gapyear.jpさまから取材を受けました。
休学するまで、休学してから、などのことが中心になっています。
何か身のあることが言えたかは分かりませんが、この一年の日々を振り返るつもりでお話させて頂きましたので、
ぜひご一読ください。(http://gapyear.jp/archives/1082)
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gapyear.jpさまから取材を受けました。 休学するまで、休学してから、などのことが中心になっています。 何か身のあることが言えたかは分かりませんが、この一年の日々を振り返るつもりでお話させて頂きましたので、 ぜひご一読ください。(http://gapyear.jp/archives/1082)
コマバ・メモリアル・チェロオーケストラ、第一回公演の写真です。 写真は栄田康孝氏によるもの。ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ一番」を八人のチェリストと共に。
僕にとっても忘れられない時間になりました。 後ろまで人で一杯になるほど沢山の方々が聴きに来て下さっていたようで、本当にありがとうございます。 次回の演奏にもどうぞご期待ください。
![]() 演奏:コマバ・メモリアル・チェロオーケストラ 指揮:木許裕介 写真:栄田康孝 後援:ドミナント室内管弦楽団
モーツァルトの41番、「ジュピター」を勉強している。 四楽章のあの有名な「ドレファミ」というジュピター音型(モーツァルトはこの音型を自身の最初の交響曲でも用いている!) の神々しい美しさもさることながら、僕はこの二楽章を聞くたび、読むたびに心の中が掻き乱されるような思いを抱く。 楽譜を見るだけで涙が止まらなくなること、一度や二度ではない。
それはまるで舟上にいるような穏やかな陽射しに包まれた歌だ。 陽射しは燦々と注がない。雲の切れ間から柔らかく水面に反射しながら辺りを仄明るく照らす。 淡い平和、しかしその中に時折、「死」が顔を覗かせ、その冷たさに慟哭する。 モーツァルトに死が訪れるまで残り三年。この時すでに死を予感していたのか。 楽譜から、「まだ死にたくないよ、生きたいよ。」という心の奥底から溢れ出るような言葉が立ち上がってくる。 だが、その訴えはいつしかエネルギーを失い、最後には諦念が訪れる。 そして静かに死を受け入れ、空に吸い込まれ、消えゆく…。
だからジュピターを勉強しているといつも、キューブラー・ロスの『死の瞬間』という本を思い出す。 一楽章は生と大地の音楽、二楽章は緩やかな死に至る歌。 三楽章のメヌエットは地上と天上の狭間、空へと連れてゆく天使たちの遊び。 四楽章はもう人間のものではない。天空、神々の音楽。 そういうふうに、「生と死」あるいは「大地と天空」を描いた曲のように思えるのだ。
そしてまた、陽射しではないのだけれど、二楽章を考えるたびに頭の中に浮かぶ光景に近い絵がある。 個人的に思い出深く、大切な絵の一つ。フェルディナント・エーメという画家の「サレルノ湾の月夜」(1827年)と題された絵がそれだ。 ドレスデン国立美術館に所蔵されたこの絵には、「生と死」「光と闇」「空と海」のように、矛盾あるいは背中合わせの何かが同居している。 ジュピターの二楽章、Andante Cantabileが描いているのはこういう世界だと僕は思う。
![]() サレルノ湾の月夜
