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100人のオーケストラ

 

大学生活最後に、100人規模のオーケストラを指揮しました。

東北でご一緒させて頂いたオーケストラ・コモドが主催するチャリティーコンサート(入場料を被災地に全額寄付。30万円の寄付が集まったそうです)

に再びお声かけ頂いて、ホルストの「木星」やサウンド・オブ・ミュージックメドレーなど、ポップス&クラシックステージを指揮させて頂きました。

明るい曲を中心としたコンサートでしたが、主催者の方にお願いして、アンコールにはプッチーニのCrisantemi「菊の花」と、

東北でも演奏したYou raise me up(フル・オーケストラ編曲版)を演奏させて頂きました。

プッチーニの「菊」は、あるパトロンの死に際して書かれた曲で、ヨーロッパではしばしば追悼曲として演奏されます。

この曲に出会ったのは東北へ行く直前。そのときはこの曲がまだ良く分からなかったのだけれども、

東北の震災の傷跡深く残る光景を目の当たりにして、そして理不尽に訪れる「死」というものを考えるにつれ、

この曲が語ろうとする思いを痛いほどに感じるようになりました。

死は唐突に訪れる。なぜ死ななければならなかったのだ、というやるせなさ。

怒り。死を認めたくないという否定の気持ち。絶望。寂しさ。

そして死を悼む心…わずか数分の中に嵐のような感情が渦巻いていることに気付き、涙が止まらなくなりました。

 

東北から帰ってから半年の間、ずっとこの曲を勉強し続けていました。

そして、この曲を勉強するたびにある景色を思い出さずにはいられませんでした。

それは東北で見た、海に背中を向けて寂しげに咲く向日葵と、ひび割れた大地に置き去りにされた泥だらけの上靴。

あえて言葉にすることはしませんでしたが、3月22日のコンサートでは、被災された方々に、そして上靴の持ち主だった少女に、

半年間抱き続けた追悼の思いを全身全霊に込めてこの「菊」を指揮したつもりです。

第二主題に入る前に長くとったゲネラル・パウゼの静けさの中で客席からすすり泣きが聞こえて、手が震えたのを今でもありありと覚えています。

音楽に何が出来るのかは分からないし、もしかしたら無力なものなのかもしれないけれど、あの日・あの瞬間に

少しでも心から心へ届くものがあったならば、これ以上の幸せはありません。

ご一緒して下さった奏者の皆様、そして遠くまで足をお運び頂いた皆様、本当にありがとうございました。

 

Commodo 2013

Commodo 2013

 

 

 

リハーサル見学

 

尊敬するヴァイオリニストの方が主催する弦楽合奏団のリハーサルを見学させて頂く機会に恵まれた。

エルガー、レスピーギ、チャイコフスキー。エルガーを除いてどちらも本番で指揮したことのある曲だ。

自分のものとしておきたいので敢えて細かくは書かないが、勉強になったという一言では到底尽くせないほど充実した時間だった。

ヴァイオリンの弓はこんなに豊かに使うことが出来て、楽器はこんなふうに鳴らす事ができるのだ。

音楽の全体的なイメージを共有した上で奏法に変換していく。その手際の良さとバリエーションの豊かさ。

会話をするときの和やかな雰囲気と弾き始めてからの獲物に飛びかからんばかりの緊張感と激しさ。

どこまでもストイックで誰よりも謙虚。プロ中のプロ、とはこういう人のことを言うのだと思う。

一度共演させて頂いただけなのに僕のことを覚えていて下さって、固く握手して下さったのが何よりも嬉しかった。

 

色々なオーケストラで指揮させて頂くようになったからこそ、現場ならではの問題に直面し始めている。

どうやったら上手く伝わるのか。どうやれば音楽を効率よく、具体的に作って行けるのか。

師のレッスンを一回一回大切にしながら、今年は沢山リハーサルを見学して音楽の作り方を「盗む」一年にしたい。

 

