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ブラジル風バッハ一番を終えて。

 

ブラジル風バッハ一番のレッスンを終えた。

ここに書く事は出来ないぐらい多くの事を学び、多くの事を教わった。

音楽に対する考え方を変えられ、また自由になることが出来た。振る前と振った後ではモノの見え方が違う。

ブラジル風バッハ一番はベートーヴェンの運命に近いところがある。運命の中にブラジル風バッハ一番が聞こえ、ブラジル風バッハ一番の中に運命が聞こえる。

いつか必ず、この二曲をセットにして演奏会をしてみたい。

 

 

遥かなるヴィラ・ロボス

 

「展覧会の絵」を終えて、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ一番」という曲を見て頂いている。

ヴィラ・ロボスを振らせたら日本で師匠以上の人はいない。それだけにこの曲は門下の秘曲の一つであり、憧れの曲だった。

僕のようにまだ入って二年足らずの若造が見て頂ける曲ではないのだけれど、色々あって恐れ多くもヴィラ・ロボス協会の会長である

師匠の前でヴィラ=ロボスを振り、直々に指導(と喝)を受ける日々が始まった。

 

ブラジル風バッハ一番にしてもそうだが、ヴィラ=ロボスの曲はどれも温かく、大らかだ。

パリで培った巧みな作曲技法・管弦楽法の中に、ときおり野生味が顔をのぞかせる。神経質になることはないが、常に纏まりがある。

楽譜を読んでいると、視野がぱあっと広くなった錯覚に陥る。あたりに立ち並ぶビルが次々と消え、視界が広がり、地平線に沈む夕日が目に浮かぶ。

夏の海が大好きな僕にとって、この音楽はとても受け入れやすくて、初めて聴いた瞬間から親しみが持てた。

師匠の豊かなヴィラ=ロボスを少しでも自分のものにしたい。あの官能的で力強い旋律が頭から離れない。寝ても覚めても。

 

 

「展覧会の絵」を終えて。

 

ムソルグスキー作曲/ラヴェル編曲の「展覧会の絵」を指揮し終えた。

一曲ずつ仕上げて行って、最後に、頭のプロムナードから終曲のキエフの大門まで一気に通して振る。

沢山の発見があり、沢山の感動があった。一つずつ細かく書くことはしないが、箇条書きにして少しだけ残しておこうと思う。

 

1.プロムナード

軽い音楽ではない。ロシアの響きにするためにはどうするか。楽器が増える意味は何なのか。

 

2.グノーム(小人)

迫り来るもの。不気味に踊るもの。ぞっとするような、血の気の引くような感覚。青ざめた死。

 

3.プロムナード(Moderato e con delicatezza)

平静な心。喪失の感情。時間を巻き戻すような感覚。

 

4.古城

イタリア語で書かれている理由。スラースタッカート&テヌートの意味するもの。湖。霧。石造りの城。時間の風化作用。

 

5.ティユルリー、遊んだ後の子供の喧嘩

他愛なさ。平和な光景。市民革命の後の開けた空気。見守る大人の存在と走り回る子供。

 

6.ビドロ(牛車)

苦しみ。重い荷物を引きながら遠くから目の前を牛車が横切る。泥濘に足をとられながら。

同時に悲劇。荷物を引きずる牛と、虐げられたポーランドの民衆のアナロジー。処刑。

息のつまるような苦しみ。目の前に轟音を立てて迫ってくる光景。

 

7.卵の殻をつけたひな鳥のバレエ

黄色の原色。よたよた歩き。滑稽さ。Scherzinoであることの意味。遊びの要素。

 

8.サミュエル・ゴールデンベルグとシュムイレ

二人のユダヤ人。怒りとすがり。沸き上がる感情と一歩下がりながら要求するもの。ポグロム。

 

9.リモージュの市場

取っ組み合いの女のスケッチ。リモージュ市場のかしましい女たち。沢山のパーツがさりげなく鏤められる。

accelerando前後の心情。色が一気に変わる。

 

10.カタコンブ

死。絶望。墓。音楽はギリギリのところで動く。心が沈み込む。深く鈍い音。

 

11.死者の言葉で、死者に。

lamento.冷たい青。六拍子であることの不気味さ。非現実的な音の冷たさ。死者の世界、死者の言葉。ハープの意味。

 

12.バーバ・ヤーガの小屋

重み。死の衝撃。静かではない死の世界。唐突さ。厚み。死から現実、現実から死へ。壮大なブリッジ。

 

13.キエフの大門

未完成。ロシアの芸術、目指したものの姿。ガルトマンへの追悼。プロムナードが木霊する。

差し込む光。強烈な光。視界が真っ白になるような金色の光。悲しみに満ちて輝く。

 

