半年ぶりの帰省。
家族はいつもあたたかく、犬は平和そうに炬燵に潜り込む。
母の何気ない一品に、そこに込められた時間と経験を思う。
みんなが寝静まった中、黙々と譜読みに取りかかる。
ついにベートーヴェンの交響曲に取り組む時が来た。2012年はこの偉大な九つのシンフォニーとじっくり向き合う。
この楽譜を贈って下さった方の気持ちに恥じないように。
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半年ぶりの帰省。 家族はいつもあたたかく、犬は平和そうに炬燵に潜り込む。 母の何気ない一品に、そこに込められた時間と経験を思う。
みんなが寝静まった中、黙々と譜読みに取りかかる。 ついにベートーヴェンの交響曲に取り組む時が来た。2012年はこの偉大な九つのシンフォニーとじっくり向き合う。 この楽譜を贈って下さった方の気持ちに恥じないように。
中学校の音楽教室として、プロの奏者の方々から成る弦楽アンサンブルを指揮してきました。 お仕事としてプロを指揮させて頂くのはこれがはじめて。奏者の方々は僕が日頃楽器を教わる「先生」のような方ばかりで、 駆け出しの僕にとっては恐れ多いぐらいでしたが、幸せな機会を頂いたことに感謝しています。
場所は足立区の某中学校の体育館。 普通に壇上で演奏して生徒達がずらっと並んで聞く、といった形式はあまり面白いと思えなかったので、 オーケストラを床に降ろして、その周りを中学生達に囲んでもらう形式を取りました。プルトの一部になってもらうイメージです。 これは師匠が明日館でのコンサートで実践していたスタイルで、それが素敵だなあとずっと思い続けていたので真似してみました。 やっぱり近くで聞いて/見て/入り込んでこその楽しさがありますよね。
プログラムはシベリウスのAndante Festivo、ブリテンのSimple Symphony、モーツァルトのアイネ・クライネ一楽章で 「指揮者体験コーナー」(大盛り上がりでした!)、チャイコフスキーの弦楽セレナーデ一楽章、そしてクリスマス・ソングという普通の音楽教室とは 一風異なったものにしてみました。アイネ・クライネの一楽章は、僕がはじめてオーケストラの前に立って振った曲でもあります。 その一年半後にこんな場でこの曲を指揮するようになるとは想像もしませんでした。緊張した面持ちの生徒五人に「こうだよ」と振り方を教え、振ってもらって、 最後に「お手本」として僕が一楽章を最後まで指揮しましたが、自分がオーケストラの前に立って初めてコンサートを開いた一年半前のことが蘇ってきて、 色々と込み上げてくるものがありました。
そして終演後、指揮者体験コーナーにも登場した生徒会の会長さんからの挨拶で、 「木許先生みたいに分かりやすく・かっこよい指揮が出来るようになりたいです」という言葉とともに大きな花束を頂きました。 師匠には「あんなのじゃ全然ダメだよ」と一喝されてしまうでしょうが、それでも嬉しかったです。 と同時に、もっともっと精進しなければと気持ちを新たにしました。
これにて2011年度のステージはすべて終わり! プロのオーケストラを二度、チェロ・オーケストラとドミナント室内管の大きなコンサートとサロンコンサートと…沢山の指揮の機会に恵まれた一年でした。 拙い棒に付き合って弾いてくれる方々がいるからこそ、ということに心から感謝して、また師匠の元で勉強に励みたいと思います。 この一年間で一緒に演奏してくださったみなさん、本当にありがとうございました。来年もどうぞよろしく!
