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朝の断章

 

寝るのが怖い。一日を終えるのが怖い。

目を閉じて布団に横になると、頭の中に自然と一つの問いが浮かんでくる。これぐらいで僕は僕の一日を終えていいのか?

寝る、一日を終えるということは、死へと一日近づくという事だ。いま目を閉じるともう二度と目を覚ます事が出来ないかもしれない。

やりたいことも知りたいことも限りなくあるのに、僕はまだ何ひとつ学べていない。

もっともっと沢山の本を、音楽を勉強したいのに、それにはいくら時間があっても足りないのに。

 

自分に残された時間が限られていることを考える。

眠たくないのに寝ることがバカバカしくなる。眠たくなったら寝ればいい。それまでは起きていよう。

デザインの仕事をしてクライアントさんにメールを返信して語学の勉強をし終えて朝六時。

狭い一人暮らしの部屋に朝日が差し込み、きらきらと金色の光に包まれるなか、

ビゼーの『アルルの女』第二組曲の譜読みを始める。フルートの独奏曲としても良く知られたメヌエットがやはり美しい。

ファランドールの溢れてくるような勢いが頭を覚醒させてくれる。ビゼーの仕掛けた遊びに気付いて、その天才に心震える。

 

ひとしきり楽譜に向かい合ったあと、豆を挽いて珈琲を淹れる。

ブラームスのハイドン・バリエーションを静かに流しながら。

部屋いっぱいに珈琲の香りが広がって、一日が動き出す。

 

 

 

 

 

変奏曲

 

自分の人生を簡単に纏められるのには耐えられない。

説明できない屈折や脱線だらけの人生を送る人の方が、僕にとっては魅力的に映る。

迷う事を怖がらず、いままで一緒に歩いてきた友達に笑顔で手を振って、森の暗い横道に足取り軽く分け入って行け。

 

「私たちは自分をつねに創造しているものだと言わねばなるまい …(中略)…意識を持った存在者にとり、

存在することは変化すること、変化するとは成熟すること、成熟するとは無限に自分自身を創造することなのである。」

— ベルクソン『創造的進化』

 

 

一貫したものを底に持ちながら、次々と姿を変え、軽やかに変奏していく人生。

バッハのシャコンヌやブラームスのハイドン・バリエーションが自分の心に響いてくるのは、

そうしたところに憧れてのことかもしれない。

 

 

第三回「のみなんと」

 

第三回「のみなんと」を無事終えました。

「のみなんと」はドミナントのオーケストラチーム&デザインチーム&僕の知り合いの

合同飲み会みたいなもので、毎回30人〜40人ぐらいで楽しくやっています。

今回は突然モーツァルトのカルテットがはじまり、つづいてアイリッシュヴァイオリン+口笛+ギターのライブが

予告無く開始されたかと思うと、端では乾杯の歌が朗々と歌われるようなフリーダムさ

最後には木下牧子「鴎」という曲を合唱しました。「ついに自由は我らのものだ」と高らかに謳うこの曲、

今回の「のみなんと」にはぴったりな曲だったと思います。


学年も所属も身分も関係ないこの飲み会。音楽が本来持つ「楽しさ」に力を得て、

ここからまた色々な繋がりや出会いが生まれたならば、これ以上の喜びはありません。

ドミナントを立ち上げてからもうすぐ一年になりますが、わずか一年でこれほどまでに沢山の

素敵な方々と経験に恵まれた幸せを噛み締めながら、朝まで飲み続けました。

 


プロオケを指揮してから  -グリーグに惹かれて-

 

プロのオーケストラを指揮してから、すでに二ヶ月近く経った。

モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲とプロコフィエフの「古典交響曲」に頭をいっぱいにした時期はひとまず終わり、

二ヶ月の中で色々な曲に取り組んで来た。ベートヴェン「プロメテウスの創造物」序曲、オッフェンバック「天国と地獄」序曲、

スッペ「詩人と農夫」序曲、シューベルト「未完成」交響曲、ウェーバー「舞踏への勧誘」序曲…。

 

そして今はグリーグの「ペール・ギュント」組曲を振っている。

グリーグの曲を勉強していると、曲に入り込めた時には周りの温度がすうっと下がるような感覚を覚える。

とはいってもただ冷たいのとは違う。透明感のある温かさで、優しい手触りだ。

「グリーグは心に雑念があると振れないよ。濁った気持ちでグリーグは振れない。」と師匠がかつて呟いた言葉の意味を改めて悟る。

そして、なぜ師匠がアンコールにしばしば取り上げたのかも。

 

