指揮棒を持てるようになるまで数年かかる、と言われる。
持つだけなら簡単だけど、きちんとした持ち方があって、持ち方が出来ても今度は腕や肘の力の抜き/入れ具合が難しい。
今まで栄田さんに何百枚も撮ってもらったけど、このショットが残ったのは先日のプルチネルラ合わせ会がはじめてだった。
ようやく少しは棒が持てるようになってきたのかもしれない。

指揮棒と脱力
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指揮棒を持てるようになるまで数年かかる、と言われる。 持つだけなら簡単だけど、きちんとした持ち方があって、持ち方が出来ても今度は腕や肘の力の抜き/入れ具合が難しい。 今まで栄田さんに何百枚も撮ってもらったけど、このショットが残ったのは先日のプルチネルラ合わせ会がはじめてだった。 ようやく少しは棒が持てるようになってきたのかもしれない。
![]() 指揮棒と脱力
祈ることしかできない。僕の寿命なら一年でも二年でも差し出す。だからお願いだ、待ってくれ。 僕はまだ、あなたからベートーヴェンもブラームスも教わっていないんだ。
珍しく風邪を引いた。 38度という高熱を久しぶりに経験して、一日中ずっと家に籠っていた。
風邪を引いて布団に寝転んでいると、必ず思い出す小説がある。 「童謡」という小説がそれだ。これを初めて読んだのは確か小学二年生の頃だったと思う。 やることを全て放棄して寝転んでいると、作中に出てくる「高い熱はじき下がる。微熱はいいぞ。君は布団の国の王様になれる」 という一節が強烈に蘇るのだ。
この小説、しばらく後にはこう続く。
簡潔にしてキレのある文章。鋭いながら豊かな余韻を失わぬ筆致。 この「童謡」という作品が僕の一番好きな作家、吉行淳之介によるものであったのを知ったのは、つい最近のことだった。
2011年度の駒場祭で、チェロ・オーケストラを編成してヴィラ=ロボスのブラジル風バッハ一番を演奏致します。 ドミナントのデザインチームの皆さんが特設ページを作ってくれました。 何だか本格的過ぎて気恥ずかしくなりますが、どうぞご覧下さい。 http://ut-dominant.org/orchestra/komaba_memorial_cello_viila_lobos.html ![]() コマバ・メモリアル・チェロオーケストラ×木許裕介
明日(今日)吹奏楽指導に来て欲しいとある中学校から依頼を貰ったので、行ってくることにします。 曲はポップスメドレーのようで、そもそもポップスの曲をあまり知らない僕にはほとんど初見になってしまう気もしますが とりあえずやってみたいと思います。僕が指揮をしているオーケストラのメンバーに「一緒に来ませんか。」と声をかけたところ、 急な話にも関わらず、みなさん二つ返事で来て下さるそうで嬉しい限り。トランペット、トロンボーン、チューバ、オーボエ、フルートと 頼れる奏者のみんなを連れて伺います。吹奏楽も楽しいですね!
将来や先行きは何も見えないけれど、見えない事に怯えていては見える範囲の将来にしか進めない。 目を閉じても進めるような将来や予め見える程度の未来に進んでしまうぐらいなら、僕は生きていなくていい。 ジェットコースターが人をワクワクさせるのは傾斜を昇るまで次の景色が分からないからだし、 花火があれほど美しいのは、夜の闇を照らすからだ。
時間は等速に流れるものかもしれないけれど、時間から脱出したような感覚を稀に味わえることがある。 サッカーのキーパーをしていて横に飛ぶとき、ボウリングのバックスウィングの頂点、サーフボードが滑り出す瞬間、 そして音と音との間に身を滑り込ませるあの一瞬。共通するのはどれも、物や身体の「重さ」が無くなることだ。
「色気が無いねえ。」 指揮を始めてから、何度その言葉を師匠に言われたか分からない。 様々な曲を振ってきて形的にはある程度振れるようになってから、なおさらこの言葉を聞く機会が増えた。 色気。それは一体何なのだろうか。「色気が無い」状態は良く分かる。平坦で平板で抑揚が無く、訴えかけてくるものが無い状態。 街中を歩けば群衆の中に埋もれてしまうような存在。「色気がある」とは、群衆の中で擦れ違っても思わず振り返ってしまうような感覚だ。 アーウィン・ショウの『夏服を着た女たち』という小説を思い出す。理屈抜きに心に訴えかけてくる魅力。
「色気はどうやれば出ますか?」という無茶を承知の僕の質問に、師匠はいつも「それはもう説明できないよ。見とけ、としか言えないなあ。」 と笑いながら答えて、自ら振ることで示して下さる。ブラジル風バッハ五番の冒頭、たった一小節なのに全く違う「うねり」が見える。寄せては返す波。 その棒から出てくる音楽は確かに「色気」という言葉でしか説明できない魅力に満ちていて、息をするのも忘れて見入り、聞き入ってしまう。
色気を放つためには、どうしても余裕が必要だ。 音楽が止まるか止まらないかのところまでぐっとテンポを落として、何事も無かったのように再び澄まして歩き始める。 崖際に歩んでいったかと思うと先端で鮮やかにターンして戻ってくる。そのためには曲を手の内にすっぽり入れておかねばならない。 曲が手の中から溢れ出しているようでは色気なんて到底望むべくもない。表現や色気は余裕から生まれる。 焦らずじっくりと、年を重ねながら。くらくらするような色気を放てるような指揮者になりたい。
ストラヴィンスキーは土の匂いがする。気品のある野粗。冷静な狂い。 「春の祭典」を軸に、シャネルとストラヴィンスキーの出会いや交流を描いた本作は、そうした気品と野粗の相克に惹かれた 芸術家ふたりの物語だったと言い換えても良いだろう。ストラヴィンスキーは言う。「指先で音楽を感じないと作曲できない。」 シャネルもそこに重ねて答える。「同じね。私も指先で生地を感じないと。」
「頭の中に浮かんだ音楽を掴んで、鍵盤に投げつける」という言葉そのもののようなセックスシーン。 服を着たまま床で求め合い、重なり合う。そして次のシーンで流れてくる「春の祭典」冒頭の旋律に漂う官能! 惜しむらくはシャネルのNo.5についてのシーンが作品全体と遊離しており、単なるエピソード扱いになってしまっていること。 「香りの官能」という側面を入れようとしたのは分かるが、いっそ描かないか、それとももっとストラヴィンスキーと香りとを関わらせるか すれば良かったのではないか。Numéro Cinq.という言葉を放つシーンが格好よいだけに勿体ないなと思った。
そういえば僕は大学一年の時にシャネルの服飾について集中的に研究していた時期があった。 四年になった今、年末に控えたコンサートのため、ストラヴィンスキーの「プルチネルラ」という曲を必死に勉強している。 二人ともが惹かれ合っていたのだから、シャネルとストラヴィンスキーの両方に惹かれるのはある意味で自然なことなのかもしれない。
秋が来た。宙ぶらりんの身に秋の風は辛い。身に染みて心を揺らす。 24にもなってひとりで歩くことすら、僕には出来ない。無力。情けなさ。 夏の太陽の眩しさに目を細めて見えないフリをしていたものが、秋の訪れとともに立ちはだかる。 立ち止まった瞬間、足下にずっと昔から大きな穴が空いていた事に気付く。漫画の主人公のように落下。闇。闇。闇。あたり一面の闇。 闇を掘り返しても闇しか手に取れない。生きるのはどうしてこんなに難しいのだろう。
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