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第三回「のみなんと」

 

第三回「のみなんと」を無事終えました。

「のみなんと」はドミナントのオーケストラチーム&デザインチーム&僕の知り合いの

合同飲み会みたいなもので、毎回30人〜40人ぐらいで楽しくやっています。

今回は突然モーツァルトのカルテットがはじまり、つづいてアイリッシュヴァイオリン+口笛+ギターのライブが

予告無く開始されたかと思うと、端では乾杯の歌が朗々と歌われるようなフリーダムさ。

最後には木下牧子「鴎」という曲を合唱しました。「ついに自由は我らのものだ」と高らかに謳うこの曲、

今回の「のみなんと」にはぴったりな曲だったと思います。

学年も所属も身分も関係ないこの飲み会。音楽が本来持つ「楽しさ」に力を得て、

ここからまた色々な繋がりや出会いが生まれたならば、これ以上の喜びはありません。

ドミナントを立ち上げてからもうすぐ一年になりますが、わずか一年でこれほどまでに沢山の

素敵な方々と経験に恵まれた幸せを噛み締めながら、朝まで飲み続けました。

 

プロオケを指揮してから  -グリーグに惹かれて-

 

プロのオーケストラを指揮してから、すでに二ヶ月近く経った。

モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲とプロコフィエフの「古典交響曲」に頭をいっぱいにした時期はひとまず終わり、

二ヶ月の中で色々な曲に取り組んで来た。ベートヴェン「プロメテウスの創造物」序曲、オッフェンバック「天国と地獄」序曲、

スッペ「詩人と農夫」序曲、シューベルト「未完成」交響曲、ウェーバー「舞踏への勧誘」序曲…。

 

そして今はグリーグの「ペール・ギュント」組曲を振っている。

グリーグの曲を勉強していると、曲に入り込めた時には周りの温度がすうっと下がるような感覚を覚える。

とはいってもただ冷たいのとは違う。透明感のある温かさで、優しい手触りだ。

「グリーグは心に雑念があると振れないよ。濁った気持ちでグリーグは振れない。」と師匠がかつて呟いた言葉の意味を改めて悟る。

そして、なぜ師匠がアンコールにしばしば取り上げたのかも。

 

パフォーマンスのような指揮ではこの曲は演奏できない。

音楽に誠実でなければ決してグリーグは人の心に届かない。

師がアンコールで取り上げるグリーグの言葉にならない美しさに心を揺さぶられ、

指揮を学びはじめたばかりの未熟な身にも関わらず、師の背中を追って背伸びして

僕も演奏会ではことあるごとにグリーグの曲をプログラムに入れて何度も振ってきた。

南京大学の学生たちを東京で迎えたときに演奏させて頂いたグリーグの「はじめての出会い」という小品。

中国からはるばるやってきた学生たちが涙を浮かべながら聞いてくれ、そしてオーケストラのヴィオラ奏者が

涙を流しながら弾いてくれていたのを後から知り、これ以上無いぐらい幸せな気持ちになったことを覚えている。

 

グリーグの曲にどこまで入り込めるか。グリーグの美しさと儚さをどこまで人の心に届けることが出来るか。

これからもずっと、「濁った気持ちでグリーグは振れない。」という師の言葉を思い起こしながら、

何十年もかけて勉強し、少しでも心に届くように指揮していきたいと思う。

休学という選択、夢中になれるもの。

 

東京大学を休学することにしました。

何を突然、と思われるかもしれませんが、実はずっとずっと考えていたことです。

 

立花隆のもとで、一年間助手をして過ごします。

立花さんと一緒に日本を飛び回りながら、昼間は猫ビルに籠り、あそこにある本を読める限り読みつくそうと思います。

村方千之のもとで、一年間指揮を集中的に学びます。

おそらくもう二度と日本に現れる事のない不世出の大指揮者だと僕は信じて疑うことがありません。

「知性」と「感性」の師、そして「死」を意識するこの二人の巨匠と接して以来、

この機会を逃してはならない、と思い続けてきました。

 

