May 2024
M T W T F S S
« May    
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

12月の満月

 

 今日は月がびっくりするぐらい大きく、明るかったですね。今まで見た月で一番迫力があったかもしれません。

空気も澄んでいたので表面の模様までよく見えて、しばらく見とれてしまいました。

以前にギリシャ哲学の大教授がおっしゃっていた、「太陽はあんなに明るく大きいのに地上の我々から見れば

空にある太陽は足の幅の大きさのように見える。それは、本来の大きさだと我々はその輝きに目を

見開くことができないからだ。これは〈真理〉と似ている。真理が眼前にあると、真理が放つ光が激烈過ぎて

我々はそれに目を見開くことができない。だから真理はとても遠くにあって、その弱い光を我々は見ているに

過ぎない。だが、哲学するものは、みずからの身を焦がすことを恐れず、眩しすぎる真理へと挑んでいく。」

という言葉をなんとなく思い出しました。

 

まあそんなわけで、先日の記事が固かったので今日は近況を軽く書いておくことにします。

 

・立花ゼミ

先生方と国際関係論と音楽とデザインについての喧々諤々の議論(?)をやっている間に

今日のゼミの時間が終わってしまい、今週はゼミに出ることができませんでした。ちょっと悲しい。

立花ゼミの「二十歳の君へ」書籍化企画が着々と進んでいる中、その企画の一環として

「立花隆対策シケプリ」を作る予定なのだが、それについてゼミ生がどの分野を担当するか決めやすいように

各自の得意分野・専門分野をメーリスに書いて流したらどうか、という提案をしようと思っていましたが

言う機会を失ってしまいました。まあここに書いておけば何人かは読んでくれるでしょう。

あと、僕が細々とやっている芸術企画の一環として「香り」について問うプロジェクトをやろうと思っています。

ただいまインタビュー先のリストアップ中です。

 

・ボウリング

かなり安定してきました。210アベレージをここ数週間コンスタントに維持できており、プロにも二連勝しました。

ホームにしているセンターのレーンはかなり遅く結構荒れていることが多いので、回転数の多い僕にとっては

結構苦しむレーンなのですが、無理せずボールを走らせる技術をようやく完全に会得した気がします。

あとはスコアの振れ幅を出来るだけ小さくしていく(ちょっと前には245の後に128を出しました…。)ことが

必要ですね。あんまり崩れてしまうと、精神的に次のゲームがきつくなるので、ローゲームは180ぐらいまでで

留めておきたいところです。

 

・フルート&指揮

フルートは中音域を響かせるコツというか、息を当てるポイントが掴めてきた気がします。

適当にそのへんの曲を吹きながら、オクターブの練習をひたすらやっています。

指揮は練習曲その1にじっくりと取り組み中。「もっとスマートに振らなきゃ。」と帰り際に師匠に言われて、

「スマートって一体何だ・・・。」と帰りの電車で考え込んでしまいました。「もっと自然に!」というのも

師匠から良く言われることなのですが、こちらも中々難しいことですよね。力が入ってしまっているのは

自分でも分かるときはありますが、かといって力を抜くのはとても難しい。ですが、この「脱力」こそが

指揮の奥義の一つの筈なので、なんとかしてこれをマスターせねばなりません。何年かかることやら・・・。

 

