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韓国料理を楽しむ会 Part2

 

 図書館で勉強しようと思い、自転車で駒場へ行った。

正門を入ってすぐのところで某先生に遭遇。「暇?」と言われ、つい「ええ、まあ」などと答えてしまったため、捕獲されることになった。

これから動こうとしているある企画についてちょっとした話し合いをしたのち、夕方から「韓国料理を楽しむ会 part2」が行われる事を

聞いた。前回は韓国風焼き肉だったが、今回はキムチ鍋だという。星の王子様カレーを美味しいと信じて疑わない僕には

キムチ鍋なんてどう考えても辛そうな食べ物は天敵なのだが、前回も雰囲気が楽しかったし参加することに。いざとなったら

チシャ菜などの葉っぱとご飯だけ食べる(まさに草食系)つもりである。というわけで、準備は熟練の方々に申し訳ないけどお任せして、

御飯が出来るまでハイドンのカデンツァ制作を進めておいた。ある程度の音が取れたので、その辺に散らばっていた紙にザッと書きつけ

音楽室を借りてグランドピアノで音合わせをやってみた。グランドで弾いてみると電子ピアノなんかよりもずっと音が取り易い。

強弱記号もつけやすいし、今まで「なんかおかしいなあ・・・。」と思っていた部分がスッキリ解決した。あとはこれを記譜すれば完成だ。

 

 音楽室を出ると美味しそうな香りが廊下まで漂っていて、思わず小走りで階段を上がった。

キムチ鍋だけかと思っていたら前回の韓国風焼肉(サムギョプサル)もあって一安心。鍋を食べれない分呑もうと思って

用意されていた三種類のビールを堪能。ビールとサムギョプサル、そして米の相性は最高だ。合間にマッコリなんかも呑んだりして

韓国からの留学生の先輩が作る本場の韓国料理を堪能させて頂いた。そうそう、料理だけでなく韓国語の乾杯の音頭も教わった。

乾杯は「おつかれさまでしたー。」という意味で「スゴハショッスムニダ」と言うそうだ。韓国語は「~ジュセヨ」(=please)と

「ハナ・ドゥル・セ」(=one,two,three)、「アンニョンハセヨ」(=Hello)、「モルゲッスムニダ」(=I don’t know)ぐらいしか知らなかった

ので、「スゴハショスムニダ」もレパートリーに加えようと思う。

また、食事の席ではロシア語の数の数え方も教えて頂いた。

one,two,threeが「アジン・ドゥヴェ・トゥリ」(表記がこれで合っているのか分からないが、先生の発音を聞く限りではこんな感じ)

らしい。ロシア語といえばゴルゴ13で学んだ「ダスビダーニャ」(=See you)と「ズドラーストヴィーチェ」(=初回に使う挨拶だったような)

しか知らなかったので、これもまたレパートリーに追加。もちろん、使う機会は限りなく無いと思われる。何かの言葉から広がって

Roe対Wade事件判決についてS先生と話したりもして、そんなこんなで韓国料理を楽しむ会の夕べは更けていった。

先日外食をした関係で今日は家で粗食で済まそうと思っていたのに、思いがけず贅沢な食事をしてしまった。

シェフ及び先生方ごちそうさまです。

 

 なお、帰宅してから先日読み残していた三浦雅士『身体の零度 何が近代を成立させたか』を読了。

Joseph S.Nye Jrの” The Paradox of American Power ” をキリ良さげな部分(【SOFT POWER】の項)まで読んで寝ることにします。

 

 

東京へ戻って来ました。

 

 二週間ちょっとの帰省を終えて東京へ戻って来ました。

新幹線(もちろん自由席)に乗ってハイドンのスコアを広げて勉強していると、隣に二人組の高校生が乗って来ました。

「一番の要約はたぶん半分で、英作それなりにとってリスニングもがんばって長文死んで・・・60あるかないかぐらいだと思う。」

などという会話をしていたので、内容と順番から考えて、東大の英語の問題についてだったと思います。時期的に東大実戦か何かの

話をしていたのでしょう。横で「実戦の長文は難しいもんなー。」などと思いつつ品川で降りようと席を立つと、

「あのひと音大生かなー。音大生は英語とか世界史とかしなくていいから羨ましいよな。」と話す声が聞こえてしまい、思わず振り返って

「要約半分ではマズいぞ。過去問繰り返して慣れるべし。」なんて言おうかと思いましたが、自重しておきました(笑)

 

 東京についてみると、やっぱり人の多さに驚きます。それから街中に微妙な警戒心が漂っているような気がします。

人同士が打ち解けていないというか言葉にはならないギスギスした空気を感じました。まあそれも東京の面白さの一つかもしれません。

 

 朝、そのまま駒場に行ってハイドンのピアノ協奏曲の三楽章をコンマスとソリストと合わせて来ました。

夏休みの間に300回ぐらい読んで和声や構成を分析し、自分でもある程度弾いたこともあって、大体は上手くいったと思うのですが

睡眠時間が足りていなかったせいかニカ所ほどキューを出し忘れてしまい、コンマスが入りづらそうにしていたのが申し訳なかったです。

次回は忘れないようにしっかりマークしておきました。また、このコンサートについては本業のポスターデザインを頼まれていたため

そちらの完成稿も渡すことができました。ポスターについては記事を改めて触れたいと思います。

そういえば途中でオジサン達が写真を撮りに乱入してきて、「撮られたくなかったら顔見えないようにしておいてね。」と

言われたのですが、指揮の都合上そういうわけにもいかず、撮られるがままになっていました。

写真を何の用途に使うのか謎なのが怖いところですね。

 