はじめて立花事務所、通称「猫ビル」に入らせて頂いた時の感動は忘れられません。

僕が憧れていた本に囲まれた乱雑な空間がそこにありました。図書館とは違う空間。

陳列や収集の空間ではなく、一人の人間の「頭のなか」そのもの。

何万冊もの本が書き込みと付箋だらけでそこかしこに散らばっている。

一つの本を書いたり話したりするためにこれだけの勉強をされていたんだ、と背筋が伸びる思いをしました。

 

そしてまた、村方千之にレッスンを見て頂いた時、また師のコンサートで「ブラジル風バッハ四番前奏曲」を聞いた時の

感動は生涯忘れる事が無いでしょう。「シャコンヌ」の堂々として祈りに満ちた気品、ベートーヴェンの「運命」や

ブラームスの一番の何か太い芯が通ったような強靭さ。息の止まるような感動をなんど味わったことか。

眼を閉じて聞いているだけで感動が抑えきれなくなるような純然たる「音楽」がそこにありました。

 

本と音楽が好きな僕にとって、これ以上の出会いは無いでしょう。

ですが、お二人に接する事の出来る残り時間は限られている。

巡り会えたという喜びと、もう時間はあまり無いのだという焦りとを同時に味わいました。

この機会を逃すと僕は一生後悔する。そしてこれらは片手間に勉強できるものではないし、片手間に勉強することが許されるものではない。

二浪していて僕はすでに23という歳ですが、もう一年を賭けてもいいと思えるぐらいの衝撃を受けたのでした。

 

休学を考えていた頃に巡り会った、コクトーの文章が背中を押してくれました。

コクトーはこう書きます。

 

「孤独を願うのは、どうやら社会的な罪であるらしい。一つ仕事が済むとぼくは逃げ出す。ぼくは新天地を求める。

習慣からくる弛緩を恐れる。ぼくは、自分が技術や経験から自由でありたい ―つまり不器用でありたいと思う。

それは、奇人、叛逆者、曲芸師、空想家であることなのだ。そして賛辞としてはただ一つ、魔術師。」

 

「彼(エリック・サティ)はそこで自分を軽石で磨き、自分に反撃し、自分にやすりをかけ、

自分の繊細な力がもはや本源から流出するしかなくなるような小さな孔をきたえあげたのだった。」

 

浪人中に僕はそんな時間を過ごしました。

いま、そうした時間を自分が再び必要としていることに気付かされます。

ヴァレリーの言葉に「夢を叶えるための一番の方法は、夢から醒めることだ。」というものがありますが、

その通り、夢中になれるものを見つけたなら、自分の身でそこに飛びこまないと夢のままで終わってしまう。

だからこそ、レールから外れて不安定に身を曝しながら、一年間学べる限りのことを学んでいきたいと思います。

 

この選択を快く許してくれた両親には心から感謝していますし、回り道が本当に好きだなと

自分でも改めて呆れてしまいますが、後悔は少しもありません。

どんな一年間になるのか、どんな一年間を作っていけるのか、ワクワクしながら2011年の春を迎えています。

 

 

 

プロオケを振ります。

 

5月4日、ついにプロのオーケストラを指揮することになりました。

僕はトップバッターでモーツァルトの『フィガロの結婚』とプロコフィエフ『古典交響曲」を振ります。

そして最後には師匠が、ベートーヴェンの「運命」を指揮します。

指揮を習い始めて間もない僕がこんな豪華なメンバーの(本当に凄い奏者の方ばかりで、ドキドキしています。)

オーケストラを振らせて頂いていいのかと思うほどですが、今出来る限りで、精一杯の演奏をさせて頂きたいと思います。

 

そして86歳になる師の「運命」。この機会を逃すともう一生聞く事は出来ないでしょう。

ご自身でも「これが僕の人生最後の<運命>になる。」とおっしゃっていました。

チケットなどは僕(kimoto_d_oあっとyahoo.co.jp)までご連絡頂ければご用意させて頂きます。

五月の祝日、ご都合の合う方はぜひお越し下さいませ。

 

 

 

「千の会」第十回フライヤー

 

MacBook Pro新型17インチ

 

