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もういちど、コリオラン&ハイドン・バリエーション。

 

コリオラン&ハイドン・バリエーションをもう一度レッスンで振った。

昨夜があんまりにも上手く演奏できたのでまぐれだったのではないかと思ったことと、

いつかこの曲を一緒にやるであろう、僕のオーケストラのメンバーに見ていてほしかったからだ。

 

コリオランもハイドン・バリエーションを一気に通して指揮したあと、

師匠は「いいよ。何も言うことはない。」とだけ、声を詰まらせてぽつりと呟く。僕の見間違いでなければ、その目は少し赤くなっていた。

昨夜はまぐれではなかったのだ。祈る気持ちは昨夜のみ湧き出たものではなく、音楽に向き合った瞬間溢れ出してくる。

そして、ヴィラ=ロボスをやってから格段に自由にスコアの中で動き回れるようになった。間違いなく、見える世界が変わった。

 

終わってからしばらく、興奮と充実感とが襲って来て、そのあとしばらく放心していた。

日常生活に戻ることが困難なほど、ハイドン・バリエーションのあのテーマが頭の中に響き続ける。フィナーレの壮大さに肌がぴりぴりと

痺れた記憶が蘇る。今の僕に出来る限り、あるいはそれ以上のコリオランとハイドン・バリエーションをやったのかもしれない。

師匠や門下の方々、そして素敵なピアニストのお二人と奏者のみんなに育ててもらってここまで来たのだと感謝の気持ちでいっぱいになる。

後ろで見ていてくれたドミナントのヴィオラ奏者がこんな感想を書いてくれていた。彼は一年半前、僕がはじめてオーケストラを振ったときから

ずっと一緒に音楽をしてくれているだけに、そう思ってもらえたのは心の底から嬉しかったし、少しは成長したのだと思えた。

 

ピアノ連弾でこんなに人を感動させることができるのか。

僕は終始コリオランの最初の和音からなぜかわからない、涙が溢れるのを堪えるのに必死だった。

ダイナミクスと共に何度も打ち震えた。今日の木許裕介の姿を僕は一生忘れない。

 

 

コリオランとハイドン・バリエーションは僕にとっても永遠に忘れられない曲になった。

あの日・あの瞬間の空気、あの場にいた人の姿とともに、いつまでも鮮やかに響き続ける。

ここから先、ベートーヴェンやブラームスの交響曲に向かい合うことになるだろうが

いつも今日の感覚を忘れずに、心の底から湧き出るように音楽をしていきたい。

 

 

 

 

 

 

モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス。

 

モーツァルトのKv.136とベートーヴェンの「コリオラン」、そしてブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」。

普通はレッスンでは一曲だけしか見てもらえるものではないし、そもそも三曲も準備していくのは至難の業なのだが、

夜を徹して勉強して、三曲どれを振れと言われても大丈夫なようにして持って行った。結果、三曲を一気にレッスンで振ることになった。

そしてどれも一発で合格を頂いた。未熟なところは山のようにあったと思うが、今までで一番、気持ちが乗ったように思う。

 

師はもうすぐ86歳の誕生日を迎える。少し体調を崩していらっしゃったが、無事にまたレッスンの場へお姿を見せて下さったことに

僕は心から感動し、一秒たりとも無駄にしまいと改めて心に刻んだ。

最初のKv.136。師の師であった斎藤秀雄が亡くなる直前に愛奏していた曲として知られる。その曲を、病み上がりの師の前で

振っているうちに、今まで味わった事のない感情が溢れ出してくるのを強く感じた。二楽章、あの優しくもしなやかな音楽。

振りながら師のことを考えた。「祈り」としか表現する事のできない気持ちが湧き出てくる。涙をこらえるのが必死だった。

 

続くコリオラン。壮絶な悲劇、嵐のような音楽。

この曲のフルスコアを買ったのは浪人中、つまりもう五年前になる。あの頃は指揮なんてしたこともなかったけれど

カルロス・クライバーがこのコリオランを指揮している動画にふと巡り会って、なんと劇的な音楽なのだろうと感動して

はじめてオーケストラのスコアを買ってみたのだった。まさかこの曲を振る日がやってくるとは想いもしなかった。

やりたいことが沢山有るのに何もすることが出来なかったあの浪人中の感情をぶつけるように、感情を剥き出しにして

振った。剥き出しになった、というのが正しいかもしれない。先程とはまた違う種類の涙が溢れそうになった。

 