 「たまには外食もいいか。」ということで、昼には連れと美登里寿司へ行き、大漁セットなるものを注文してみました。

昼から寿司かよ、と思われるかもしれませんが、このセットは何と950円程度。絶品のお寿司8貫に加えて、

茶碗蒸しやサラダ、デザートまでついているので素晴らしくお徳感があります。特に炙りものが美味しかったです。

自宅に帰ってからは再びハイドンの勉強。先日から二楽章のカデンツァを書いていたのでその続きを。

書いていると言ってしまうと少し大げさで、実際にはアルゲリッチが弾いているランドフスカのカデンツァを楽譜に起こしているだけです。

聴音と書きとりは久しぶりだったので、たった二分程度の部分なのになかなか進みません。

書いては弾き、弾いてはSONARに打ち込み、打ち込んでは再生して「なんか音足りない・・・。」と悩みの繰り返しです。

そんなわけで今日は8小節書いただけに留まりました。衰えを痛感したので、『音大受験生のためのパーフェクトソルフェージュ』を

9月は毎日やることにします。

そのあとで三島由紀夫の『午後の曳航』(新潮文庫)を読了。三島の作品群の中ではさほど優れた作品ではないように感じますが、

「父」という存在を巡る少年たちの会話の深みや、最後に置かれた印象的な一節(三島の文体ならではの一節)は結構好きです。

 

「正しい父親なんてものはありえない。なぜって、父親という役割そのものが悪の形だからさ。・・・(中略)・・・父親というのは真実を

隠蔽する機関で、子供に嘘を供給する機関で、それだけならまだしも、一番わるいことは、自分が人知れず真実を代表していると

信じていることだ。」(P.126)

「竜ニはなお、夢想に浸りながら、熱からぬ紅茶を、ぞんざいに一気に飲んだ。飲んでから、ひどく苦かったような気がした。

誰も知るように、栄光の味は苦い。」(P.168) 

 

 読書のあとはアイスコーヒーを淹れてネットサーフィン。

ニコ動で、京大の友達から教えてもらった「新世界エヴァンゲリオン ~関西弁で台無しにしてみた~」という動画を見ました。

エヴァについてはあまり詳しくないのですが、それでも死ぬほど笑わせてもらいました。関西弁の恐ろしさを実感できます。

ところどころに入れてくるネタがまた秀逸。これは相当時間かかってるんじゃないでしょうか。

女の声の部分では、投稿者である男の方の声のピッチを上げて女っぽくしているのですが、そのあたりにも作者の苦労が忍ばれます。

とりあえずエヴァ好きの人は一度は見るべきです。(ただし、原作の印象が完全に破壊されるのを覚悟の上で)

そのあと、youtubeでボウリングの新作ボールの軌道動画を見ました。

といっても、現在のラインナップ(Solaris-Cell Pearl-Black Peal-Widow Bite)に満足しているため、ただ見ているだけで

買うつもりは全くありません。買うとしたら現在のラインナップと同じ、あるいは極めて近いタイプのボールを買うつもりです。

投げ過ぎによってSolarisの動きが大分落ちてきたため、新作のepicenterに変えてみようかとは思っていますが、ホームにしている

センターのコンディションでは動きが大人しくなったSolarisがピッタリハマるので、変える必要はないかもしれません。

youtube上で良さげな動きをしていたのが、StormのREIGN。立ちあがりの加速感が強いため、投げていて楽しそうなボールでした。

 

 夜には、近くの知る人ぞ知るダイニングで和食。一日二度の外食は東京で生活するようになって初めてかもしれません。

里芋と牛挽肉の手作りコロッケが絶品でした。これにつけるタレがレモン醤油というのも最高です。「やまなか」という今まで呑んだ事の

無い泡盛を発見したので呑もうかと思いましたが、出費し過ぎなので我慢。そのかわり家に帰ってから、実家で栽培したライムを絞って

ジン・リッキーを作って美味しく頂きました。自分で作って呑むのがやはり圧倒的に安上がりですね。

これを呑みながら三浦雅士 『身体の零度 何が近代を成立させたか』を読み、第六章と第七章を明日に残して寝る事にします。

充実した一日でした。

 

大阪と神戸を歩く。

 

 帰省してこんなことをやった。

 

・大阪梅田のワルティ堂島というCDショップで、CDを四枚購入。

1977年東京文化会館で行われたカール・べームのブラームス二番のCDと、同じ年にNHKホールで行われたベームの

ベートーヴェン六番/五番のCD。それから1964年に東京文化会館で行われたアンドレ・クリュイタンスによるベルリオーズの

幻想交響曲のライブ録音、そしてシャルル・ミュンシュの幻想交響曲の録音(1967)。まだ全部は聞けていないのだが、

クリュイタンスの幻想ライブから伝わってくる熱気とベームがブラ2で聞かせるリタルダンドには驚かされた。

やっぱりライブ録音は聴いていて楽しい。

 