2/24日に発表されたばかりのMacBook Proをアップルストアにて購入してきました。

仕様はプロセッサが2.3GHzクアッドコアInter Core i7、メモリが8GB、750GBのHDDに17インチのアンチグレア液晶USキーボードです。

17インチのMacBookProを選択される方はどうやらかなり少数派のようですが、僕にとってはこれ一択でした。というのも、通常使っているVaio-SZ95カスタムが13.3インチで持ち歩きには便利ですし、

iPadやVaio-Pも所持していることを考えると、それらとの棲み分けのためにはこの巨大ディスプレイが最適だと考えられたからです。また、デザインの仕事をしながら論文を読んだり書いたり辞書を参照したりと

同時に何動作もするため、17インチの広さがあるとそうした作業が圧倒的にしやすくなるであろうことが予想されました。

 

使ってみてすぐにこの便利さは体感されました。めちゃくちゃ画面が広くて使いやすい!

もちろん持ち歩きには向きません(この大きさを活かして、暴漢に襲われたときの盾として使うと効果的かもしれません)が、いざ開けるとこの安心感は何物にも代え難いものがあります。

いままでのパソコンでは、ディスプレイを「のぞきこむ」という感じだったのですが、17インチになるとまるでディスプレイに「包み込まれている」ような感覚。自然と目の前の作業に集中することが出来ます。

そして、プロセッサをクアッドの2.3GHzにしたことによって、動作が凄まじく速いです。「えっ、こんなスピードでレンダリングが終わるの?!」と驚いてしまいました。

アンチグレアの液晶にしたことによって、オフィスで作業している際も蛍光灯が映り込まず、長時間の作業の際に目の疲れがずいぶんと緩和されましたし、外に(万が一)持ち出しても、太陽光の反射を抑えてくれるので

ディスプレイの視認性が非常に高くなります。「デザイナーはアンチグレア」というのはこの業界で一つの常識のようになっていますが、確かにそうだなあと頷かされました。

 

店員さんから聞いた話では、ベンチマークテストでも17インチのこの組み合わせではとんでもない結果が出ているとのこと。

まあそれはプロセッサを考えればなるほどという感じですが、使っていてストレスを感じる場面がほとんどありません。夏ごろになったらHDDをSSDに換装しようと企んでいます。

そうするともう最強速度で作業が進みそうですね。高い買い物でしたが、これから数年にわたり、それに見合う分の仕事をしてもらおうと思います。

17インチのMacBook Pro、閉じた見かけは巨大なまな板のようですが、凄まじい性能を秘めた「モンスターまな板」であることには疑いがありません。買って良かった!

 

マンダリン・オリエンタルホテルに宿泊してきた。

 

日本橋にあるマンダリン・オリエンタルホテルに宿泊してきました。

いや、正確には、「宿泊させて頂いた」というべきでしょう。デザインのお仕事を下さったクライアントさまが新年会をされるとのことで

幸せなことに僕も声をかけて頂きました。ドレスコードは「スマート・エレガント」ということで、ラファエル・カルーソのスーツと

ステファノ・ビジのタイ、それにチェスターフィールドコートを羽織るという珍しく気合いを入れた恰好をしてホテルへ。

 

まずはホテルの38階にある広東料理「センス」で素晴らしく美味しい中華と美酒を堪能。

東京タワーを遥に望む夜景に圧倒されながら、普段は口にすることのないようなお料理の数々を頂きました。

お酒の美味しさはもちろん、鮑が泣くほど美味しかったです。そして、なんとそのまま宿泊する流れに。

 

宿泊の前に、作ってきたデザインのお披露目を行いました。

クライアントさまやスタッフの方々が沢山いらっしゃる前で、しかもほろ酔いの状態でプレゼン(もちろんアドリブ)をやるのは

なかなかスリリングでしたが、全体的に好評だったようでひと安心。外国からの旅行者向けのデザインですので、文字情報は全部

英語。ターゲットも普段とは異なるし、文字も普段とは異なるので、いつもとは少し違うデザインをする必要があります。

逆にいえば、いつもは出来ないデザインが出来るチャンスでもあるので、フランスで学んできた色遣いを細部に取り入れるなど、実験的な

要素を盛り込んでみました。自然な目流れを作りつつも注目度の高いものが出来たかと思います。

 

