久しぶりに、背筋が震えるような本に出会った。
ジャン・コクトーの『ぼく自身あるいは困難な存在』(ちくま学芸文庫)という一冊だ。ジャン・コクトーについては『恐るべき子供たち』を
読んだだけで彼の他の本は知らなかった。この本はいきなりこう始まる。
「語るべきことを語りすぎ、語るべきでないことを充分には語らなかったためぼくは今自分を責めている。しかし、よみがえる様々の
ことどもは、周囲の虚無の中にあまりにみごとに吸収されているから、例えば実際それが列車であったのか、またどれが、
沢山の自転車を積んだ貨車を牽いていた列車であったのか、もはやわかりはしない。…….涙はこぼれんばかり。それは家のことでも、
長く待っていたからでもない。語るべきことを語り過ぎたため、語るべきではないことについては充分に語らなかったからだ。
だが結局すべては解決がつく。ひとつ、存在してゆくことの難しさを除いては。これは決して解決がつくものではない。」
そして、次にこう始まる。
「ぼくは五十歳を過ぎた。つまり、死がぼくに追い付くのにそれほど長い道のりを必要としなくなったということだ。」
「射撃姿勢をとらずに凝っと狙いを定め、何としてでも的の中心を射抜く」という有名な一文もそうだが、挙げればキリが無いぐらい
コクトーの言葉は凝縮されていて、無駄がないのに詩的なものを失わない。ちょうどいま思っていたこと・思いたかったことが
イメージの豊かさを漂わせつつ明晰に言語化されている。それらはどれも、四月からいくつか身の振り方を考えて悩んでいた
僕にとって一つの選択肢を強烈に推してくれるものだった。今までなぜ出会わなかったのかと不思議になる。
その一方で、今このタイミングで出会えたことに運命を感じている。最後にもう二つだけ引用しておこう。
エリック・サティについて述べた部分。
「彼はそこで自分を軽石で磨き、自分に反撃し、自分にやすりをかけ、自分の繊細な力がもはや本源から流出するしかなくなるような
小さな孔をきたえあげたのだった。」
コクトーが自身の仕事について書いた部分。
「孤独を願うのは、どうやら社会的な罪であるらしい。一つ仕事が済むとぼくは逃げ出す。ぼくは新天地を求める。
習慣からくる弛緩を恐れる。ぼくは、自分が技術や経験から自由でありたい ―つまり不器用でありたいと思う。
それは、奇人、叛逆者、曲芸師、空想家であることなのだ。そして賛辞としてはただ一つ、魔術師。」