・恩師と呑んで語る。

駿台世界史科の川西先生に、ランチに御一緒させて頂いた。まず駿台神戸校の講師室を覗こうとしたところ、その部屋の前にある

長椅子にどこかで見た人が座っていた。まさか、と思って足を止めるとその人と目が合って、共に駿台で川西先生にお世話になっていた

友達であることが判明。いま早稲田に通っているその人も、帰省して川西先生に会いに来たとのこと。

三人で昼間っからワインを呑みながら近況を報告し合ったり、おすすめの本の話をしたりしているうちにあっという間に時間が

経ってしまった。ごちそうさまです。川西先生にケン・フォレットの『大聖堂』という本を勧めて頂いたので、先生たちと別れたその足で

ジュンク堂にて購入。全三巻という大作だ。レジに持っていったとき、前に並んでいる人が葺合高校の制服であることに気づく。

懐かさと同時に、自分が年をとったことを感じた。

 

・神戸を歩く。

浪人中の友達と三宮で呑むことになっていたので、その前に神戸の雰囲気を満喫しようと思って三宮の町を歩いた。

神戸はやっぱり雰囲気がいい。街に風が通っている。高いビルの間からは山の緑が見えるし、その反対側には、目では見えない

けれど確かに海が広がっているはずだ。じっとしていも汗をかくような湿気と気温の一日だったが、この街を歩いていると爽やかな

気持ちになる。ニ年前に足しげく通った何軒かの店も以前と同じように看板を出して営業しており、ちょっと安心した。

 

・弟とボウリング

ほとんどボウリングをやった事のない弟にスパルタで基礎を叩きこんできた。場所は茨木のBIGBOXで、このセンターははじめて。

マイボウラー用とハウスボウラー用でレーンを分けてあるようだ。オイルもしっかり入っていて、アプローチからレーンまで非常に

しっかりとメンテナンスされたセンターだという印象を受けた。弟も僕と同じく左利きのため、投げているとレーンコンディションが

どんどん変わってゆく。パッションでポリッシュしてもらったばかりのセル・パールを活用して、なんとかアベレージ200弱をキープ。

このセンター、値段も安いし(お盆料金を設定していない事に感動した。マイボウラーは5ゲーム1400円という格安料金で投げられる。)

広々としていて雰囲気も良いし、帰省している間はここで練習しようかと思う。駅から少し離れていることだけが欠点だ。

 

・『風の大地』の1-49巻を読了。

ゴルフ漫画『風の大地』が49巻まで、いつの間にか実家に買い揃えられてあったので、二日かけて一気に全部読んだ。

これは面白い。気合が感じられる画で、シナリオも飽きさせない。ラウンドしているときの主人公の話し方が時々ゴルゴ13っぽくなる。

とはいえゴルゴのように殺伐とした話ではなく、ヒューマニスティックでなかなか感動的な作品だ。続きを読むのが楽しみ。

 

・ハイドンのピアノコンチェルト二楽章を読む。

電車の中でアルゲリッチの演奏を聴きながらスコアを広げていて、この曲の二楽章が突然身体に染み込みはじめた。

アルゲリッチが弾くカデンツァの切なさに呆然とするほどの衝撃を受けた。何度も何度も聴いているはずなのにどうして今まで

気付かなかったのだろう。この曲の二楽章はすべてこのカデンツァのためにあるのではないか、とさえ感じる。

二楽章に限ったことではないが、譜読みしていると次から次へと新しい発見があって飽きない。

無人島に何か一冊だけ本を持ちこむなら、と言われれば、僕は何かのフルスコアを持って行くだろう。

 

・携帯の機種変更

バッテリーの接触部が怪しくなってきたので、この機会に機種変更することにした。候補は935SHと931SH。

スライド式はあまり好きではなかったので防水機能もついている935SHにしようかと思っていたが、色々調べているうちに931SHの

魅力にハマり、こちらにすることにした。はじめてのスライド式&フルタッチパネルである。液晶の大きさと美しさが特に素晴らしい。 

 

帰省と『世界は分けてもわからない』(福岡伸一,講談社現代新書,2009)

 

 部屋を片付け、戸締まりをチェックし、買ったばかりの白シャツを羽織って家を出る。

一度駒場に寄ってロッカーからサッカーのスパイクを取り出し、合宿解散後と思しき学生たちの列に紛れながら渋谷へ向かう。

渋谷から新宿へ、それから中央線で東京駅へ。座席を取った新幹線までにはまだ少し時間があったので、八重洲北口の近くの

ロッカーへ荷物を全て入れ、財布と携帯だけを持って丸の内北口へ歩いた。

することは決まっている。OAZOの丸善で、車内で読むための本を買う。そのまま階を上がり、丸善の文房具売り場を冷やかした後、

新丸ビルへ向かう。ここで何を買うわけでもないけれど、僕はこの新丸ビルの内装と雰囲気が大好きだ。

重厚さを持ちながら圧迫感の無い空間。パサージュに並んだ店を通ってゆく快感。

間接照明が壁の木目に何とも言えない影を作っている。この空間が本当に似合う大人になりたいと思う。

エスカレーターを上がったところの広間には見るからに座り心地の良さそうなソファが並んでいるから、新幹線の時間を待つために

一階が見下ろせるソファの一つに座って、買ったばかりの『世界は分けても分からない』を読み始めた。

 

