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ritardando

 

 

  十二月の昼下がり。街は沢山の人で埋まっていた。

買い物帰りなのだろう、手にはみんなどこかの紙袋を下げている。足早に街を歩いていくが、その顔はどこか楽しそうだ。

そんな様子を見ながら、十二月がもう終わりに近づいていることを実感する。

 

 人ごみを避けて駒場キャンパスの中にある喫茶店へ入った。三面がガラス張りになっているこの喫茶店は、午後の西日の光を

吸収してとても暖かい。ちょっと眠くなるのが難点だが、この暖かさはとても居心地がよい。

二年の冬学期になって、学校のある日はだいたい毎日ここへ足を運んでいる。珈琲一杯200円。それで買ってきたばかりの本を

一冊読み切るのが日課のようになってきた。本だけでなく、課題を読み進めたり、文章を書いたり

駒場の喫茶店にて。差し込む西日がとても綺麗だった。

駒場の喫茶店にて。差し込む西日がとても綺麗だった。

レッスンに備えて楽譜を読み込んだりと、一人になってやりたいことをやるときには大抵ここを使う。

そのせいか店員さんたちにすっかり顔を覚えられてしまったようだ。と同時に、僕も

いつもいる常連さん(学生から教授、近所の子供連れのお母さんまで)の顔ぶれを覚えてきた。

ここに来ると自分の生活にリタルダンドをかけることが出来る。

若さにあふれる駒場でゆっくりと落ち着けるのはこの喫茶店ぐらいかもしれない。

 

 駒場は、やはり若い。

専門課程に入った三・四年生は本郷へ大抵移ってしまうため、駒場にいるのは一年生・二年生が

中心になる。だが、僕のように後期教養学部に進学することになった人間はひたすら駒場に

残留する。大学院に行かないとしてもあと二年は確実に駒場に残ることになる。 
 
それはそれで悪くないのだが、ちょっと取り残されたような気がしないでもない。
 
  
 
 
 
 
 
 
「花は半開きを見、酒は微酔に飲む。この世の中に大いに佳趣あり。」

「花は半開きを見、酒は微酔に飲む。この世の中に大いに佳趣あり。」

 一年生は毎年毎年入れ替わる。

僕が四年になった時、新たに入ってくる一年生はきっと五・六歳ぐらい下になるのだろう。

僕には四歳下の弟がいるけれど、弟より下の世代となるといまいち想像できない。

未知の領域である。今はまだ、食堂にふらっと足を運んでも、そこで楽しそうに話す一年生たちを

見てクラスの友達と食堂で延々話していた一年生のころを 思い出して懐かしくなるだけだが、

四年なんかになると、食堂で楽しそうに話す一年生たちの若々しさに微妙な居心地の悪さを

感じてしまうことになるのだろうか。

 

 ふうっと溜息をついて、どんどんと自分が十代から離れていくことを感じながら、

もう一杯珈琲をお代わりして長居することにした。

 

十二月が過ぎてゆく。また次の一年がやってくる。

 

 

 

 

笑い飯礼賛

 

 M-1グランプリ2009を観た。目当ては笑い飯。いつも決勝近辺まで行くのになぜか勝てないこの二人が今年は

どんな伝説を作るか楽しみにしていた。結果は決勝までダントツで進んで、最終的には2位。ある意味伝説の展開だ。

ここまで来ると、「こいつら実は優勝する気ないんちゃうか」と思ってしまう。それがまた面白いといえば面白い。

 

 M-1で笑い飯と言えば多くの人が真っ先に思いつくの2003年の「奈良県立民俗博物館」というネタだろう。

あれはまさしく神だった。テンポ感もネタの構成も最高。掛け合いはどんどん加速していき、笑いもどんどんクレッシェンドしていった。

この奈良県立民俗博物館ネタには及ばないものの、今年の一回目のネタ「鳥人」は2003年に次ぐ名作だったと思う。

ボケとボケの掛け合いが生む勢いだけで笑わすのではなく、絶妙なテンポ感に加えて、言葉遊び的な笑いの要素が上手くミックス

されていた。さらに、笑い飯の真骨頂とでも言うべき「イメージ」の伝達がとても巧みだった。

 

 奈良県立民俗博物館と鳥人(に限らず、笑い飯の漫才のネタの多くがそうだと思う。「コロンブス」とか。)の共通点は、どちらも

「存在しないもの」「大多数の人は観たことがないもの」でありながら、「言われてみれば想像できる」ものであること。

ということは同時に、観客に自分たちのイメージしているものが伝わらないことには始まらないネタだと言える。

つまり、笑い飯が思い描くイメージが完璧に観客へと伝わり、イメージを共有できた時に、彼らのネタは笑いに変わる。

奈良県立民俗博物館と鳥人で提供したイメージは「博物館によく置いてある縄文時代の人々の像」と「頭だけ鳥で体が人」であった。

なんとなくリアリティを感じさせるこれらのイメージを観客と共有しつつ、あとはそのイメージから引き出されるシナリオを展開しながら

言葉遊びと主題のズレ(たとえば奈良県立民俗~における「ええ土!」、鳥人における「チキン南蛮」など)によって話を広げてゆく。

そこに漫才の「技術」である節回しや表情、テンポが加わることで彼らの漫才は構成されていると思う。

想像力と言語力に強烈に働きかけてくる笑い飯、まだまだ彼らから目が離せない。

 

