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25歳を迎えて。-指揮台の上で迎える誕生日-

また一つ年齢を重ね、二十五歳という年齢を迎えることになった。

二十五歳。ハタチの頃の僕にとって、それは遠い遠い年齢で、同時に一つの区切りの年齢でもあった。

 

二十歳のころ、僕は浪人生で、勉強に大した興味も持てず、友人たちが先に大学生になっていくのをぼんやりと眺め

追いて行かれるという事に対する漠然とした寂しさに必死で抵抗していた。

だからこそ、次の区切りの年齢が来たときには安定した進路にいることが出来るようにと心の奥底で願っていた。

 

あれから五年。僕はさらに「遅れる」ことを、いや、「迂回する」ことを自分から選んでいた。

こうして二十五歳を迎えるという事に恐怖も空虚さも感じないかといえば嘘になる。

しかしそうした感情以上に充実感が先立つこともまた事実だ。安定はしていないかもしれないけど、毎日は刺激的で面白い。

 

誕生日当日はドミナント室内管弦楽団のリハーサルだった。

ベートーヴェンの一番のリハーサルを終え、それではしばらく休憩を、と言って指揮棒を離したら

突然「せーの!」というコンミスのかけ声が響いて、みんながHappy birthday to youを演奏してくれた。本当にびっくりした。

2と5の数字を象ったろうそくに大きなケーキまで。トランペットが高らかに歌うハッピーバースデーに包まれて、

照れ臭さで声にならない笑いが込み上げてくると同時に、こんな幸せな時間を準備してくれたことに心の底から感動した。本当にありがとう。

 

ハッピーバースデーが流れる中、指揮台で立ち尽くしながら、二十歳の浪人時代からずっと心に留めているこの一節が回帰した。

Man muss noch Chaos in sich haben, um einen tanzenden Stern gebären zu können.

 

二十五歳、世界を閉じるための一歩を踏み出すには早すぎる。

暗闇に差し出した一歩で視界が開けることを楽しみに、迷いながらも足取り軽く。

 

 

指揮台の上で迎える誕生日。

傾く思考

東京で桜が満開になった日、桜を辿ってふらふらと歩いたあと、本屋をゆっくりと巡っていた。

しばらく探していたヴォルフガング・シュヴェルヴュシュ『闇をひらく光 -19世紀における照明の歴史-』を発見して購入。

おそらく卒論で使うことになるだろう。

 

数えてみれば、三時間ぐらい一つの本屋にいたことになる。

Amazonなどで自宅にいながらにして簡単に本が買えるようになったけれども、立花さんが言うように、

定期的に大きな本屋を散歩することは大切で、買うとも無しに本棚と本棚の間を歩いて背表紙の数々を眺めていると

自分が無知であることに改めて気付かされる。

インターネットで本を買うときは「自分が本を選んでいる」感覚だが、本屋に足を運び、質量や手触り、かさを伴う「本」に囲まれると

まるで自分が「本に選ばれている」気分になる。このフロアに並べられた本のうち、僕が読んだことがあるのは本の0.000…%で、

自分の興味がある分野の棚に限っても、実際に読んだ事があるのは僅かにすぎない。棚から棚へ、フロアからフロアへ。

足の疲れとともに、ゲーテの『ファウスト』を持ち出すまでもなく、「何にも知らない」ことに愕然とするのだ。

 

Read, read, read. Read everything–trash, classics, good and bad, and see how they do it.Just like a carpenter who works as an apprentice and studies master. Read! You’ll absorb it.Then write. If it is good, you will find out. If it’s not, throw it out the window.(William Faulkner)

 

休学を終えて大学に戻るにあたって、頭が学問の方向に再び傾きはじめたのを感じる。

もちろん音楽のことも忘れてはいない。音楽への興味を抑えるつもりは無いし、今までと変わらず学んでいく。

ただ、気持ちをうまく切り替えていかないと卒論と両立は出来ないだろうなと思う。

音楽、そして指揮を学ぶことは、僕にとってそれぐらい劇的で、魅力的なことだから。

 

 

東京駅を降りて丸善へ歩くと、リクルートスーツの人たちと擦れ違う。

入学した時の同級生たちが社会に出て働き始めたのを見るたびに、

さらには後輩たちが就職への準備を進めていくのを聞くたびに、

僕はこのまま就職活動をしなくて良いのだろうか、果たして生きて行けるのだろうかという不安が浮かんでくる。

けれどもやはり、焦るまい。少しばかり年齢は嵩むが、僕は大学院へ進もうと思う。

まだ何にも知らないのに、今からようやく面白くなってくるところなのに、まだ大学での時間や

指揮を学ぶことを終えるには早すぎる。あと半分残っている20代、お金や地位を求めるのではなく、

自分にヤスリをかけるように、弓をギリギリいっぱいまで引き絞るように過ごす。

そのうちにいつか自然に将来が開けてくると信じて。

 

 

ぼんやりとそんなことを考えながら、夕陽が綺麗にさしこむ喫茶店に入って珈琲を頼み、

角砂糖をひとつ放り込んでから、角砂糖についた紙の包装ごと珈琲に入れてしまったことに気付く。

春である。

 

L'ensemble, non troppo.

