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雨上がりの紫陽花、合わせ鏡の境地

 

一年前に師より託され、師に代わって教えさせて頂いている門下の後輩の演奏会を聞いて来た。

レッスン、という言葉は未熟な僕には尊大にすぎる。一緒に勉強した、という言葉が適切だろう。

樽屋雅徳 「ゲルダの鏡」。すっかり僕も暗譜してしまっている。

テンポや拍子の揺れもそれなりにあって、決して簡単な曲ではない。(そもそも簡単な曲などない)

しかしそうした問題は練習の中でクリアされていったし、本番でも実にスムーズに奏者を導く事ができていた。

もちろん課題は沢山ある。けれども本番の彼女は、二つの意味で良い棒を振っていたと思う。

 

一つは、迷いの無さだ。

僕自身の課題でもあり、そしてそれゆえに、毎週終電近くまで共に勉強するうちに彼女に何としても伝えたかったことだ。

迷いの無い指揮。自分、それから一緒にステージを共有する奏者を信じること。

それがどれほど大切なことで、同時に、どれほど難しいことか。

 

もう一つは、指揮がずいぶんと大きく見えるようになったことだ。

一年前に同じコンサートで指揮する姿を見たときよりも格段に大きくなった。一年間の成果があったと思った。

なぜならば、師が一年前に彼女の指揮を見て僕に伝えた事は、「もっと大きく振れるように」ということだったからだ。

大きく振る。それは単純なことのように聞こえるかもしれないが、精神的にも身体的にも様々な困難を孕む本質的な問題なのだ。

コンパクトに纏まった若者ほどつまらないものはない。機械的に振る指揮者ほど触発されないものはない。

伝達のために整理整頓されながらも、自分の壁を突き破り、何かが溢れ出してこなければならぬ…。

 

帰り道、雨上がりの紫陽花の美しさに魅せられながら、僕がdevenir (生成-未来)と呼んでいる一つの動きのことを考えた。

師が何気なく行うその一つの動作。それは自由な動きなのだけれども、針の穴を射抜くほど精密な動きでもある。

今日の演奏会を見ていて、その動きの本質に一歩だけ近づいた気がした。見えなかった<意味>が僅かに見えて、その壮絶な繊細さに紫陽花の青を重ねてゾクリとした。

 

教えさせて頂く立場を経験してみればみるほどに、そして振れば振るほどに、師の凄みに突き当たる。

全人生を賭けても届くか分からないその境地の遠さを思う。

 

雨上がりの紫陽花(Lumix G6, Lumix 20mm F.1,7)

 

 

 

 

 

残響

 

 

今日はお世話になっているヤマハの発表会でステージマネージャーをさせて頂きました。

自分の出番が無いと楽かと思いきや、逆に気が張るものです。

椅子を並べ、譜面台を出し入れし、ステージへのドアを適切な呼吸とリズムで開ける。

少しでも奏者にストレス無く弾いて頂くためにはどうすれば良いか、と頭を使う感覚は、指揮しているときと共通しているものがあって

立ちっぱなしの七時間でしたが沢山学ぶ事がありました。と同時に、自分が指揮させて頂くコンサートの一つ一つが出来上がるために

どれほど多くの方々 の力に支えて頂いているか、改めて確認する時間ともなりました。こういうことをいつまでも心に留めておかねばと思います。

 

会場であった明日館は僕の師匠が愛したホールで、師の指揮するブラジル風バッハを初めて聞いた場所でもあります。

あのわずか数分によって僕の人生は決定的に動かされました。

悲しくもないのに涙が溢れて止まらない、一生忘れる事の出来ない時間。人間は棒一本でこんなことが出来るのかと絶句した時間。

きっとこのホールの壁のどこかに、あのブラジル風バッハが染みている。

思い出のハイドン・バリエーションが響き渡った終演後、人気が無くなった会場に佇みながら、五年前の秋のことを思い出さずにはいられませんでした。

 

はじまりの明日館

 

 