 それにしても、笑い飯の漫才に漂うシュールさは吉田戦車の漫画に良く似ている。帰省したらまた吉田戦車の『殴るぞ』と

『感染るんです(うつるんです)』を読もうと思う。というわけでそろそろ帰省の準備をしなければならないのだが、軽くリストアップしてみた

だけで凄まじい量の荷物になってしまった。服、パソコン、本10冊、ドイツ語とフランス語の辞書、フランス語関連の演習本、単語帳、

ボウリングのボール×3、指揮棒、楽譜、フルート、バイオリン、筆記用具、万年筆のインク・・・これではいくら鞄があっても足りない(笑)

年末・年始で料金が高いことが予想されるのでボールは持って帰らなくても良いのだが、帰省するからには師匠と一回ぐらい投げたいな

と思うと、やはりボールは外せないという結論に至る。こうして荷物は全く減らないのであった。

 

 なお、本日は大畑大介『不屈の「心体」なぜ闘い続けるのか』(2009,文春新書)と加賀乙彦『不幸な国の幸福論』(集英社新書)を

読了。それからあるコンクール用に書いていたエッセイを提出した。『記憶を纏う』と『ガラス越しの香り』という題名の二編である。

結果発表はまだまだ先なので、あんまり期待せずに待つことにしよう。

 

近況です。

 

いつものように近況を。相変わらずハードな毎日が続いています。

 

・能鑑賞

ここに時々コメントをくれる水際のカナヅチ氏のお誘いで能を見に行ってきました。

野村萬/野村万歳による狂言「箕被」、そして友枝昭世/宝生閑による能「葵上」の二本立てという

豪華なプログラム。何より、出演者の方々が日本トップの能楽師の方々です。

「学生のための特別公演」ということで、これがS席3000円で聞けるとは・・・学生でよかったと思います。

能は二回ほど見に行ったことがあるだけなので何も的確な感想は言えませんが、とくに「葵上」のおどろおどろ

しさは尋常ではありませんでした。変拍子チックな太鼓と笛と地謡に乗って展開される

六条御息所の霊Vs行者の激しい戦い。行者の法力が勝ったかと思うといきなり六条御息所が振返り、

その鬼のような形相を見せて逆に行者を追い詰めます。この迫力はすごい。ぞっとします。

妖しげな光を放つ青色とくすんだ赤色で、舞台が明滅しているような錯覚を覚えました。

 

 帰り際、客席を見回すとAIKOMの留学生の友達や高校時代の友達、それから上クラなど、10人ぐらいの

知り合いを発見してこれまたびっくり。ついでに、ホール出口のところで、浪人時代の友達で

しばらく音信不通だった人にばったり遭遇して、眼が合うなり「あーっ!!」と叫ばれました。

世界は狭いですね。まあとにかく、良いものを見て聞いてすることができました。カナヅチ氏ありがとう。

 

・指揮

能を見た後にそのまま指揮法レッスンへ。「葵上」の衝撃が残っていたのか、師匠に

「今日の君のピアニッシモはなんか冷たいね。もうちょっと柔らかく出したら?」と言われてしまいました。

それ以外の問題点は無かったようなので、合格を頂いて一つ曲を終えました。今週から新しい曲に入ります。

しっかり譜読みせねば。

 

 

・Fresh Start

というイベントがあるのですが、このイベントにJr.TAとして関わっています。

肩書きは「クリエイティブディレクター」なる大層なものなのですが、まあいつものようにデザインやら司会やら

色々と担当する感じになるでしょう。大きなイベントなので、色々案を出して盛り上げていきたいと思います。

さっそくFresh Start Jr.TA説明会の司会を一部やらせて貰いましたが、ずっと立ちっぱなしで三時間弱は

流石に疲れますね。「むくまないストッキング」なるものがバカ売れするのも納得です。

 

・ボウリング

8ゲーム投げて209アベ。目標にあと1ピン足りません。スペアミスが効いていますね。

練習を終えた後、スタッフをやっている後輩に投げ方のアドバイスを求められたので

一歩目の出し方からダウンスイングの下ろし方など、様々な「コツ」を伝えました。

彼にとってこのアドバイスが壁を超えるきっかけになってくれれば嬉しいです。

 

・本

ベルナール・スティグレール『技術と時間 第一巻』を読了。明日、スティグレールが来日して本郷で

シンポジウムが開かれるのでその予習の意味を兼ねて。ちなみに明日は午前中に駒場でシンポジウム

午後に本郷でシンポジウムというダブルヘッダーなので。かなり忙しくなりそうです。

 

 

 

「静」と「動」

 

 ここ数か月、ボウリングの調子が良いです。

先日の試合でもセミパーフェクトの277が出ましたし、「またぎパーフェクト」なるものも達成しました。

またぎパーフェクトとは名前の通りゲームをまたいで12連続ストライクが出ることらしいです。

3ゲーム目に8連続ストライクを持ってきて、4ゲーム目に入って頭から4連続でストライクを続けて

合計12発。一緒のボックスで投げていた人に指摘されるまで気付きませんでした。いつの間に、という感じ。

出来れば一ゲーム内で普通のパーフェクトを達成したかったですね(笑)

まあそれはともかく、アベレージが220から230で二か月ほど安定してきているのは嬉しい限り。

 

 好調なのには理由があって、一つ悟りを開いた気がします。

かなり抽象的な内容なので上手くは書けませんが、簡単に言えば、「動」ではなく「静」の部分を意識するように

なったこと。ここ数年、いかにして高速・高回転の球を投げるかを追求し、「どうやって肘を入れるか」

「パワーステップのタイミングをどう取るか」「回転軸はどう変えるか」など、ボウリングにおける「動」の部分を

独自にひたすら追い求めてきました。そうして試行錯誤しながら何千ゲームも投げることで、

「動」の部分はかなり体に染みこんだ実感を持っています。

 