・本

ここ数日かけてブルデューの『ディスタンクシオン』(藤原書店)を上下二巻読み切りました。

ブルデューの議論に通底するものは、一言でいえば「再生産」だと思います。

この本でも、ディスタンクシオン(卓越化)という言葉と、「ハビトゥス」という概念を用いて、個人の「趣味」が

本人の自由意思のみに基づいて形成されるものではなく、個人の職業や社会的階層、あるいは

両親の職や学歴や環境に大きく規定されていることが明らかにされます。有名な例では、一巻の第一章に

ある、「好きなシャンソン歌手・音楽作品」と「所属階級・学歴」の相関表。シャンソンのことはよくわからない

ので、シャンソン歌手との相関については何とも言えないのですが、音楽作品として挙げられている

『美しく青きドナウ』『剣の舞』『平均律クラヴィーア』『左手のための協奏曲』だけを見ても、上流階級・知的職

になるに従って『平均律クラヴィーア曲集』を好む人の割合が増え、一方で庶民階級は『美しき青きドナウ』や

これに続いて『剣の舞』を好む人が多いというデーターがあります。このように諸作品につけられた価値の

「差異」が学歴資本の差に対応している、とブルデューは結論付けます。そしてこうした文化の価値は

「フェティッシュの中のフェティッシュともいうべき文化の価値は、ゲームに参加するという行為が前提として

いる最初の投資のなかで、つまりゲームを作りだすとともに闘争目標をめぐる競争によって絶えず

創りなおされるところの、ゲームの価値に対する集団的信仰の中で生まれてくる。」(P.386)と言います。

 

 なかなか分厚い本ですが、最後まで息切れせずに読ませる面白さをこの本は持っています。

名著と呼ばれて久しいのも納得です。興味がある方や社会学部に進学される方は是非読んでみてください。

立花ゼミの「貧困と東大」企画の参考になるかもしれません。

 

というわけで次は『ルーマン 社会システム理論』(新泉社)へ。第三者の審級概念についての大澤論文を

読んでいて、自分のルーマンのシステム論への知識が圧倒的に不足していることを痛感させられたので

12月はルーマンを集中的に攻めたいと思っています。まずこの概説書を読んでから、次に

長岡克行『ルーマン 社会の理論の革命』へ、そして馬場靖雄『ルーマンの社会理論』を読みつつ

ルーマン自身の著作に取り掛かる予定です。それから冬休みにはカール・ポランニーの『大転換』と

ちくま学芸文庫から出ている『経済の文明史』と『暗黙知の次元』を読む予定。あとずっと読みたかった

東浩紀『存在論的、郵便的 -ジャック・デリダについて-』も読みたいですね。浪人中に立ち読みしてみた

もののさっぱり理解できず、「これはもっと勉強してから読もう・・・。」と諦めた経緯があります。

サントリー学芸賞受賞作は分野問わず全て読もうと企んでいるので、やっぱり本作を外すわけには

いきません。再チャレンジします。

 

学術書ばかりになってしまいましたが、小説では上橋菜穂子『獣の奏者』を読んでいます。

まだ一巻の途中ですが、段々面白くなってきました。このあとの展開が楽しみです。

 

・モノ

PILOTから出ているバンブーという万年筆が今年の夏に廃番になっていたことを知りました。

夏にはまったく欲しいとは思わなかったのですが、廃番と聞くとちょっと欲しくなりますね。

とくにMニブの青軸は有名どころの文具店では軒並み完売だそうです。意外と地方の文具屋さんでは

残っていたりするかもしれませんね。もし発見された方がいらっしゃったらご一報下さい。

 

大澤真幸『意味と他者性』を読む。

 

 発表に備えて、大澤真幸『意味と他者性』のうち「規則随順性の本態」という論文を精読していました。

大澤氏の本はほとんど全て読んできましたが、中でもこの本は僕にとって、一・二を争う分かりづらさに映っています。

ヴィトゲンシュタインやクワイン、クリプキなど、分析哲学系の話題を(社会学として)扱おうとしているからでしょうか。

それ以上に、本書は極めて抽象度の高い議論が延々と展開されていることにあるのかもしれません。

いつもの大澤氏なら具体例や社会事象を引いて分析してくれるのに。

 

とはいってもそれはある意味で当たり前。

この1990年の論文は、のちに大澤氏の理論のキーとなる、「第三者の審級」概念の「形成」を扱ったものだからです。

この概念を応用するのではなく、この概念をどうやって導いてきたかということについて、抽象度を維持したまま、論理的で細かい

議論がひたすら展開されます。このことから、「第三者の審級」概念を考える上では必須の文献といってよいでしょう。

では、本論文で述べられていることは一体何か。そして「第三者の審級」概念とは一体何なのか。

ちょっと要約してみましょう。

 

【 「行為随順性の本態」(『意味と他者性』) の要約 】

われわれはいかにして、何らかの行為が可能であることを示しうるのか?そしてまた、「規則に従う」ことはいかなる意味を持つのか?