 東京を電車が離れてゆく。あっという間に東京が後ろへ流れ去ってゆく。逆説的ではあるが、このようにして東京駅を後にするたび、

僕は自分が東京で生活していることを実感する。戻る場所が二つあるのは幸せなことだ。

名古屋を過ぎたあたりで『世界は分けてもわからない』を読み終えた。ちょっとしたオチが隠された話になっているから、

ここに詳しく書く事は避ける。前著の『生物と無生物のあいだ』でも感じたことだが、福岡伸一はやはり「読ませる」科学者だ。

断片的なエッセイのような文章。しかし、それが全体の中ではしっかりと繋がりを持っている。とりわけ面白かったのはES細胞を

「空気が読めず、自分探しをしている細胞」と説明している部分や、ガン細胞を「あるとき急に周囲の空気が読めなくなった細胞、

停止命令が聞こえなくなった細胞」だと定義している部分。これらの記述が見られる第四章は、ES細胞とは何なのかを非常に

分かり易く読ませてくれる。それから第六章の「細胞が行っているのは懸命な自転車操業なのだ」などのくだりも面白かった。

 

 さらに第六章では人の生・死をどこに求めるかという点が書かれているが、ここでの「人が決める人の死は生物学的な死から離れて、

どんどん前倒しされている」という記述はたった一行に留まらぬ深さを持った問題であろう。(ここから、「人の死」を脳死とするなら、

論理的対称性から、「人の生」は脳がその機能を開始する時点に求められるという「脳始」論が構想されることになる。だが、これは

生物学的な生の両端を切断することに他ならず、我々の生命の時間を縮めることになる。)

 

 第七章は様々な事例を参照しながら、記憶と認識の関連を探った章である。ここでとられているのは科学的なアプローチであるが、

それはP158の「顔とは・・・(中略)・・・私たちの認識の内部にある」という一節に見られるように、アンリ・ベルクソンの哲学を想起

させる。ベルクソンの記憶論を、実例を用いながら検証しているような思いにさせてくれる章であった。

第八章から第十一章の「ストーリー」は、実際に本書を読んでドキドキするのが一番だと思うので、ここには書かない。

『生物と無生物のあいだ』のみならず、『もう牛を食べても安心か』や『動的平衡』など、福岡伸一の本は今までハズレが無かったので

今回も楽しみにして買ったのだが、予想よりも遥かに面白い本であった。文系・理系関係なく、気楽に読んで楽しめる本だと思う。

 

 新幹線を降りると京都特有の湿った暑さが立ち込めていた。

エスカレーターではみんな右側に立っているし、周りから聞こえてくる言葉も関西弁ばかりなのでホッとした気分になる。

帰省しているのはわずか二週間に過ぎないが、予定は大量に詰まっている。母校の会議に出たり高校時代の友達とサッカーをしたり、

浪人時代の友達と会ったり、生き別れ(?)になってしまった僕のボウリングの師を探す旅に出たり・・・。

しばらく京都や大阪、神戸を行ったり来たりすることになるだろう。駿台神戸校で恩師の授業にも潜り込んでみようと企んでいる。

 

こんなモノを買った Part2

 

東京-神田-渋谷-新宿と回って買い物をしてきました。以下、買ったものリスト。

 

【本】

・Joseph S.Nye Jr  ” THE PARADOX OF AMERICAN POWER “   (Oxford University Press,2002)

⇒神田の古本屋で発見。2002年にエコノミスト紙とワシントンポストの両方で「Best Book」に名が挙げられた本であって、作者の

ナイは国際関係論の講義でもしばしば紹介される『国際紛争 -理論と歴史-』(有斐閣) を書いた人でもある。

 

・熊田為宏 『演奏のための楽曲分析法』 (音楽之友社,1974)

⇒渋谷のYAMAHAで発見。表紙だけ見ると幾何学か何かの教科書みたい。譜例も豊富で、内容は結構充実していると思う。

昔に購入した島岡譲 『和声と楽式のアナリーゼ』をもう一度読み返してから本書を読むつもり。もともとこの本を買うつもりはなくて、

作曲やオーケストレーションをする人の聖典である伊福部昭 『管弦楽法』を買おうと決心してYAMAHA渋谷に入ったのだが、

やはりその値段(24000円!!)に躊躇してしまった。手に取って眺めて、さんざん悩んで溜息とともに本棚に戻す。これで二度目である。

値段の価値はある本だろうし、絶対に読まなければならないのは分かっているのだけれど、流石にこの値段の本は買いづらい。

というわけで、お酒を飲んだ後とか、テンションが高い時に勢いで買ってしまう作戦に出ようと思う。

 

・Albert Camus ” L’Étranger “  (folio)

⇒ 「きょう、ママンが死んだ。もしかすると昨日かもしれないが、私には分からない。」

( Aujourd’hui, maman est morte. Ou peut-être hier,je ne sais pas. ) で始まる一節があまりにも有名なカミュの『異邦人』。

「一昔前、フランス語をある程度学んだ仏文志望の学生はこぞってこの『異邦人』の原書に挑戦した。」という話をある先生から

お聞きしたので、夏休みをかけて同じ事に挑戦してみようと思い立ち、OAZOの丸善で購入。

先生曰く、「この本はフランス語の文法の勉強にもなるよフフフ・・・」とのことだったが、パラパラめくっているうちのその意味を理解した。

冒頭のmaman est morte. からしてêtreの現在形+過去分詞という複合過去形であるように、複合過去が多用されているのだ。

なるほど、これを読み切ったらきっと複合過去は怖くなくなるだろう。毎日ちょっとずつ読んでいきたい。

 

