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ETANT DONNES (JEAN-PHILIPPE VIRET TRIO)

 

 久しぶりにCDを買った。一週間に二枚のペースで買っていた浪人中から考えると、本当に久しぶりと言ってよいだろう。

一人暮らしをはじめるとCD購入に資金を回せなくなるのだ。お金はプリンターのインクやパンクした自転車のタイヤに消えていく。

(そんなわけで、CDは一人暮らしを始める前に買い込んでおくことを強くおススメしておきたい。 )

 

 にもかかわらず購入したこのCD、はっきり言って凄い。タワレコで何となく試聴したTrack 2のDERIVESにやられた。

ピアノ・トリオで背筋が震えるような経験は何年振りだろう。これはこの場で聞き続けるのは危険と判断して即座にレジに持って行き、

急いで家に帰る。ヘッドフォンアンプと愛用のER-4Sに繋ぎ、ソファ‐に座って誰の邪魔も入らない空間でじっくりと聞く。

 

 圧倒される。Track 1 のLA FEE BLESSE 冒頭の暗いベース。捉えどころが無い拍子を手探りで歩くようだ。

展開を待つ。厳かな気配の中からピアノが立ちあがってくる。ベースの裏で伴奏していたピアノがいつの間にか前に出始める。

どこか宗教的な深みに沈み込み、そして光が差し込んでくるような感覚。

突如、似たような曲調のCDがあったことを思い出した。そういえばベースの音も似ている。もしや、と思ってCDラックを漁り、

このCDを出してきて、演奏者を確認してみた。

ヴィレットの二枚のCDと僕のバイオリン。値段の割にいい音が鳴ります。

写真、左側のディスクがそれだ。

L’ORCHESTRE DE CONTREBASSESによる

” Transes Formations “ というCDで、六本のコントラバス

だけで全曲が演奏されている。胴体を叩き、ピチカートし、

アルコ(弓で弾くこと)でももちろん演奏し、六本のバスで

新しいジャンルの音楽を作り出しているCDだ。

この六人のコンバス弾きの一人が右のCDのTrioの

リーダー、ヴィレットだった。そして左のCDに収められた曲

の多くは、ヴィレットの作曲したものだった!

そういえば左のCD一曲目のFather moqueur(嘘つきの神様)にしろ、

七曲目から十一曲目のMesses basses(ベース・ミサ)という

「祈り」をテーマにした作品群にしても、

暗がりの中の瞑想を得て光が差し込んでくるような曲調である。

これらの作曲者とETANT DONNESに収められた曲の作曲者が同じだというのは、比べて聞けば誰もが納得すると思う。

 

 だが、Piano Trioというジャズの中では超定番な編成を取っているにもかかわらず、ETANT DONNESにおける楽曲は

4ビートや8ビートに縛られない変拍子がしばしば聞かれるように、実験的・現代的なニュアンスを多く持っている。

そう言えばアルバム名のETANT DONNESとは、あのマルセル・デュシャンの遺作のタイトルに見られるものではなかったか。

デュシャンの遺作のタイトルは ” Etant Donne  1 La Chute d’Eau 2 Le Gaz d’Éclairage “

すなわち、「1.落ちる水 2.照明用ガス (この二つが)与えられたとせよ」というタイトルであった。真偽の程は定かではないが、

収められた楽曲の性格からして、ヴィレットは恐らくこのデュシャンのタイトルを知っており、このアルバムの名に取ったのだと僕は思う。

 

 曲については澤野工房のホームページやCD店で試聴して頂くとして、最後にアルバムのジャケットについて触れておきたい。

さきほどの写真、なぜかCDの後ろにヴァイオリンが写っていたのを覚えているだろうか。ヴァイオリンの弦の端、色がついているところ

を見て欲しい。その色と、ETANT DONNESのジャケットに描かれた曲線の色とは不思議に一致している。

(コントラバスは持っていないのでヴァイオリンで代用した。しかしコントラバスの弦も似たような色遣いである事が多い。)