 

 

Le vrai but est de crèer le orchestre qui peut s’harmoniser avec non seulment le son , mais le humain.

C’est une èquipe,  qui a un credo dans les membres.   Cela ne presse pas.

 

Hills Breakfast Vol.14

 

六本木ヒルズにて行われているHills Breakfastというイベントで少しだけお話をさせて頂きました。

登壇者は主に社会人中心のイベントのようでしたが、東京大学より推薦を頂き、

その上で幸運なことに森ビルさまより選んで頂きましたので、貴重な機会と思い、出させて頂きました。

 

「指揮という芸術、何だか分からないもの」と題して、休学したこの一年で打ち込んだもの、

そして指揮がどういう芸術なのかを、ピアノによる実演(「運命」や「子供の情景」、「月の光」など)を交えながら

今の僕に出来る範囲で手短に説明してみました。時間制限が結構厳しいものでしたので

上手く伝わったか分かりませんが、終わってから沢山の人に「面白かった!!」とお声をかけて頂き嬉しかったです。

 

僕が思っていたよりも遥かに沢山の方々がいらっしゃっており、その熱気に、こんなに早い時間から200名もの方々が

集まるイベントというのは凄いなあ、と本当に驚きました。(ヒルズ・カフェがぎっしりと奥まで埋まり、立ち見も

沢山出ていました!)そのぶん一番後ろの方々は指揮の実演が見づらいかなと思ったので、講演者用の壇を降りて

スライドを映し出しているプロジェクターとスクリーンの間に敢えて入り、指揮姿や指揮棒の軌跡を影絵のように拡大することで

後ろの方まで見えるように即興でやってみました。(ちょっと眩しかったですけど、本番の舞台での照明に比べれば!)

 

 

拙い話になりましたが、もしご興味を持って頂けた方がいらっしゃったならば、

その日に話したことのフルバージョンのようなものが書いてあるこちらのインタビューもお読み頂ければと思います。

(http://gapyear.jp/archives/1082)

 

企画して下さった森ビルの方々、僕のような若輩者を推薦して下さった東京大学の先生方、

伴奏してくださったピアニストの清水さん、そして朝早くからお越し頂きました皆様、貴重な機会をありがとうございました。

東京大学を休学して自らの信ずるものに打ち込んだ一年間の締めくくりとしてこれ以上ない、記憶に残る一日となりました。

 

講演を終え、動き出したばかりの朝の街をふらふらと歩きながら、柔らかく緩んだ空気に春の訪れを思い、

新しい一年が始まることを肌で感じました。あっという間に過ぎ去った一年でしたが、

どの一年間よりも刺激的で彩りに満ちた日々だったと笑顔で言うことが出来そうです。

 

休学の終わりに-HIll's breakfast -

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第十一回「千の会」

 

また今年もプロ・オーケストラを指揮させて頂く事になりました。

昨年はモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲とプロコフィエフの「古典交響曲」を振りましたが、今年は

ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」に挑みます。そして最後に、師匠がブラームスの交響曲第四番を。

二十四歳の僕にとっては初めてのブラームス、八十六歳を迎えた師匠にとっては生涯最後のブラームス第四番になることでしょう。

 

 

昨年も素敵な演奏者の方々に恵まれましたが、今年もまた、国内で名を馳せるプロの方々が集まって下さいました。

コンサート・マスターにはなんと、東京交響楽団でコンサート・マスターを務めていらっしゃる高木和弘さんがあたって下さることが決まり、

駆け出しの僕などが振らせて頂くには恐れ多いほどですが、同時に、物凄く楽しみでもあります。沢山勉強させて頂こうと思います。

 

またこうして師と同じステージに立つ事が出来る日がやってくるとは思いもしませんでした。

大学を一年間休学して学んだ成果をこのハイドン・バリエーションに全て凝縮し、精一杯振ります。

どうか皆様、今年もまたお越し頂ければ幸いです。

 

 

………..

<第十一回「千の会」村方千之と門下によるジョイント・コンサート>

5/5(土・祝)13:00開場 13:30開演

於:練馬文化センター小ホール 全席自由・3000円

 

★金澤詩乃
ウェーバー:「オベロン」序曲

★萩野慎
シベリウス:交響詩「フィンランディア」
シベリウス:「悲しきワルツ」

★木許裕介
ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲

★高橋淳二(ソリスト:渡邉 みな子)
ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 二楽章・三楽章

★村方千之
ブラームス:交響曲第四番ホ短調

 

 

チケットのお求めはお名前と枚数を添えてinfo[at]ut-dominant.orgまでご連絡下さいませ。

あまり広いホールではありませんので、お早めにご予約頂いたほうが安全かもしれません。

TwitterやFacebookでリプライを頂く形でもお取り置きさせて頂きます。お気軽にどうぞ!