 ですが、これに安定感を加えるためには、「動」ではなく「静」の部分に注目することが必要なのだと

唐突に悟ったのです。インスピレーションをくれたのは、僕が今一番熱心に取り組んでいる指揮法でした。

指揮の師がある時、こんなことをおっしゃったことがあります。

 

「指揮台に不用意に上がってはならない。上がる前に空間を作っておく。音楽が大きく広がるように

空間をセットしておく。触れたらその瞬間に音が鳴り出しそうな空間を作ってから指揮台に上がる。

そしてタクトの先に、空間に満ちている音楽を集めて凝縮させ、一挙に空間を鳴動させる。

オーケストラを鳴らすだけじゃない。空間を鳴らしてはじめて音楽は命を持つ。」

 

この言葉を考えてみたとき、「どう動くか」が問題なのではなく、「どうやって静から動へ切り替えるか」、

さらに言えば「どうやって〈静〉の状態を作るか」が一つのカギとなるはずです。

そんな師の言葉を意識しながら、いつも指揮台に上っているのですが、じゃあこの気持ちで

ボウリングのアプローチに上がってみたらどうだろう、とふと思ってやってみました。

空間を意識しながら、背筋を伸ばして、ピンをまるでオーケストラの楽器のように見立てながら

アプローチに立ってみたわけです。

 

 びっくりしました。立った時の安定感が違う。視界が広くて明るい。重いボールを構えているのに体の

どこにもストレスがかからない。投げる前から自信が湧いてくる。〈静〉を意識することで、この後に続く

〈動〉が極めてスムーズにイメージできます。指揮とボウリングという、一見何の共通点もないこの二つが

稲妻のような鋭さで繋がりました。この二つをやっていて良かったなあと心から思った瞬間でした。

と同時に、僕のボウリングの師匠が数年前に何気なくつぶやいた言葉を思い出しました。

「上手いやつは立った瞬間に分かる。本当に上手いやつは〈止まってる〉」

当時高校生だった僕には全く理解できませんでしたが、いま、ようやくその意味を理解した気がしています。

 

 まだ今年はあと少し残っているのでちょっと気の早い話かもしれませんが、2010年は「静」と「脱力」

(脱力とは、〈動〉の中の〈静〉に他なりません)を意識してボウリング(もちろん指揮にも)に取り組みます。

これまでに培った〈動〉の技術をフルに活かしながら、「アプローチにどうやって上がるか」、

「どうやって空間を支配するか」という問題から、「どうやって呼吸するか」まで、〈静〉状態の質を高めるために

色々と工夫してみようと思います。ちなみに明日は能を国立能楽堂へ見に行くので、そこからまた

〈静〉や〈空間〉に関するヒントが掴めるかもしれません。とても楽しみです。

 

 なお、本日は坂野潤司『日本憲政史』(東京大学出版会,2008)を読了。政権交代が叫ばれた昨今や

天皇の政治利用ともとれる民主党の(というか小沢の)政策を冷静に見るために、と思って読んでみましたが

これは非常に良い本です。

 

「日本国民は二つの欽定憲法しか持ったことがないから、改憲して初めて国民の手による憲法が持てる

というような議論は、歴史音痴を告白しているに過ぎない。大日本帝国憲法の「欽定」(1889)以前には

それよりもはるかに民衆的な憲法草案が全国津々浦々で起草されていた。そしてそのような民主的憲法への

強い期待を背景に、欽定された専制色の強い大日本帝国憲法を解釈を通じて民主度を高める努力

(たとえば天皇機関説)がそのあとも続けられていった…」(P.41)

 

などというくだりにはハッとさせられますし、美濃部達吉と吉野作造の憲政論を対比させながら

見ていくあたりもとても刺激的でした。おすすめです。

 

あとはここ数日で多木浩二『眼の隠喩-視線の現象学-』(ちくま学芸文庫,2008)と、

上橋菜穂子『獣の奏者』一巻、ハンス=ヨナス「人体実験についての哲学的考察」という論文を読了。

長くなってしまったのでこれらについてはまた記事を改めて書くことにします。  

 

 

Skypeはじめました。

 

 冷やし中華のごとく、Skypeをはじめてみた。

別に緊急の用事があったわけではない。家の電球が切れたので近くの電機屋に行ったところヘッドセットが

投げ売りされていたのでつい購入してしまい、帰宅してから「待てよ、これ冷静に考えて使いみち無いぞ・・・。」

となって「ならSkypeでもやるか。」という心境になった。後先を考えずに買う癖は相変わらずだ。

 

 実はずっと前から、「Skypeやろうよ」と色々な友達から誘われていたのだが、なにぶん僕の低速回線では

やったとしてもストレスが溜まるだけで、それでは相手にも申し訳ないと思って避けていた経緯がある。

しかしいざやってみると、さほど回線の遅さを感じさせないレスポンスで使うことが出来た。何やらつい最近

アップデートされてスピーディーになったらしい。音質も想像以上に良いし、これは確かに便利なツールだ。

 

 立花ゼミの活動だけでなく、Fresh Start@駒場というイベントや個人的な仕事の打ち合わせなどで

活用する機会は多々あるだろう。まだ触り始めたばかりなのでイマイチ機能が使いこなせていないが、

徐々に使っていきたいと思う。ちなみにSkype名は Artificer という名前で登録した。この単語をskype名に

している日本国籍は僕だけ(フランスには何人かいる)のようなので、結構検索しやすいかもしれない。

Skypeをされている方はどうぞ検索してみてください。

 

