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チャイコフスキーの五番とシベリウスの七番

 

 

東北でのコンサートから帰ってきて以来、ずっとチャイコフスキーの五番とシベリウスの七番を勉強している。

チャイコフスキーの五番は壮絶だ。楽譜を読んでいるだけで色々な感情が湧き上がってくるし、冷房の効いた部屋ですら汗をかいているような錯覚に陥る。

「名曲は多様な解釈に耐える」そんな言葉を聞いた事があるけれど、確かにそうなのかもしれないなと思う。

勉強するたび、振るたびに新しい発見や可能性を見せてくれる。

 

一方で、シベリウスの七番は当たり前だけど全く違う世界だ。

温かさと冷たさ、情景と論理が絡み合った精密な織物のようだ。「孤高」と呼ばれるほど近寄りがたい造形美を持ち、荘厳であり、祈りすら感ずる。

もし僕がヴィオラを弾けたならこの音楽の22小節目からを弾きたいと思うし、トロンボーンが吹けたなら60小節目からのAino-Themeを(そしてその再現を)吹きたい。

もちろん他にも弾いてみたい曲はあるけれど、そう思ってしまうほどにこの曲は凄い。

あらゆる要素が「折り畳まれて」含まれていて、各箇所が別の場所と緊密に結びついている。

二分の三拍子ならではの巨大さ、六度のローテーションモティーフ、二度の多用、Gに行きたくても行けない苦しみ…

細かく見るのはもちろん、目を離して大きく見てみれば、細かさが細かさと響きあって拡大する、入れ子のような関係性に気付いて更に驚愕する。

シベリウスかあ…と思っていた数ヶ月前の自分はどこにいったのやら、寝ても覚めてもこの音楽が頭から離れない。

本番は来年。まだ理解するには遥かに遠い曲だけれど、26歳でこの曲に出会えたことを幸せに思う。

 

背中を向けて咲く向日葵に。

 

昨年度にお声掛け頂いて以来、指揮をさせて頂いているアンサンブル・コモドさんと今年もまた東北へ演奏旅行に行ってきました。

昨年の演奏旅行から帰ってきたとき、僕はこんなことを書いています。

 

…2012.8.28

実際に現地を訪れてみると込み上げてくるものは祈りの感情で、津波の被害を受けた海岸沿いの地を静かに歩いているうちに

歩みを進めることが出来ないほど痛切な感情に襲われました。東北を回っている間に書きつけた文章の一部をここに掲載しておきます。

 

空は青く、雲は既に秋の軽やかさを見せていた。

海の音が迫ってくる。眼前には何もない。そう、一年前までそこにあったであろう物が何もない。

見渡す限り、無。ただ海だけがある。振り返っても背後は山まで一望できてしまう。悲痛な景色。

 

山から伸びる雲が海と繋がろうとしている。

大地はひび割れ、家であっただろう場所、線路であったはずの場所に草が生い繁る。

海から吹き付ける風に黄色が揺れる。向日葵が海に背中を向けて咲いていた。

波の音。どこまでも静かな景色、喪失の静けさ。

草地の中に残された泥まみれの上履きが残酷だった。

 

 

 

心から心へ届くように、あらん限りの祈りを。

アンコールとして演奏したyou raise me up、そしてsound of musicメドレーの

deep feelingと記された最終変奏にはとりわけそうした想いを、言葉を込めたつもりです。

全三公演、演奏した先々で涙を流しながら聞いて下さった方々が沢山いらっしゃったということを後から知りました。

音楽に何が出来るのかは今もって分からないけれども、少しでも心に届くものがあったならば…。

お聞き下さった方々、そして一緒に演奏して下さった皆さん、本当にありがとうございました。

 

 