 

展覧会の絵は明るい曲じゃない。悲しみや追悼、死。そういったものがこの組曲全体を支配している。

どんなに明るい曲でも、ムソルグスキーは決してガルトマンの絵の事を、ロシアのことを、「死」のことを忘れてはいないように思う。

この曲を指揮するのが一つの目標だった。けれども、ゴールだと思っていた「キエフの大門」を振り終えたとき、キエフの大門をあけたとき、

そこに見えた光景はゴールではなく、限りなく広がるスタートだった。

 

プロムナードの旋律に導かれ、キエフの大門をくぐって音楽の入り口へ。

果てしなく広がる音楽の世界へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生を賭けて。

 

「君を一人前の指揮者に育てるのが、僕の最後の仕事だな。」

師がそう呟いていらっしゃった、ということを知った。5月にプロオケを振らせて頂いてから、より一層、

師匠が命を燃やして教えて下さっていることをひしひしと肌で感じる。だから僕も命を賭けて学ぶ。

 

言葉を持った音、語る棒。

 

ムソルグスキー「展覧会の絵」の最後に置かれた壮大な曲、「キエフの大門」。

今の僕には、その壮大さに心が打ち負けてしまうような曲。未熟なりに振り終わったあと、

師匠がぽつりと漏らした言葉を僕は一生忘れない。

 

「音符に言葉を話させ、棒で語れ。君はそういう指揮者になれ。」

 

 

音符に雄弁に物語を紡がせ、口ではなく棒ひとつで音と言葉を語り、奏者に伝える。

何十年かかってもいい。そういう指揮者になりたい。

 

 

 

 

「展覧会の絵」を振る。

 

ついにここまで来ることが出来たか、という思いがしています。

ムソルグスキー作曲/ラヴェル編曲の「展覧会の絵」。指揮のレッスンを受け始めてからもうすぐ二年になりますが、

この「展覧会の絵」に辿り着くことが一つの目標でした。

 

分かってはいたことですが、「展覧会の絵」は一筋縄ではいきません。

指揮のテクニックを総動員させなければいけないのはもちろん、展覧会の絵がいったいどういう曲か、

知り、感じ、引き出さなければなりません。ムソルグスキーにインスピレーションを与えたガルトマンの絵について調べ、

ムソルグスキーの書簡も読んで自分なりに音楽に形とイメージを与えてレッスンに臨みましたが、まず最初のプロムナード、

あの誰もが聞いた事のある「プロムナード」を振り始めた瞬間、師匠から

「全然だめだっ!!!そんな曲じゃないんだ!!」と一喝されました。

 

いま見返せば分かります。僕の棒はプロムナードの変拍子を上手く整理して振っていましたが、

決定的に欠けているものがあった。それは棒に出ていないだけでなく、楽譜から見落としていたものだったのです。

音符の下に引っ張ってある一本の細いバー。「テヌート」と呼ばれる指示記号がそうです。

tenuto=「音符の長さいっぱいに音を保って」、というその一本の細い記号で表されたニュアンス。

驚きました。これを意識して指揮するだけで、「展覧会の絵」から立ち上がる光景ががらりとその姿を変貌させます。

「展覧会の絵」のラヴェル編曲はフランス的でやや明る過ぎる、とアシュケナージが書いているそうですが、

テヌートを意識すれば明るさは消え、ずっしりとした重さ(これをロシア的と言ってしまって良いのか分かりませんが)が

生まれてきます。テンポの問題ではなく、テヌートの効かせ方なのです。テヌート一つで音楽は変わります。

もう何十回と聞いているはずのプロムナードが、あれほど聞きごたえのあるものだとは始めて知りました。

 

 

未熟さを痛感すると同時に、自分の成長を少し感じた場面もありました。

というのは、テヌートなのだと叱咤されたら、すぐさまテヌートのように棒を振る事が出来ます。

言葉ではなく、棒の軌跡や加速度や減速、そうしたものからテヌートを伝えることが出来るようになっていました。

日々の厳しいレッスンのおかげで、右も左も分からなかった二年前から少しは成長できたように思います。

 

ちなみに、少し後にある「古城」という曲ではスラースタッカート&テヌートがファゴットにつけられているのですが、

それも「スラースタッカート&テヌートらしく」棒を振るためにはどうするか、ということが自然と身体に染み込んでいました。

それにしても、古城は凄い曲です。一般にサックスに注目されがちな曲ですが、この曲の神髄はファゴットにある。

ファゴットにつけられたテヌートの絶妙さ!このファゴットがあるからこそ、霧に包まれた湖の側に佇む、

かつては栄えたであろう石造りの堂々とした城が見えるのです。そしてその城はいまや、その風格を保ちながらも、時間に晒され苔むし

人々から忘れ去られてそこに佇んでいるのです。

 