 

 

第十一回「千の会」フライヤー

 

 

 

スキーを終えて。

 

随分と更新の間が空いてしまいましたが、スキーから無事に帰ってきました。

志賀高原は最高の雪。前日までに新雪が沢山積もり、僕たちがスキー場についたころには燦々と陽射しが差し込む快晴でした。

誰もいないゲレンデを見渡しながらリフトで一気に山頂まで昇り、積もりたての雪の中をカービングで一気にぶっ飛ばしていくのは

爽快以外の何物でもなく、生きていて良かったと思えるほどの心地よさです。

 

今年から、志賀高原のリフト券に一工夫が加えられ、「Skiline」というアプリと連動するようになっていました。

これに登録しておくと、リフトの改札センサー情報から一日にどれぐらいの距離/標高差を滑ったかが分かります。

ということで、ドミナントのメンバーとともに滑り倒し、部屋に戻っては滑走距離を確認し、

さらにはナイター(一の瀬のダイヤモンドゲレンデ)にも出かけてストイックに滑走距離を伸ばしていました。

 

いつもは横手山の近くに泊まって横手山から奥志賀の方に次々と移動していくのですが、今年は一の瀬の麓に宿泊したので

どちらかというと一の瀬―焼額―奥志賀、それから寺子屋などのコースをメインに滑ることに。

もちろん、ちゃんといつもの横手山にも向かって、頂上のヒュッテでロシアンティーとふわふわのパンを堪能してきました。

 

滑っていて気持ちよかったのは一の瀬のパーフェクタコース。それなりの角度がついていて、バーンも綺麗に整備されており

練習には最適でした。部屋に帰ってお風呂に入り、一度みんなで倒れて鋭気を養ってから、恒例のお酒祭り。

もはや何の連絡も回さなくとも参加者がそれぞれ思い思いのお酒を持って来ており、

「これがオススメなんだよ〜!」とワイン、日本酒、ウォッカ、焼酎が次々と…十人で十本以上のボトルを簡単に空けてしまいました。

 

 

今年もまた志賀高原で自然に遊んでもらうことが出来て幸せです。

来年も無事に、ここで風を切りながら滑る事が出来るといいな。

 

 

今年も志賀高原へ。

 

ドミナント・デザインチーム&オーケストラのメンバーと共に、今年もまた志賀高原へスキーへ行ってきます。

僕にとってスキーと言えば志賀高原で、一年に一回は必ず、山々が連なるあの雄大な景色に身を置いてみたくなるのです。

雲の上までリフトで運ばれ横手山の山頂から遠くを見渡すとき、広大な風景を臨みつつ焼額山から一気に麓まで滑り降りるとき、

「自分は今ここで確かに生きている」ということに幸せを感じずにはいられません。

 

 

サーフィンと同じく、自然に遊んでもらっているということを忘れないようにして、

気心の知れた仲間たちと共に、白銀の世界へ行ってきます。

 

 

心が満ちるまで。

 

一度コンサートを終えると、その準備にかかった時間や諸々の雑事などに疲れて、

あるいは自らの未熟さを痛感し、しばらく間を空けようと思う。

 

だが、それも一ヶ月経つと限界。

僕はもう、うずうずしている。また指揮がしたい。みんなの音が聞きたい。

指揮をするのは壮絶にエネルギーを必要とする。演奏者集めから曲選に始まり、自分の精神状況の準備に至るまで、

どれ一つとして簡単に済ましてしまえるものはない。けれども、自分が尊敬する、大好きな奏者たちがそれぞれの音を一つに集めようと

してくれているのを感じるとき、すべての苦労を超える幸せを噛み締めずにはいられない。

 

本番前の言葉にならぬ高揚、幕間のざわめき、すべてを終えた後の虚脱感と充実感。

後日、演奏を聞いて下さった方が言葉にして感想を綴って下さったものを目にする時の幸せ。

今までの人生の中で、これほどまでに感情を揺さぶってくれるものを僕は音楽以外に知らないし、

おそらくこれからもそうであり続けることだろう。ドミナント室内管弦楽団のみんなと

ストラヴィンスキーの終曲を本番にしか生まれ得ぬ熱気の中で演奏しているとき、

あるいはヴィラ=ロボスを心から溢れるような思いで演奏しているとき、

痺れる頭で、自分は今ここで確かに生きているのだと気付いた。

 

