキリンのビール工場見学。ちょっと大胆なデザインにしてみようかと考えている。

 

 そういえばテストの間だったので返信し損ねていたのだが、ここに時々コメントをくれるH氏から、

「ボウリングのスコアが200の大台に乗りかけた!」というメールとスコアシートの画像を貰った。

最後に2‐10のスプリットになってしまったのが残念でしたね。特に10フレは絶対に三回投げたかった。

10フレを落としたくないときや200に何とか乗せたいときは、ストライクにはならないかもしれないが絶対に割れない

(=スペアが取れる)コースに絞って投げる方法はアリだと思う。アベレージを維持したいときとかに安全策として使うと有効です。

右投げなら意図的にブルックリンのコースに入れてみるとか。ちなみに、僕も先日投げに行ってきたが、10ゲーム投げて

アベレージ193。しかし200アップは一回も無いという奇妙な展開になった(笑) ヘタレである。 

こういうときには大胆にコースを変えてみてストライクの続くコースを探すことが必要になってくる。一週間前に210アベを叩いた時は

レーンの変化に合わせて大胆に動くことが確かに出来ていた。安全策と大胆さ、冷静と情熱の駆け引きもボウリングの難しさの

一つなのだろう。本当に奥深い。とにかく、H氏もメキメキと上達しているようなので、夏に一緒に投げるのが楽しみだ。

 

こんなものを買った

 

 ゆっくりと文章を打つ暇が無く、すっかり更新が滞ってしまっていた。

なぜこんなに時間が無いのかというと理由は簡単で、ただテストが近いからだ。ドイツ語のテストに続いて英語のテスト。

進振りを目の前にしたこのテストは自分の一生を決める可能性があるから必死に勉強する。

連日近所のデニーズでコーヒー1杯だけで朝方まで粘る日々だ。とはいってもずっと勉強しているわけではなく、買い物や

ボウリングなどでそれなりに外へ出かけている。というわけで(?)最近買ったものをあげてみよう。

 

・MDノート(雑誌サイズ) 

愛用のノート。横罫と無地と方眼を一冊ずつ買ったので、用途に応じて使い分ける。万年筆から鉛筆まで、ノリが非常に良い紙で

180度開くあたりも書きやすくて良い。雑誌サイズは通常のノートやルーズリーフに比べてかなり大きいが、ここに太いニブの万年筆で

ガシガシ書きつけるのが気持ちいい。

 

・オロビアンコのショルダー

ジャーナルスタンダードの別注モデル。白と光沢のあるネイビーとの配色に一目惚れした。夏らしい配色で良い。

なんとセールにつき40%オフでゲット。バッグはマスターピースのボストンやGripsのショルダーを長く使ってきたが、

この夏はメインバッグの座をこいつに渡しそうだ。

 

・エディフィスのリネンシャツ

生地と色合いに一目惚れ。色が鮮やかなので、着るのにはやや躊躇する。襟がワイドスプレッドになっていて面白い。

 

・コンタクトレンズ

はじめてコンタクトをつけに行ったとき、看護婦に「あなたには無理ですね」と言われて早6年。

最初は本当に入らなかったし、入れるのに30分ぐらいかかったから、高校では体育の授業の前の時間から用意していたが

今となっては入れたあと号泣する事も無く当り前のように入れている。ワンデーなので出費は馬鹿にならない。

(知り合いが以前、ワンデーのレンズを表4日裏3日入れたそうだ。最終的に視界が真っ白になったとか。怖すぎる。)

 

・雑誌Pen 7月号

テーマが「緑のデザイン」だったので、今関わっているプロジェクトに生かせないかと思って購入。

そんなことを抜きにして面白かった。秋葉原の町に芝生を引いた画像(もちろんコラージュ)は、見る者の目を奪うアートだ。

 

・資生堂Menのクレンジング

この泡はヤバい。パーフェクトホイップなんて目じゃないです。少量で物凄く厚みのある泡が立つ。資生堂の本気を見た気がします。

これを購入後、資生堂Menのテスターキットが自宅に届きました。抽選で当たったようです。

 

・樽珈屋の珈琲豆

浪人中からずっとお世話になっている珈琲屋さんの豆。我が家に無くてはならないものなので、毎月購入している。

この店の豆で「珈琲には甘みがある。」ということを知った。珈琲はお酒と同じくらい嗜好品の性格が強いものだと思わせてくれた。

豆をカリタのナイスカットミルで挽いてお湯を落とした瞬間から、室内に幸せな香りが満ちる。俄然勉強する気になる。

 

・むきえび

近くのスーパーで特売になっていたので迷わず購入。これとホイル焼きにしたガーリックとトマトソースで作るパスタは最高だ。

仕上げにいつもシーバスリーガル12年を香りづけにかけるのだが、今回はグレンモーレンジでやってみようと思う。なんという贅沢。

 

・スイカバー

種に模したチョコチップが最高。

棒にくっついた形式のアイスは制限時間がその内に含まれている(スーパーマリオの横スクロール的な)のでどうも慌ただしくなる。

時間が過ぎると重力の影響をモロに受けて服が甚大な被害を受けることになります。学生の夏の風物詩ですね。