 

寄稿:JGAPさま

 

日本ギャップイヤー推進機構協会さま(JGAP)よりお話を頂いて、短い文章を寄稿させて頂きました。

2013年度春より、東京大学でも試験的な意味合いを兼ねて30人ほど選抜でギャップイヤーを取得させる試みが成されるようです。

僕としては、東京大学特有のシステムである進学振り分け決定のち、すなわち二年生から三年生へ上がる間の一年で

ギャップイヤーを与えるのが一番効果的ではないかと思っているのですが、この原稿ではそうした事はさておき、

「ギャップイヤー~自分に”やすり”をかける時間」と題して、僕が過ごした休学の一年間を簡潔に纏めつつ、

それがどういう意味合いを持ったかを短く振り返ってみました。こちらからお読み頂く事が出来ます。

 

 

句読点でritをかける。

 

ある短い原稿を書いていた。

どうしても納得いかなかったものが句読点を2つ動かしただけで、もうこれ以上動かせない満足な仕上がりになった。

長いフレーズを作っておき、最後に向けて徐々に読点を増やして行くことで文章のリズムにリタルダンドをかけてゆく。

それだけで終わりの気配が漂い始める。音楽と同じことだ。

 

 

輝く原点、子供の情景

 

 

昨夜の後輩のレッスンで、久しぶりにシューマンの「子供の情景」を聞いた。

「子供の情景」は我々の指揮法教室で必ず経験する曲で、ここからようやく「音楽」することを教わるといっても過言ではないだろう。

それだけにこの曲集は特別なのだ。僕が教わったときもそうだったけれど、指揮という芸術はこんなことが出来るのか、と感動せざるを得ない。

87歳となった師がこの曲をどう教えるのか出来るだけ近いところで見ていたくて、師の横で譜めくりをしながらレッスンを見ていた。

 

最初から最後まで、溢れてくる涙を止めるのに必死だった。

あと何回、師の指揮するこの音楽を聞く事が出来るのだろう。第一曲目のVon fremden Ländern und Menschen(見知らぬ国々と人々について)を

振りながら、「目にするもの全てが見知らぬもの、目新しいもの。そんな地に足を踏み入れた子供はどう思う?」と語る師を、あるいは

第二曲目のKuriose Geschichte(珍しいお話)で「君の振っている音楽だと珍しくないねえ。もっと珍しくしてごらんよ」と笑う師を、あと何度見る事が出来るのだろう。

そして第四曲目のBittendes Kind(おねだり)を愛おしそうに紡いで行く皺の刻まれた師の大きな手。

音が包まれていくように、あるべき場所にあるべきスピードと情緒でふわりと到着するのを霞む目で見ながら、今まで過ごして来た時間を振り返った。

 

この曲集を教わってからもう三年が経つ。

ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルザーク…たくさんの曲を、そして巨大な曲を振るようになるにつれ、

自分の手から溢れてしまう苦しさや、リハーサルで上手く音楽を作れなかった悔しさを味わった。

どうして僕は指揮をしているのだろう、と自問したことも何度もあった。

けれどもやはり。音楽を、指揮をすることは感動的で、楽しくて、温かい。

指揮という営みの楽しさと限りない可能性。「子供の情景」は、そのことを痛切に味合わせてくれる。

 

おそらく何十年先になっても、子供の情景は僕にとって立ち返るべき原点としてあり続けるだろう。

棒の一振りで音楽が息づき、色とりどりの宝石のように輝き始める。

夢見るようなロマンを湛えて詩人が語る。

全てはここから始まったし、全てはここにあった。

 

 

学問の師に出会う/大学院へ

 