・『フランスの伝統色 The Traditional Colors of France 』 (PIE BOOKS,2008)

⇒昨年からずっと狙っていた本。デザインするときの色遣いに幅が出ればと思って購入。J.HERBIN(万年筆のインクメーカー)

のインクで見られるような、何とも言えない色合いがCMYK、RGB数値つきで載っていてとても参考になる。

青ひとつにしても、Mer du sud (南の海の青)や、Bleu Monet (モネのブルー)、Céleste (天空の青)など、名前も色も様々である。

この本には同じシリーズに『日本の伝統色』があるので、こちらもいずれ購入するつもり。

 

【その他】

・MDノート(横罫) +MDノート用ブックカバー

⇒以前もブログで取り上げたMDノートA4サイズ。横罫を一冊使い切ってしまったので補充した。ついでにこのノート用のブックカバーも

合わせて購入。MDノートは白を基調としたデザインだから、僕のように扱いが荒っぽい人間が使うとすぐに表紙が汚れてしまう。

「それも味の一つ」と自分を納得させて使っていたが、やっぱり元通り白いほうがいいので、このブックカバーをかぶせて使う事にする。

 

・ファーバーカステルの8Bの鉛筆

⇒楽譜への書き込み用。楽譜は自分で購入しているので、次に使う人に配慮する必要はないのだが、消しやすい方が何かと楽なので

筆圧をかけずに濃いマークや書き込みが出来る8Bの鉛筆を使用している。これとファーバー・カステルのエモーションという1.4mmの

芯が出せるメカニカルペンシルで書き込みをするのがお気に入り。ちなみにエモーションの軸色はオフ・ホワイトで、同じく白を基調に

したMDノートと一緒に使うと何だかスタイリッシュな気がしてくる。

 

 

 なお、明日(今日)は東大ガイダンスの相談員として駒場にいます。

このブログを見てくれている高校生の方で明日オープンキャンパスに来る人がいましたら、ぜひ寄って行って下さいね。

 

「入口」としての授業

 

 歴史Ⅰのテストが終わりました。

昨日の記事にも書いた、アナール学派とマルク・ブロックについての試験だったのですが、会心の出来の解答を書く事が出来て

満足しています。問Ⅰは「アナール学派とは何か」という設問だったので、昨日ここにアップした内容をガシガシと書いていきました。

もう年で記憶力も次第に落ちてくる頃なので、解答用紙のサイズにして45行あまりにも渡る文章をしっかりと覚えられているか

不安だったのですが、いざ書いてみると手が覚えていたり、リズムで記憶から文章を引き出してきたり、書きつけたページそのものを

ビジュアルに思い出したりすることが出来て、昨日アップした内容とほぼ一言一句(ひとつだけ書き忘れましたが)違わない解答を

再現する事ができました。このテストの結果は進学に結構大きく影響してくるものであっただけに、一安心です。答案を書きながら

「もっと字が綺麗だったらなあ・・・。」「〈問Ⅰについてはブログ参照〉で終わらした方が先生もこんな悪筆を読まずに済むし、

僕も書く手間が省けるし、お互いの幸せに貢献するのではないだろうか。」などと考えたりもしましたが、流石にそれは無理ですね(笑)

 

 まあとにかく、アナール学派について学んだ事は大変有意義なものとなりました。これらについて学ぶうちに、

 僕の興味関心の一つであり続けている「音」や「香り」について研究しており、「感性の歴史家」と呼ばれているアラン・コルバン

の著作に出会う事が出来たのが最も大きな収穫だったと思います。コルバンの著作は、昨年僕が書いた「モード」についての小論

に応用できるところが多々あって、昨年のうちに出会っていればあの研究の方向性は少し変わっていたかもしれません。

面白かったのはアナール学派と呼ばれる人々の著作を手当たり次第に読んでいくうちに、ミシェル・パストゥローの名前に

遭遇したこと。アナール学派であるとは知らないまま、彼の『青の歴史』を昨年の小論に参考文献として用いたのですが、

今読み返してみると、パストゥローがとる手法や描き出す歴史像は極めてアナール学派的なアプローチだと気付きます。

『青の歴史』にしても『紋章の歴史』にしても、様々な角度から切り込んで、些末な事象や事件史に留まらぬ包括的な歴史を

描いていて、この人がアナールの第四世代に位置づけられるのも納得がいくところです。

 

 このように、新しく得た知識が他の知識や過去に得ていた知識と結合され、「!」と手を打ちたくなる瞬間を多く経験する事が大学生活

の面白さの一つではないかと思います。東京大学の教養学部の授業にはそういう瞬間を与えてくれる授業が非常に多くて、

一見つまらない授業でも理解していくうちに突如として自分の関心ある分野と繋がったり、別の授業の内容と繋がったりする事が

良くあります。もっとも授業に期待しすぎるのは見当違いというもので(大学で教壇に立つのは研究者です。)授業を諸学の「入口」として

活用し、授業に関連する本を自分でガンガン読み進めていく事が必要になってきます。ある程度本を読んで知識を持ってはじめて、

先生の喋っていたカオスで電波な内容が、とても魅力的で重要な意味を持つ内容だったことに後から気づく、なんてのもしばしばです。

そういう意味で、「大学生ならとにかく本読んどけ。」「大学生のうちに読んだ本が将来のベースになる。」などの嫌というほど

聞き慣れたフレーズは決して的外れなものではないと思います。

 