ジャケットのデザイナーはこれを意識したのかもしれない。澤野工房から出ているヴィレットのアルバムは殆どこの色遣いをしているし、

特にファーストアルバムなどはとりわけ弦を意識させるデザインになっている点から考えても、そんな気がしてくる。

ちなみにETANT DONNES では華やかな色合いの表と異なり、裏面は演奏者達がモノクロで渋い感じに写っているのだが、

その対比も鮮やかで唸らされる。ジャケット、内容ともにスタイリッシュで、いささかプログレッシブな中毒性のあるCDだ。

もしCDショップで見つけたらぜひTrack2を大音量で聞いてみて下さい。きっとハマると思います。

 

 

DIALOG IN THE DARK に行ってきた。

 

 今日はとても充実した一日になった。

一限、基礎演習のTAもどき。ランダムに発表をしてもらっているのだが、ランダムなはずなのに三週連続で同じ人が当たったり。

その子にとっては大変だろうが、見ている僕らには大変興味深くうつる。週を追うごとに徐々に内容や視点が深まっていくのが

良く分かるからだ。そして同時に、前に立ってプレゼンをすることにも慣れていっているのが分かる。どうせこれから前でプレゼンを

する機会は多々あるのだし、基礎演習という機会で何回も発表してプレゼンの練習にも出来るのは「おいしい」と思う。

彼女が取り組んでいる、映画の予告編についての研究がこれからどのように進んでいくのか楽しみに見ていきたい。

 

 

 昼、アフター基礎演習を途中で抜け出してテリー・イーグルトンの『反逆の群像』を購入したあと、渋谷から銀座線で外苑前へ。

DIALOG IN THE DARKというイベントに行ってきた。

このイベントの詳細については、ここに書くより http://www.dialoginthedark.com/ を参照してもらえれば早いと思う。

簡単に纏めておくと、視覚障害者の方をアテンドに真っ暗闇の中に6人ぐらいのグループで入り、視覚を遮断した状態で

その暗闇の中にあるものに触れたり、感じたりしつつ、グループで協力して90分間暗闇を散策する、という感じのイベントである。

僕はA氏(僕が最も尊敬する人の一人である)にこのイベントに誘ってもらった。面白そうだとは思うものの、自分ではわざわざ

足を運ばないような、どこか胡散臭い感じがしていたのというのが事実である。値段も平日学生2800円とそう安くはない。

 

 終わってみると、ただひたすらに「行ってよかった!!」という感じ。このイベントの良さをすぐにでも誰かに伝えたいと思った。

これは本当に貴重な体験が出来るイベントだ。期間限定ではなく常設にしてほしいと心から思うほど。

というわけで以下に詳しいルポ・感想を書くので、ネタばれが嫌な人は注意してください。

 

 外苑前から熊野通り、キラー通りと15分弱ぐらい歩いたところにあるコンクリート打ちっぱなしのビル、その地下一階のドアを

開けると、狭すぎず広すぎもしない落ち着いた空間が広がっている。座り心地の良さそうなソファーに様々な年齢層の人が腰を下ろし

みな思い思いの時間を過ごしている。ここがDIALOG IN THE DARKの待合室だ。

DIALOGU IM DUNKELN とドイツ語で書かれたポスターを目の端で捉えつつ受付へ。受付で簡単な説明を受ける。

荷物はかばん・携帯から腕時計まで全部ロッカーに入れるそうだ。大人しくロッカーに収納して身軽になり、ふかふかのソファーで

待つこと10分、いよいよ集合の声がかかった。集まったのは6人。視覚障害者の方が使うものと同じ白い杖を各々持ち、

杖の使い方の説明を受けた後に、六人で軽く挨拶をしあって中に入る。といってもいきなり真っ暗闇に入るのではなく、

徐々に暗い空間へと移動していく。真っ暗になったところでアテンドの方が登場。もうここでは何も見えない。

声を頼りに存在を確認するしかない。視覚を完全に遮断した状態で再度自己紹介をする。

大学生の男が二人、主婦の方が一人、気さくな外人の男性一人、大学生A氏、そして僕という内訳だった。

暗闇なので互いの顔は全く見えないが、お互いの声や雰囲気はなんとなくつかめる。

「暗闇の中では音が頼りになるから、お互いに名前を読んで声をかけあってください」という説明を受けていよいよ中へ。

みんな緊張しているのが分かる。

 