いよいよ明日、ドミナント室内管弦楽団のクリスマス・コンサート本番を迎える。 ドミナント室内管弦楽団を立ち上げてから一年半。こんなに大きくなるとは思ってもいなかったし、 まさかストラヴィンスキーをやることになるなんて考えもしなかった。
指揮しているだけでなく、このオーケストラを一から作ってきた身として凄く感慨深いものがある。 緊張はしない。このメンバーと音楽が出来ることを心から楽しみながら、今の僕に出来る限りの演奏をしようと思う。
gapyear.jpさまから取材を受けました。 休学するまで、休学してから、などのことが中心になっています。 何か身のあることが言えたかは分かりませんが、この一年の日々を振り返るつもりでお話させて頂きましたので、 ぜひご一読ください。(http://gapyear.jp/archives/1082)
コマバ・メモリアル・チェロオーケストラ、第一回公演の写真です。 写真は栄田康孝氏によるもの。ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ一番」を八人のチェリストと共に。
僕にとっても忘れられない時間になりました。 後ろまで人で一杯になるほど沢山の方々が聴きに来て下さっていたようで、本当にありがとうございます。 次回の演奏にもどうぞご期待ください。
2011年駒場祭特別演奏会として指揮した、チェロオーケストラのヴィラ=ロボスコンサートを無事に終えました。 別の公演のリハーサルに忙殺されていて、今回のコンサートの宣伝は当日の朝に学内にビラを三枚貼っただけなのですが、 開場前には長蛇の列が出来ており、また終わってみると200人近くの方々が聞きに来て下さっていました。
後から知った話ですが、駒場祭コンサートランキングの一位に公演の二日前(つまり駒場祭初日から。駒場祭は三日間行われていて、公演自体は最終日だったのです。) からずっとランクインしていたそうで、実は結構注目度が高かったのかもしれません。普段授業が開かれている教室でしたから響きはホールほどでは無かったかもしれませんが、 演奏としては今の僕に出来る限りの演奏になりました。
一楽章の終わり。地鳴りのするような深い深い音と共に、弓を離しても指揮棒を振り抜いても、ビブラートの目一杯かけられた音がその場の空気を揺らし続けていました。 そして二楽章では、沈み込むようなpppのあと、世界から人が消えてしまったのではないかと思えるような静寂を作り出し、その身を浸すことが出来たように思います。 三楽章の次々に積み重なって行くフーガを指揮しながら、「ああ、この瞬間はもう二度と来ないのだな。」と思えて、心に迫ってくるものがありました。
公演のあと、沢山の方々が感想を直接あるいはメールで下さいました。 その中の一つを、ご本人さまの許可のもと、ここに紹介させて頂きます。
身体の底まで震えるような共鳴、豊かな節回し。 荒々しく、推進力に溢れていて、叙情的で、壮大だ。ブラジル風バッハ一番はCDで何度か聞いていた事があったが 生で聞いたのは初めてで強い衝撃を受けた。そして今まで聞いたどの演奏とも違った。 まさか東京大学の学園祭でこのような曲を、このような演奏を聴く事ができるとは! 八人のチェリストの皆さんに心から拍手を送りたい。この曲は実際に聞かなければ凄さが分からない。 一度限りと言わずに、これからも、いや、これから何度でも演奏を続けて頂ければと心から願う。
そして指揮の木許裕介さんのその鮮やかな指揮ぶり!彼が現役の大学生だと知って驚愕した。 これほどまでに見事な指揮をする学生が東京大学にいるのか! 一振り一振りに溢れんばかりのエネルギーと万感の思いが込められていて、 彼がどれほどこの曲を把握し、大切に思っているかがその背中から苦しいほどに伝わって来た。 動きを見ているだけで曲に引き込まれてしまうような指揮。 楽器を弾くものとして、彼の棒で演奏してみたいと心から思う。そしてまた、演奏するならば、あの指揮に しっかりと反応できるような技術を身に付けて臨みたいと思った。 11月の駒場に響いたブラジル風バッハ一番を生涯忘れる事は無いだろう。