最後、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」。

この曲は祈りだ。聖なる祝祭、あるいは官能的な高まり。印象的なテーマが次々と変奏されてゆき、

紆余曲折を得て最後に絡み合いながら戻ってくる。この曲は一度耳にして以来僕にとって憧れの曲のひとつで、

木細工のように精密に作られたオーケストレーションと変奏の性格の切り替えの鮮やかさの虜になった曲だった。

今の僕にどこまで表現できたかは分からないが、今日のレッスンの最初から気持ちの中に溢れていた「祈り」が

この変奏曲に少なからず宿ったような気がしている。最終変奏で、「先生、どうかいつまでもお元気で」という思いが心を駆け巡り、

深い深い打ち込むような落ち着きある音符が老齢の師に、駆け上がる細かな音符が若い自分のように思われて、師と二人で

会話をしているような錯覚すら感じた。

 

最後の到着点である長い長い和音が消えたあと、師は何とも言えない笑顔でこちらを見て下さっていた。

今もまだ焼き付いて離れない。充実感と高揚感が交互に押し寄せる。僕の祈りは通じただろうか。

 

 

指揮棒を持てるようになるまで。

 

指揮棒を持てるようになるまで数年かかる、と言われる。

持つだけなら簡単だけど、きちんとした持ち方があって、持ち方が出来ても今度は腕や肘の力の抜き/入れ具合が難しい。

今まで栄田さんに何百枚も撮ってもらったけど、このショットが残ったのは先日のプルチネルラ合わせ会がはじめてだった。

ようやく少しは棒が持てるようになってきたのかもしれない。

 

指揮棒と脱力

コマバ・メモリアル・チェロオーケストラ

 

2011年度の駒場祭で、チェロ・オーケストラを編成してヴィラ=ロボスのブラジル風バッハ一番を演奏致します。

ドミナントのデザインチームの皆さんが特設ページを作ってくれました。

何だか本格的過ぎて気恥ずかしくなりますが、どうぞご覧下さい。

http://ut-dominant.org/orchestra/komaba_memorial_cello_viila_lobos.html

コマバ・メモリアル・チェロオーケストラ×木許裕介

 

 

 

吹奏楽指導へ。

 

明日(今日)吹奏楽指導に来て欲しいとある中学校から依頼を貰ったので、行ってくることにします。

曲はポップスメドレーのようで、そもそもポップスの曲をあまり知らない僕にはほとんど初見になってしまう気もしますが

とりあえずやってみたいと思います。僕が指揮をしているオーケストラのメンバーに「一緒に来ませんか。」と声をかけたところ、

急な話にも関わらず、みなさん二つ返事で来て下さるそうで嬉しい限り。トランペット、トロンボーン、チューバ、オーボエ、フルートと

頼れる奏者のみんなを連れて伺います。吹奏楽も楽しいですね!

 

 

 

 

「シャネル&ストラヴィンスキー」

 

ストラヴィンスキーは土の匂いがする。気品のある野粗。冷静な狂い。

「春の祭典」を軸に、シャネルとストラヴィンスキーの出会いや交流を描いた本作は、そうした気品と野粗の相克に惹かれた

芸術家ふたりの物語だったと言い換えても良いだろう。ストラヴィンスキーは言う。「指先で音楽を感じないと作曲できない。」

シャネルもそこに重ねて答える。「同じね。私も指先で生地を感じないと。」

 

「頭の中に浮かんだ音楽を掴んで、鍵盤に投げつける」という言葉そのもののようなセックスシーン。

服を着たまま床で求め合い、重なり合う。そして次のシーンで流れてくる「春の祭典」冒頭の旋律に漂う官能!

惜しむらくはシャネルのNo.5についてのシーンが作品全体と遊離しており、単なるエピソード扱いになってしまっていること。

「香りの官能」という側面を入れようとしたのは分かるが、いっそ描かないか、それとももっとストラヴィンスキーと香りとを関わらせるか

すれば良かったのではないか。Numéro Cinq.という言葉を放つシーンが格好よいだけに勿体ないなと思った。

 

そういえば僕は大学一年の時にシャネルの服飾について集中的に研究していた時期があった。

四年になった今、年末に控えたコンサートのため、ストラヴィンスキーの「プルチネルラ」という曲を必死に勉強している。

二人ともが惹かれ合っていたのだから、シャネルとストラヴィンスキーの両方に惹かれるのはある意味で自然なことなのかもしれない。

 

 

 

子供のための音楽教室withプロオケ

 

またプロオケを振ることになりました。

自分のオーケストラでプルチネルラを指揮(12月17日)したその五日後に、某中学校の音楽教室でプロオケを振ります。

予定が極めてタイトなので僕自身の準備がかなり大変ですが、せっかく機会を頂いたのですから、精一杯やらせて頂きたいと思います。

曲目はチャイコフスキーの弦楽セレナーデなどが中心になる予定です。ちょっとしたトークもやります。

駒場祭のために特別に編成したチェロ・オーケストラ(11月)、自分のオーケストラ(12月,ドミナント)、プロオケ(12月)。

ヴィラ・ロボス、ストラヴィンスキー、チャイコフスキーと、年内にあと三回も指揮する本番があるなんて幸せな事ですね。

 

