「カスパー・ハウザーの謎」という映画がある。昨年、僕はこの映画を表象文化論のある教授に見せて頂き、レポートを書いた。
枚数制限もあったし書くのに使える時間もそう長くはなかったのでたいしたものではないが、せっかくなのでここにあげてみようと思う。
レポートのタイトルは、「カスパー・ハウザー、絶対の孤独」という。
【1】異質なものへの距離
言葉にしがたい後味を残すこの映画は、カスパー・ハウザーという一人の「純粋な」人間を通して、階級やジェンダー、論理や
宗教といった既存の常識や社会への批判を投げかけるものである。その中でも宗教に投げかける懐疑や皮肉の強さは特筆される
だろう。カスパーが体を洗ってもらって「見なさるのは神様だけ」と言われる時、外の動物がしっかりとカスパーを見ているし、話が少し
進むと「とにかく信じるんだ!疑うことよりまず信じる事が大切だ!」とカスパーに信仰を押し付けようとする牧師が登場したりする。
その直後のシーン「賢いリンゴ」はエデンの園の話を踏まえた皮肉のように思われるし、「聖歌が恐ろしい叫びに聞こえた」とカスパーが
言うシーンも存在する。何よりもJeder für sich und Gott gegen alleという原題がそもそも宗教批判ではないか。
とはいえ批判を投げかけるだけではない。人間という存在とは一体何か、自分自身の問題として考えてみよというのが監督である
ヘルツォークの問題提起であろう。ラスト近く、カスパーが水面に自らを映し、水面を波立たせることで水面に映った自身の姿を揺らす
シーンはそのことを表しているのではないだろうか。それにしても、異質なものに対する人間の醜さは凄まじいものがある。
見世物小屋のシーンで世界四大神秘なるものを見に来る観客は、次第に身を乗り出して好奇と侮蔑の眼差しを注ぐ。
(注:見世物にされる4人には共通点がある。それは言葉から疎外されているということだ。 一人目のプント王国の王様なる人物は、
そもそも話す機会を与えられない。 二人目の穴(ドン・ジョヴァンニが最後に落ちる地獄の事か)に思いを馳せるモ少年は読み書きを
覚えられなかった。 三人目の笛を吹く男は先住民の言葉以外話せないうえ、先住民の言語を観客の目の前で話すよう強制され実際
に発話する事で、言葉からの疎外を一層明らかにする。 四人目のカスパーは言うまでもなく言語を自由に操ることができない。)
調書を取る人物は、終始一貫してカスパーを記述できる形に収めようとし、解剖を経ては
「ハウザーに異常が発見された、ついにあの奇妙な人間に証明がついた、これ以上見事な解明はない」
と言って喜んで帰路に着く。彼らだけでは無く、カスパーを取り巻く人物は、どんなにカスパーを大切に思っているように見えても、
ふとした拍子にカスパーとの距離を見せてしまうことになる。例えば、
1.言葉を教える子供ユリウス・・・救貧事業に取り組んだカエサル(=ユリウス)と同名なのがまず面白い。女の子が歌を教えるとき、
彼は窓際の高い所からカスパーと少女(とカメラ)を見下ろして、「単語しか知らないから歌はまだ無理だよ。」と切り捨てる。
2.ダウマー・・・いつもカスパーを大切にしているように見えるが、全面的にカスパーを大切にしているのではない。
早世した若者たちの名前を読み上げるシーンで彼が単なる慈善家であることがわかる。決定的なのはラスト近く、カスパーが
刺されて血みどろでやってくるシーンでの彼の行動だ。彼は手に持っていた本を開けたまま閉じようとも置こうともしない。
では、本を置くのはいつか?それはカスパーを、襲われた現場のベンチにもたせかけた時だ。ダウマーはここで、カスパーを
支えるためではなく、ただポーチを拾い上げるためにようやく本を置くのだ。そして、カスパーが血まみれでいるにもかかわらず、
ダウマーはこう言う。 「まず包みをみてみなきゃな。」
【2】音楽
さて、次に本映画における音楽に少しばかり考察を加えてみたい。この映画では、音楽がとても印象的に使われるだけではなく、
ストーリー的にも重要な意味を持つ。たとえば、カスパーは貴族に紹介されるシーンで「音楽は我々を道徳的に高めるとともに人格形成
に役立つ」と言われたことを受けて、モーツァルトのへ長調ワルツを弾く。音をはずし、リズムもアクセントもめちゃくちゃに。
このめちゃくちゃなモーツァルトの演奏は、カスパーの人格形成が周囲の期待したようなものでは無い事を表象する。
最も印象的なのはやはり、映画のはじまりと終わりで流れるモーツァルト「魔笛」中の「なんと美しい絵姿」のアリアだろう。
なぜ、この変ホ長調のアリアがここで使われているのか。このアリアの歌詞を見る事でその理由が明らかになる。
オープニングで流れる歌詞は、このアリアの最初、すなわち Dies Bildnis ist bezaubernd schonから始まり、
Wie noch kein Auge je geseh’n! Ich fuhl’ es, wie dies Gotterbild. Mein Herz mit neuer Regung fullt.までである。
映画の終わりではこの次の歌詞からアリアが歌いだされる。つまり、 Diess Etwas kann ich zwar nicht nennen! から始まり、
Doch fuhl’ ichs hier wie Feuer brennen. Soll die Empfindung Liebe seyn? Ja, ja! [...]