 

展覧会は読み始めると止まらず、スコアを閉じても頭から離れることがありません。

歩いていてもプロムナードが、グノームが、ビドロがティユルリーが聞こえてきます。

目に入ったものが音楽に直結してくるようで、自分の中にある感性のアンテナが、

この曲に触れることで一段階研ぎ澄まされた感覚を覚えています。

 

展覧会の絵、恐るべし。

八月から九月は、ずっとこの曲のことを考えながら毎日を送ることになりそうです。

 

 

ドミナント・サーフトリップ

 

毎年のようにサーフィンへ行っています。

今年ももちろん、波と遊びに伊豆へ。昨年はクラスの友達を連れて行きましたが、

2011年はオーケストラとデザインチームのメンバーを連れていつもの宿に行きます。

一年ぶりに宿に電話したのに、オーナーさんはすぐに「おおおー早く今年もおいでよー!」と言って下さって嬉しい限りです。

 

朝はサーフィン、昼は昼寝、夕方サーフィン、夜は音楽とお酒。

明日から幸せな三日間になることでしょう。

手品のように、魔法のように。

 

小学生の頃から手品が好きでした。

塾のテストをさぼって手品ショップに通い詰め、売り場のお兄さんから色々な手品の技法や仕掛けを教わり、

それを友達に見せては驚かせるのが好きでした。

 

 

小学生の頃から魔法に憧れていました。

怪しげな呪文を唱えて棒を一振りした瞬間に見えない力が働いて、

傷を癒しあるいは世界に亀裂を走らせるような魔法が好きでした。

 

 

小学生の頃からみんなと遊ぶ時間が好きでした。

鬼ごっこ、ドッジボール、野球、サッカー。みんなとその遊びに没頭して、同じ楽しみを

共有して笑う時間を何より大切に思っていました。

 

 

指揮は、その全てが合わさった楽しみです。

手品のように、魔法のように。素敵な奏者の方たちに恵まれて、みんなと笑いながら音楽をしています。

 

 

 

朝の断章

 

寝るのが怖い。一日を終えるのが怖い。

目を閉じて布団に横になると、頭の中に自然と一つの問いが浮かんでくる。これぐらいで僕は僕の一日を終えていいのか?

寝る、一日を終えるということは、死へと一日近づくという事だ。いま目を閉じるともう二度と目を覚ます事が出来ないかもしれない。

やりたいことも知りたいことも限りなくあるのに、僕はまだ何ひとつ学べていない。

もっともっと沢山の本を、音楽を勉強したいのに、それにはいくら時間があっても足りないのに。

 

自分に残された時間が限られていることを考える。

眠たくないのに寝ることがバカバカしくなる。眠たくなったら寝ればいい。それまでは起きていよう。

デザインの仕事をしてクライアントさんにメールを返信して語学の勉強をし終えて朝六時。

狭い一人暮らしの部屋に朝日が差し込み、きらきらと金色の光に包まれるなか、

ビゼーの『アルルの女』第二組曲の譜読みを始める。フルートの独奏曲としても良く知られたメヌエットがやはり美しい。

ファランドールの溢れてくるような勢いが頭を覚醒させてくれる。ビゼーの仕掛けた遊びに気付いて、その天才に心震える。

 

ひとしきり楽譜に向かい合ったあと、豆を挽いて珈琲を淹れる。

ブラームスのハイドン・バリエーションを静かに流しながら。

部屋いっぱいに珈琲の香りが広がって、一日が動き出す。

 

 

 

 

 

変奏曲

 

自分の人生を簡単に纏められるのには耐えられない。

説明できない屈折や脱線だらけの人生を送る人の方が、僕にとっては魅力的に映る。

迷う事を怖がらず、いままで一緒に歩いてきた友達に笑顔で手を振って、森の暗い横道に足取り軽く分け入って行け。

 

「私たちは自分をつねに創造しているものだと言わねばなるまい …(中略)…意識を持った存在者にとり、

存在することは変化すること、変化するとは成熟すること、成熟するとは無限に自分自身を創造することなのである。」

— ベルクソン『創造的進化』

 

 

一貫したものを底に持ちながら、次々と姿を変え、軽やかに変奏していく人生。

バッハのシャコンヌやブラームスのハイドン・バリエーションが自分の心に響いてくるのは、

そうしたところに憧れてのことかもしれない。