 話が大きくなってしまいましたが、とにかく今回の歴史Ⅰ「マルク・ブロックを(自分で)読む」という授業は、

そのように知の連結へのきっかけを与えてくれるものでした。テストの最終設問であった三番の

「あなたが過去に問うとしたら、どのような事を問いたいか。そしてそれは何故か。」という設問は、「感想を書け」と同じような類の

漠然とした設問に見えますが、その実、アナール学派の本質である「問いかけの学問」というテーマに立脚したものであって、同時に、

まさに上で書いたような「知の連結を経験したかどうか」を見る問に他なりません。一緒にテストを受けていたクラスメイトのかっぱ君が

テスト終了後、「3番を書いているうちに何か色々見えてきた。」というような内容の事を言っており、その後に自らが3番で書いた

内容に関する本を購入していましたが、そういう効果を与える事の出来る問題は凄いと素直に思いました。

確かにこの問は書いていて楽しかったです。

 

 珍しく真面目に書いてしまいました。今気づきましたが、そもそも今日はなんで丁寧語なんでしょうね(笑)

あ、そういえば7月30日に「食を考える」ワークショップの第4回が行われます。夏休みスペシャルということで、場所は

KIRINの横浜工場で、ビールづくりに関する見学・講演を聴いたあと軽食を頂く(もちろん無料)という形です。

また例によってフライヤーのデザインを担当させてもらいましたので、参加されたい方や詳しく知りたい方は

東京大学教養学部付属 教養教育開発機構のページ http://www.komed.c.u-tokyo.ac.jp/ をご参照下さい。

 

 さて、そんなわけでまた朝の4時になってしまいました。超朝型生活ですね。もうすぐ波乗りに行くのでちょうどいい、ということで。

今からは買ったばかりの三浦篤『自画像の美術史』および佐々木正人『アート/表現する身体 - アフォーダンスの現場 -』を

読みながら、レポートの構想を練りたいと思います。 

人生を変えた一冊:『十六世紀文化革命』と越境者への憧れ

 

 よく晴れた土曜日、久しく吹いていなかったフルートを片手に、散歩へ出かけた。

外はどこまでも明るい。陽射しが肌に触れたかと思うと、涼しげな風がその温度をそっと奪ってゆく。

6月はもうすぐ終わる。そして7月がやってくる。この夏はどんな夏になるのだろう、と考えつつ、公園のベンチに腰を下ろし、

再読している『磁力と重力の発見』(山本義隆,みすず書房 2003)を開ける。

中学生のころ以来、尊敬する作家の真似をして読んだ本にサインと日付を入れることにしている。この本も例外では無い。

裏表紙の見返し部分を開けてみると2007.7.4とあった。

 

 そうだ、この本を読んだのはちょうど今みたいな天気の日だった。当時の僕は自習室に籠ってモラトリアムに浸っていた時期で、

「音楽室」と書かれたスリッパ(母校の音楽室のスリッパを記念に貰ってきた)を履いたままダイエーのジュンク堂三宮店に行って、

毎週大量に受験と関係ない本を買い込んではひたすらそれを読んでいく生活をしていた。

一年間で300冊ぐらい買ったと思うが、その中でもこの『磁力と重力の発見』には一際思い入れがある。

恩師の一人、駿台世界史科の川西先生にこの『磁力と重力の発見』と、同じ著者の『十六世紀文化革命』を勧めて頂いたのが

きっかけだった。この二冊は夏の暑さを忘れるほど衝撃的な本で、近くに迫っていた東大実戦などの模試をそっちのけにして

一気に最後まで読み通したのを覚えている。読み終わってから川西先生に再び会いに行ったとき、

「それだけ感動したなら、感想文を書いて著者に送ってみなさい」と勧められ、無謀にもあの山本義隆氏にレポートめいたものを

書いて、本当に送ってしまった。内容のほとんどは感想文のようなものだが、当時愛読していた大澤真幸の著作との関連点を指摘

してみたり、僕が得意とする音楽史の領域から『十六世紀文化革命』説を補強することになるのではと思われる事項を指摘してみた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「プロテスタントは印刷技術を積極的利用した。しかしカトリックは警戒的であった。」という点に乗じて、西洋音楽史からの

以下の指摘は的外れでしょうか。

 

「ルターは宗教における音楽の意義を重視したため、カトリック教会におけるグレゴリオ聖歌にあたるものをプロテスタント教会にも作り出す必要を感じていた。そうして生まれたのがコラールである。どことなく神秘的なグレゴリオ聖歌(歌詞はラテン語)に対して、宗教改革の意図に則り、あらゆる階層の人々に広く口ずさまれることを目的としたコラールは、民謡のように親しみやすく暖かなトーンが特徴である。(歌詞はドイツ語、一部は民謡編曲である)」(岡田暁生「西洋音楽史」による)

 

ここにはプロテスタントの「民謡の活用」と「俗語であるドイツ語の歌詞を採用」という二つの特徴が表れていると思います。

その意味でこれは16世紀文化革命の説を補強するものになると考えます。

さらに、プロテスタントとは離れますが、音楽史という観点で言うと、「マドリガーレ」について述べる事は十六世紀文化革命の説を更に裏付けるものになるのではないでしょうか。すなわち、