そのまま朝まで広々とした部屋で飲み、色々なお仕事をされている社会人の方々とお話させて頂きつつ、朝四時ぐらいにベッドへ。

東京に住んでいるのに東京でホテルに宿泊する、というのは贅沢ですね。一人ならそのへんの漫画喫茶がいいところだなあ、と

考えつつ、夢の中に。ルームフレグランスのレモングラスの香りが印象的でした。

 

朝八時に起床して、ホテルに併設された37階のスパへ。

ガラス張りのパウダールームに入るなり、目の前に広がる東京の街並みと遠くに見える富士山。

これを見ながらサウナや広い湯船につかれるわけです。一人暮らしで、普段は足も伸ばせないような狭い湯船につかっている身

としては感動せざるを得ません。ジャグジーから生まれるお湯の流れに身を委ねながら、冠雪した富士山をのぞむ。

視線を手前にやると、東京大学の入学式で三年前に入った武道館が見えます。なんだか、今日も一日がんばろうという気力が

ふつふつと湧いてきました。ご招待して頂いたクライアントさまに心から感謝しています。ありがとうございました。

 

夢のような時間を過ごして、そのまま神楽坂の「週刊読書人」にウェブデザインのお仕事のため、出社。

ホテルから仕事場にいくというのは初めてでした。ちょうどその日は凄く強い風が吹いていて、スーツの上に羽織っていたコートの裾が

翻るのが不思議と心地よく、近づきつつある春を感じながら日本橋の街を歩きます。もうすぐ24歳になるのだな、と思いながら。

 

ドビュッシー「月の光」を振る。

 

順調に指揮の勉強が進んでいます。

また改めて詳しく書きますが、ベートーヴェンとモーツァルトのソナタを終え、ブラームスのラプソディやショパンのスケルツォ、

そしてドビュッシーの「子供の領分」や「アラベスク」を振り、ついに「月の光」に入りました。

門下の先輩方から「月の光は難しいよ。」と脅されていたこともあり、入念に入念に準備をして一回目のレッスンへ。

 

楽譜を勉強するにあたって、この月がどういう月で、どういう情景なのかを自分なりに練った上でレッスンに臨みました。

冷え切った夜の空気の中に、月が静かに浮かぶ。

月の光が鋭く、しかし優しく降り注ぐ。

「ああ、綺麗だな。」と月を仰ぎ見て心動かされる。

そんなイメージでした。

 

指揮台に上り、冷たく演奏するぞと心して振り始めましたが、すぐにストップ。

「甘いな。もっと自然に、もっと冷たく。君の棒では月との距離が近過ぎる。月の光はこうだ。」と振り始めた先生の棒から生まれる、

音の冷たさと緊張感!キンと乾いた音のうしろに漆黒の夜が見える。遠い世界に月が静かに浮かぶ。その美しさに、絶句しました。

指揮台から降りてようやく、「月との距離が近過ぎる」という言葉の意味がじわじわと分かってきた気がします。

この曲は「美しいな」と思って月を仰ぎ見る人の「心」を描くのではないのだ、と。

描くのは、冷たく静かな夜。遠くから凛とした光を放つ月の「情景」。ただそれだけ。その光景が音となって届いた時、聞く者が

「ああ、美しいな」と感じる。どこまでもクールに。月への憧憬を心の内に込めつつ、表には出さない。

感情を押し付けず、情景を音で淡々と描く。その結果としてはじめて、感動が聞く人の内に生まれるのでしょう。

衝撃冷めやらず、帰りの電車で再び考えました。つまるところ、見ている世界が違ったのだと思います。

僕は月を眺める人の視点で「月の光」の世界を描こうとしました。だけど先生は違った。

月と月を眺める人をも描きうる、第三者・超越的な視点から世界を描いたように感じています。だから音に冷たさと距離が生まれる。

感情を押し付けたりしない、純然たる「月の光」だけがそこにありました。

それはまるで小説の技法に似て、一人称の小説と三人称の小説の違いに通ずるもののように思われました。

音楽も小説も、世界の描き方の芸術なのかもしれません。

 

前に振ったドビュッシーの「アラベスク」では、音の「湿度」と「色気」、アルペジオの表現を学びました。

今度の「月の光」では、「三人称の視点で曲の世界を描く」ことを学ぶことになりそうです。