あのときから気持ちは全く変わりません。

復興はいまだ遅々として進まない部分もあり、けれども一年前より少し変わりつつある現地の状況と雰囲気を確かに肌に感じて、

暗い顔をしないようにと前へ歩き出せるような明るい気持ちで臨みました。そして今年もまた、今の僕に出来る限りの心を込めて演奏してきました。

昨年も演奏させて頂いた介護施設で「ふるさと」を演奏したとき、皆さんが自然と合唱してくださった様子が焼き付いています。

僕自身、なぜか涙が溢れてくるのを抑えることが出来ず、そのあとに指揮した曲の気持ちで膨らませた最後の和音を振り抜きながら、

ボードレールの「音楽は天を穿つ」という言葉を思い出さずにはいられませんでした。

つたないながらも音楽に関わっていてよかった。

 

最後のアンコールを振り始める前、一年前の最終日のことを思い出しながら、

このメンバーと演奏できるのはこれが最後になるんだな、と少し寂しい思いになり ました。

充実した三日間だったと思うと同時に、まだまだ演奏したりない、皆さんともっと音楽したかったなという思いも込み上げて来て…。

晴れやかな顔 で高らかに歌い上げ、一つ一つの音を慈しむように吹いて下さっていたあの光景を忘れる事は一生ないと思います。

ご一緒して下さったみなさん、本当にありがとうございました。

 

commodo2013

commodo2013:最終日の夜に、宿泊していた宿のお客様とスタッフの方々をご招待させて頂いて旅館でミニ・コンサートを開催した際の写真です。

 

 

 

 

六日間の帰省

 

少しのあいだ、関西に戻っていました。

卒論・卒業式・大学院試験・コンサートと修羅場が続いていて昨年の冬には帰省出来なかったため、一年ぶりの帰省となりました。

 

<帰省一日目>

諸々やることに追われて15時にようやく新幹線に飛び乗る。

新幹線に乗ってドキドキしなくなったとき、大人になったなと思うとともに、何か大切なものを一つ失ってしまったような感覚になった。

夜は小学校のプチ同窓会、その前にヴァイオリン協奏曲のソリストと打ち合わせ。

ご縁を頂いて指揮することになったオーケストラ・アフェットゥオーソで、シベリウスのヴァイオリン協奏曲を演奏することになりました。

ソリストは小学校の同級生でヴァイオリニストの白小路紗季さん。まさか小学校の友人とコンチェルトをやることになるなんて想像もしなかった。

彼女がドイツに発ってしまう前に、今の時点で僕が勉強したことをポケットスコアに書き込んで渡しておく…。

いずれも大変な曲(交響曲七番に至っては譜読みが過去最高に大変!)ですが、一年間じっくり修行を積んで、出来る限りの演奏をしたいと思います。

【オーケストラ・アフェットゥオーソ 設立記念特別演奏会】
2014年8月17日(日)
於:神奈川県立音楽堂
13:30開場、14:00開演、16:00終演予定
指揮:木許裕介 / ヴァイオリン:白小路紗季

 

同窓会では十五年ぶりに会う友人たちとボトルを四本空け、ほろ酔いで帰宅。

あのメンバーと、お酒を傾けながらゆっくり話せる日がやってくるとは思わなかった!

 

 

<帰省二日目>

出版社の友人と京都で過ごす夜。白ワインをカラフェで頂き連載の打ち合わせをしたあと、

御所南のカフェ・モンタージュにて劇団地点の「近現代語」を観劇。これが素晴らしく面白かった!

狙い澄まされつつ、即興的に作り上げられて行くフーガ。観劇しながら 頭の中で楽譜が生成されていく感覚は初めてだった。

何より、終戦記念日の今日に会えてこの演劇に誘ってくれた友人のセンスに悔しくなるほど感動。参りまし た。

終演後、主催の方が振る舞って下さったワインを頂きながら、その場で紹介して頂いた京都大学の方々とゆっくりお話させて頂く。

京都-東京と離れていても初対面でも、たいてい誰か共通の知り合いがいて繋がるものだ。

興奮冷めやらぬまま更にもう一件寄って飲み、名残惜しくも終電で帰路。幸せな時間をありがとう!