 

※Skype名を間違って打ちこんでいました。Artificerとなっていますが、正しくはArtificierです。

検索でヒットしなかった方、お手数ですがArtificierで改めて検索してやってください。

 

『モンテーニュ通りのカフェ』(原題:Fauteuils d'orchestre)

 

 週末恒例の映画鑑賞祭その2は『モンテーニュ通りのカフェ』、原題を訳せば「オーケストラ・シート」。

公開は2006年、ダニエル・トンプソン監督による作品です。あらすじを引用しておきましょう。

・・・・・・・・

パリ8区、モンテーニュ通り。この通りからは美しく聳え立つエッフェル塔が見える、パリきっての豪奢な地区。

モンテーニュ通りにはすべてのパリがあった。劇場、オークションハウス、有名メゾン、由緒あるカフェ、

そして出会いと別れ。そのカフェに集うのは、演奏を控える著名ピアニスト、自分の生涯のコレクションを

競売にかけようとしている美術収集家、舞台の初日を迎えようとする女優など。

様々な思いを持った人々の人生が、実在する“カフェ・ド・テアトル” で交差していくのだった。

そんな中をパリに憧れ上京し、カフェの“ギャルソン”となったジェシカが、蝶のように軽やかに彼らの人生の

間を飛び回る。オーダーされるカフェ・クレームやデザートは、彼女にとって夢へのチケット。

憧れの人々の素顔とその人生に心躍らす時間が、輝く宝石のように横たわっていた…。

・・・・・・・

 

 いやー、これはいい作品でした。見終わった後に凄く幸せな気持ちになれる。思わず笑顔がこぼれます。

決して単純なラブストーリではなくて、登場人物たちの抱える悩みや挫折が効いていて、どこかほろ苦い。

音楽と美術と演劇、そしてそれらの芸術に仕える人々が一つのカフェでそれぞれの人生を交錯させます。

その中心にいるのは、田舎からやってきて、たまたまそのカフェで雇われたジェシカ。

ジェシカ役のセシール・ド・フランスのチャーミングな笑顔と明るい振る舞いが何とも見事です。

心の奥に辛さを秘めながら、屈託のない笑顔でPourquoi? (なぜ?)と誰にでも聞くジェシカに

登場人物たちがバラバラに出会うことで、それぞれの人生が動いてゆく。それは恋愛であったり、ピアニスト

としての将来であったり、親子の絆であったりして、見るものにどこか共感を引き起こさせます。

 

 随所にエスプリが効いていて、というフレーズはフランス映画評論の決まり文句みたいなのであんまり

使いたくないのですが、「エスプリ」としか表現できないような節回しが確かに効いていて、見ていても

セリフを聴いていても飽きません。長く連れ添った彼女と別れるかどうか苦悩するピアニストに向かって、

「君は一緒にエレベーターに乗り、最上階まで来たわけだ。でも。君は降りたくなった。彼女は降りるかな?」

と問うシーンや、「君の隣の席は空いてる?」とグランベールの息子を演じるクリストファー・トンプソンが

告白するシーン(クリストファー・トンプソンのイケメンっぷりが半端ないです。ジャケットのシルエットが

めちゃくちゃ美しくて、思わずポーズボタンを押して鑑賞してしまいました。まさにクール&ダンディの権化。)

「戦争の相手は君じゃない。」と復縁を伝えるシーンなどは「うまいなあー!」と手を叩きたくなる思いがします。

でも、この映画を見た人なら、一番のセリフはおばあちゃんのTu es mon soleil (あなたは私の太陽だわ。)

だと思われるかもしれませんね。この映画を象徴するように最初と最後で同じように語られる

この温かいセリフ、ラスト・シーンで聞いたときにはホロッと涙が出そうになりました。とにかく素敵な映画です。

 

 あと、本編とはあまり関係がありませんが、劇場の裏方役のおばちゃんがつけていた最後のイヤフォンが

Bang & Olufsen のA8というモデルでしたね。以前に一目惚れして愛用していたイヤフォンだったので

とても懐かしい気分になりました。もうあれから6年・・・時間が経つのは早いものです。

 

『ダニエラという女』(Combien tu m'aimes?)

 

 『ダニエラという女』を観た。監督はベルトラン・ブリエ。2005年の映画である。

原題は Combien tu m’aimes? つまり「私をいくらで愛する?」という感じになるだろうか。

原題から分かるように、ここで出てくる主役のダニエラは娼婦である。宝くじで大金を当てたといって

冴えない中年男(この冴えなさを演じられるベルナール・カンパンはある意味で凄い)が彼女、ダニエラを

「金が無くなるまで一緒に住んでくれ。」と言って買う。そしてそれを受けたダニエラは男の家に行き、

ソファーに座って彼女は自信たっぷりに言う。「特技は愛されること。私を見た男はみんな私を愛すわ。」

 

 確かにダニエラ(を演じるモニカ・ベルッチ)は凄いプロポーションで、自身に満ちたそのセリフにも

説得力があると言うものだ。とりわけ背中が美しいので、「女性の肩甲骨あたりにエロスを感じる。」という

方には是非見て頂きたい。ただし、シナリオは最終的に「なんじゃこりゃ」的な展開を見せるため、感動を

期待して見ると痛い目に合うと思われる。(個人的にはモニカ・ベルッチよりも中盤に出てくる

サラ・フォレスティエの方が好みだが、まあそんなことはどうでもいい。)