ヴィトゲンシュタイン-クリプキによって示された懐疑論的解決では不十分であり、これを超えるためにはコミュニケーションという事態の

不可欠な構成素たる「他者」の本性を問い直す必要がある。他者は、対象を捉える心の働きである「求心化作用」と、この作用と

必然的に連動してしまう「遠心化作用」(対象となるものに、私とは異なる固有の心の帰属場所を発見させる作用)によって不可避に

与えられる。私の存在は、(物理的意味合いではなく)他者の存在に常に伴われており、他者と共存している。

そして、私がまさにこの私であるという自同性のうちにすでに他者の存在ということが含まれるため、私の存在は他者の存在の

裏返しの形態であり、自己と他者は不分離の関係にあることになる。この自己と他者という二つの体験の源泉ゆえに、

体験される事柄は二重の偶有性を帯びざるを得ない。だが一方で、私の存在は他者の存在の必然性でもあることは、心的現象が

私に帰属していることの必然性が他者に帰属していることの必然性へと転換されて現れうる。

 

従って、他者とは、「他でありうること」=「偶有性」を確保する場所であるが、他方では「他ではありえないこと」=「必然性」を構成する

場所としても機能するのであって、この他者の両義性こそが、「規則」という現象を可能にする。

規則にしたがっているとみなされる行為においては、まさしくこの偶有性と必然性の交錯が起こる。

行為が妥当であるためには、妥当ではないという可能性が留保されていなくてはならないから、偶有的でなくてはならない。

一方で、心的現象が他者へ帰属することで対象の「なにものか」としての在り方とそれに相関する行為は必然性の様相を帯びる。

しかし、ここでの「他者」は否定的に表れる。すなわち、直接に現前しないということにおいて現前するのである。

このとき、他者は、第三者的な超越性を帯びたものとして転化されうる。この第三者的な超越性を帯びた他者を、「第三者の審級」と

呼ぶ。この第三者の審級は、私の経験に対して常に先行している「先行的投射」という性格を持つものであり、私からも、

私が直面していた他者からも分離された存在である。それゆえに、規則の妥当性を基礎づけることになる。行為の妥当性を承認する

他者は、単なる「他者」ではなく、特別な他者、「第三者の審級」であり、この第三者の審級に承認されていることの認知が

規則という実態についての錯覚を生みだす。

 

この第三者の審級は直接の現前から逃れているが、具体的な他者との間に代理関係を持つことによって間接的に現前しうる。

すなわち直面する他者が第三者の審級を代理するものとして認知されているときには、直面する他者が第三者の審級に相当する

権威を帯びるのである。ある者が権威を帯びた他者として表れる事がありうる、ということがわかれば、教育という現象

(行為の妥当性/非妥当性を決定し、行為を訂正しうるもの)が成立することも理解されよう。教育者が、教育を受ける者たちにとって

第三者の審級を代理するものとして定位されていることによって教育という行為は成立するのである。

 

だが、第三者の審級が具体的な他者に代理されて現実化するならば、同様の理由から、私自身が私に対して君臨する第三者の

審級を代理することも可能だろう。なぜなら、そもそも私と私が直面する他者とは同格的な存在であり、

私とは一種の他者であるからだ。だ。このとき、私自身が、私の行為を承認したり否認したりすることの権威をもつものとして表れうる。

従って、私が自身の行為について「私は規則に従っている。」と認定することが可能となるのである。

(ただしそれが有意味になるのは、私の行為が他者とのコミュニケーションの関係におかれているかぎりである。)

このような第三者の審級が成立すると、他者に伴う偶有性(他でありうる可能性)が潜在化してしまう。

特定の可能性のみが生じ得るものとして信頼され、他の可能性がありうることについての予期が端的に脱落してしまうことになる。

そして、この作用こそが、規則随順の本態である。

 

【ちょっと気になったこと】

P.77「心的な対象の特定の現れがこの私に帰属している、ということは、この同じ現れが私に直面している他者つまり「あなた」に

(共)帰属していることをも含意してしまうに相違ない。」

 ⇒なぜ「含意してしまうに相違ない」のか?私と他者が不可分の関係である以上、心的な対象の私への現れが他者に帰属する

可能性は確かにあるだろう。しかし、それはあくまでも帰属する可能性、「含意する可能性を持つ」にすぎないのではないか?