この人にずっと教わりたい、という「師匠」のような存在に、学問でも音楽でもスポーツでも巡り会う事が出来たというのは

たぶんこれ以上ない幸せなのだろうと思う。それはただ技量や実力を盗みたくて側にいようと思う存在のことではない。

知性や感性はもちろん、佇まいから趣味まで含めて、感動し、憧れる存在のことだ。

スポーツ(ボウリング)の師に僕は17歳で巡り会った。そして音楽の師に22歳で巡り会った。

そしていま、理性と直感の二つで「この人だ!」と思えるような学問上の師に、学部時代の最後になって出会うことが出来た。

だから僕は、働くことを少し後回しにして、大学院へと進学する事を決めた。

 

学部時代の所属である東京大学の教養学部地域文化研究学科フランス分科は卒論をフランス語で書かねばならないという

非常にハードな場所だったけれど、そこで得たものは大きく、また適度に放し飼いにしてくれる姿勢が僕に取っては居心地が良いものだった。

けれどもあえてその場所を飛び出し、巡り会った先生がいらっしゃる東京大学大学院の比較文学比較文化専攻へと歩みを移そうと試みた。

(ちなみに、尊敬する学者であり、フランス科へ進学することを決定づけた金森修先生は

同じくフランス科から大学院で比較文化へと進学されている。はからずもこうして偉大な先生の跡を辿ることになった。)

 

今日ようやく合格発表を終えた。そうして、正式にこの大学院進学が決定した。

きちんとした名称は東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻比較文学比較文化分野。

長すぎて覚えられないほどだが、とにかく春からもまた相変わらず駒場で勉強する事になった。

専門は19世紀末周辺の比較芸術、あるいはフランスを中心とした文化史ということになるだろう。

卒論でも取り組んだ「光」を切り口に、世紀末の音楽や絵画、文学や詩を比較横断して、ある種の感性史に取り組む。

指揮活動(ある意味で比較芸術そのもの!)とも連続性を持てる研究領域なので、学問と音楽とを上手く触発させていきたい。

そして、長く駒場にいるからこそ、駒場という場所を充実させていきたいと思う。

 

蛇足かもしれないが今の一つの夢を書き残しておこう。

それは緑豊かな駒場キャンパスで、解説や論考と共に、曲のもとになったハルトマンの絵を展示しつつ、

ムソルグスキー作曲/ラヴェル編曲の「展覧会の絵」を演奏することだ。

音楽と絵画が響きあって生まれるイマージュの交感の探求と実践!

 

 

 

 

ホルスト、チャイコフスキー、モーツァルト

 

ここ数日はリハーサルでホルストの組曲「惑星」より「木星」を、レッスンではチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」に加えて

モーツァルトの35番「ハフナー」を指揮していました。

 

アンサンブル・コモドさんとの「木星」初リハーサル。

未熟ながらも指揮という行為に携っていて良かったなあ、と心震える瞬間が時々訪れるけれども、「木星」のあの有名な主題は、まさにそうした時間でした。

倍管編成で100人近い巨大オーケストラがユニゾンで歌い上げ、はじめて会った演奏者たちの気迫や魂が共鳴して一つになっていく感覚。

それは言葉に尽くしがたい幸せで、同時に、他の何物にも代え難い喜びでもあります。

ホルストの「木星」はテンポや楽想の変化が激しく、音符上も非常に技巧的な曲ではありますが、初回二時間のリハーサルでひとまず通るようになり

大枠が出来たので、これから細部をしっかり詰めて行こうと思います。また次回が楽しみです。

 

 

一方でレッスンにて取り組んでいたチャイコフスキーとモーツァルト。

チャイコフスキーの弦楽セレナーデはモーツァルトへのオマージュとして書かれた作品で、本番でも演奏したことがある曲ですが、

何度やってもまだ師匠が要求して下さる音を出す事が出来ません。

「君の演奏では燃えていない。ボヤに過ぎない。チャイコフスキーはそんなもんじゃない。ぐいぐいと進んで行くエネルギーに溢れている!」

「突っ走るな!もっと折り目正しく、じっくり、たっぷり、焦らずに弦を目一杯満足に弾かせなければ!」

ぐいぐいと進むエネルギーを漲らせつつ、それでいて焦らず、たっぷり演奏すること。

これを矛盾なく共存させることを身につけなければなりません。

« I wrote from inner compulsion. This is a piece from the heart… »