女優ばかりに目が行きがちな映画だが、異常なまでにコケティッシュな音楽の使い方も一聴に値すると思う。

ちなみに、本映画はR18指定。映像自体は「ベティ・ブルー」の方がよっぽどR18だったが、セリフの激しさは

こちらの方に軍配が上がるかもしれない。日本語字幕ではかなり控えめに訳されているようだが、

原語のセリフは間違いなくR18である。ちょっとここには書けないぐらいだ。

 

 しかし結局、この映画は何をやりたかったのだろうか。

金で居場所を転々とし、金で男に買われ、しかしそんな生活に誇りと満足を覚えていたダニエラは

最後に中年男のところへ戻る。ラストシーンの衝撃的な事実を知らされても、である。

中盤で彼女は言う。「私の自由は私のもの。金で私を買っても、私の自由は私のものよ。」

しかし、一方で彼女は、「自由になるのが怖い。」とも言うのだ。その二面性は一体何なのだろう。

このあたりにこの映画の意図が含まれているような気がする。

 

 色々と考えながら、ダニエラを演じるモニカ・ベルッチのその先に何も捉えていないような空虚な目を

見ていると、「今」も「未来」も何もかもが夢みたいに思えてくる。どこからが現実でどこからが虚構なのか。

確かなものなんて何もないし、一瞬先がどうなるかなんてもちろん分からない。

けれども、美しいものは確かに美しい。そんなふうに、我々が縛られている常識や規範の枠組みを超えた「

「美」礼賛の映画と見ることもできるかもしれないな、とふと思う。コケティッシュな美しさや性・愛を

このように堂々と、しかし狙い澄まして陳腐に描くベルトラン・ブリエは、やはり只者ではない。

 

 

左側通行の謎と雨の休日

 

 関西から上京すると、たちどころに違和感を感じるところがある。

そう、エスカレーターの立ち位置だ。関西では右側に立ち、左側が歩いて登っていく人のためのゾーンと

なっているが、関東ではその逆。左側に立ち、右側が歩いて登ってゆく人のスペースとなる。

エスカレーターにおいて、関西は「左空け」、関東は「右空け」のルールを持っていると言うことができるだろう。

 

 この地域差がどうして生まれてきたのか?それには信憑性の低いものからもっともなものまで諸説ある。

ところで、海外はどうなっているのだろうか?ちょっと調べてみると、

 

「左空け」・・・大阪、香港、ソウル、ロンドン、ボストンなどの都市や、ドイツなどヨーロッパの大陸系諸国。

「右空け」・・・東京、シドニーなどの都市。オーストラリアやマレーシア、ニュージーランド、シンガポール。

 

 ということで、世界の大多数は「左空け」が主流らしい。なぜこのような違いが生まれるのか。

まず、世界の左空けと右空けの分布を見たとき、すぐ気付くことがある。

右空け(の都市を持つ)の国に共通するのは、島国および島嶼部である。

では島国なら右空けになるのか?しかし、ロンドンが左空けであることを考えるとそうとも言えない。

(イギリスはヨーロッパとの関わりが大きかったから「島国」としてカテゴライズすべきではないかもしれないが)

ただ、「右空け」に島国の割合が大きいことは確かだ。

エレベーター自体はアメリカのオーチス・エレベーター社が1850年代に開発したもので、アメリカで販売した

あと、国外に向けてはまずカナダ近辺で売り始めたらしい。そのあと、次々にヨーロッパ諸国へ向けて

売り出してゆく。ならばアメリカ、カナダ、ヨーロッパ諸国は、開発国であるアメリカの風習を受けて

「左空け」になったのだろうか。だとすると、なぜアメリカで「左空け」のルールが生まれたのだろうか。

うーむ。よくわからない。

 

 とりあえず日本で考えてみよう。やはり、なぜ地域差が出るのか、ではなく、「そもそも左空け/右空けの

意味は?」と問うところから始めるのが良さそうだ。エスカレーターの無い時代から考えてみよう。

先日読んでいた『読み方で江戸の歴史はこう変わる』(山本博文、東京書籍)には、

「(参勤交代において)左側通行になるのは、お互いの刀の鞘などが触れ合わないようにするためである。」

という一節が見られる。江戸時代の武士は刀を左側に差していていた(右手で抜くため)から、進行方向に

対して左側に寄らねば、自分の体の幅から飛び出ている刀の鞘が前から来た相手とぶつかってしまう。

それを避けるために左側を歩いた、というのだ。

 

 問題はどの地域までこの風習が行われていたのかということだ。

参勤交代で人が集中する場所は、むろん江戸周辺である。参勤交代から自分の藩へ帰る行列、

参勤交代へ向かう行列が交差する場所は、なんといっても江戸周辺であろう。したがって、江戸周辺では

左側通行(右空け)のルールが成立したはずだ。これは、東京のエスカレーターが「右空け」であることと

符合する。

 

 では、江戸周辺以外では大名行列は道のどちらを歩いたのだろうか。岐阜を超えたあたりから右側歩き

(=左空け)に切り替わればエスカレーターの話と符合するのだが、それは良く分からない。

そもそも武士が刀を差している以上、江戸に限らず左側通行・右側空けのルールで過ごした方が

刀の鞘が触れて問題になるケースは減るだろうから、この風習が江戸だけのものだったとは考えづらい。

(このルールが生まれたのは江戸周辺であっただろうが、江戸周辺から地方へも伝播してゆくはずだ。)

 