 

 

世界の裂け目を求めて。

 

放っておくと収束してくる世界に耐えきれなくて、僕はいつも裂け目を求める。

どうしてみんなは自ら世界を収束させ、安定を求めようとするのだろう。

まだ世界を収束させるには早過ぎる。纏まるのはまだ早い。自分をどこかに位置づけるのにも早過ぎる。

違う世界への入り口はどこだ。もっと広く、もっと深く。更なる可能性はどこにある。

焦らず、時間を限界までギリギリと引き延ばしながら耐える。音符の持つ長さを目一杯に伸ばし、小節線からはみ出ることも恐れずに待つ。

世界から世界へ渡り歩きながら、それぞれを繋げてゆく。足下に敷かれた石をたどりながら、いつしか大きな庭園を描く。

 

 

Sur la prière.

 

ブラジル風バッハ五番のアリアを勉強していたら、何の前触れもなく、一つの言葉を書きつけていた。

 

「芸術に携わるものなら押し並べてせねばならないことがある。それは祈ることだ。誰に?もちろん、自分に。」

 

自分に祈るということはどういうことだろうか。それは、自分の中のなにものかに入り込み、思いを馳せるということだと思う。

「祈る」という行為は、対象を慈しみ、尊び、心を注ぐということなのではないか。

祈りに満ちた曲を演奏するとき、対象に向かって心が研澄まされる感覚になる。逆もそうだ。

対象に向かって感覚を研澄ますと、「祈り」という行為を思い起こさずにはいられない。

祈ることを考えてからブラジル風バッハ五番のアリアを見ると、この曲が全く違う深みを帯びて見えてくるし、また

改めて「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲を読み直すと、もっと純化された音楽が立ち上がってくる。

いちどこの間奏曲を振ったとき、師に「こういう曲は淡々とやるほうがいい。」と言われて、そのときは「そういうものなのかなあ。」と

いまいち納得できなかったのだが、今ならその言葉の意味が理解できる。変にテンポを落としたり揺らしたりしなくてもいいんだ。

小細工ではなくて、祈りで純化された音楽が滔々と流れていけばいいんだ。

 

たぶんベートーヴェンの「運命」もそう。「英雄」もそう。人為的な小細工をして演奏する曲じゃない。

ここから遅く「します」ではなく、ここから遅く「なります」のはずだ。

祈りから溢れ出れば、自然に抑揚もテンポ変化も生まれてくるに違いない。

祈るように演奏する。演奏して祈る。ヴィラ・ロボスがそのことを教えてくれた。

 

 

ブラジル風バッハ五番を学ぶ。

 

ブラジル風バッハ一番を終えて、五番をレッスンで見て頂くことになった。

五番はこのブラジル風バッハという一連の曲の中で最も有名だろう。一楽章のアリアの旋律は一度聞いたら忘れる事の出来ない憂愁に満ちている。

歌詞はポルトガル語で書かれていて、日本語訳では

…….

夕暮れ、美しく夢見る空間に

透き通ったバラ色の雲がゆったりと浮く!

無限の中に月が優しく夕暮れを飾る。

夢見がちに綺麗な化粧をする

情の深い乙女のように。

 

美しくなりたいと心から希みながら

空と大地へ、ありとあらゆる自然が叫ぶ!

その哀しい愁訴に鳥たちの群も黙り

海はその富の全てを映す

優しい月の光はいま目覚めさす

笑い、そして泣く、胸かきむしる郷愁を。

 

夕暮れ、美しく夢見る空間に

透き通ったバラ色の雲がゆったりと浮く

…….

 

というような歌詞。もうこの歌詞だけで美しさに眼がくらむ思いがする。

とはいえこれはあくまでも日本語訳。この曲を振るためには、ポルトガル語を理解せねばならない。

そこで楽譜の研究と並行してポルトガル語を勉強し始めたが、イタリア語とフランス語をやっていたこともあり

比較的すぐに理解する事が出来た。一晩集中的に文法書を読み込んだ結果、この曲のアリアの歌詞なら

ポルトガル語のままで追える。(しかし二楽章のダンスとなると早すぎてまだ全然追う事が出来ない。)

次のレッスンまでに徹底的に楽譜とポルトガル語を勉強して臨みたい。

残された時間は限られていて、もう二度と学べないレッスンを日々受けていることを肌で感じている。