 中は完全に闇。見る事を完全に諦め、他の感覚を全力で使って世界を把握するしかない。一歩をそっと踏み出してみる。

足の裏に意識を向ける。葉っぱを踏む感触。ついで前の人の靴らしきものに当たる感触。

耳を研ぎ澄ませる。水が流れている音がどこからか聞こえる。A氏のおどろいたような声。

肌の感覚に集中する。近くに誰かがいる確かな温度を感じる。そっと当たる誰かの手。

香りに注意を向ける。木の香り、乾いているようでどこか湿っぽい。

たった一歩に過ぎないのに、この世界はこれだけの情報量を持っている!!そのことだけで十分驚きだった。

そのあと暗闇を歩き回り、水に触れてその冷たさに驚いたり、野菜の香りに感動したり、様々な経験をした。

ここを詳しく書いてしまうと楽しみが半減してしまうだろうからこれぐらいで割愛する。印象的だった事を一つだけ書くと、

ゆらゆら揺れる吊り橋があるのだが、これを暗闇で渡るのは非常に怖い。だが、「ゆれている」ということが

「確かにそこに何かがある」というリアリティを感じさせてくれる。不安定な感じから、逆説的に安心感を得ることになった。

視覚に頼っていては味わえない経験だ。

 

 最後にBARに入った。もちろん真っ暗闇の中の、である。テーブルの形も分からないままにそれぞれ座席に着き、おしぼりを開けて

その温かさに驚く。メニューを口頭で説明して頂き、ジュースやワイン、ビールが選べたので迷わずワインを選ぶ。

というのは、視覚を諦めた状態で何かを飲むとき、ワインが一番刺激的だろうと考えたからだ。まず色すら分からないのだから。

暗闇の中で、横に座っている人を声で判断し、そこからテーブルの形を想像しながらグラスを近づけて乾杯する。

声と温度を頼りにグラスを近づけると思ったより簡単に乾杯が出来るのだ。そして暗闇の中でワインを口に持って行くと

こんなに香りがするものだったか?というほど濃密な香りを感じる。普段いかに視覚優位で生きているかが分かる瞬間だった。

そして飲んでみると液体が体の中を通り抜けている様子が感じられる。というよりむしろ、体が無くなってしまったみたいだ。

ちょっとしたお菓子を手渡され、暗闇の中でその触感を味わって食べる。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を思い出した。

ここまで来ると暗闇の中で動き回る事が苦しくなくなっていた。すぐに慣れて、思ったより普通に動ける。今自分がどこにいて、

周囲がどのようになっているかの俯瞰的な見取り図が想像出来てくる。この見取り図は、記憶の中にある視覚情報を

暗闇の中で掴んだ視覚以外の情報と連結させて作っているのだろう。(まさにベルクソンの知覚論だ。)

 

 美味しく頂いてBARを後にする。椅子から立ち上がり、アテンドさんのところに集合する時、人が一か所に集まってきている音と

温度をありありと感じた。気配というのは音と温度から成り立っているのではないだろうか、なんてことを考える。

そして次第に明るいところへ。そう、もう一時間以上が経ってしまったのだ。きっと歩数にすれば家から駅まで行くよりも

遥かに少ないのに、本当にあっという間。だが、その中で沢山の情報に触れ、そしていつの間にかグループの人たちの声や

名前を自然と覚えていた。薄闇(最初は暗いと思ったのに、今となっては明るすぎる!)の中に移動して互いの顔が見える状況で

少しディスカッションをする。暗闇の中にいたときは年齢や立場や性別関係なしに触れあっていたが、顔が見える明るさでは

暗闇にいた時よりも互いに話すのが気恥ずかしくなる。視覚を得ることで、我々が「他人」であったことを思い出した。

暗闇は人を孤立させるのではなく、人と人との間に横たわる距離を縮めてくれるものにもなりえる、ということを僕は初めて知った。

 