もっと指揮がしたい。もっと本番を振りたい。もっとステージに立ちたい。

休息は終わりだ。日々を淡々とこなしながら、次に向けて動き出さなければならぬ。

 

 

 

音の「密度」

 

レオノーレ三番を終え、いよいよベートーヴェンの交響曲第一番に取り組んでいる。

ベートーヴェンに入ってみて明確に分かったことが一つある。それは音の「密度」の問題だ。

そして音の「密度」こそがテンポやダイナミクスの限界レンジを決定づけているように思う。

 

 

たとえばレオノーレ三番やベートーヴェン一番冒頭のAdagioの部分。

フルトヴェングラーぐらいのじっくりしたテンポで僕が振るとその重さに耐えきれず、流れが消えて鈍重になってしまう。

しかし同じテンポであっても先生が振って下さると、流れが見え、緊張感を放ちつつ悠々として音楽が進み始める。

重さに意味がある、と言えばよいのか。一つ一つの音の中身がぎっしり詰まっていて

(まるで一つの音符・和音の中に無数の小さな音符がぎっしり充填されたような!)音と音の合間に隙間が見えない。

だからあのテンポに耐えきれる。耐えきれるどころか雄弁になる。

そこにはもちろん、86という年齢を迎える師匠の深い深い呼吸も影響しているのだろうが、それだけではなく

引き出されている一つ一つの音の「密度」が全く違うのだ。

師の棒でブラジル風バッハ四番前奏曲を弾いたあるヴィオラ奏者がこう言っていたことを思い出す。

「今まで出したことのないような音が楽器から出た。伸ばしの音を弾いている間に水墨画のような空間が見えた。」

 

棒だけで音の密度を高めうる。

どうしてそんなことが起こるのか、感覚的には分かりつつあるのだが、まだ上手く言葉にすることは出来ない。

ベートーヴェンの偉大な九曲の交響曲をレッスンで見て頂く過程で師から何としても学ばなければ(盗まなければ)

ならないものの一つは、この「密度」の表現だろう。

 

ベートーヴェンの先にはブラームスの四曲が聳え立つ。

5月にはプロでブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」を振ることにもなった。

どれもベートーヴェン以上にこのことが問題になる曲ばかり。

2012年は音の「密度」をテーマに、指揮というこの底知れぬ芸術を学んでゆく。

 

 

 

 

 

祭りと孤独

 

12月の暮れ、久しぶりに戻ってきた街を歩きながらぼんやりと考える。

大晦日とあって街は人で溢れ、いつもとは違う景色を見せている。けれども思い出は確かにその街の至る所に刻まれていて

ひとりでに足が進み、次々と過去の記憶が蘇る。ひとしきり思い出に身を浸し、電車に乗り込んで現実へと戻ってくると、

この一年がもうすぐ終わることに改めて気付く。

 

振り返れば失ったものも得たものも大きい一年間で、同時に、今までで最も変化に富んだ一年間だった。

一年の中で中心にあったのはやはり音楽、指揮を学ぶことだっただろう。

あの頼りない一本の棒を握って、いくつもの曲とともに僕は2011年を過ごしてきた。

今年実際にステージで振った作曲家だけを挙げてもかなりの数になる。

モーツアルト、プロコフィエフ、チャイコフスキー、シベリウス、ストラヴィンスキー、ブリテン、ヴィラ=ロボス…etc.

そして師からレッスンで教わった曲を数えればこの二倍どころではないだろう。

プロオケを振り、チェロ・オーケストラを立ち上げて指揮し、一年前に原型を作ったドミナント室内管弦楽団はコンサートを開けるまでの

形になった。至らない所は数限りなくあるけれども、とにかく沢山の人と、言葉や音で話した日々だった。

 

 

でも、一番話した相手は他でもない「自分」だったはずだ。

オーケストラの前にいる時間以外は、孤独に自分と向かい合う時間を作ろうとしていた。

浪人時代のようにひとり静かに読み、書き、思考し、出口の無い空間で立ち止まり、

一日を勝手気ままに自分の思うように使った。経済的にではなく、精神的に豊かであろうとした。

何かに運ばれて生きるのではなく、混沌の中で揺れ続け、自分で自分を運びながら生きようとした。

浪人中に書き付けて今もなお飾ったままにしてあるこの言葉のように。

 

Man muss noch Chaos in sich haben, um einen tanzenden Stern gebären zu können.“

(You need chaos in your soul to give birth to a dancing star.) — F.Nietzsche: Also sprach Zarathustra

 

 

2011年が終わる。

いくつもの出会いと別れを経験し、祭りと孤独の中にあった一年だった。

この一年間に出会って下さった方々、支えて下さった方々、そして一緒に演奏して下さった方々に心からの感謝を。

どうぞ良いお年をお迎え下さい。

 

 

祈り(Yusuke Kimoto / Photo by Y.Eida)