パフォーマンスのような指揮ではこの曲は演奏できない。

音楽に誠実でなければ決してグリーグは人の心に届かない。

師がアンコールで取り上げるグリーグの言葉にならない美しさに心を揺さぶられ、

指揮を学びはじめたばかりの未熟な身にも関わらず、師の背中を追って背伸びして

僕も演奏会ではことあるごとにグリーグの曲をプログラムに入れて何度も振ってきた。

南京大学の学生たちを東京で迎えたときに演奏させて頂いたグリーグの「はじめての出会い」という小品。

中国からはるばるやってきた学生たちが涙を浮かべながら聞いてくれ、そしてオーケストラのヴィオラ奏者が

涙を流しながら弾いてくれていたのを後から知り、これ以上無いぐらい幸せな気持ちになったことを覚えている。

 

グリーグの曲にどこまで入り込めるか。グリーグの美しさと儚さをどこまで人の心に届けることが出来るか。

これからもずっと、「濁った気持ちでグリーグは振れない。」という師の言葉を思い起こしながら、

何十年もかけて勉強し、少しでも心に届くように指揮していきたいと思う。


ハイデガーの面白さ。

 

ハイデガー、というのは僕にとって近付き難い哲学者の一人でした。

『存在と時間』の邦訳は浪人していたころから持っていたし、色々な文脈でハイデガーの名前が出てくるにつれ

「読まねば」と思い続けていたのですが、それでも「しかし僕にはまだ早い。」という思い込みで遠ざけていました。

 

ですがこの春から休学してから、ドイツ語読解力を落とさぬようにと『存在と時間』の原著Sein und Zeitを一日に一ページずつ、

色々な解説本を参照しながらゆっくりゆっくりと読み始めていました。

論が進むにつれて「どうしてもっと早く読まなかったんだ!」と叫びたくなるぐらいの衝撃に駆られます。

ああ、当時/後世の思想家や哲学者たちに(あるいはナチスに)影響を与えたのも頷けるな、と。

 

最終的に「共存在」が民族や共同体と接続されていくところはやはり納得できませんが、それを抜きにしても

やはりハイデガーは読まなければならない。そして今まで色々な思想家(たとえばナンシーの『無為の共同体』)の

著作を読んできましたが、その中にはハイデガーを理解しないことには理解出来ない(何が本当に問題なのかが分からない)ものも

沢山あったことに気付き、自らの不明を恥じました。僕は何にも分かっていなかった!(そして、きっと今も。)

夏の間にハイデガーのこのSein und Zeitを何とか一通り読み終えて、もう一度ナンシーやリクールを読み直してみるつもりです。

同期の友人たちはみな卒論に追われつつも、就職も次々と決まって社会人へとその歩みを進めつつあり、

その様子を見ていると少し自分の現状が不安になりますが、その一方で、こうして休学という身分を利用して

ゆっくりとハイデガーを一人で読み進めることが出来る時間を得られたのは、かけがえのないことだなと思っています。

 

 

現在、朝の五時。暑いけれども今日はとても天気が良いようです。

アイスコーヒーを淹れて、ハイデガーの邦訳とウェーバー「舞踏への勧誘」のスコアだけ持って

携帯も財布も家に置いたまま、公園に寝転がって、陽射しが眩しくなるまで読んでくることにします。

音楽も思想も文章も同じ。所属しないことを楽しみながら、一年間をゆっくりと、

自分が本当に学びたいもののために捧げたいですね。

 

 

「アイネ・クライネ」の中に「フィガロ」を聴く。

 

楽譜は読めば読むほど発見がある。そして時間が経てば見え方も変わる。

門下の後輩がレッスンでアイネ・クライネの一楽章を振るのを聞いて、

アイネ・クライネの中に「フィガロの結婚」序曲が突然聞こえた。

 

フィガロは五月にやったプロオケとのコンサートのために隅から隅まで勉強した曲。

そしてアイネ・クライネは一年前の駒場のコンサート(そこで初めて僕はオーケストラを指揮した)で振った曲。

電撃に打たれたように、二つの曲がこの一瞬で繋がった。

 

一 年のうちに色々な曲を指揮してきて、ようやくアイネ・クライネのことが少し分かってきた。

モーツァルトならではの遊び、モーツァルトならではの憂愁、そう したものがフィガロだけでなく、

アイネ・クライネにも息づいている。あの良く知られた「小夜曲」(=Eine Kleine Nachtmusik)の中に

モーツァルトのエッセンスが詰まっていた。心から思う。アイネ・クライネはなんて良い曲なんだろう、と。

フィガロを猛烈に勉強し、最高の奏者の方々と一緒に演奏させて頂いた今なら

この曲をどう「表現」すればいいのか、少しは分かる気が する。

 

 

一年前の自分は何にも分かっていなかった。若くて未熟で青かった。

そして一年後の自分も十年後の自分も、過去に向けて再び同じことを言うのだろう。

でも、音楽を勉強するとは、きっとそういうものだ。

 

モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」@新国立劇場

 