その他にも、「ヴィラ=ロボスなんて知らなかったしチェロ八本のアンサンブルを聴くのは初めてだったけれど、 こんなに良い曲があるんだと感動しました」と言う感想も頂けて嬉しかったです。 僕の師はヴィラ=ロボスの音楽を日本に広げることに力を注いでいましたから、もうヴィラ=ロボスを振ることが無くなった師の 弟子として、少しでもこのブラジルの豊かな音楽を広げることが出来たとあれば、幸せここに尽きます。
一度きり、のはずでしたが、毎年やってほしいという声を沢山の方々から頂きましたので、また五月祭や来年の駒場祭でも何か チェロオーケストラでやってみるつもりです。ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」には、チェロ八本とソプラノで演奏する 「ブラジル風バッハ五番」という曲もありますから、次はそれもいいかな、なんて考えています。 聞きに来て下さった方々、本当にありがとうございました。
いよいよコマバ・メモリアル・チェロオーケストラの本番を迎えた。 わずか30分の演奏時間、場所もいつも授業で使っている教室で響きも期待出来ないとはいえ、本番は本番。 出来る限りのものを出しに行く。忙しさにかまけて広報も大してしなかったのに多くの人が興味を持って下さったようで嬉しい限り。
師匠が愛したこの曲を、同じようにして自分が取り上げて実際に演奏出来る事が幸せでならない。 ヴィラ=ロボスよ、ブラジル風バッハ一番よ。師匠の棒には遠く及ばないけれど、我々の若いエネルギーと引き換えに、 サヴダージに満ちて駒場キャンパスに朗々と響け!
駒場祭三日目、11月27日に指揮するコマバ・メモリアル・チェロオーケストラの第二回リハーサルを終えた。 「チェロオーケストラ」といっても、中身はチェロ八本。オーケストラの人数には程遠い。しかし、八本のチェロの音が共鳴すると、 「オーケストラ」としか言い様のない、凄まじい深みのある音が鳴る。
演奏するヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ一番」は、チェロにとって屈指の難曲として知られ、アマチュアではちゃんと演奏するのは極めて難しいとされている。 今回のメンバーは全員アマチュア、東京大学の学生が五人、残る三人が東京外大・多摩川大学・開成高校だ。 練習回数はわずか三回しか無いが、数少ない練習時間の中で、この技巧的にも表現的にも難しい曲にがっちり挑戦してくれていて、 指揮者としても気合いが入る。そしてまた、この曲は僕の師の愛した曲でもあるから、中途半端な演奏は絶対にしたくない。 あと一回のリハーサルでどこまで形になるか、全力を尽くしてみようと思う。 それにしてもブラジル風バッハ一番、凄まじく良い曲だ。師が言っていた。「一回ずつ違うように演奏したくなるんだよね。」と。 実際にやってみた今ならその言葉の意味するところが分かる。譜面や小節がどうでも良くなるような大らかさと流れがある。 ヴィラ=ロボスの音楽、師と同じように、生涯を通して取り上げて行きたい。
ベートーヴェンのエグモント序曲を再び勉強していた。 「ああ、これは凄いな。」と思ったエグモントの演奏は三つ。 三十年前の師匠のレッスンでの演奏と、フルトヴェングラーの演奏、そしてジュリーニの1976年9月5日ライヴだ。 ジュリーニのライヴは忘れがたい一小節がある。Allegro con brioに入る前のVnのドーーーーソの部分。ジュリーニはこのソの音を弱音で啜り泣くように演奏させている。
ジュリーニがどう考えてここをこう演奏したのかは誰にも分からないが、少なくとも僕はこういうことだと考える。 決然としたドーーーーの音がエグモント伯爵の生き様(エグモントは力強く処刑台に向かう!)と信念を表し、 啜り泣くようなソの音が愛人のクレールヒェンの悲嘆を表す。スコアには何の指示もない。完全にジュリーニの解釈だ。 しかしある意味で、この壮絶な劇を一小節で表現しきっているように思われる。「劇的=Dramatic」という言葉がまさに似つかわしい。 オペラ「夕鶴」で知られる木下順二が『“劇的”とは』(岩波新書)という著作の中でこう書いていたことを思い出す。