この部分だけでなく、偶侑性と必然性を述べている部分において、必然性がなぜ必然なのかについての論理展開が甘いように

感じる。この部分が「規則」という概念と「第三者の審級」をつないでいるので、ここが曖昧では説得力を失うのではないか。 

 

最近読んだ本リスト

 

 駒場祭の準備に追われて最近読んだ本リストを挙げていなかったので、いっぺんにアップしておきます。

11月の二週目・三週目で読んだ本がほとんどです。立花先生から大量に本を頂いたため、自分では買わないような本が

今回は多いですね。全部の感想を書くのは大変なので今日は書籍名だけを挙げるに留めます。

 

【外交関係】

・『21世紀日本外交の課題 -対中外交、アジア外交、グローバル外交-』(星山隆, 創風社)

・『東アジアの安全保障』(小島朋之・竹田いさみ, 南窓社)

・『東アジアの中の日韓交流』(濱下武志・崔章集, 慶応義塾出版会)

・Responsibility to PROTECT(Alex J.Bellamy) のChapter 4 Prevention の項

 

【歴史関係】

『読み方で江戸の歴史はこう変わる』(山本博文, 東京書籍)

『史料を読み解く 近世の政治と外交』(藤田覚, 山川出版社)・・・史料集と思いきや、結構読んでいて楽しいです。

『風景と人間』(アラン・コルバン, 藤原書店)

 

【ノンフィクション関係】

『エーゲ 永遠回帰の海』(立花隆, 書籍情報社)・・・名著。写真だけでも値打ちがあるぐらいの綺麗さ。

『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』(立花隆,書籍情報社)・・・名著。僕が今まで読んだ先生の本の中でもイチオシかもしれない。

『パリの学生街』(戸塚真弓, 中央公論新社)

 

【新書関係】

・『人間の安全保障』(アマルティア・セン, 集英社新書)・・・有名過ぎてちゃんと読んでいなかったため、この機会にきっちり読みました。

・『レヴィ・ストロース入門』(小田亮, ちくま新書)・・・『構造人類学』を読んでいるので、参考にと思って買った。中々わかりやすい。

・『ギャルとギャル男の文化人類学』(荒井悠介, 新潮新書)・・・果たして文化人類学なのか疑問だが、読む分にはまあまあ面白い。

・『愚の力』(大谷光真,文春新書)

巨星堕つ。Claude Lévi-Strauss est mort.

 

 レヴィ・ストロースが逝去された。享年100歳。101歳の目前だった。

この死が意味するところはとても重い。フーコー、バルト、デリダ、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ、レヴィナス、ラカン、バタイユ…

フランス現代思想を牽引してきた(そして、世界に影響を与えてきた)人々は、みな既に他界していたが、ついにレヴィ・ストロースまで

この世の人ではなくなってしまったのだ。フランス現代思想における、巨匠の時代が終わったと言っても言い過ぎではないだろう。

 

 実は、レヴィ・ストロースについて僕は昨年まで良く知らなかった。彼の思想については概説書を数冊読んだに過ぎず

通り一遍の知識をかろうじて持っているだけだった。しかし、フランス科に進学するにあたり、授業で彼の『構造人類学』を原典で

読み始めて以来、その思想の魅力にどんどんと引き込まれていった。文章では「構造主義を確立した」と一行で書くことができるが、

「構造主義」の深遠さ、そして構造主義が世界に与えた影響はいくら紙面を割いても書ききれるものではないだろう。

 

思想のみならず、彼の人柄も僕にとっては魅力的に思われる。

『みる、きく、よむ』(1993)を読むと、彼が音楽に対しても造詣が深かったことが分かる。

ワーグナーとストラヴィンスキーの音楽を愛し、作曲家になりたかった(作曲家がだめなら指揮者になりたかった)そうだ。

僕が今できることはひたすら著作を読んでレヴィ・ストロースの思想を朧げに掴むことしかないけれども、訃報に接して、

立花ゼミでレヴィ・ストロース追悼企画を立ち上げようと決心した。

 

 高度な専門性に立脚しつつも、広く深い教養を同時に持ち、思想界をひっくり返すような書物を書き続けたレヴィ・ストロース。

いま、残された書を読むことでその筆に直接触れることが出来ることを幸せに思うと共に、巨匠の死に心からご冥福をお祈り致します。

 