 

 

<帰省三日目>

朝からカイユボットとドガに関する論考を書き進める。

調べて行くうちに、同じ学科の友 人が専門にしているフェルナン・クノップフとドガの関係をはじめて知った。

書くのに飽きたら譜読み→メール対応→ピアノ→犬→原稿とローテーションしているうちに夜。

机の前からほとんど動かない引き籠りデーだったが、年内の本番の予定がひとつ決定して嬉しい。

コマバ・メモリアル・チェロオーケストラ2014年度演奏会は丸ノ内KITTE内インターメディアテクで11月30日の15時から、ということになりました。

今年もまた友人のチェリストたちとヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ一番」を演奏致します。

 

夜中は譜読み。ほぼ毎日シベリウスの七番の譜読みをしているけれど、今日になって突然、身体にすっと入ってくるよう になった。

最初にスコアを見たときは意味不明、無い頭を絞ってアナリーゼしても白目、という感じだったのに、

大きな「流れ」のようなものが僅かながら把握出来てくると全てが自然で必然に思えてくる。

寝る前にはボードレールのLe Spleen de Parisを読み進める。この散文集がとても好きで、旅行するたびに持ち歩いてしまう。

 

 

<帰省四日目>

早朝、夢の中で、シベリウス七番のある箇所について唐突にその意味を理解した気がして飛び起きる。

限りなく清冽で、しかし同時に抱えている激しい孤独と苦しみ。それが正しいかどうかは誰にも分からないけれど。

 

午後は母校へ、毎年恒例の歴代生徒会関係者会議。灘の校舎が随分と様変わりしていて驚く。

水泳部から独立して「プールサイド同好会」(プールサイドに更なる価値を見出す集まり)が出来たということと、

実は昔から「シャワー部」なるものも非公式に存在していたのだという嘘か本当か分からない話を聞いて爆笑!灘らしいユーモアだなと思う。

会議では僕の時代には考えようも無かったアイデアの数々に触れることが出来て大いに刺激を受けた。

セッティングして下さった後輩の皆さん、ありがとうございました。

たくさんの後輩たちと話し、曇りなき目の数々に突き刺されながら、ボードレールの『悪の華』第百番目の詩の二十一行目、

Que pourrais-je répondre à cette âme pieuse?という一文をずっと反芻していた。

ここに居たころから十年後の自分がこんな風になっているなんて想像もつかなかったし、今から十年後の自分 もやはり想像がつかない。

でも、きっとそれで良いのだろう。

 

 

<帰省五日目>

朝、ポール・ヴァレリーの切れ味鋭い文章に接する。

「写真によって眼は、見るべきものを待ってからそれを見るように習慣づけられた。

つまり、眼は写真の出現以前にはよく見えていたが、存在しないものを見ないように写真から教えられたわけである。」

 

そのあと、医師になった高校時代の友人と地元でランチ。医療や手術の様々な話を聞かせて頂く。

違う分野の話を 聞くのはいつも面白い。上手く言えないけれども、彼の言葉の端々から溢れてくる情熱のようなものに感動してしまった。

お互い良い仕事を出来るようになりた いね、と笑って別れる。本当にそう思う。

昼、浪人中以来ずっと御世話になっている三宮の珈琲屋さんにご挨拶へ。

珈琲の美味しさや奥深さを教えて下さったのはこのマスターご夫妻。コロンビア、モカ、パナマと豆を頂き、近況報告とともに

「しあさってから宮城、来年はフィリピン に振りに行きます」と伝えたら、「これなら持っていけるでしょう」と絶品のドリップパックを沢山くださった。

その温かいお心遣いに感涙。焙煎したての豆をスーツケースに詰めて東京へ戻る準備。

 

 