ある願望があって、それも願わくは妄想的でも平凡でもない強烈な願望があって、それをどうしても達成しようと思わないではいられない やはり強烈な性格の人物がいる。そして彼は見事にその願望を達成するのだが、それを達成するということは、同時に彼がまさにその上に 立っている基盤そのものを見事に否定し去るのだというそういう矛盾の存在。 『オイディプス王』から『人形の家』まで、すぐれた戯曲をつらぬいているものは、この絶対に平凡でない原理であるように思う。 そしてその原理こそがドラマであり、その原理の集約点がつまりドラマのクライマクスである。 (木下順二『“劇的”とは』P.62、『ドラマとの対話』からの引用部分)
ベートーヴェンがその音楽の元としたゲーテの『エグモント』はまさにそうしたドラマだ。 そしてジュリーニはそのクライマクスを輝かしきフィナーレではなく、フィナーレの前のあの弦の部分に持ってきたのだ。 進撃するAllegro con brioがまるで後奏のように響くのは、その前のあの部分であまりにも鮮烈に映像が展開するからだろう。
ジュリーニの演奏に留まらず、エグモント序曲という楽譜、そして音楽からは「映像」が強く立ち上がってくる。 エグモントの74小節目からのSfのティーーヤヤ、ティーーヤヤという弾力に富んだフレーズからは、馬に乗ってしなるような歩みで 進撃する様子が浮かんでくるし、続く82小節目からのザンザンッ、ザザンザンッ!という決然としたフレーズからは立ちふさがる敵をなぎ倒すような 光景が浮かぶ。だとすれば、弦楽器のボウイングもそれに近づくのではないか、と考えるのは間違いではあるまい。
なぜならば、生演奏が基本であったクラシックの音楽において、作曲が視覚的要素と無関係であったとは思えない。 とりわけ劇音楽はそうだろう。シナリオがまずあり、それが作曲者の頭に映像として浮かび、それを音にするのだから。 そうしたとき、沢山の人数が一斉に同じ動きをする弦楽器は、作曲者にとって具体的な映像を与える役割を果たしたはずだ。
私見だが、あくまでも私見だが、弦楽器のボウイングはたとえば海を駆ける船の帆、あるいは剣を振るう騎士に見える瞬間があるし、 スコアを読めばベートーヴェンにもそう見えていたのではないかと想像出来る時がある。 楽譜から映像が浮かぶ。逆もまた然り。弦の動きがある視覚的イメージを喚起し、楽譜を呼び起こす。 音楽を奏でる主体の動きから、音楽の場面としての映像が立ち上がる。
「劇的」とは、そういうことだと思う。 視覚が聴覚に、聴覚が視覚に。五感に否応無く訴えかけ、人を否応無く巻き込んで行く力のことだ。
今日からついにベートーヴェンの「エグモント」序曲に入った。 悲劇と興奮と確信と、弾力性のある情感。「運命」を凝縮したような音楽で、この序曲にいくつもの物語が詰まっている。 コリオランもそうだったが、エグモントは心の中をエグモントにしないと絶対に振れない。 波風立たぬ凪いだ気持ちではだめだ。だから感情の振れ幅が大きくないと指揮者なんてやっていられない。 冷静にもなれるし、時には信じられないほどの激情に突き動かされる事もあり、両者を自在に切り替えられないといけない。
それはもう、指揮法の問題ではなく「人間」の問題といっても良いだろう。 数ヶ月前のレッスンが終わってから下さった、「ここから先は君がどういう人間になるかだよ」という師の言葉が今になって蘇る。 あの言葉は誇張でも何でもなくその通りだった。僕はまだ所詮24歳で社会のことも人生のことも何にも知らない宙ぶらりんの学生かもしれないが、 自らの信ずるところを全うして最後まで揺るがず、最終的には堂々たる死を選んだエグモント伯爵のように、強い芯のある人間でいたいなと思う。 そして間違いなく師匠はそういう人だ。いわばエグモントにエグモントを習っている。ああ、日々が楽しくて仕方がない。
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