May 2025
M T W T F S S
« May    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  

スキーを終えて。

 

随分と更新の間が空いてしまいましたが、スキーから無事に帰ってきました。

志賀高原は最高の雪。前日までに新雪が沢山積もり、僕たちがスキー場についたころには燦々と陽射しが差し込む快晴でした。

誰もいないゲレンデを見渡しながらリフトで一気に山頂まで昇り、積もりたての雪の中をカービングで一気にぶっ飛ばしていくのは

爽快以外の何物でもなく、生きていて良かったと思えるほどの心地よさです。

 

今年から、志賀高原のリフト券に一工夫が加えられ、「Skiline」というアプリと連動するようになっていました。

これに登録しておくと、リフトの改札センサー情報から一日にどれぐらいの距離/標高差を滑ったかが分かります。

ということで、ドミナントのメンバーとともに滑り倒し、部屋に戻っては滑走距離を確認し、

さらにはナイター(一の瀬のダイヤモンドゲレンデ)にも出かけてストイックに滑走距離を伸ばしていました。

 

いつもは横手山の近くに泊まって横手山から奥志賀の方に次々と移動していくのですが、今年は一の瀬の麓に宿泊したので

どちらかというと一の瀬―焼額―奥志賀、それから寺子屋などのコースをメインに滑ることに。

もちろん、ちゃんといつもの横手山にも向かって、頂上のヒュッテでロシアンティーとふわふわのパンを堪能してきました。

 

滑っていて気持ちよかったのは一の瀬のパーフェクタコース。それなりの角度がついていて、バーンも綺麗に整備されており

練習には最適でした。部屋に帰ってお風呂に入り、一度みんなで倒れて鋭気を養ってから、恒例のお酒祭り。

もはや何の連絡も回さなくとも参加者がそれぞれ思い思いのお酒を持って来ており、

「これがオススメなんだよ〜!」とワイン、日本酒、ウォッカ、焼酎が次々と…十人で十本以上のボトルを簡単に空けてしまいました。

 

 

今年もまた志賀高原で自然に遊んでもらうことが出来て幸せです。

来年も無事に、ここで風を切りながら滑る事が出来るといいな。

 

 

今年も志賀高原へ。

 

ドミナント・デザインチーム&オーケストラのメンバーと共に、今年もまた志賀高原へスキーへ行ってきます。

僕にとってスキーと言えば志賀高原で、一年に一回は必ず、山々が連なるあの雄大な景色に身を置いてみたくなるのです。

雲の上までリフトで運ばれ横手山の山頂から遠くを見渡すとき、広大な風景を臨みつつ焼額山から一気に麓まで滑り降りるとき、

「自分は今ここで確かに生きている」ということに幸せを感じずにはいられません。

 

 

サーフィンと同じく、自然に遊んでもらっているということを忘れないようにして、

気心の知れた仲間たちと共に、白銀の世界へ行ってきます。

 

 

鮮やかな静寂

 

春の気配が少しずつ忍び寄る二月の夜。

ひとりで街を歩いていたら、辛棄疾の「青玉案 元夕」という漢詩を思い出した。

 

東風夜放花千樹

更吹落星如雨

寳馬雕車香滿路

風簫聲動

玉壺光轉

一夜魚龍舞


蛾兒雪柳黃金縷,

笑語盈盈暗香去。

衆裏尋他千百度,

驀然回首

那人却在

燈火闌珊處

 

「春風が夜に限りなき光の花を咲かす。風はさらに吹き散らす。夜空の星を雨のように。」と灯籠を描写した冒頭、

「白粉の香りが道に溢れる」と続け、「密かな香りとともに去って行った多くの美女のうち、或る一人を追いかけて何度無く大通りを行き交う」

という心の揺れ動きが示されたあと、「でも見失ってしまった。がっかりして振り向く。するとその人は静かにそこに佇んでいた。灯火の届きにくい、目立たぬ暗闇に。」

 

スビト・ピアノ。こうして陰影と静寂へと一気に情景を変える。

暗闇に息を呑む。遠ざかって行った白粉の香りが、途端に鼻元に立ちこめる。

風の肌触り、揺れる灯籠の光、聞こえる喧噪、流れてくる女性の香り…。

想像力に溢れ、五感を刺激する。何という世界の豊かさ。その鮮やかな静寂に絶句する。

 

