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夏は来るのだ。

 

 

Da gibt es kein Messen mit der Zeit, da gilt kein Jahr, und zehn Jahre sind nichts, Künstler sein heißt: nicht rechnen und zählen; reifen wie der Baum, der seine Säfte nicht drängt und getrost in den Stürmen des Frühlings steht ohne die Angst, daß dahinter kein Sommer kommen könnte. Er kommt doch. Aber er kommt nur zu den Geduldigen, die da sind, als ob die Ewigkeit vor ihnen läge, so sorglos still und weit. Ich lerne es täglich, lerne es unter Schmerzen, denen ich dankbar bin: Geduld ist alles!

そこでは時間で量るということは成り立ちません。年月 は何の意味をも持ちません。そして十年も無に等しいのです。およそ芸術家であることは、計量したり数えたりしないということです。その樹液の流れを無理に 追い立てることなく、春の嵐の中に悠々と立って、そのあとに夏がくるかどうかなどという危惧をいだくことのない樹木のように成熟すること。結局夏はくるの です。だが夏は、永遠が何の憂えもなく、静かにひろびろと眼前に横たわっているかのように待つ辛抱強い者にのみくるのです。私はこれを日ごとに学んでいま す、苦痛のもとに学んでいます、そしてそれに感謝しています。忍耐こそすべてです。

 

リルケの『若き詩人への手紙』より。これほどまでに美しいイマージュに溢れ、同時に意志の強度に貫かれた文章も無い。

今の自分にはこの文章が強烈に響く。だから世阿弥の『風姿花伝』と共に最近は毎日鞄の中にこの二冊を入れて過ごすのだ。

まるで、お守りのように。おそらく夏が過ぎ去るまで、僕はそうするだろう。

 

ひとりで。

 

夏は吹奏楽の季節だ。また今年も、はじめての中学校からお声がけ頂き、吹奏楽指導をさせて頂いた。

指揮する曲は、指揮を習い始めて間もない頃、吹奏楽指導へ赴く師匠に同行させて頂いたときの曲だった。

あのとき僕は、言葉なしに棒だけで音楽をがらりと変えてしまう師匠の凄みを、そして指揮という芸術の恐ろしさを目の当たりにした。

その瞬間のことを思い起こしながら、僕はいま、ひとりで中学校への道を歩く。この夏はあの夏よりも暑い。

時間が経ったのだ、と唐突に思う。だがしかし、過ぎた時間を惜しむことも、過ぎてしまったものに慌てることもしまい。

 

四楽章

 

1.名前をつけるとすれば、それはDevenirであり、L’airということになるだろう。

そしてこれこそが固有の時間と空間-そして音-を作り出す決定的な何物かに直結している。

 

2.芸術家は想像力が全て。湧き上がる想像力に対して、練成した技術で応えていく。その順序が逆であってはならない。

リハーサルののち、斎藤秀雄の指揮で弾いていた、という偉大なヴァイオリニストの先生がぽつりと語った言葉に震える思いがした。

 

3.夢を諦める瞬間がなぜ来るのか。それは夢の可能性が現実の重さに屈服するからだ。

一年前の自分は、現実をはっきりと見る事無く、それでいて、なんとかして現実を納得させてやろうと奮闘していた。

今は違う。襲いかかってくる現実を認識してもなお、凪いだ心で、自らの夢の持つ可能性を信じることができる。だから、もはや動揺することはない。

 

4.見出したものは、全て一言で表すことができる。それは「愛する」ということだ。

忘却でも赦しでもない。ただ「愛する」ということなのだ。

 

結晶の精神

 

リルケと世阿弥とコクトーが、同時にきっかけをくれた。

ここ数週間、いや長く見れば一年半にわたる負荷を経て、そしてまたここ数日の「文字」で座禅を組むような時間を経て、天に穴が空いた。

それは言葉にならないものだけれども、明確に違う次元なのだ。

 

海の微風が静かに吹く、嵐のあとの境地。

無関心とは違って凪いでいる。文字通り波風立たぬ平面でありながら、再び嵐を巻き起こそうと思えばそうすることもできる。

細かいことがどうでも良くなるような大きな海、それでいて、無限に細やかな波紋を刻み付けることもできる海。

明鏡止水、水鏡無私。水鏡無私,猶以免謗,況大人君子懷樂生之心,流矜恕之德,法行於不可不用,

おそろしく均衡の取れた領域が広がる歓待の空間。この延長上に目指すべき境地があることを確信する。

ここからスタートして、精神の強度を高めていくのみ。

 

結末

たとえばそれは、ある種の失恋に似ている。

一年間愛し続け、あの美しい木のホールに響かせることを夢見続けた曲が、直前になって演奏できなくなった。笑顔を続けることが出来なくなった。

けれども演奏者の皆さんが個別にメールを下さる。少ない人数でも、条件の整わないリハーサル環境でも、何とかできる事をと思って奮闘し続けた一年間だったが、

僕のやって来た事は間違いではなかった、と少しだけ安心する事ができた。それだけでほんの少し、救われた気持ちになる。

一年間かけてゆっくりと、ゆっくりと、ようやく心が繋がりはじめたのに。ああ、あの人たちと一緒にステージに立ちたかったなあ。

 

Fragment

 

Ein Kunstwerk ist gut, wenn es aus Notwendigkeit entstand. In dieser Art seines Ursprungs liegt sein Urteil: es gibt kein anderes.

