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ドビュッシー「月の光」を振る。

 

順調に指揮の勉強が進んでいます。

また改めて詳しく書きますが、ベートーヴェンとモーツァルトのソナタを終え、ブラームスのラプソディやショパンのスケルツォ、

そしてドビュッシーの「子供の領分」や「アラベスク」を振り、ついに「月の光」に入りました。

門下の先輩方から「月の光は難しいよ。」と脅されていたこともあり、入念に入念に準備をして一回目のレッスンへ。

 

楽譜を勉強するにあたって、この月がどういう月で、どういう情景なのかを自分なりに練った上でレッスンに臨みました。

冷え切った夜の空気の中に、月が静かに浮かぶ。

月の光が鋭く、しかし優しく降り注ぐ。

「ああ、綺麗だな。」と月を仰ぎ見て心動かされる。

そんなイメージでした。

 

指揮台に上り、冷たく演奏するぞと心して振り始めましたが、すぐにストップ。

「甘いな。もっと自然に、もっと冷たく。君の棒では月との距離が近過ぎる。月の光はこうだ。」と振り始めた先生の棒から生まれる、

音の冷たさと緊張感!キンと乾いた音のうしろに漆黒の夜が見える。遠い世界に月が静かに浮かぶ。その美しさに、絶句しました。

指揮台から降りてようやく、「月との距離が近過ぎる」という言葉の意味がじわじわと分かってきた気がします。

この曲は「美しいな」と思って月を仰ぎ見る人の「心」を描くのではないのだ、と。

描くのは、冷たく静かな夜。遠くから凛とした光を放つ月の「情景」。ただそれだけ。その光景が音となって届いた時、聞く者が

「ああ、美しいな」と感じる。どこまでもクールに。月への憧憬を心の内に込めつつ、表には出さない。

感情を押し付けず、情景を音で淡々と描く。その結果としてはじめて、感動が聞く人の内に生まれるのでしょう。

衝撃冷めやらず、帰りの電車で再び考えました。つまるところ、見ている世界が違ったのだと思います。

僕は月を眺める人の視点で「月の光」の世界を描こうとしました。だけど先生は違った。

月と月を眺める人をも描きうる、第三者・超越的な視点から世界を描いたように感じています。だから音に冷たさと距離が生まれる。

感情を押し付けたりしない、純然たる「月の光」だけがそこにありました。

それはまるで小説の技法に似て、一人称の小説と三人称の小説の違いに通ずるもののように思われました。

音楽も小説も、世界の描き方の芸術なのかもしれません。

 

前に振ったドビュッシーの「アラベスク」では、音の「湿度」と「色気」、アルペジオの表現を学びました。

今度の「月の光」では、「三人称の視点で曲の世界を描く」ことを学ぶことになりそうです。