 

 

寒波

 

 11月3日。文化の日だ。そして今年の文化の日はとても寒かった。

家のドアを開けた瞬間、「キーン!」と音が聞こえてきそうなほど冷え切った空気が流れ込んでくる。冬の匂いがする。

寒さに少し辟易しながらも、季節の変化が面白くて、どこかワクワクしながら外へ出た。といっても、特に行くアテがあるわけではない。

だが、僕にとって文化の日は特別な日なので、何はともあれ街に出かける。秋冬用のスーツを一着買おうと思っていたことを思い出し

小田急線に乗って新宿へ向かう。車内にはクリスマス特集などという広告がかかっており、もうそんな時期なんだなと驚かされた。

 

 新宿はたくさんの人で賑わっていた。

車道は閉鎖されて歩行者天国になっており、人々が無秩序に行き交う。すれ違うたびに様々な香水の匂いがする。

Diorのファーレンハイト、Nicosのスカルプチャー、ブルガリのソワール…寒さのせいか、少し重めの香りが多い。

名前まで分からなかったがバニラとリンゴの混じったような香りに何度も遭遇した。ニナリッチだろうか。

歩いてゆく人のその少し後ろを、その人の香りが影のようについてゆく。ある人の香りとある人の香りが交差する。

「香りの影」の交わりは新しい香りを一瞬生み出し、それはたちまち風に散らされる。偶然の芸術が雑踏に生まれる。

 

 沢山の人々が至る所に口を開けた店へ吸い込まれてゆく。いつもなら静かなはずの宝石屋は着飾ったカップルで混雑しているし、

マツモトキヨシはいつもの20%増しぐらいの音量とスピードで「タイムセールですよ!時間限定ですよ!!」を連呼している。

道のど真ん中で小さな子供が思いっきり転んで泣くのを見て、ホスト風の兄ちゃん軍団がすれ違いざまに目を細めて笑う。

ちょっと幸せな光景だ。

 

 人の流れを避けるように裏道に入り、スーツを見て回ったり画材屋でキャンバスや油絵具を見たりするうち、すぐ日が暮れる。

日が落ちると寒さが染みる。寒い。これは飲まずにはいられない。ということで落語で有名な末広亭の近くに入って一杯だけ飲む。

そして外へ出ると、明るいネオンに彩られた新宿の街を見下ろすかのように、ネオンよりずっと明るく透き通った光を注ぐ満月が

空にあった。この光の美しさは他のどんな光をしても真似できない。その綺麗さに、雑踏の中で空を見上げて息を飲む。

2009年の文化の日は、満月の光と冬の寒さが染み渡る日になった。

 

 珍しく日記なのは理由がある。

先日、六本木の国立新美術館にハプスブルク展と日展を見に行ったのでその感想をここにあげようと思って20行ぐらい書いていた

のだが、パソコンの機嫌がよろしくなかったようで、眼を離したスキに全消去されてしまっていた。かなり細かく書いていたのに・・・。

まあそういうわけでたまには日記である。また書き直す気になったら展覧会の記録を書きたい。

特に日展で見つけた二枚の凄い絵についてはいつか必ず書き直したいと思う。これは本当に凄かった。

 

 なお、本日は竹田青嗣『現代思想の冒険』(ちくま学芸文庫,1992)を読了。現代思想の展開や概要がコンパクトに纏められており

アウトラインを復習するには読みやすい本だ。現代思想の入門書としても使いやすいだろう。

原典からの引用が多々あるが、それが誰の訳によるものなのかがはっきり書かれていない(はず)点だけがやや残念。

ちなみにこの文庫本、表紙がデニム地みたいで面白いです。

 

音韻論と構造主義 その2「弁別的素性 caractère distinctif 」

 

さて、先日の続きから書きます。

音韻論と音素とは何なのかを概説し、音素を弁別的素性に注目して分類する、ということでしたね。

その弁別的素性にはいくつかの種類があります。『ソシュール一般言語学講義』によれば、音素を還元する図式において、

考慮すべき要素は以下の四つだとされています。

 

1.呼気 expiration 

 ⇒一様で恒常的(義務的)な要素。どんな音素を作り出すときでも、息をしないわけにはいきませんものね。

 