<帰省六日目>

夢の中で凄い景色を見た。

風の強い日、そろそろ帰ろうかと言った浜辺。夕暮れの海。海に突き出た突堤が左にあって、その上に(いや、奥に)月が浮かぶ。

エルンスト・フェルディナント・エーメの「サレルノ湾の月夜」みたいだな、と思う。

しかし右には浜辺から海の中へと掛かる橋。橋のたもと、海の中に太陽が沈んで燃える。

太陽が海に「そのまま」沈んで燃え続けるのだ。それはとても不思議な光景で、ステンドグラスのように海の中に煌めく光を放つその様子に

絶句し、我に戻ってカメラを取り出し駆け寄るけれど、その景色を撮るには一瞬遅く、

完璧に美しかった時間を逃してしまう。そこで目が覚める…。

 

一息ついてから、カイユボットとドガに関する論考を進めつつ荷造り。

帰省中、何一つ不自由しない毎日だった。細かく書くことは敢えてしない。

この家庭に生まれ育った事を今は幸せに思うし、二十六歳にもなってまだ彷徨い続けている放蕩息子を

叱咤しつつも好きなように歩ませてくれる両親に心から感謝する。

 

さあ。東京へ戻ろう。

明日はリハーサル、あさってから宮城県でコンサート。

学問と音楽の間を行き来する、慌ただしくも充実した日々をまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

贅沢について

 

自分にとって贅沢とは何であるか。

美味しいお酒、美味しい珈琲、素敵な音楽に包まれること…考え始めると無数にあるけれど、

「ちょっと高級なシャンプーを買って帰る」ことの贅沢感は異常だと再認識した。

一日リハーサルで疲れたあと、まだ時間も早い夜にシャワーを浴びて髪をわしゃわしゃしながら

「うーむ…このシャンプー…神か…いやギャグではなく…」とひとり呟く、そんな夕暮れ。

それはささやかな時間でありながら、とても贅沢で幸せな気持ちにさせてくれる。

 

ささやかな時間、ささやかな幸せという言葉を綴っていて、ある文章を唐突に思い出す。

中学三年生のときに触れて以来、ずっと大好きな文章だ。

それは原田宗典の『優しくって 少しばか』というエッセイ。「神は小さきところに宿る」という言葉を変奏した手紙の一節。

 

僕は神さまはあまり信じませんが、この場合の神は愛に置き換えられるような気がします。

ごく些細なこと……例えば階段を下りる時に君の足元から 目を逸らさずにいること。眠る前に肩が出ないように毛布を掛け直してあげること。

悲しそうな顔をしていたら理由は聞かずにそばにいてあげること。そんな所に、愛は宿っていると思えるのです……だからそんな所から、ぼくは君と始めたいと思います。

 

 

 

あれから十年。

読み返してみても、やっぱりいいな。

 

 

 

七月の終わりに。

 

迷いが晴れた。

チャイコフスキーの交響曲第五番の一楽章を振り終わって、「何があったんだ。」と師匠が言葉を下さる。

何かがあったわけではないけれど、ここ三ヶ月で一番気持ちが乗った。

と同時に、揺れ動いていたものがピタリと腰を据えて、「大きな流れ」としか言い様のない全体が見えたのだ。

こういう気分になるときはいつも、スコアの見え方が全く違う。ある程度暗譜しているスコアとはいえ、

一度目を落とした瞬間に全体が飛び込んでくる。それもアーティキュレーションの細かな部分まで。

それはスコアだけではない。なぜか今いる部屋の隅まで詳細にズームイン可能な錯覚すら覚える。

ずっと先まで広々と見通せる気分のまま、もう一人の自分が上から自分を見下ろすような気分のまま、

理性のもとで感情に突き動かされるようにして棒を振る。

ウェーバーの「魔弾の射手」序曲を振って以来遠ざかっていたあの感覚が久しぶりに戻って来た。

 

ただただ、楽しかった。

偶然の産物ではなくて、暗闇を抜けた先に少しだけ到達したのだという確信がある。

一つの暗闇を抜けてしばらくするとまた次の暗闇がやってくるかもしれない。

それでも今の気持ちを忘れないようにしようと思う。

音楽は厳しくも、その本質はこんなに楽しかったのだ。

 