 たとえば大阪は「商人の町」であったから、武士よりも商人が主体となって活動しており

刀の鞘が触れる云々などは大した問題ではなかったから左側通行が浸透しなかった、などの理由には

ちょっと無理が感じられる。これを発展させ、武士の帯刀ゆえに左側を歩いたこととパラレルに

「商人の経済活動においては、(右利きが大多数であるから)右手に荷物を持っていることが多かった。

だから人に荷物が当たらないように右を歩いた。」などといってみてもちょっと胡散臭い気がする。

(そもそも、江戸時代の立ち位置と現代のエスカレーターの立ち位置に直接の関係があるかどうか怪しいが)

持ち物が歩き方を決めるなら、「西洋では右にピストルを下げて右で取り出していたので、左側を空ける。」

みたいな理由も通ってしまいそうだ。1900年代に西洋人の多くがピストルを腰に下げていたとは考えづらい。

 

 なんとなく思いつくままに色々書いてみたものの、謎は謎のままである。

「ルールが当初どんな意味を持って、どこから生まれ、どのようにして広がっていったか」という問いは

このエスカレーターの立ち位置問題に限らずとても面白いと思うのだが、解明することは難しい。

と、ここまで書いてふと思ったのだが、エスカレーターの登り路線と下り路線が並列してあるところでは、

どちらに登りを置いてどちらに下りを置くのか決まっているのだろうか。

歩行と違って、エスカレーターの問いでは、エスカレーター一本の中だけで立ち位置を考えるのみならず、

逆向きのエスカレーターとの関連を考えなければいけないのかもしれない。つまりエスカレーターにおいては、

1.構造上の立ち位置(対抗エスカレーターの位置)と、2.慣習上の立ち位置(単線上で左右どちらに立つか)の

いわば「二重の縛り」に行動が規定されていると言えそうだ。

 

そんなどうでもいいことを考えながら、雨の土曜日はコーヒー片手に家で本と音楽に戯れる。

雨の夕方に合うものは、と考えてCHET BAKERの ‘CHET+1′ (Riverside)を棚から引っ張り出してきた。

このアルバムは一曲目にALONE TOGHETHERを持ってきたセレクトが神だと思う。チェットの甘くてどこか

ダルさの漂うトランペットと、ビル・エヴァンスの前に出過ぎないしっとりした音が絶妙。

ALONE TOGHETHER、つまり「たった二人で」の曲名にぴったりな音。ボーカルが無くてもあの歌詞が

浮かんでくる。Alone together, beyond the crowd…こんな音が出せたなら良いのになあ。

HOW HIGH THE MOONのスローテンポも、SEPTEMBER SONGのKENNY BURRELLのギターも最高で、

これを聞きつつ加藤尚武『現代を読み解く倫理学』(丸善ライブラリー,1996)を読了。合間にあるコンクール用

のエッセイを書いていたが、10枚ぐらい書いたところで愛用している満寿屋の原稿用紙が切れたので中断。

立花先生から頂いたChez Tachibana原稿用紙を使おうかと思ったが、勿体ないので置いておくことにした。

 

 雨が止んだら新宿へ原稿用紙を買いに行こう。ついでに知り合いの研究員さんが推していたLamyのStudio

を試筆してみるつもりだ。レーシンググリーンのインクもそろそろ補充しておきたいし、MDノートの横罫と

カバーももう一セット買っておきたい。5ゲームぐらい投げてちょっと体を動かしたい気もする。

二時間ぐらいぼーっと玉突きするのも良いかもしれない。土曜なら知り合いの常連さんたちがいるだろう。

 

 

 決まった予定が無い日は久しぶり。慌ただしい師走を一日ぐらいゆっくりと、好きなように過ごそうと思う。

やりたいことは沢山あるけれども、行くかどうかは天気次第。そんな自由がたまらなく幸せだ。

 

 

 

12月の満月

 

 今日は月がびっくりするぐらい大きく、明るかったですね。今まで見た月で一番迫力があったかもしれません。

空気も澄んでいたので表面の模様までよく見えて、しばらく見とれてしまいました。

以前にギリシャ哲学の大教授がおっしゃっていた、「太陽はあんなに明るく大きいのに地上の我々から見れば

空にある太陽は足の幅の大きさのように見える。それは、本来の大きさだと我々はその輝きに目を

見開くことができないからだ。これは〈真理〉と似ている。真理が眼前にあると、真理が放つ光が激烈過ぎて

我々はそれに目を見開くことができない。だから真理はとても遠くにあって、その弱い光を我々は見ているに

過ぎない。だが、哲学するものは、みずからの身を焦がすことを恐れず、眩しすぎる真理へと挑んでいく。」

という言葉をなんとなく思い出しました。

 

まあそんなわけで、先日の記事が固かったので今日は近況を軽く書いておくことにします。

 

・立花ゼミ

先生方と国際関係論と音楽とデザインについての喧々諤々の議論(?)をやっている間に

今日のゼミの時間が終わってしまい、今週はゼミに出ることができませんでした。ちょっと悲しい。

立花ゼミの「二十歳の君へ」書籍化企画が着々と進んでいる中、その企画の一環として

「立花隆対策シケプリ」を作る予定なのだが、それについてゼミ生がどの分野を担当するか決めやすいように

各自の得意分野・専門分野をメーリスに書いて流したらどうか、という提案をしようと思っていましたが

言う機会を失ってしまいました。まあここに書いておけば何人かは読んでくれるでしょう。

あと、僕が細々とやっている芸術企画の一環として「香り」について問うプロジェクトをやろうと思っています。

ただいまインタビュー先のリストアップ中です。

 