振って聞いて書く

五月の週末も音楽で充実。金曜夜にブラームス一番の下合わせと初級の方々のレッスンを日が変わるころまで。

そして土曜朝からシベリウス七番のリハーサルのち、友人の室内楽コンサートで赤坂カーサ・クラシカ。

日曜日は大学院の同期が出演する池袋ジャズフェスティバルを堪能。ブラック・ミュージックを主に取り上げたセットで、レイ・チャールズ・メドレーが格好良い。

カーサ・クラシカは室内楽コンサートをした思い出の場所。あの壮絶なショスタコーヴィッチは忘れられない。

そしてジャズフェスティバルみたいな野外コンサートに接すると、フィリピンでUUUオーケストラと演奏した日々のことを思い出さずにはいられない。

これからもリハーサルが無い週末は出来る限り友人たちのコンサートに足を運びたいなあと思いつつ、昼からビールを飲みながら上機嫌に論文執筆。

輝く原点、子供の情景

 

 

昨夜の後輩のレッスンで、久しぶりにシューマンの「子供の情景」を聞いた。

「子供の情景」は我々の指揮法教室で必ず経験する曲で、ここからようやく「音楽」することを教わるといっても過言ではないだろう。

それだけにこの曲集は特別なのだ。僕が教わったときもそうだったけれど、指揮という芸術はこんなことが出来るのか、と感動せざるを得ない。

87歳となった師がこの曲をどう教えるのか出来るだけ近いところで見ていたくて、師の横で譜めくりをしながらレッスンを見ていた。

 

最初から最後まで、溢れてくる涙を止めるのに必死だった。

あと何回、師の指揮するこの音楽を聞く事が出来るのだろう。第一曲目のVon fremden Ländern und Menschen(見知らぬ国々と人々について)を

振りながら、「目にするもの全てが見知らぬもの、目新しいもの。そんな地に足を踏み入れた子供はどう思う?」と語る師を、あるいは

第二曲目のKuriose Geschichte(珍しいお話)で「君の振っている音楽だと珍しくないねえ。もっと珍しくしてごらんよ」と笑う師を、あと何度見る事が出来るのだろう。

そして第四曲目のBittendes Kind(おねだり)を愛おしそうに紡いで行く皺の刻まれた師の大きな手。

音が包まれていくように、あるべき場所にあるべきスピードと情緒でふわりと到着するのを霞む目で見ながら、今まで過ごして来た時間を振り返った。

 

この曲集を教わってからもう三年が経つ。

ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルザーク…たくさんの曲を、そして巨大な曲を振るようになるにつれ、

自分の手から溢れてしまう苦しさや、リハーサルで上手く音楽を作れなかった悔しさを味わった。

どうして僕は指揮をしているのだろう、と自問したことも何度もあった。

けれどもやはり。音楽を、指揮をすることは感動的で、楽しくて、温かい。

指揮という営みの楽しさと限りない可能性。「子供の情景」は、そのことを痛切に味合わせてくれる。

 

おそらく何十年先になっても、子供の情景は僕にとって立ち返るべき原点としてあり続けるだろう。

棒の一振りで音楽が息づき、色とりどりの宝石のように輝き始める。

夢見るようなロマンを湛えて詩人が語る。

全てはここから始まったし、全てはここにあった。

 

 

雨の夜、The Melody At Night, With You

 

雨の夜には、普段あんまり聞かないキース・ジャレットのピアノを無性に聞きたくなる時がある。

聞きたくなるのはいつもこの、The Melody At Night, With Youというアルバムだ。

このアルバムは闘病生活(キースは「慢性疲労症候群」で3年間演奏からリタイアする)を支えた妻に捧げたものだと言われている。

本来は発売する予定のものではなく、プライベートな録音だったらしい。だからこそ、なのかは定かではないが、自己に深く沈潜しながらも

大切な誰か一人に捧げるような、祈りのような感情が籠められているように思う。Blame It on My YouthからMeditationへと至る静かな歩みを、

My Wild Irish Roseの無理に笑おうとしているような、傷ついた人を慰めようと笑顔を注ぎながら、心の底では自身も涙を溢れさせているような素朴な歌を聴くたびに、

不思議と涙が溢れてくるのを抑えることができない。

 

そして必ず思い出す。

もう生きるのが嫌になっちゃった、と泣きながら雨の日に電話をしてきたあの後輩のことを。

 

 

 

The Melody At Night, With You

 

 

 

「ジュピター」と『死の瞬間』、そして「サレルノ湾の月夜」

 

モーツァルトの41番、「ジュピター」を勉強している。

四楽章のあの有名な「ドレファミ」というジュピター音型(モーツァルトはこの音型を自身の最初の交響曲でも用いている!)