 

「マドリガーレは世俗的な歌詞(イタリア語)による合唱曲で、内容は風刺的だったりドラマチックだったり田園的だったり官能的だったりする。このマドリガーレはとりわけ十六世紀末にきわめて前衛的な音楽ジャンルとなり、後述するように音楽のバロックはここから生まれてきたといっても過言ではない。」(同書より)

 

「俗語による表現であり、さらに実験的な要素を持っており、17世紀のバロック音楽を準備した」

ものがマドリガーレであると捉えるならば、これは16世紀の職人の運動と近似しているのではないかなとふと思いました。

「16世紀文化革命の大きな成果は、17世紀科学革命の成果を下から支える事になる」という点でも共通しているのではと考えます。

 

 

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 一か月もしないうちに、氏から直筆の返事が届いた。手紙には、上で指摘した内容が盲点であったこと、そして早く大学に入って

更なる勉強を続けなさい、という事が書かれていた。東大へ行く意味が分からなくなって些かアイデンティティ・クライシスに

陥りかけていた僕にとって、この手紙は効いた。優しい文章なのに痛烈に響いた。

 

 あれからもう二年近くが経った事に、月日の早さを思い知る。

ウォーターマンのブルーブラックで書きつけたサインと日付はすっかり変色してブルー・グリーンに近い色になっている。

だが、この『磁力と重力の発見』と『十六世紀文化革命』の衝撃は今なお色褪せない。

この二冊からは、アカデミズム内部の思考停止に陥らず、知識を秘匿することなく、自然に対する畏怖の念を持ち続けるといった

姿勢を通して、強靭な思考を築いて行くことを学んだ。その上で、『十六世紀文化革命』で描かれている十六世紀の職人達が

勇気を持って大胆に「越境」したように、常に枠組みを越境する人間になりたいと思った。

 

 

 間違いなく、僕の人生を変えた本のうちの一つだ。はじめて読んだ二年前と同様、背筋がゾクゾクするような感動を覚えながら、

二年前を思い出して身が引き締まるような思いをしながら、再びページをめくる。至る所につけられた印や書き込みがどこか眩しい。

 

 ページの上に、緑のフィルターを通って光と影が降り注ぐ。また夏がやってくる。

 

雨の月曜と暑さの火曜,ゼミの水曜にクラスの木曜

 

 雨が続いたり30度を超えたり、なかなかややこしい天気が続く。しばらく更新が滞っていたので近況を書いておこう。

 

 月曜日、雨が降る中庭を横目に、生協のテラスでドイツ語をやっていた。なんとなく音楽が聴きたくなって、浪人中に良く聞いた

ブラームスの四番を選んだ。普段はさほど聴かないが珍しくバルビローリの指揮で聴くことに。

三楽章に入って、あまりにも風景と合っているのに愕然としてドイツ語をやる手を止めた。

二階のテラスからだと、図書館前の中庭から和館の向こうの緑まで、様々な緑がグラデーションになって遠くまで見える。

この曲、そしてとりわけバルビローリの旋律の歌わせ方が、その光景と雨に打たれて灰色になった世界に染み渡る。

梅雨がちょっと好きになった。

五限の獣医学が終わったころには雨がすっかりあがっていた。このあとはいつもどおりプロとの試合。

前回は負けてしまったが今回は完勝。プロが追い上げてくるところをノーミス・4連発で引き離せたのが大きい。

最近調子が悪かっただけに嬉しかった。狭いラインを強く投げるのはやはり有効だ。大きく出すのは面白いが、キレすぎて扱いづらい。

 

 火曜日はひたすら宇宙科学のレポートを書く。ここまで来たら最後までA++を続けたいし、意地になって書く。

関連書籍をまた二冊買ってしまった。それだけの内容のあるレポートを書かねば。

「比熱が負の物体があると仮定したら、どんな使い方が出来るか(想像で良い)」という問いがちょっと難しい。

色々思いつくものはあるが、突っ込みどころがあり過ぎて何を書いて良いものやら。とりあえず、「万能カイロ」なるものの構想を

書いてみました。実用化は確実に不可能です(笑)

レポートをずっと書いていると疲れてきたので、気分を改めるべく二日連続で経堂ボウルへ。連続で投げるのは久しぶり。

ちょっとしたインストラクターをやったりしつつ、いつもどおり7G投げ込む。横のボックスに入った団体の学生たちが

四人中三人サウスポーだったのに驚いた。同じ左利きとして妙な連体感が芽生えて気合が入ったのだが、スコアはイマイチ。

全体的にいつもより球が弱かった。おそらくパワーステップが甘かったのと、それに伴ってトップからおろしてくるタイミングが

速すぎた。以上の結果として脇が空いて、肩が回りがちになり、球威が落ちたのだろう。一秒の何分の一のタイミングのズレなのに

手から離れたボールにはそれが如実に反映される。やはりボウリングは奥深い。

帰宅後、先日入った給料で買ったグレンモーレンジのオリジナルをハイボールにして飲みながら宇宙科学の続きをやる。

グレンモーレンジは今一番好きなシングルモルトで、何度飲んでも幸せになる。ハイボールにするとちょっと物足りない感じはあるが、

今日みたいに暑い日には気楽にどんどん飲めるこれが合う。これのおかげでレポートもスラスラと捗った。

深夜に愛飲しているグレンモーレンジ。素晴らしいバランスで飲み飽きない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水曜はあるプロジェクトの打ち合わせに出席したあと、ゼミでGeneration Times編集長の伊藤さんのお話を聴く。