2.声 voix

 ⇒一様で選択的な要素。とりわけ、声門で作られる音としての喉頭原音laryngéを指していると考えてよいでしょう。

  声は音素によってあったりなかったりする要素ですね。たとえばpやfは喉を震わさず出すことができます。

 

3.鼻音性nasalité

 ⇒鼻腔 canal nasalを開くこと。一様で選択的な要素。鼻腔は使っても使わなくても音が出せます。

 

4.口腔の調音articulatin buccale

 ⇒多様で恒常的(義務的)な要素。我々はある音を出すとき、舌など、口の中の器官をしかるべき 位置に移動させて

  その音を出します。音によって口のなかの器官の位置は異なるので多様、しかし口のなかの器官は必ずどこかに位置せねば

  ならないので、恒常的(義務的)な要素だと言えます。

 

さて、この4つの分類の中で最も重要で基本的なものはどれでしょうか。感覚的に4番目が重要な気がしませんか?

そうです、口の中の器官の位置こそが音素を最も大きく左右しているのです。従って、ここで、4の要素をベースにして、

そこに2.3(1は一様で恒常的要素なので除外)の強弱程度を重ねれば音素の分類が出来るという発想に至ります。

そこで、まず4についてさらに細かく見てみます。ソシュールによれば、口腔の調音は結局のところ口腔の閉鎖程度

(要するに、どれぐらい口を開けるか)という尺度に関係づけられます。ということは、まずは口腔の閉鎖程度を分類し、

そこに上乗せされる変化として声と鼻音性の要素の有無を考えていけば良いのです。

表にしやすいように、「声」があることを+声、「鼻音性」があることを+鼻音性と表記しましょう。

 

【調音:開口度0=口の完全閉鎖】

 

               +鼻音性

     p,k,tなど   既知言語になし

+声  b,g,dなど    m,nなど       ↓         ↓    有声閉鎖音   鼻音有声閉鎖音

 

テキスト形式では表が書きづらいですね。見づらくてすみません。まあとりあえずこの表を見ながら実験してみましょう。

p(フランス語では「ぺ」)を発音します。口をほとんど閉じた状態でも「ぺ」は言えますね?このとき、喉は震えていないはずです。

そこで、同じ口の状態のまま、b(フランス語では、「ベー」)を発音してみてください。喉が震えたでしょう?

これが口をほとんど閉じた状態で喉を震わせて出す音、つまり有声閉鎖音です。

同じようにして見ていけば鼻音有声閉鎖音なんてのも何のことか簡単に理解できると思います。

このような表の形式を作り、あとはどんどんと口を開けてゆき、口の開き具合に応じて音素を表に振り分けていくだけです。

つまり,

 

【調音:開口度1】

【調音:開口度2】

【調音:開口度3】

【調音:開口度4】

【調音:開口度5】

 

というふうに。(それぞれの表をすべて書こうかと思いましたが、煩雑になるのでやめておきます。)

 

レヴィ・ストロースによれば、『構造人類学』に La naissance de la phonologie a bouleversé cette situation. 

およびLa phonologie ne peut manquer de jouer, vis-à-vis des sciences sociales…とあったように

音素や音韻論が社会科学に革新的な役割を果たしたことが説明されていました。音素や音韻論がどのように社会科学を変えたか、

そしてそれがどのように「構造主義」の確立に繋がっていったのか。構造主義、とりわけレヴィ・ストロースによる「人類学」においては

数学における「群論」の影響も頭に置かなければならないでしょうが、ひとまず、構造主義における「構造」というタームが、

「他の一切が変化するときでも、変化せずにあるもの」と定義出来ることを考えたとき、そこに音素や音韻論との関連を

明確に見ることが出来るでしょう。

 

具体的な関連に関してはAntholopologie Structuraleを読み進めていくうちに、改めて纏めてみたいと思います。

並行してRoman Jakobsonの著作もしっかり読んでみようとamazonでヤーコブソンの『一般言語学』をチェックしましたが、

5670円という値段にひるんでカートに入れるまでには至りませんでした。一冊5000円を超えると簡単には買えませんね。

(どうでもいいことですが、『一般言語学』の装丁の色遣いが今日着ていたTシャツと酷似していて微妙な既視感を覚えました。)