12月の夜。家にいるのが窮屈で、夜中にあてもなく外を歩く。 空気は澄み、風は鋭い。雲に隠れても月の光が街に届く。 コートのポケットに手を突っ込んで、マフラーに顔を埋めつつ、坂道を下る。 … 近々振る、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」のことが頭に浮かぶ。 あの二楽章には死の影が宿っている。船に揺られて歌うような淡い美しさが、突然、胸を打つ慟哭に彩られる。 何を考えてモーツァルトはこの部分を書いたのか。スコアを開けば目に飛び込んでくる休符の多さ。無音の空間。 … 沈黙と音楽について考える。 音は放たれた瞬間から減衰に向かう。それが音の宿命であり、悲しみであると同時に美しさでもある。 音楽は沈黙を埋める、一方で、沈黙へと還って行く過程を作り出す試みでもある。 だから音楽は大きく二つに分けることが出来る。ディヴェルティメントか、メディテーションか。 そして、「音楽とは結局のところ<消失>のヴァリエーションなのだ」という言葉の意味するものの深さ。
… ぐるりと歩いて戻ってくると、先程まで明かりと共にあった街は闇に沈み、家々の灯も落ちていた。 空は冷たく12月。月の影だけが空に残る。朝を静かに待ちながら。
2011年駒場祭特別演奏会として指揮した、チェロオーケストラのヴィラ=ロボスコンサートを無事に終えました。 別の公演のリハーサルに忙殺されていて、今回のコンサートの宣伝は当日の朝に学内にビラを三枚貼っただけなのですが、 開場前には長蛇の列が出来ており、また終わってみると200人近くの方々が聞きに来て下さっていました。
後から知った話ですが、駒場祭コンサートランキングの一位に公演の二日前(つまり駒場祭初日から。駒場祭は三日間行われていて、公演自体は最終日だったのです。) からずっとランクインしていたそうで、実は結構注目度が高かったのかもしれません。普段授業が開かれている教室でしたから響きはホールほどでは無かったかもしれませんが、 演奏としては今の僕に出来る限りの演奏になりました。
一楽章の終わり。地鳴りのするような深い深い音と共に、弓を離しても指揮棒を振り抜いても、ビブラートの目一杯かけられた音がその場の空気を揺らし続けていました。 そして二楽章では、沈み込むようなpppのあと、世界から人が消えてしまったのではないかと思えるような静寂を作り出し、その身を浸すことが出来たように思います。 三楽章の次々に積み重なって行くフーガを指揮しながら、「ああ、この瞬間はもう二度と来ないのだな。」と思えて、心に迫ってくるものがありました。
公演のあと、沢山の方々が感想を直接あるいはメールで下さいました。 その中の一つを、ご本人さまの許可のもと、ここに紹介させて頂きます。
その他にも、「ヴィラ=ロボスなんて知らなかったしチェロ八本のアンサンブルを聴くのは初めてだったけれど、 こんなに良い曲があるんだと感動しました」と言う感想も頂けて嬉しかったです。 僕の師はヴィラ=ロボスの音楽を日本に広げることに力を注いでいましたから、もうヴィラ=ロボスを振ることが無くなった師の 弟子として、少しでもこのブラジルの豊かな音楽を広げることが出来たとあれば、幸せここに尽きます。
一度きり、のはずでしたが、毎年やってほしいという声を沢山の方々から頂きましたので、また五月祭や来年の駒場祭でも何か チェロオーケストラでやってみるつもりです。ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」には、チェロ八本とソプラノで演奏する 「ブラジル風バッハ五番」という曲もありますから、次はそれもいいかな、なんて考えています。 聞きに来て下さった方々、本当にありがとうございました。
いよいよコマバ・メモリアル・チェロオーケストラの本番を迎えた。 わずか30分の演奏時間、場所もいつも授業で使っている教室で響きも期待出来ないとはいえ、本番は本番。 出来る限りのものを出しに行く。忙しさにかまけて広報も大してしなかったのに多くの人が興味を持って下さったようで嬉しい限り。
師匠が愛したこの曲を、同じようにして自分が取り上げて実際に演奏出来る事が幸せでならない。 ヴィラ=ロボスよ、ブラジル風バッハ一番よ。師匠の棒には遠く及ばないけれど、我々の若いエネルギーと引き換えに、 サヴダージに満ちて駒場キャンパスに朗々と響け!