・ボウリング

かなり安定してきました。210アベレージをここ数週間コンスタントに維持できており、プロにも二連勝しました。

ホームにしているセンターのレーンはかなり遅く結構荒れていることが多いので、回転数の多い僕にとっては

結構苦しむレーンなのですが、無理せずボールを走らせる技術をようやく完全に会得した気がします。

あとはスコアの振れ幅を出来るだけ小さくしていく(ちょっと前には245の後に128を出しました…。)ことが

必要ですね。あんまり崩れてしまうと、精神的に次のゲームがきつくなるので、ローゲームは180ぐらいまでで

留めておきたいところです。

 

・フルート&指揮

フルートは中音域を響かせるコツというか、息を当てるポイントが掴めてきた気がします。

適当にそのへんの曲を吹きながら、オクターブの練習をひたすらやっています。

指揮は練習曲その1にじっくりと取り組み中。「もっとスマートに振らなきゃ。」と帰り際に師匠に言われて、

「スマートって一体何だ・・・。」と帰りの電車で考え込んでしまいました。「もっと自然に!」というのも

師匠から良く言われることなのですが、こちらも中々難しいことですよね。力が入ってしまっているのは

自分でも分かるときはありますが、かといって力を抜くのはとても難しい。ですが、この「脱力」こそが

指揮の奥義の一つの筈なので、なんとかしてこれをマスターせねばなりません。何年かかることやら・・・。

 

・本

ここ数日かけてブルデューの『ディスタンクシオン』(藤原書店)を上下二巻読み切りました。

ブルデューの議論に通底するものは、一言でいえば「再生産」だと思います。

この本でも、ディスタンクシオン(卓越化)という言葉と、「ハビトゥス」という概念を用いて、個人の「趣味」が

本人の自由意思のみに基づいて形成されるものではなく、個人の職業や社会的階層、あるいは

両親の職や学歴や環境に大きく規定されていることが明らかにされます。有名な例では、一巻の第一章に

ある、「好きなシャンソン歌手・音楽作品」と「所属階級・学歴」の相関表。シャンソンのことはよくわからない

ので、シャンソン歌手との相関については何とも言えないのですが、音楽作品として挙げられている

『美しく青きドナウ』『剣の舞』『平均律クラヴィーア』『左手のための協奏曲』だけを見ても、上流階級・知的職

になるに従って『平均律クラヴィーア曲集』を好む人の割合が増え、一方で庶民階級は『美しき青きドナウ』や

これに続いて『剣の舞』を好む人が多いというデーターがあります。このように諸作品につけられた価値の

「差異」が学歴資本の差に対応している、とブルデューは結論付けます。そしてこうした文化の価値は

「フェティッシュの中のフェティッシュともいうべき文化の価値は、ゲームに参加するという行為が前提として

いる最初の投資のなかで、つまりゲームを作りだすとともに闘争目標をめぐる競争によって絶えず

創りなおされるところの、ゲームの価値に対する集団的信仰の中で生まれてくる。」(P.386)と言います。

 

 なかなか分厚い本ですが、最後まで息切れせずに読ませる面白さをこの本は持っています。

名著と呼ばれて久しいのも納得です。興味がある方や社会学部に進学される方は是非読んでみてください。

立花ゼミの「貧困と東大」企画の参考になるかもしれません。

 

というわけで次は『ルーマン 社会システム理論』(新泉社)へ。第三者の審級概念についての大澤論文を

読んでいて、自分のルーマンのシステム論への知識が圧倒的に不足していることを痛感させられたので

12月はルーマンを集中的に攻めたいと思っています。まずこの概説書を読んでから、次に

長岡克行『ルーマン 社会の理論の革命』へ、そして馬場靖雄『ルーマンの社会理論』を読みつつ

ルーマン自身の著作に取り掛かる予定です。それから冬休みにはカール・ポランニーの『大転換』と

ちくま学芸文庫から出ている『経済の文明史』と『暗黙知の次元』を読む予定。あとずっと読みたかった

東浩紀『存在論的、郵便的 -ジャック・デリダについて-』も読みたいですね。浪人中に立ち読みしてみた

もののさっぱり理解できず、「これはもっと勉強してから読もう・・・。」と諦めた経緯があります。

サントリー学芸賞受賞作は分野問わず全て読もうと企んでいるので、やっぱり本作を外すわけには

いきません。再チャレンジします。

 

学術書ばかりになってしまいましたが、小説では上橋菜穂子『獣の奏者』を読んでいます。

まだ一巻の途中ですが、段々面白くなってきました。このあとの展開が楽しみです。

 

・モノ

PILOTから出ているバンブーという万年筆が今年の夏に廃番になっていたことを知りました。

夏にはまったく欲しいとは思わなかったのですが、廃番と聞くとちょっと欲しくなりますね。

とくにMニブの青軸は有名どころの文具店では軒並み完売だそうです。意外と地方の文具屋さんでは

残っていたりするかもしれませんね。もし発見された方がいらっしゃったらご一報下さい。

 

大澤真幸『意味と他者性』を読む。

 

 発表に備えて、大澤真幸『意味と他者性』のうち「規則随順性の本態」という論文を精読していました。

大澤氏の本はほとんど全て読んできましたが、中でもこの本は僕にとって、一・二を争う分かりづらさに映っています。

ヴィトゲンシュタインやクワイン、クリプキなど、分析哲学系の話題を(社会学として)扱おうとしているからでしょうか。

それ以上に、本書は極めて抽象度の高い議論が延々と展開されていることにあるのかもしれません。

いつもの大澤氏なら具体例や社会事象を引いて分析してくれるのに。

 