の神々しい美しさもさることながら、僕はこの二楽章を聞くたび、読むたびに心の中が掻き乱されるような思いを抱く。

楽譜を見るだけで涙が止まらなくなること、一度や二度ではない。

 

それはまるで舟上にいるような穏やかな陽射しに包まれた歌だ。

陽射しは燦々と注がない。雲の切れ間から柔らかく水面に反射しながら辺りを仄明るく照らす。

淡い平和、しかしその中に時折、「死」が顔を覗かせ、その冷たさに慟哭する。

モーツァルトに死が訪れるまで残り三年。この時すでに死を予感していたのか。

楽譜から、「まだ死にたくないよ、生きたいよ。」という心の奥底から溢れ出るような言葉が立ち上がってくる。

だが、その訴えはいつしかエネルギーを失い、最後には諦念が訪れる。

そして静かに死を受け入れ、空に吸い込まれ、消えゆく…。

 

だからジュピターを勉強しているといつも、キューブラー・ロスの『死の瞬間』という本を思い出す。

一楽章は生と大地の音楽、二楽章は緩やかな死に至る歌。

三楽章のメヌエットは地上と天上の狭間、空へと連れてゆく天使たちの遊び。

四楽章はもう人間のものではない。天空、神々の音楽。

そういうふうに、「生と死」あるいは「大地と天空」を描いた曲のように思えるのだ。

 

そしてまた、陽射しではないのだけれど、二楽章を考えるたびに頭の中に浮かぶ光景に近い絵がある。

個人的に思い出深く、大切な絵の一つ。フェルディナント・エーメという画家の「サレルノ湾の月夜」(1827年)と題された絵がそれだ。

ドレスデン国立美術館に所蔵されたこの絵には、「生と死」「光と闇」「空と海」のように、矛盾あるいは背中合わせの何かが同居している。

ジュピターの二楽章、Andante Cantabileが描いているのはこういう世界だと僕は思う。

 

サレルノ湾の月夜

 

言葉を持った音、語る棒。

 

ムソルグスキー「展覧会の絵」の最後に置かれた壮大な曲、「キエフの大門」。

今の僕には、その壮大さに心が打ち負けてしまうような曲。未熟なりに振り終わったあと、

師匠がぽつりと漏らした言葉を僕は一生忘れない。

 

「音符に言葉を話させ、棒で語れ。君はそういう指揮者になれ。」

 

 

音符に雄弁に物語を紡がせ、口ではなく棒ひとつで音と言葉を語り、奏者に伝える。

何十年かかってもいい。そういう指揮者になりたい。

 

 

 

 

東フィル&大野和士:マーラー「復活」@サントリーホール

 

大野さんの指揮と東フィルの演奏で、マーラーの交響曲二番「復活」を聴いてきた。

警備がいつになく物々しいなと思っていたら、近くに皇太子さまがお座りになって少しびっくり。

「復活」は大編成の管弦楽に加えて、ソリスト(ソプラノ&アルト)二名+男女混声合唱を伴う巨大な曲で、

一度聞くと忘れられないぐらいの迫力に満ちている。弱音、無音、間髪入れず重なる最強奏。

浪人中から辛い時には良くこれを聞いて気持ちを前に駆り立てていた。

マーラーの曲はもちろんのこと、歌詞がいい。一番好きなのは

Was entstanden ist, das muß vergehen. 生まれ出たものは、必ず滅びる。 Was vergangen, auferstehen!       滅びたものは、必ずよみがえる! Hör auf zu beben!                                        震えおののくのをやめよ! Bereite dich zu leben!                                 生きることに備えるがよい!