音楽は楽しい。だが、音楽を楽しく出来る環境を整えることは大変だ。 指揮者はリハーサルでも本番でも、常に自分の最高の状態で指揮台に立たなくてはならないし、 譜読みの段階でも、冷静に頭を働かせ、楽譜に全エネルギーを賭して向かい合う必要がある。 だが、現実には様々な要素が僕を惑わし、揺らす。まっぴらだ。一人静かに楽譜だけ抱いて孤独の中に沈み込み、 誰にも何にも邪魔されずに没頭することが出来ればどれほど良いか。
現実が襲いかかる。けれども、何があっても冷静に、そして笑っていなければならない。 立ち止まって溜め息をつく時間はない。
Spreadという映画を観た。邦題は「愛とセックスとセレブリティ」というもの。 端的に言って、感想を書く時間が勿体ないぐらいつまらない作品だった。 セックスシーンの描写も俗だし、台詞回しも平凡、ラストの作り方も露悪的! 主役の男性(アシュトン・カッチャー)のファッションが好きなことと、途中で出て来た女優のスタイルが素晴らしかったこと以外何ら記憶に残らない。 同じセックスを描くにしても、「ベティ・ブルー」のような作品での描き方とは大違いだ。なんという単調さ!!
駒場祭三日目、11月27日に指揮するコマバ・メモリアル・チェロオーケストラの第二回リハーサルを終えた。 「チェロオーケストラ」といっても、中身はチェロ八本。オーケストラの人数には程遠い。しかし、八本のチェロの音が共鳴すると、 「オーケストラ」としか言い様のない、凄まじい深みのある音が鳴る。
演奏するヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ一番」は、チェロにとって屈指の難曲として知られ、アマチュアではちゃんと演奏するのは極めて難しいとされている。 今回のメンバーは全員アマチュア、東京大学の学生が五人、残る三人が東京外大・多摩川大学・開成高校だ。 練習回数はわずか三回しか無いが、数少ない練習時間の中で、この技巧的にも表現的にも難しい曲にがっちり挑戦してくれていて、 指揮者としても気合いが入る。そしてまた、この曲は僕の師の愛した曲でもあるから、中途半端な演奏は絶対にしたくない。 あと一回のリハーサルでどこまで形になるか、全力を尽くしてみようと思う。 それにしてもブラジル風バッハ一番、凄まじく良い曲だ。師が言っていた。「一回ずつ違うように演奏したくなるんだよね。」と。 実際にやってみた今ならその言葉の意味するところが分かる。譜面や小節がどうでも良くなるような大らかさと流れがある。 ヴィラ=ロボスの音楽、師と同じように、生涯を通して取り上げて行きたい。
Odette Toulemondeという映画を観た。 人気作家が新作を評論家にけちょんけちょんにやられ、凹んでいたところ妻に浮気され(しかもその評論家と)、絶望したところに、その作家のファン(未亡人)からの手紙が届き、 心を動かされていく、というラブストーリー。冒頭のdebtのところから爆笑させてくれるし、最後まで肩の力を抜いたまま観させてくれる一本だ。 随所に配された台詞が洒落ている。「傷つきやすいから書けるんだ。」という一言には頷かされるし、いくら売れっ子になっても大切な人に 「結局、尊敬されていないのさ!」と叫ぶところ、色々な記憶に訴えかけてくるものがある。
「何を手に入れても僕は幸せじゃない。自分じゃなくて他人の幸福を生きて来たからだ。」 「運命の人以外とは寝ないの。あなたは通りすがりの人よ。また出ていくわ。」 詳しくシナリオを書くことはしまい。オデット・トゥールモンドを演じるカトリーヌ・フローのどこまでも強くどこまでも柔らかく明るい物腰に心打たれる。 そして最後にふと気付いた。カトリーヌ・フローは母に少し似ているな、と。 そのせいか、病院に運ばれるシーンでは(こんなに単純なシナリオなのに)ちょっと涙ぐんでしまった。
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