二日ぶりの新国立劇場、今度はモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」に行ってきました。

コジ・ファン・トゥッテ、すなわち「女はこうしたもの」というタイトルのとおり

恋愛を巡る話なのですが、プッチーニの「蝶々夫人」とは全く違う恋愛観が展開されます。

自分の彼女が浮気するか確かめてみようぜと二人のカップルが実験して、お互いが

お互いの相手に見事に浮気してしまうという、モーツァルトでなければ許されないような

軽やかな笑いに満ちたオペラ・ブッファです。今回は演出が非常にポップであったこと

もあり、現代的な感覚で最後まで楽しませて頂けました。休憩時間、コジファントゥッテの

軽やかさに身を浸しながら、昼間からキンキンに冷えた白ワインを頂く幸せ。

これだからオペラは楽しいのです。

 

楽曲自体は非常に演奏が難しいことでも有名で、なぜなら

ほとんど二重唱や三重唱、四重唱になっています。明るい曲調が多くを占めますが、

ところどころにモーツァルトならではの明るさの裏に憂いを潜めた音楽が鏤められており

大笑いしたかと思うとその直後に唐突にやってくる旋律の美しさ・儚さに息を呑む事もしばしばです。

とくに後半でピアノ協奏曲27番の2楽章がこだまする部分には感動してしまいます。

音楽はもちろん、名台詞も沢山あってここには書ききれないほどですが、モーツァルトが

このオペラに込めたメッセージはつまるところ

 

「色々うまくいかないこともあるけど、理性を持ちつつ時には感情に身を委ね、

前向きに気持ちを持って、あなたの時代や人生を楽しめ!」

 

というふうに集約されるのではないでしょうか。

思わず「そうだ!それでいいんだ!」と膝を打ちたくなるぐらい

モーツァルトのそうした考え方が僕は大好きで、意気揚々と上機嫌で

新国立劇場を後にしたのでした。コジ・ファン・トゥッテ、おすすめです。

 

 

 

 

プッチーニ「蝶々夫人」@新国立劇場

 

立花ゼミのOBとなってもうゼミにもあまり顔を出していなかったのですが、

いつの間にか「木許オペラ」なる企画を後輩が立ててくれていました。

彼は、彼が一年生のときに僕がリヒャルト・シュトラウスのオペラ「影のない女」に誘った後輩で

それ以来オペラの魅力にハマってしまったそう。そこで上級生になったいま、オペラの楽しさを

後輩たちに伝えるべく、新しくゼミに入った一年生を誘って、僕と一緒にオペラを見に行く会を企画してくれました。

 

当日、新国立劇場に向かうとなんと12人もの後輩たちが参加して下さっていて、本当にびっくり!

みんなどこか緊張した面持ちで、スーツの着こなしも一年生らしいものでしたが、かえってそれが微笑ましく

「彼・彼女たちは今から楽しんでくれるかな。終わったときどんな顔をしてこの劇場を出るのかな。」なんて

考えてしまいます。そして、簡単な解説と聞き方だけを手短に説明したあとは、みなS席(学生の特権で5000円!)へ。

おそらくはじめて来たであろう劇場の壮麗な雰囲気に圧倒される一年生たちを見ていると何だか幸せになってしまい、

開演前にそっと一人で一杯だけ飲んでしまいました。

 

あっという間に一幕、二幕。そして三幕。

舞台セットはほとんど動かず、固定したままのもの。そのかわり照明と影に工夫が見られました。

あの照明の使い方は凄く好きです。白い壁に映し出されるシルエットが何とも雄弁に物語ります。

音楽としては、一幕ではやや前に前にと突っ込む感じとフレーズの終わりの処理があっさりしているのが

少し気になった(もう少し間が欲しい!)のですが、二幕以降は迫力でぐいぐいとシナリオを進めていたように思います。

そして改めて、プッチーニはやはり旋律に溢れた作曲家だなあと感動しました。

 

一幕最後、有名な「愛の二重唱」で「小さな幸せでいいから。」と蝶々夫人が

歌い上げる場面では思わずウルッと来てしまいましたし、幸せに満ちたその音楽の中に

数年後に迫る悲劇を案じさせる、呪いの動機(ボンゾが登場したときと同じフレーズ)が一瞬顔をのぞかせる

ところにはゾッとします。そして三幕の「私から全てを奪うのね!」と内から黒い感情を溢れさせる

場面の音楽なんて、憎しみと絶望と諦めの折り混ざった、暗い情念の渦巻く旋律で、

もうプッチーニの天才と言うほか無いようなものでしょう。

 

結末は非常に残酷なもので、蝶々夫人の自害した瞬間に子供が相対してバンッと電気が落ちる

瞬間には思わず涙を零しました。結末を知っているのに泣いてしまう。結末はずっと前から暗示されているのだけど、

なかなかその結末はやってこず(音楽と演出がそれを先延ばしに先延ばしにし、時間を自由に伸縮させるのです)