 

と歌われる部分。そう、生きる事に懸命に備える事以外、我々には何も出来ないのだ。

 

感想を細かく書く事はしない。書きたい事はただ一つ。

音楽はいいな、ということ。人が生み出し人に淘汰され、いまここ・この瞬間に、人が人に向けて奏でる。

音楽ほど人間の心を揺さぶるものを僕はまだ知らない。だから僕は、音楽をやる。

 

 

 

吹奏楽指導を終えて。

 

この夏から、吹奏楽指導に関わり始めました。

今回は指揮の師匠と一緒に足立区のある中学校の吹奏楽部へ。師は吹奏楽連盟の初代理事を務めていたこともある、

いわば吹奏楽界を作ってきたような方ですから、その横でこうして勉強させてもらえるのはこの上なく貴重な機会です。

 

指導は全部で三回。

吹奏楽の楽器では、僕はフルートとトランペットぐらいしか触れませんからそれぞれの楽器の細かい指導は出来ないのですが、

とりあえずフルートを片手に、色々なパートの子と一緒に吹いて歌い方や足りないところを指導し、バランスを調整してみました。

フルートは歌の楽器で音域も広いですから、こうした指導をするにはちょうど良くて、フルートを始めていて良かったなあと思います。

 

同時に、指揮の技術の重要さを何度も痛感しました。音楽の先生に変わって師が棒を振ると、さきほどまで吹きづらそうにしていた

トランペットのソロが見違えるほど歌心とフレーズに溢れ、何倍も上手くなってしまいます。まるで魔法みたい!

口で細かい指示を出す事はありません。喋らずとも棒がしっかりしていれば縦は揃うし、アクセントだってしっかり表現出来るし、

フレーズもニュアンスも自然と生まれてくるのです。奏者を、音を、一本の細い棒で結びつけて「釣る」ようでした。

そしてまた、師匠が「エネルギーが足りないよ。遠慮せずに吹いてごらん。」と言って振り上げた瞬間、老齢の師の

身体の内からエネルギーが湧き上がり、棒にぎゅうっと凝縮するのが確かに見えたように思います。

「ただ大きく振るのではない、心から感じて沸き上がってこないと伝わらないよ」とレッスンのたびに僕におっしゃることを

目の前で見せて下さったようで、「ああ、このことなんだ。」と感動しました。

 

三回の指導を終えた時には、中学生たちは信じられないぐらい上手くなっていました。

きっとこの三回の間で相当に練習したのでしょう。トランペットのソロはどんどん上手くなるし

ティンパニの子はただ叩くだけでなくニュアンスを考えて叩くようになったし、クラリネットの子は

周りの音をずいぶん聞けるようになっていました。帰り際に「今の調子なら大丈夫!自信を持って吹いておいで!」と

伝えたら、ぱあっと顔を明るくして「ありがとうございました!!!」と元気な返事が返ってきます。

吹奏楽の指導に携わるのも楽しいものですね。

 

師匠に「君はオーケストラはもちろん、吹奏楽指導もやっていくと良いよ。」と薦めて頂いたので、

これからは一人で色々なところに教えに行く機会も増えそうです。拙いながらも指揮をやっていて本当に良かった。

先程まで一緒に時間を過ごした中学生たちのエネルギー溢れる音を思い出しながら、幸せな気持ちに包まれています。

 

 

変奏曲

 

自分の人生を簡単に纏められるのには耐えられない。

説明できない屈折や脱線だらけの人生を送る人の方が、僕にとっては魅力的に映る。

迷う事を怖がらず、いままで一緒に歩いてきた友達に笑顔で手を振って、森の暗い横道に足取り軽く分け入って行け。

 

「私たちは自分をつねに創造しているものだと言わねばなるまい …(中略)…意識を持った存在者にとり、

存在することは変化すること、変化するとは成熟すること、成熟するとは無限に自分自身を創造することなのである。」

— ベルクソン『創造的進化』

 

 

一貫したものを底に持ちながら、次々と姿を変え、軽やかに変奏していく人生。

バッハのシャコンヌやブラームスのハイドン・バリエーションが自分の心に響いてくるのは、

そうしたところに憧れてのことかもしれない。