(Серенаду же, напротив, я сочинил по внутреннему побуждению. Это вещь прочувствованная…)

これはチャイコフスキーがパトロンであったメック夫人に対して弦楽セレナーデについて書き送った言葉ですが、

この「inner compulsion内的衝動」とモーツァルトへの敬愛と模倣の要素のバランスをどのようにして取るのか、ということは

先程の師の言葉とも響きあう問題のように思われます。

そもそも、チャイコフスキーの「音」が一体どういうもので、チャイコフスキーを振るときのテンションの持って行き方がどういうものであるか、

それを僕はまだ全然理解していないし、そういえば「ロシア」というものについて何ら知らないのだということを痛感するばかりです。

 

 

さらにモーツァルトの35番。

ホルストの巨大スコアを見たあとにモーツァルトの35番のような「小さな」スコアを見ると、その簡素な美しさと磨かれた奥行きに目眩がするほど。

ベートーヴェン(2012年の間に交響曲を1番からずっと教わっていました)は音楽を動かすのにある種のエネルギーやテンションを必要としました。

モーツァルトは全く違います。気をつけないとこちらが勝手に動かされ、天才の掌で転がされてしまう。

一気呵成ではだめ、大袈裟な変化をつけてもあざとい。駆け足に流れず、しかし躍動を失ってはならない。

振り向かせようと一生懸命になると逃げられる。じゃあ、と様子見するとたちまち流れ去る。

モーツァルトの音楽には罠がある、という言葉を誰かが残していたと思いますが、久しぶりにモーツァルトを振ってそのことを強く感じました。

極めてシンプルな楽譜なのに・だからこそ、僕の今の棒では音色の引き出しもニュアンスもカラーも全然足りていないよということを突きつけてくれます。

その最小限で最大限の音楽ゆえに、モーツァルトを指揮するのはやっぱり飛び抜けて難しい。もっともっと勉強せねば!

 

 

 

 

 

 

音楽は天を穿つ

 

東北で指揮させて頂いたオーケストラから再びお声をかけて頂いて、3月の東京チャリティーコンサートでまたご一緒させて頂くことになった。

100人近くいらっしゃるオーケストラを振ったのはこれが初めて。普段指揮しているドミナント室内管弦楽団(最大でも5プルト)とのサイズの違いに少し戸惑う。

指揮者用の椅子に座って、金管楽器の方々が随分遠くにいるものだなあと驚いた。

人数の問題ではないが、これだけ多くの人たちの時間や身体を預かっているのだな、と思うと改めて身が引き締まる思いがした。

至らない所も沢山あったと思うけど、その都度その都度出来る限りのことを濃密にしたい。大きな編成も受け止められるように視野と懐を広くしよう。

 
Sound of Musicメドレーの最終曲を振りながら、指揮という営みに関わる事が出来て良かったなと思うと同時に、

ボードレールの「音楽は天を穿つ」(La Musique creuse le ciel)という言葉がよぎった。

例えばG線の深い音が手元に膨れ上がって来るあのコーダを指揮している時よりも、あるいはブラジル風バッハ第四番の

音に感情が宿って凝縮し抜けてゆく「あの」瞬間よりも幸せな時間があるだろうか。

今まで生きてきた時間は短いものだとは言え、25歳の僕は、それ以上に幸せで心震える時間をまだ知らない。

 

二月がはじまる。

天を穿つような音楽を引き出せることを目指して、また虚心に学ぶのみ。

 

 

 

 

ネオ・インスタント

 