 あっという間の90分を終えて受付に戻ってくる。

入ってきたときは落ち着いた照明だと思ったのに、今となっては明るすぎるぐらい。

一緒のグループだった人たちに「またどこかで」と挨拶をして、建物の外に出る。

陽射しが鋭く、世界の白が白すぎる。走り去る車の音、行きかう人の声、溢れる色彩、複雑な香り、湿気た空気。

この世界には情報が溢れている。

だが、そう思うのも一瞬。今までの人生で視覚に慣れ親しんだ我々は、すぐに視覚に頼って歩き出す。

何のためらいもなく階段を昇り、時計に目をやって時間を確認する。まぶしいと感じた光、うるさいと感じた車の音は

いつのまにか意識されなくなる。いつも通り、別に変った事は無い、ただの街中。

色や音、視覚の刺激に溢れたこの街で、僕は何も感じていない。

 

 そのことに気づいて、今までいた場所を振り返る。

夢みたいな時間。暗闇の中にいたはずなのに暗闇には様々な感覚が溢れていた。

そしてその暗闇の中で僕は確かに、人と、場所と、音や香りや触覚と対話=Dialog した。

視覚を捨て、暗闇の中で世界を認識しようとして様々な感覚を鋭くすること、それは僕にとって忘れる事の出来ない体験になった。

 

 これを読んで興味を持たれた方は是非一度足を運んでほしいと思う。絶対に後悔はしない。

長くなってしまったが、誘ってくれたA氏に感謝を記し、終わりにすることにしよう。

今年一番の充実した一日になりました、本当にありがとう。

 

DIALOG IN THE DARK のロゴ。このロゴデザインの秀逸さは、薄闇の中に身を置いてはじめて分かった。

『カフーを待ちわびて』(原田マハ 宝島社,2006)

 

『カフーを待ちわびて』(原田マハ 宝島社,2006)を読了。

 第一回日本ラブストーリー大賞の大賞受賞作で、作者は作家 原田宗典の妹である。

原田宗典は、僕の人生にとって無くてはならない作家のひとりだ。

小学校時代、友人にこの作家のエッセイを紹介されて以来、エッセイ・小説問わずすべて読んできた。

その軽妙な語りと、ちょっと不気味で時に暖かい小説に惹かれてきた。

その妹はどんな文章を書くのだろうか。本を開く前からとても気になって、一時間ほどで一気に読みとおした。

 

 というわけで以下感想。

何と言っても映像的な描写が上手い。全体的に映像化しやすそうな小説で、映画化される運びになったのも当然だと思う。

同時に、これは場所の設定が全ての小説だ。この場所で無くては成立しない。

展開は「おいおい」と首を捻りたくなるところもあるが、ベタベタな構成に陥らないところは好感がもてる。

文章はそれほど上手いとは思わない。出だしのところ、登場人物や設定の紹介を兼ねて話が進んでいくあたりは

説明している感じが前に出すぎていて少し違和感を覚える。

コナンで事件が起きた直後、登場人物たちが自分のプロフィールを話すときのような説明っぽさがどことなくある。

この辺りは小説としてまだ作者が駆けだしであることを伺わせる。

 

 読み終わってみるとタイトルの意味がやや分からなくなったりしたが、とにかくこのタイトルのインパクトは大きい。

サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』に内容が少し似るところがあるから、これにかかったタイトルなのかもしれない。

表紙の写真は空気感を良く捉えており大変美しい。映像感に溢れるこの小説と良い相性である。

あまり読者の目にとまっていないと思うが、注目すべきは表紙を外したあとに出てくる装丁だ。(単行本版)

表紙とまったく異なる印象の写真が全面に使われており、どこかゾッとする光景が広がっている。

単行本をお持ちの方は表紙を外して見て下さい。

 

 話が装丁の方に行ってしまったが、さらっと楽しめて幸せな気分になれる、そこそこ面白い小説だったと思う。

この小説、映画化だけでなく、いずれドラマ化までされそうな気がする。

 

『装飾とデザイン』(山崎正和 中央公論新社,2007)

                       

                          【Review:  “Design and Decoration”】

 

 Making something has two principles.   One is “design”, the other is “decoration”.