 

 

夜の領域

 

ハイデガーを読むはずが、準備不足なので自分のいま考えていることを話す、とはじまった今日のゼミは伝説的な時間になった。

コジェーヴからはじまり、tourniquetを底に見ながらラカン、ガタリと弁証法的「3」の構図からフレンチ・セオリー的な「4」の図式へと発展する様子を追う。

とりわけラカンの四つのディスクールから、(ハルトマンの四元数を経由して)先生なりに展開された「4」の図式が僕にとっては衝撃的だった。

それは、駒場をもうすぐ去ろうとする先生が辿り着いた思想史の大きな枠組があくまでも即興的に展開されて行くことで生まれる迫力に対してであって、同時に

学問で、指揮で、極めて漠然と抱いていた思いをはじめて言語化して頂いた、という感動に対してだった。

第三象限に位置づけられた夜の領域、人間を溢れ出るもの(L’Human débordé)への問いこそが、自分にとって本質的であった、と気付かされた。

 

つまるところ、夜だ。夜が問題なのだ。

法でも科学でも実存でもない夜の空間、すなわち「魔術」的領域。

自分が興味を抱いてきたものは全て、この夜の領域を覗き込むような行為であって、魔術的な「ひと」だった。

 

 

雨上がりの紫陽花、合わせ鏡の境地

 

一年前に師より託され、師に代わって教えさせて頂いている門下の後輩の演奏会を聞いて来た。

レッスン、という言葉は未熟な僕には尊大にすぎる。一緒に勉強した、という言葉が適切だろう。

樽屋雅徳 「ゲルダの鏡」。すっかり僕も暗譜してしまっている。

テンポや拍子の揺れもそれなりにあって、決して簡単な曲ではない。(そもそも簡単な曲などない)

しかしそうした問題は練習の中でクリアされていったし、本番でも実にスムーズに奏者を導く事ができていた。

もちろん課題は沢山ある。けれども本番の彼女は、二つの意味で良い棒を振っていたと思う。

 

一つは、迷いの無さだ。

僕自身の課題でもあり、そしてそれゆえに、毎週終電近くまで共に勉強するうちに彼女に何としても伝えたかったことだ。

迷いの無い指揮。自分、それから一緒にステージを共有する奏者を信じること。

それがどれほど大切なことで、同時に、どれほど難しいことか。

 

もう一つは、指揮がずいぶんと大きく見えるようになったことだ。

一年前に同じコンサートで指揮する姿を見たときよりも格段に大きくなった。一年間の成果があったと思った。

なぜならば、師が一年前に彼女の指揮を見て僕に伝えた事は、「もっと大きく振れるように」ということだったからだ。

大きく振る。それは単純なことのように聞こえるかもしれないが、精神的にも身体的にも様々な困難を孕む本質的な問題なのだ。

コンパクトに纏まった若者ほどつまらないものはない。機械的に振る指揮者ほど触発されないものはない。

伝達のために整理整頓されながらも、自分の壁を突き破り、何かが溢れ出してこなければならぬ…。

 

帰り道、雨上がりの紫陽花の美しさに魅せられながら、僕がdevenir (生成-未来)と呼んでいる一つの動きのことを考えた。

師が何気なく行うその一つの動作。それは自由な動きなのだけれども、針の穴を射抜くほど精密な動きでもある。

今日の演奏会を見ていて、その動きの本質に一歩だけ近づいた気がした。見えなかった<意味>が僅かに見えて、その壮絶な繊細さに紫陽花の青を重ねてゾクリとした。

 

教えさせて頂く立場を経験してみればみるほどに、そして振れば振るほどに、師の凄みに突き当たる。

全人生を賭けても届くか分からないその境地の遠さを思う。

 

雨上がりの紫陽花(Lumix G6, Lumix 20mm F.1,7)

雨上がりの紫陽花(Lumix G6, Lumix 20mm F.1,7)

 

 

 

 

 

残響

 

 

今日はお世話になっているヤマハの発表会でステージマネージャーをさせて頂きました。

自分の出番が無いと楽かと思いきや、逆に気が張るものです。

椅子を並べ、譜面台を出し入れし、ステージへのドアを適切な呼吸とリズムで開ける。

少しでも奏者にストレス無く弾いて頂くためにはどうすれば良いか、と頭を使う感覚は、指揮しているときと共通しているものがあって

立ちっぱなしの七時間でしたが沢山学ぶ事がありました。と同時に、自分が指揮させて頂くコンサートの一つ一つが出来上がるために

どれほど多くの方々 の力に支えて頂いているか、改めて確認する時間ともなりました。こういうことをいつまでも心に留めておかねばと思います。

 

会場であった明日館は僕の師匠が愛したホールで、師の指揮するブラジル風バッハを初めて聞いた場所でもあります。

あのわずか数分によって僕の人生は決定的に動かされました。

悲しくもないのに涙が溢れて止まらない、一生忘れる事の出来ない時間。人間は棒一本でこんなことが出来るのかと絶句した時間。

きっとこのホールの壁のどこかに、あのブラジル風バッハが染みている。

思い出のハイドン・バリエーションが響き渡った終演後、人気が無くなった会場に佇みながら、五年前の秋のことを思い出さずにはいられませんでした。

 

はじまりの明日館

はじまりの明日館

 

 

たとえば。

 

少し前に一緒に演奏した人たちが、27歳を祝う会を開いてくれて、また一緒に演奏したいと言ってくれる。

それだけで指揮者をしていて良かったと思えるし、今の自分が幸せであることを信じて疑わない。

一方で、指揮とは何であるのか、どういうふうに生きて行けば良いのか、悩む事は限りない。

けれども。この真っ直ぐな幸せを忘れないように自琢せねばと思う。