 

 

出発の哲学

 

しばらく音を聴きたくもなく、棒を振りたくもなかった。

少し覚えたはずの歌を失い、心は全く揺れず、呆然として立ちすくんだ。

 

文字通り真っ暗な中にいた。

作品のどこに立てば良いのか分からない。

どれを信じ、誰と音楽をして、何を求めれば良いのか分からない。

難しいことを考えるのは止めて楽譜を読もうとするけれど、楽譜は以前のように立ち上がらず、語りかけてくることもなく、

ただ石化した記号となって静寂に横たわる。

 

三ヶ月ぐらいそういう暗闇の中で踞っていました。

二人きりの時間にそう伝えると、師は柔らかに笑いながら言う。

「君はこれから何十年も棒を振らなければならないのだから、そういう時期があっても良いんだよ。」

 

大きな掌に包むようなこの言葉を僕は一生忘れまい。

さも当たり前のように下さった「何十年も」という言葉を、そして、悩んでいることを大らかに許して下さるその言葉を。

 

ずっと『悪の華』の最後の二行が響き続ける。

Plonger au fond du gouffre, Enfer ou Ciel, qu’importe ?

Au fond de l’Inconnu pour trouver du nouveau !

戻ることも止めることもしない。自分で自分の道を切り開くしかない。

傷つきながらも、いまを潜り抜けた先に何かが見えることを切望して、

これが何十年のうちの大切な一部となることを信じて歩く。

もういちど信じることを思い出そう。それは脱出ではなく、「出発」のために。

 

 

 

 

二十六歳の夏休み

 

小林康夫先生の『こころのアポリア――幸福と死のあいだで』(羽鳥書店)刊行記念トークセッションがYoutubeにアップされていたことを知って観ていた。

(URLはこちら:http://www.youtube.com/watch?v=u30VQGYoauU)

この半年間、小林先生と一緒にボードレール、そしてモデルニテの絵画を勉強させて頂いたわけだけど、

「学者になろうと思ったのではない。書くという行為に携わり続け、書くという行為に生きるために大学に残ることを選んだのだ」という言葉は

いつ聞いても響くものがある。それが良いとか悪いとかではなく、少なくとも僕には、ある種の憧れと共感を持って響く。

 

院生としての最初の半年間の授業は早くも先日で全て終わってしまった。

学部以上に、大学院の授業は授業というよりは「刺激」と呼ぶのが正しい気がしていて、

沢山頂いた「刺激」を自分のうちにどう取り込んで「書く」か、そこに殆どが掛かっているのだと痛感する。

小林先生から頂いたボードレールとマラルメ(ミシェル・ドゥギーの『ピエタ・ボードレール』読解を通して)、モデルニテの絵画を辿るうちに現れたカイユボットとドガの「光」、

そして寺田先生から頂いた文学史の見通しと19世紀のスペクタクルの諸相をいかにして書くか。まずは京都の出版社の友人が下さった連載に対して、僕はいったい何を書きえるのか。

 

 

同時に、読まねばならぬ。

助手として二ヶ月近く立花先生と一緒に関わっていたことが一区切りし、五万部印刷されたものの一部を手元に頂きに久しぶりに猫ビルへ伺った。

小さいものだけれど、こんなに印刷されるものに関わらせて頂けることは滅多にないなと思うと感無量なものがある。

しかしその感動はすぐに消え去った。猫ビルの膨大な書籍に囲まれ、立花先生とお話しさせて頂くと、自らの無知に改めて気付かされ、悔しくなる。

僕は何も知らないし、何も読んじゃいない!