People may think there is no deference between them in daily life but to tell the truth,

They have completely different tendencies.   Comaparison Ludwig Mies van der Rohe, with Robert Venturi

show different tendencies of design and decoration.   Mies van der Rohe, modernism [...]

『経験を盗め』 (糸井重里 中公文庫,2007)

 

 糸井重里『経験を盗め 文化を楽しむ編』(中公文庫、2007)を読了。

随分前に買って最後のほうだけ読み忘れていたので、ドイツ語の時間に暇を見つけて読んでしまった。

日本を代表するコピーライターの糸井重里が、各分野の達人たちとその分野を巡って繰り広げた議論の様子が収録されている。

さすが「欲しいものが欲しいわ」のコピーを生み出した糸井だけあって、「経験を盗め」というタイトルも刺激的。思わず買ってしまう。

 

 この本の中で触れられているテーマは、グルメ・墓・外国・骨董・祭・作曲と詞・日記・花火・ラジオ・トイレ・豆腐・落語・水族館・喋り

などである。一見して分かるようにかなり広範囲にわたるテーマを扱っており、糸井との対談に登場する方々も多様である。

同じくコピーライターの仲畑貴志が骨董を語るかと思うと、東大先端研の教授である御厨貴が話術について語ったりする。

(まったくどうでもいいのだが、この両者を取り上げたのは「たかし」が共通しているからである。そういえば立花さんも・・・。)

全体を通じて軽妙な書き起こしで、大変読み易い。

印象に残った部分は「グルメ」についてを扱う章で里見真三が述べた言葉。

「これは私の持論ですが、上半身であれ下半身であれ、粘膜の快楽を過度に追求する者はヘンタイと呼んで然るべきです。」

次に、「花火」についてを扱う章で冴木一馬が述べる

「日本の花火は三河地帯が発祥とされています。中国人が作った花火を最初に見たのが徳川家康で、一緒にいた砲術隊が家康の

生誕地である三河に技術を持ち帰って伝えた、と。当時、火薬は砲術隊、鉄砲屋しか扱えなかった。ところが徳川政権が安定してくると

戦争がないから鉄砲が売れない。それで鉄砲屋が花火屋に移行していったようです。」

という言葉。

そして「豆腐」についてを扱う章で吉田よし子が述べる

「ちなみに穀類プラスその二割の量の豆を食べるだけで、全必須アミノ酸をバランスよく摂ることができるんですよ。

人類は、穀類と豆の組み合わせで生き延びてきたと言ってもいい。」

などだろう。「落語」を扱う章には先日行ってきた新宿の末広亭の名前が挙がっており、何となく嬉しくなった。

あと、御厨さんが登場する章では、御厨さんの様子を御厨ゼミに所属しているS君から時々聞いているので、

それと重ね合わせて読むと妙に面白く思えてしまった。 (読後すぐにS君に本書を紹介した。)

さらっと読める割に、内容がしっかりある良い本だと思います。

 

『快楽の動詞』(山田詠美 文春文庫,1993)

 

 山田詠美『快楽の動詞』(文春文庫、1993)を読了。

何とも軽妙なエッセイ集。エッセイと小説の間、ある種の批評といった方が的確かもしれない。

作品の中に入り込む「書き手」としての視点と、作品を読む「読み手」としての視点を

山田詠美が自由自在に行き来する妙技が味わえる。やはりこの人は文章が上手い。

さらっと読める割には、随所に鋭い指摘があって読んでいて頷かされることも多々あった。

「単純な駄洒落は、〈おもしろいでしょ〉というそれを認めた笑いを求める。

しかし、高品位な駄洒落は正反対に、〈おもしろくないでしょう〉という笑いを求めるのである。

前者の笑いは、わはははは、であるが、後者の笑いは、とほほほほ、である。」

 

 うーむ・・・なるほど。