それだけに最後のカタルシスは壮絶なものがあります。「ああ、いい時間を過ごしたなあ」としみじみと思いました。

 

劇場から出てみると、後輩の女の子は目を赤くしていましたし、

感想を話したくて仕方ないという様子の子もたくさん。みんな次の公演の演目を

楽しみにしているようで、パンフレットを見て「これはどんな話なんですか。」と次々に

聞いてきてくれます。「なんだ、オペラって楽しいじゃないか!」と思ってくれたなら

僕としてはこれ以上嬉しいことは無く、これからもゼミのみんなで、あるいは友達や大切な人と

誘い合わせて、歌と音楽に満ちたこの時間を楽しんでもらえたらいいなあと願うばかりです。

企画してくれた植田君、そして一緒に来てくださった皆さん、どうもありがとうございました。

 

駆け出しながら音楽に関わるものとして僕はこれからもこのオペラという総合芸術を

応援していきたいと思います。そして、いつかは自分も指揮できるようになれたらいいな。

 

24歳になりました。

 

早いものでもう24歳になってしまいました。

楽しい事も辛い事もたくさんありましたが、まずは無事に、また一つ歳を重ねられたことに安心しています。

駒場キャンパスは一年生・二年生が主体の場所ですから、僕よりも5歳ぐらい下の学生たちが沢山いるわけですが

歳を理由に自分から壁を作ることなく、いつまでも若さの中に混じって朝まで騒げるようにありたいと思っています。

変に年上ぶることなく、けれども、いざというときには24歳に恥じない大人の立ち振る舞いが出来るようになりたいものですね。

 

幸いにして僕は素敵な年上の方たちに囲まれていますから、先達の方々から色々と盗みながら

両親にも出来るだけ心配をかけないように過ごしつつ、充実した一年にしていく所存です。

 

 

「ロマンティックな理系の話をしよう。」

 

毎年(色々な意味で)話題を呼ぶ、立花ゼミの五月祭企画。

今年は後輩たちが「ロマンチック理数」なる講演会を企画しました。

以下に後輩たちが書いた宣伝文を添付します。

第一線を走る研究者の方々が講演者に並ぶ相当に魅力的な企画ですので、

僕も当日は後輩たちを手伝いに行きつつ、ロマンチックな理数の話を

存分に楽しもうと思っています。みなさま、どうぞお越し下さいませ。

 

……………..

「ロマンチックな理系の話をしよう。」

そんなところから始まったこの企画。

昨今、世の中の発展を陰で支え、力強く進展を進めている理数系。

それに対し、世の中に溢れかえっている華やかなロマンチックたち。

例えば、聖夜に舞う雪、東京タワーから眺める夜景、時の栖のイルミネーション…etc

見た目にも鮮やかでロマンチックなそうしたものに対して、

理系の話はどこか取っ付きづらく、難解なものが多かったりします。

話を聞いてもちんぷんかんぷん。それがロマンチックに?ありえない…そう思うはずです。

けれど‘ロマンチック理数’では、

そんなカタブツに見える‘理系’という分野を、華やかに飾ってみせます。

世界に誇る東大の教授陣に至るまで、彼らの手によって ‘よく分からない理系の話’を

‘ロマンチックな理系の話’へと変貌させます。

講演者の先生方は、なんと

池上高志 先生

・・・複雑系などの研究で著名。複雑系科学を芸術に応用したり、生命をシミュレーションする人工生命の研究をしたりされています。

池谷裕二 先生

・・・『進化しすぎた脳』などの著作で知られる脳科学者。脳活動によって脳に起こる変化と、それがある程度の時間とどまること(=可塑性)について研究されています。

藤田誠 先生
・・・化学者。蝶番や板のような形をした分子を設計して、混ぜるだけで(!)ミクロのジャングルジムやボールのような形をつくる研究をされています。

松田良一 先生
・・・筋肉の発生生物学の研究者。マウスの血管に色素を注入することで、筋ジストロフィーを発症した筋肉とそうでない筋肉を見分けられることを発見された先生です。

 

という超豪華ラインナップです。

29日9時~10時半、安田講堂にて!

小学生から大人まで、ロマン溢れるサイエンスの雰囲気に魅了されたい方々は

ぜひお越しください。

(ポスターのデザインに際しては、冨田伊織さま http://www.shinsekai-th.com/

の、「透明標本」という作品を使わせて頂きました。本当にありがとうございます。)

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2011年度五月祭立花ゼミ「ロマンチック理数」企画ポスター(Designed by Megumi Torii)

2011年度五月祭立花ゼミ「ロマンチック理数」企画ポスター(Designed by Megumi Torii)