ヤーコブソンの本は神田の古本屋に置いてありそうな気もするので、今週中にでも神田ツアーに出かけたいと思います。

駒場祭では22日の立花ゼミ「二十歳の君へ」企画だけでなく、翌日にある弁論部主催の北岡伸一教授の講演会と討論会に

代表として出ることになりそうなので、「人間の安全保障」に関する書籍も神田で買い込んでおくつもりでいます。

とはいっても具体的には何を買うか決めていないので、「人間の安全保障」に関するおススメの本がありましたらぜひ教えて下さい。

 

今日は夕方まで空がとても綺麗でしたしフルートの調子も良かったので、良い週末を過ごすことが出来ました。

明日から寒くなるそうなので(東北では雪が降る可能性があるらしいです。北海道は予想最低気温がマイナスになっていました。)

皆さんも体調には気をつけてお過ごしください。「二十歳の君への宿題」、まだ投稿されていない方はお早めにどうぞ。

 

音韻論と構造主義 その1「音素」

 

 

今日は自分の勉強を兼ねて少し固い話題で。

Claude Lévi-Straussの『構造人類学』を読んでいると、音韻論 La phonologie について言及される部分に多々ぶつかります。

たとえば、

La naissance de la phonologie a bouleversé cette situation. Elle n’a pas seulement renouvelé les perspectives linguistiques : une transformation de cette ampleur n’est pas limitée à une discipline particulière. La phonologie ne peut manquer de jouer, vis-à-vis des sciences sociales, le même rôle rénovateur que la physique nucléaire, par exemple, a [...]

伽羅珈琲と『現代言語論 ソシュール・フロイト・ウィトゲンシュタイン』(新曜社)

 

 先日の記事に「虫垂炎で倒れてます。」と書いたところ、沢山の方からメールを頂き、びっくりしました。

クラスの友達やゼミの友達に限らず、結構様々な方が見ていらっしゃるんですね。ご心配をおかけして申し訳ないです。

点滴を受けて抗生剤を飲み続けた甲斐あって、虫垂炎の方はほとんど完治しました。かといっていきなり動き回るのも怖いので、

数日は自重気味に過ごすことにしています。空き時間にはフランス語をやったり本を読んだりしているので今までと変わりませんが、

珈琲を一日一杯までに控えているのは大きな変化かもしれません。(一杯は飲まないと何か落ち着かないので)

 

 今日は五限が休講になったので、家でまったりしつつ立花ゼミの仕事をこなし、昼からはノートPCと本を持って自転車で出かけました。

そして西太子堂の病院に行って経過を見てもらった後、ゼミまで時間があったので三軒茶屋まで足を伸ばしてみました。

三軒茶屋に来たのははじめてだったのですが、お洒落なお店や美味しそうなお店を沢山発見しました。

騒がし過ぎることもないし寂れているわけでもない、個人的には好きなサイズ感の街です。関西で言うなら元町みたいな感じかな。

 

 東京である程度栄えた街にはもはやお決まりの自転車大量放置にはやや辟易としましたが、駅前には無印良品やドトール、スタバが

密集しており、時間を潰すのには苦労しなさそうです。どこかに入って本でも開こうと思い辺りをうろうろしていると、中々渋い店構えの

珈琲屋を見つけたので入ってみました。(後で知ったのですが、ここは地元の人には結構有名な珈琲屋さんだったようです。)

 

 店名は「伽羅珈琲」。パッと見ると漢字四文字の画数の多さ(というか見た目の複雑さ)になんだか圧倒されます。

店内はカウンターがメインで、いくつかあるテーブル席を入れても15人ぐらいで満席になりそう。大人数で来るところではなく、

一人の時間を楽しんだり、二人でゆっくりと話し込むのに使うべき場所だと思います。今回はお客さんがあまりいない時間帯だったのか

適度に空いていたので、誰も座っていないカウンターの真ん中に座らせて頂きました。そして迷わずブレンド(550円)を注文。

 

 カウンターの奥の棚には美しいカップが整然と並べられており、それを見ているだけでも飽きません。

珈琲好きとして僕も淹れ方にはこだわりがあるので(というよりは、プロの淹れ方から色々と盗んでいきたいと思っています。)