 

 

 

ささやかな幸せに寄す

 

書き散らした文章を読んで、あなたの文章が好きだと言ってくれる人がいること。

珈琲を淹れる相手がいるということ。音楽を出来る場所があるということ。

 

 

 

 

常に基礎に立ち返る。

 

ベートーヴェンの交響曲、一番・二番と終えて今日から四番に入った。

四番は僕がクラシックの世界に再び足を踏み入れるきっかけになった思い出の曲。

この曲を今こうして教わり指揮することになるなんて、当時は夢にも思わなかった。

四番のスコアを開き、神聖な序奏の部分を目にするたび、名状しがたい幸せを感じる。なんて良い曲なんだろう…。

 

 

師匠に「君なら暗譜出来るだろう。暗譜でやってごらんよ。」と言われてから、一番、二番ともに暗譜で全楽章通してきた。

暗譜の必要は決してないのだけれど、暗譜することで(言い換えれば、暗譜したと言えるぐらい勉強することで)

確かに楽譜から自由になれる。師匠はそういうことを教えようとして下さったのだな、と気付く。

もとより本を写真のように読むタイプなので、楽譜を暗譜することには抵抗を感じない。

本と同じように映像として頭の中に落とし込んで、最終的にはそれを「忘れて」指揮台に立つ。振るのは音楽であって音符でないからだ。

果たして九番まで全て暗譜で振れるかどうかは分からないが、全曲暗譜するぐらいの心づもりと気迫で臨まなければならない。

 

 

二月に入って、自分に残された時間が限られている事を知っている。

だからぐいぐいと曲を進めて行くけれど、時には自分から立ち止まり、立ち戻らなければらない。

ベートーヴェンの交響曲に入ってから楽譜研究に割く時間が多くなったぶん、

そしてベートーヴェンに必要な「力」を伝えようと苦心するぶん、基礎が乱れつつあるはずだ。

たとえば棒の持ち方、叩きの圧の入れ方。エネルギーは必要だが余計な力は必要ない。

弱拍で叩きの力を逃がしても手首を使わないことだ。文字通り「小手先」はやるべきではない。

 

指揮棒はまずもって腕の延長としての動きを為さなければならない。

常に腕でコントロールするものであって、手首は最終手段、あるいはここぞという場面で使うべきなのだ。

腕の力だけでシンプルに、自然な落下速度とその音に必要な圧をもってセンターで確実に叩く。

 

奏者がアンブシュアを鏡で確認し、スケールやロングトーンを必ず練習するように、

指揮者も鏡で棒の持ち方をきちんと確認し、各拍子の叩きとか平均運動をちゃんと練習しないといけない。

いかに色々表現しようとしていても、奏者に「伝わる」棒を振らなければ意味がない。

「音楽は深く、指揮は明解に!」という師がその生涯を通して大切にし続けている言葉の通り、

応用になればなるほど、基礎に立ち返らなければならぬ。

今日からまた寝る前の叩き100本を再開していこう。スポーツも音楽も同じ、基本がいつも大切!

 

 

 

 

 

 

The Place Where We Are Right.

 

From the place where we are right
Flowers will never grow
In the spring.

The place where we are right
Is hard and trampled
Like a yard.

But doubts and loves
Dig up the world
Like a mole, a plow.
And a whisper will be heard in the place
Where the ruined
House once stood.

 

 

 

J'ai simplement voulu dire…

 

おべっかでも政治力でも焦りでもない。そこにあるのは敬意だけだ。

 

Beethoven Sym No.2 -2nd movement

 

ベートーヴェンの交響曲のレッスンに入り、はやくも一番を終えて二番に取り組んでいる。

この曲の二楽章が僕は心から大好きで、ベートーヴェンのあらゆる交響曲の二楽章の中でも特別な思いを抱いている。

 

Larghettoという「モーツァルトが最高に美しい緩徐楽章のためにとっておいたテンポ」で描かれるこの音楽は、

あのベルリオーズが「若干の憂鬱な響きがあるにしても、ほとんど曇ることのないような純粋無垢な幸福な描写だ」と

書き残したように、まるで夏の夕暮れに広い景色を前にして歌い上げるような幸せに満ちている。

いつしか陽は沈み、雲がやってきて温かい雨を大地に降らす。

けれども朝には雨は上がり、穏やかに昇る太陽が草木の上に零れた滴を照らすだろう。

夏の朝、生命力に満ちて世界が輝く。

 

 

ランボーの『イリュミナシオン』に所収されたL’aubeという詩を思い出す。

 

J’ai embrassé l’aube d’été.