二十五歳学生独身、特技はインスタントラーメンの限界に挑戦することです。こんばんは。

醤油味のインスタントラーメンを美味しく作る方法を発見したので記録しておきます。

鍋に湯を沸かします→鰹節を大量に投入します→麺を入れて茹でます

→あとは普段通りに、茹で汁でインスタントラーメンのタレを溶いて麺をよそいます

→これでインスタントラーメンにコクが出て、一気にランクアップ!!卵、葱、海苔を入れるとなお良し。

たぶんこの流れで行くと、最初に昆布や煮干しでダシを取ったりしても美味しくなる予感がします。

それはもはや「インスタント」の意味を為していない、という指摘は受け付けません。以上です。

 

 

グリーグと「茶弦」リハーサル

 

一緒に演奏して下さったことのある奏者たちが何人か所属されている、お茶の水管弦楽団の室内楽コンサート「茶弦」の

リハーサルに遊びに行ってきました。学生指揮でグリーグの弦楽アンサンブル曲「ホルベアの時代より」をやるそうで、

その指揮を少し見てほしいという話を頂いた事からお邪魔する事になりました。

僕のような駆け出しの棒振り見習いを温かく迎えて下さり嬉しかったです。

 

グリーグのこの曲は、指揮を習い始めて一年少しした時に振ったことがあるのですが、指揮のアドバイスをするにあたって

そのときのスコアを引っ張りだしてきたものの、スコアの書き込みを見ただけで当時の自分が何にも分かっていなかったことが

痛いぐらい分かりました。棒の技術的な問題が伴わなかったのはもちろん、この曲に宿っている「霊感」としか言い様のない

雰囲気や音色を何にも掴めていなかった。

あるいはサラバンドがどういう踊りであるか、グリーグのアーティキュレーションがどんな意味を持つかということも。

もちろんそれは今も不足したままですが、少なくとも以前より見えるものは増えたし、

自分が何にも分かっていなかったことを分かることは出来るようになっていました。音楽に完成や完璧という次元が無い以上、

こうした無知を知る経験を重ねていくしかないのでしょうし、過去の自分に「ぜんぜんダメだ!」と言えなくなったら、それはある意味で

成長が止まったという事なのかもしれません。そうならないよう、常に至らなさに気付き、至らなさと向かい合って行きたいものです。

 

リハーサルでは、指揮をする上での基本的な(しかし重要な)いくつかのアドバイス

- 不必要な動きを削ること、予備運動で音が決まっているということ、音を受ける間を作ってあげることなど -

と、パート間のバランス、それからアーティキュレーションの意味についてなど、チェロパートの中に一緒に入らせてもらいつつ

要所要所で思う所を伝えさせて頂きました。(ただし、彼らの作ってきた音楽の邪魔をしないよう、彼らの考えるテンポやイメージに出来る限り添うような形で)

それにしてもちょっとした意識の持ちようで音楽に流れが出てくるのだから、音楽は不思議なものですね。

こうして自分が指揮することなくリハーサルに参加しているというのは物凄く得るものが大きくて、弾かずに-振らずに後ろから見ていると、

今、何が問題で何がどうなっているのかということが良く分かります。たぶん今回のリハーサルで一番勉強させて頂いたのは僕でしょう。

僅か一回のリハーサルでどれぐらい力になれたかは分かりませんが、とにかくお声をかけて頂いて有り難かったです。

今日のような、アンサンブルを練り上げていくためにはどういう道のりを辿り・作れば良いかという勉強も今年は沢山重ねていきたいと思います。

 

練習後は団員の方々にお誘い頂いて飲み会にご一緒することに。

行きつけだというそのお店は中々シブい立ち呑み屋さん。あんまりにも楽しくて、皆さんと思わず終電近くまで音楽トークに華を咲かせ、

マーラー九番いいですよね!とホルンの方と固く握手をして電車に乗ったりと、新しい出会いとともに幸せな時間を過ごさせて頂きました。

第二回「茶弦」、1月20日に紀尾井ホールの小ホールだそうです。グリーグの他にも魅力的な曲が満載のコンサート、素敵なステージになりますように!