 

相変わらず立花先生はものすごい。指揮はどうなの,研究はどうなの、あの本は読んだ?と質問攻めにして下さる。

しかも、その質問の仕方は自然かつ絶妙で(これがインタビューの達人の業だ)僕の拙い発言を確実に拾いつつ、何倍にも広げて返して下さるのだ。

そしてまた、絵画の話になったとき、膨大な書籍の山から迷わず一冊の場所を僕に指示して引き抜きつつ、

「このアヴィニョンのピエタの写真と論考が素晴らしいんだ」と楽しそうに語られる様子に、凄まじい蓄積と衰えぬ知的好奇心を垣間見た思いがした。

その一冊が『十五世紀プロヴァンス絵画研究 -祭壇画の図像プログラムをめぐる一試論-』で、丸ノ内KITTE内のIMTでお世話になっている西野先生の学位論文であり、

渋沢・クローデル賞を取られた著書であったことには、色々な方向から物事が繋がって行く偶然の幸せを感じずにはいられなかった。

 

とにもかくにも、夏休み。

幸せなことにまた幾つものオーケストラでリハーサルがはじまる。

昨年指揮させて頂いた団体から今年も、と声をかけて頂けるのは嬉しいことだ。

東北でまたコンサートをさせて頂き、フィリピンに行くオーケストラの合宿をし、オール・シベリウス・プログラムのオーケストラの設立記念演奏会に関わらせて頂く。

毎年恒例のチェロ・オーケストラも今年はさらにメンバーを充実させて開催することが出来そうだ。

長らく温めていたけれど、そろそろ自分の団体についても動き出して良い頃だろう。

並行して、駒場と丸ノ内で頂いている室内楽の企画も進めて行かねばならぬ。

 

日々の苦しみと同じぐらい、楽しみなことがたくさんある。

一つ一つ大切に棒を振り、めいっぱい読んで、書く夏休みにしようと思う。

触発する何かが生まれる事を信じて。

 

 

 

 

半過去についてのまとめ

 

L’imparfait(半過去)についてLe bon usageほか色々な文法書を使って勉強していたので、まとめをアップしておきます。

自分用にメモがてら作ったものなので正しいとは限りません。ご注意下さい。

 

<半過去の基本的な意味と用例>

☆過去の一点で、まだ完了していない出来事を表す。それゆえに始点や終点を示すものではない。

→ここから、半過去は継続や反復を表すのに適することが導かれる。したがって習慣も表しうる。

例:Je me promenais souvent au bord de la mer.

複合過去が点的な過去であるとすれば、半過去は線的な過去だと言える。

単純過去や複合過去が物語の骨子を述べる時制だとすれば、半過去は物語の環境を描く時制である。

一回きりで終わる動作でないから、過去の情景描写や状況説明で用いられる。

例:On était vaincu par sa conquête.(V.Hugo, Les Châtiments)

参考:19世紀の自然主義文学は半過去の用法について非常に意識的。対してカミュの『異邦人』、複合過去のオンパレード。

 

<半過去の特殊な用例>

1.他の出来事の避けがたい結果として半過去を使う事がある。条件法過去と似た意味になる。

例:Elle mit la main sur le roquet. Un pas de plus, elle était dans la rue.(V.Hugo, Les Misérables.)

また、過去時制におかれた主節に導かれて、「過去における現在」を表すこともある。(時制の一致)

 

2.基本的な意味に反するが、叙述的、あるいは歴史的な半過去は、過去のあるはっきりした瞬間に行われた、繰り返されない出来事を表す。

例:Giannni revenait au bout d’une heure. (Edmond de Goncourt, Frères Zemganno)

Brunetièreによって書かれた、絵画的で、分断し、囲い込む(?)半過去というものもある。

 

3.口語においては、我々が会話し始める前に始まった出来事が半過去で表されることがある。

 

4.条件法Siのあとには、半過去が義務的に使われる。これは現在あるいは未来における仮定的な出来事を表すためである。

例:Si j’avais de l’argent, je vous en donnerais.

 

5.幼い子供達やペットたちとの会話という特別な用途に限定されるが、愛情を表す半過去、甘えたようなニュアンスを醸す半過去というのがある。

例:Comme il était sage!