とはいってもそれはある意味で当たり前。

この1990年の論文は、のちに大澤氏の理論のキーとなる、「第三者の審級」概念の「形成」を扱ったものだからです。

この概念を応用するのではなく、この概念をどうやって導いてきたかということについて、抽象度を維持したまま、論理的で細かい

議論がひたすら展開されます。このことから、「第三者の審級」概念を考える上では必須の文献といってよいでしょう。

では、本論文で述べられていることは一体何か。そして「第三者の審級」概念とは一体何なのか。

ちょっと要約してみましょう。

 

【 「行為随順性の本態」(『意味と他者性』) の要約 】

われわれはいかにして、何らかの行為が可能であることを示しうるのか?そしてまた、「規則に従う」ことはいかなる意味を持つのか?

ヴィトゲンシュタイン-クリプキによって示された懐疑論的解決では不十分であり、これを超えるためにはコミュニケーションという事態の

不可欠な構成素たる「他者」の本性を問い直す必要がある。他者は、対象を捉える心の働きである「求心化作用」と、この作用と

必然的に連動してしまう「遠心化作用」(対象となるものに、私とは異なる固有の心の帰属場所を発見させる作用)によって不可避に

与えられる。私の存在は、(物理的意味合いではなく)他者の存在に常に伴われており、他者と共存している。

そして、私がまさにこの私であるという自同性のうちにすでに他者の存在ということが含まれるため、私の存在は他者の存在の

裏返しの形態であり、自己と他者は不分離の関係にあることになる。この自己と他者という二つの体験の源泉ゆえに、

体験される事柄は二重の偶有性を帯びざるを得ない。だが一方で、私の存在は他者の存在の必然性でもあることは、心的現象が

私に帰属していることの必然性が他者に帰属していることの必然性へと転換されて現れうる。

 

従って、他者とは、「他でありうること」=「偶有性」を確保する場所であるが、他方では「他ではありえないこと」=「必然性」を構成する

場所としても機能するのであって、この他者の両義性こそが、「規則」という現象を可能にする。

規則にしたがっているとみなされる行為においては、まさしくこの偶有性と必然性の交錯が起こる。

行為が妥当であるためには、妥当ではないという可能性が留保されていなくてはならないから、偶有的でなくてはならない。

一方で、心的現象が他者へ帰属することで対象の「なにものか」としての在り方とそれに相関する行為は必然性の様相を帯びる。

しかし、ここでの「他者」は否定的に表れる。すなわち、直接に現前しないということにおいて現前するのである。

このとき、他者は、第三者的な超越性を帯びたものとして転化されうる。この第三者的な超越性を帯びた他者を、「第三者の審級」と

呼ぶ。この第三者の審級は、私の経験に対して常に先行している「先行的投射」という性格を持つものであり、私からも、

私が直面していた他者からも分離された存在である。それゆえに、規則の妥当性を基礎づけることになる。行為の妥当性を承認する

他者は、単なる「他者」ではなく、特別な他者、「第三者の審級」であり、この第三者の審級に承認されていることの認知が

規則という実態についての錯覚を生みだす。

 

この第三者の審級は直接の現前から逃れているが、具体的な他者との間に代理関係を持つことによって間接的に現前しうる。

すなわち直面する他者が第三者の審級を代理するものとして認知されているときには、直面する他者が第三者の審級に相当する

権威を帯びるのである。ある者が権威を帯びた他者として表れる事がありうる、ということがわかれば、教育という現象

(行為の妥当性/非妥当性を決定し、行為を訂正しうるもの)が成立することも理解されよう。教育者が、教育を受ける者たちにとって

第三者の審級を代理するものとして定位されていることによって教育という行為は成立するのである。

 

だが、第三者の審級が具体的な他者に代理されて現実化するならば、同様の理由から、私自身が私に対して君臨する第三者の

審級を代理することも可能だろう。なぜなら、そもそも私と私が直面する他者とは同格的な存在であり、

私とは一種の他者であるからだ。だ。このとき、私自身が、私の行為を承認したり否認したりすることの権威をもつものとして表れうる。

従って、私が自身の行為について「私は規則に従っている。」と認定することが可能となるのである。

(ただしそれが有意味になるのは、私の行為が他者とのコミュニケーションの関係におかれているかぎりである。)

このような第三者の審級が成立すると、他者に伴う偶有性(他でありうる可能性)が潜在化してしまう。

特定の可能性のみが生じ得るものとして信頼され、他の可能性がありうることについての予期が端的に脱落してしまうことになる。

そして、この作用こそが、規則随順の本態である。

 

【ちょっと気になったこと】

P.77「心的な対象の特定の現れがこの私に帰属している、ということは、この同じ現れが私に直面している他者つまり「あなた」に

(共)帰属していることをも含意してしまうに相違ない。」

 ⇒なぜ「含意してしまうに相違ない」のか?私と他者が不可分の関係である以上、心的な対象の私への現れが他者に帰属する

可能性は確かにあるだろう。しかし、それはあくまでも帰属する可能性、「含意する可能性を持つ」にすぎないのではないか?

この部分だけでなく、偶侑性と必然性を述べている部分において、必然性がなぜ必然なのかについての論理展開が甘いように

感じる。この部分が「規則」という概念と「第三者の審級」をつないでいるので、ここが曖昧では説得力を失うのではないか。