という会議がある。東大でも教えていらっしゃる小松先生や、僕が師と仰ぐ金森先生らが所属している、
生命倫理に関する議論にコミットする団体である。特に臓器移植法に関して先日記者会見を行ったので、耳にされた方も多いだろう。
生命倫理会議の総意として、臓器移植法A案可決に対して反対の立場をとっており、この主張には僕個人としても全く賛同出来る。
臓器移植A案を端的に言えば、「脳死は人の死」と認定し、ゆえに「脳死になった際に臓器提供するかしないかをはっきりして
いなかった人からは家族の承諾があれば臓器提供を可能とする。以上より、臓器提供の年齢制限は撤廃される。」というものだ。
この案には多大な問題が含まれていることを生命倫理会議は主張している。詳しくはhttp://seimeirinrikaigi.blogspot.com/を
参照して貰えば良いと思うが、とりわけ、「人の生死の問題は多数決に委ねるべきではない」という小松先生の言葉は重い。
また、このページから金森先生の記者会見動画を見る事が出来る。
わずか二分ほどの時間、慎重に言葉を選んでいつもの半分ぐらいのスピードで話される先生の頭にあったのは、
ジョルジョ・アガンベンが述べるビオスとゾーエーの議論、そしてフーコーのビオ・ポリティーク概念だったのではないか。
(アガンベンの「ホモ・サケル」第六節には、脳死に関する言及が見られることにも注目すべきだ)
A案は人の死生観や「最後の瞬間」への認識を変えてしまう可能性がある、という言葉には、ビオスにゾーエー的なものが
侵入してくること、生政治が強力に発動されることへの危機感があるように思う。
人はあくまでも「伝記の対象となる可能性」や「特定の質」を持った存在、ビオス的な存在である。
もちろん「カタカナのヒト」=「ヒトという種」というゾーエー的な意味合いを我々は内に含んでいるだろうが、我々がそれを意識することは
ほとんど無いと言ってよい。いわばゾーエーは悠久の大河であり、ビオスはそこに浮かぶ泡、一瞬一瞬周りの風景を映し、変化させ、
そしていつしか消える泡である。しかし、人の生の本質はこの泡、ビオスにこそある。
このようなビオスとゾーエーの概念を今回の臓器移植法A案に適用するならば、この案がある意味でゾーエー的な案である事が
分かる。個人の意思を勘案しないことはいわばビオスの排除であり、ゾーエーの管理ではないか。
脳死を一律に人の死と認定する事で、個人の意志とは無関係に臓器が提供されてしまう。この定義においてビオスを剥がれた
ゾーエーたる「脳死」は「生きるに値しない生命」という概念との距離を近づける。
誰かを「生かす」ための措置が、誰かを確実に「殺す」ことに繋がっている。
このような事をぼんやりと考えながら、(僕の浅い理解では根本から間違っているかもしれない。だがいずれにせよ、臓器移植法を
巡る政府の行動が「生政治」そのものである事は確かだ。)獣医学のレポートを書いた。
取り上げたのは「動物の脳における性差」と「天然毒の研究と創薬」と「ペットとヒトとの新しい共存」の三つ。
書くうちに詰まってきたので、さっぱりしそうなBastide de Garille VdP d’Oc Chardonnay Cuvee Fruitee を飲んだ。
合わせたのは意表をついて「そうめん」である。
氷をゴロゴロ入れてキンキンに冷やし、このワインに合うようにめんつゆを
作る。合わせて厚焼き卵を作り、これも一緒に食べる。ふわっと広がる砂糖の
甘みと、そうめんのさっぱりした味、そしてライチのようなフルーティーさと
まろやかな酸味のあるワインとがあいまって食が進む。
日本とフランスの素敵なマリアージュ、生きてて良かったと思う瞬間である。
時計を見るともう夜中の三時。週末に力を充填したので、また一週間
頑張れそうだ。とりあえずは明日のソフトボールに備えて寝るとしよう。