伊藤さんにお話頂いた事の内容はまた書くとして、とにかくプレゼンの上手い「魅せる技術」をお持ちの人だった。有意義な時間。

 

 木曜は久し振りにクラスの友達と過ごした。二年になってからめっきりクラスの友達に会わなくなっていたが、それでもウチのクラスは

仲がとても良い。変人ぞろいだが、お互いがその変さに尊敬しあっており、それぞれの多様性が輝いている。一緒にいて飽きない。

クラスのM君と話していて、「ブログを見ている」と言われ、ちょっと嬉しかった。「どうやったら文章が書けるか」、という質問と

「本を読んでいて思想家の名前と主張が引用されているけど分からない。どうすればいいか」という質問を受けたが、前者に関しては

「文章を読みまくって自分で書いてみること」しかないんじゃないかなと思う。その際、自分が好きな文章や文体を見つける事が

出来れば、それに近づけるように書く事で自分のスタイルみたいなものが確立されてくるのではないだろうか。

後者に関しては、王道ではあるものの、やはり「そのつど入門書を読む」ことが良いと思う。熊野純彦『西洋哲学史』(岩波文庫)

はそれらの基礎となる本として有効だし、NHK出版から出ている「哲学のエッセンス」シリーズは薄い割に内容が詰まっており

分かりやすくておすすめ。もっとカジュアルに入りたい方には「現代思想の遭難者たち」という講談社から出ている四コマ漫画も

良いだろう。人名ではなく概念に関する知識を増やしたいときにはアンドリュー・エドガーとピーター・セジウィックの手になる

『現代思想芸術辞典』(青土社)などは手がつけやすい割に内容が濃い本だ。

二浪目の夏にこの辞典を最初から最後まで読み切ったことが今も僕のベースになっている。

 

 なお、本日は『イギリスの歴史 帝国=コモンウェルスのあゆみ』(編:川北稔/木畑洋一 有斐閣アルマ,2000)を購入。

これはクラスのS君にすすめてもらった本である。前半、事実の羅列のあたりは詳しめの教科書を読んでいるようで退屈だったが、

中盤からはグッと面白くなった。あと少しで読み終わりそうだ。また終わったらインプレを書くつもりでいる。

 

 

 

 

 

 

 

『カフーを待ちわびて』(原田マハ 宝島社,2006)

 

『カフーを待ちわびて』(原田マハ 宝島社,2006)を読了。

 第一回日本ラブストーリー大賞の大賞受賞作で、作者は作家 原田宗典の妹である。

原田宗典は、僕の人生にとって無くてはならない作家のひとりだ。

小学校時代、友人にこの作家のエッセイを紹介されて以来、エッセイ・小説問わずすべて読んできた。

その軽妙な語りと、ちょっと不気味で時に暖かい小説に惹かれてきた。

その妹はどんな文章を書くのだろうか。本を開く前からとても気になって、一時間ほどで一気に読みとおした。

 

 というわけで以下感想。

何と言っても映像的な描写が上手い。全体的に映像化しやすそうな小説で、映画化される運びになったのも当然だと思う。

同時に、これは場所の設定が全ての小説だ。この場所で無くては成立しない。

展開は「おいおい」と首を捻りたくなるところもあるが、ベタベタな構成に陥らないところは好感がもてる。

文章はそれほど上手いとは思わない。出だしのところ、登場人物や設定の紹介を兼ねて話が進んでいくあたりは

説明している感じが前に出すぎていて少し違和感を覚える。

コナンで事件が起きた直後、登場人物たちが自分のプロフィールを話すときのような説明っぽさがどことなくある。

この辺りは小説としてまだ作者が駆けだしであることを伺わせる。

 

 読み終わってみるとタイトルの意味がやや分からなくなったりしたが、とにかくこのタイトルのインパクトは大きい。

サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』に内容が少し似るところがあるから、これにかかったタイトルなのかもしれない。

表紙の写真は空気感を良く捉えており大変美しい。映像感に溢れるこの小説と良い相性である。

あまり読者の目にとまっていないと思うが、注目すべきは表紙を外したあとに出てくる装丁だ。(単行本版)

表紙とまったく異なる印象の写真が全面に使われており、どこかゾッとする光景が広がっている。

単行本をお持ちの方は表紙を外して見て下さい。

 

 話が装丁の方に行ってしまったが、さらっと楽しめて幸せな気分になれる、そこそこ面白い小説だったと思う。

この小説、映画化だけでなく、いずれドラマ化までされそうな気がする。

 

『装飾とデザイン』(山崎正和 中央公論新社,2007)

                       

                          【Review:  “Design and Decoration”】

 

 Making something has two principles.   One is “design”, the other is “decoration”.

People may think there is no deference between them in daily life but to tell the truth,

They have completely different tendencies.   Comaparison Ludwig Mies van der Rohe, with Robert Venturi

show different tendencies of design and decoration.   Mies van der Rohe, modernism [...]