Rien ne bougeait encore au front des palais.

L’eau était morte.  Les camps d’ombres ne quittaient pas la route du bois.

J’ai marché, réveillant les haleines vives et tièdes, et les pierreries regardèrent, et les ailes se levèrent sans bruit.

 

僕は夏の黎明を抱きしめた。

宮閣の奥ではまだ何物も動かなかった。

水は死んでいた。陰の畑は森の道を離れなかった。

僕は歩いた、鮮やかな暖かい呼吸を呼びさましながら。

すると宝石たちが目をみはった。そして翼が音なく起きいでた。……..

(「黎明」 訳は岩波文庫、堀口大學によるもの)

 

 

あるいは、同じくランボーのSensationを。

 

Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers,

Picoté par les blés, fouler l’herbe menue :

Rêveur, j’en sentirai la fraîcheur à mes pieds.

Je laisserai le vent baigner ma tête nue.

Je ne parlerai pas, je ne penserai rien,

Mais l’amour infini me montera dans l’âme ;

Et j’irai loin, bien loin, comme un bohémien,

Par la Nature, heureux- comme avec une femme.

 

蒼き夏の夜や

麦の香に酔ひ野草をふみて

こみちを行かば

心はゆめみ、 我足さわやかに

わがあらはある額、

吹く風に浴みすべし。

 

われ語らず、 われ思はず、

われたゞ限りなき愛  魂の底に湧出るを覚ゆべし。

宿なき人の如く

いや遠くわれ歩まん。

恋人と行く如く心うれしく

「自然」と共にわれは歩まん。

(永井荷風の訳による。「感覚」や「感触」と訳される事の多いこの詩を、永井荷風は「そゞろあるき」と訳した。)

 

 

 

 

 

 


生まれ出ようとする者は。

 

 

Der Vogel kämpft sich aus dem Ei. Das Ei ist die Welt. Wer geboren werden will, muß eine Welt zerstören.

(鳥は卵の殻を破り出ようともがく。卵は世界だ。生まれ出ようとする者は 1 つの世界を壊さなくてはならない。)

Demian, die Geschichte von Emil Sinclairs Jugend   -H.Hesse

 

 

名前のない方角へ

 

休学の期間が終わりつつある。

大学に復帰することを考えながら、ふと自分の年齢に思いを馳せる。

24。いつの間にかこんな年齢になってしまった。

 

さあ、僕は僕の人生をどうしよう。お金はなく、年齢的な猶予もあまり残されていない。

24、とっくに就職していても良い年齢で、結婚していても良いぐらいの年齢だ。

みなが仕事や研究に取り組む中で僕のやっていることといったら?それで良いのか?

ヴァレリーの言葉の通りに、全能感と無力感が交互にやってきて自分を揺さぶる。

 

 

その頃私は二十歳で、思想が強大な力を持っていることを信じていた。

そして自分が存在していると同時に存在していないのを感じることで奇妙な工合に苦しん でいた。

ときに私には何でもできるように思われ、その自信は何らかの問題に当面するや否や失われて、

実際の場合における私のかかる無能さは私を絶望に陥らせるのだった。

私は陰鬱で、浮薄であり、外見は与しやすく、それでいて頑固で軽蔑するときには極端に軽蔑し、

また感動するときは無条件で感動し、何事によらず容易に印象を受け、

しかも誰にも私の意見をかえさせることはできないのだった。

 

いつだって最後には「将来なんてなんとでもなる」「それで良い」という肯定の言葉が沸き上がってくる。

根拠の全くない自信。言い換えれば「適当な」自信。両親には心配と迷惑をかけっぱなしで申し訳ないけれども、

考えてみれば、いつだって自分のこの適当な自信に支えられて歩いてきた。

適当かもしれないけれど「ふつう」の道から外れることを僕は自分で選択したし、打ち込みたいもの、

自分が価値を見出したものに対して真直ぐ歩いて来たつもりだ。


最後の最後まで、先の見えそうな方向には進まない。

きっとなんとかなる。だから、いまだ名前の無い方角へ。