 

6.直接法半過去には、一歩引いて口調を和らげる働きがある。

例:J’avais une chose à vous demander. / Je télephonais pour…

 

 

 

両端から燃える蠟燭のように。

 

 

One must be like a candle that is burning at both ends. (Rosa Luxemburg)

 

 

 

本を貸すこと、その他であること。

 

自分が読んできた本を後輩に貸すのが好きだ。

この本はいつ読んだものだったかな、と貸す時に思い出しながら、後輩と同じ年齢のころ、

自分は何をしていたか・何に興味があったかを思い出す事が出来るから。

 

先日貸したのはフレッド・アダムズ+グレッグ・ラフリンの『宇宙のエンドゲーム』(ちくま学芸文庫,2008)だ。

この本について何か記事を書いたような気がして、自分のブログを検索してみると、2009年の5・6月に読んでいたのだった。

 

四年前の今頃、自分は何をしていただろう。

それは指揮に出会う前だった。22歳になり、とりあえず闇雲に本を読みまくり、映画をたくさん観て、

ボウリングに集中しながら、後期課程への進路に悩む時期だったと思う。

2009年5月21日の自分はこう書いている。

 

<その他であるということ>

周りから見ていると分からないかもしれないが、進振りが迫ってきたいま、僕は真剣に進路を悩んでいる。

やりたいことが多すぎる。ずっと前から分かってはいたことだが、おそらく進振りの直前まで悩み続けることになるのだろう。

 

だが、誤解を恐れず言ってしまえば、どこの学部に行くかというのは大した問題ではないと思っている。

「東大なんたら学科卒」という看板を外しても、社会でしっかりと生きれるような人間になりたい。

校内を歩いていると目に入る、ドリームネットというサークルが主催している交流会のポスター、自分-東大=?というキャッチコピー。

もう少し目立つようにデザインすればいいのに、と残念になるぐらい、このコピーは重要な意味を持つものだと思う。

自分から東大という名前を取ったときに何が残るか。今、たとえばここで突然東大が消滅し、自らの所属が無になるような状況が

生まれたとき、自分は何を拠り所にして生きるか。

大学という所属を持っていると、所属しているというだけで安心感が生まれる。

そして、次第にそれに依拠してしまいがちである。(五月病なんてのもその一種だと考えられるかもしれない。)

予備校に所属する事もなく、自習室を借りて二浪していた時、とても貴重な経験をした。

どこにも属していなかったから、何かの証明書に記入する時には、高校生でも大学生でも社会人でも学生でもない

「その他」に丸をつけることになる。この恐怖といったら!!

宙ぶらりんの恐ろしさ、当り前のように踏んでいた足場を外されたときの言葉にしがたい恐怖。

自分は何者でもない。学んでいるわけでも働いているわけでもない単なる「その他」である。

だが、「その他」でしかないのか、と気づいたとき、「最強のその他」になろう、という目標が生まれた。

失うものは何もない。どこかを除籍されることもなければ、呼び出されることもない。誰にも何にも所属しない中でも自信を持って

自己を確立できるように、どこにも属さない貴重な時間を使って出来る限りのことをしなければならない。

ひとまず大学に所属するようになった今でも、その気持ちは変わっていない。

どこに進学するにせよ、究極的には東大が突然あした消滅したとしても、社会で逞しく生きていける人間になりたい。

数か月後の進振りで些末な事象に拘泥して道を見失ってしまわないよう、数か月後の自分に向けて書いておいた。

 

….

 

青い文章だなあと読み返して笑いたくなるけれど、たぶん本質的に、僕はこの頃と同じ気持ちでいる。

4年が経って26歳になった今も、原点はあの宙ぶらりんの一年間にあるだろう。

70歳を迎えたドガがエルネスト・ルアールに伝えた言葉を思い出す。

「いま自分が何をなしているかではなく、他日、何をすることができるか、それをつよく意識しなければならぬ。

そうでなければ、仕事などするまでもない。」

 

好きな後輩に好きな本を貸すこと。

『宇宙のエンドゲーム』一冊が沢山の記憶を蘇らせてくれた。