棚だけでなくマスターが珈琲を入れる様子も集中して見ていたのですが、蒸らしは短めで一気に湯を注ぎ切るタイプの淹れ方を

していらっしゃいました。美味しい珈琲を出されるお店ではいつも感じることなのですが(伽羅珈琲のマスターもそうでした)

プロが珈琲を淹れるときの顔つきの真剣さはとても素敵ですね。精神を集中して目の前の一杯にかけるその様子は、

まさに「職人」を感じさせます。僕が珈琲の美味しさを本当に教えて頂いた、神戸の『樽珈屋』というお店のマスターは

「一杯の美味しい珈琲に辿り着くには、1.良い生豆を選定する目 2.質の高い焙煎技術 3.淹れ方の技術 が高いレベルで必要。

たった一杯の飲み物かもしれないけど、そこには沢山の技術が詰まっている。それぞれの店のマスターの個性そのものだよ。」

と言うような内容の事をおっしゃっていましたが、様々な珈琲屋に足を運ぶたび、珈琲を淹れる真剣な顔を見ては

この言葉を思い出します。

 

 待つこと数分、繊細なカップ(食器にはあまり詳しくないのですが、たぶんGINORIのカップだったと思います。)で出された珈琲は

非常に香ばしく、深い味。酸味も苦味もそれなりにありますが、のど越しは淡い甘みを感じさせます。とがったところの無い味です。

少し温度が下がって来てから飲むと甘みが最初より強く感じます。どことなく高級なクッキーやビスケットの味を思い出しました。

ほっとする味で、お店の雰囲気と合っていてとても落ち着きますね。

 

 ひとしきり味を楽しんだあとは、持ってきた本を開けてゆっくりと時間を過ごさせて頂きました。

本を開けて気づいたのですが、このカウンター、光量が絶妙です。店の照明自体は全体としてかなり薄暗くしてあるのですが、

カウンターで本を開けてみるとページに柔らかくスポットライトが当たったようになり、周りの暗さと相まって文字がとても読みやすい。

映画のワンシーンのような、というと言い過ぎかもしれませんが、そんな感じで落ち着いて本に集中することが出来ます。

良い喫茶店に巡り合いました。これからも時々行ってみたいと思います。(あとは分煙だったら最高なんですが、そうもいきませんね。)

 

 喫茶店を出てゼミに向かい、あれこれとゼミで時間を過ごしたあとは指揮のレッスンへ。

今日は平均運動を使ってコラールを振らせて頂きました。平均運動メインとはいえどもフェルマータが頻発する曲なので、

呼吸を調節するのが大変です。伸ばし過ぎるとわざとらしくなるし、早めに切り上げるとどこか物足りなくなってしまう。

次の拍に行きたくなるところをあと一呼吸だけ粘るように意識すると少しは上手くいったように思います。

いつもどおり師にお手本を見せて頂いたのですが、びっくりするぐらいこの曲が自然なリズムと息遣いで流れていきました。

余りにも自然なために、師が振るのを見ているとこの曲が簡単そうに見えるのですが、いざ自分が振ってみるとやっぱりどこか違う。

フレージングがぎこちない。フェルマータの伸ばしにも迷いが感じられる。(振っている僕が迷っているわけなので当然ですね・・・。)

自然な息遣いというのは本当に難しいものです。自然を意識した瞬間にそれは自然でなくなる。

「自然にやるぞ。」と思って振り出すと、流れてくる音楽はおよそ自然とは言い難い、力みが感じられるものになってしまいます。

「こうでなければならない」という経験に裏付けられた確信によって、何も考えなくても勝手に体が動くこと。楽譜と格闘するのではなくて

ただ音の中に生きて呼吸すること。バトン・テクニックのみならず、そういった説明不可能なものを師からしっかりと学びとらねば

ならないなと痛感します。来週までにしっかりと考えて練習せねば。

 

 なお、本日は新曜社から出ているワードマップシリーズの『現代言語論 ソシュール・フロイト・ウィトゲンシュタイン』を読了。

レヴィ・ストロースの『構造人類学』を原典で読んでゆく過程で、音韻論などの言語学的な知識を補強することが必要だと感じたので

しばらくは集中的に言語学関連の書籍を読み漁ることにします。新曜社のワードマップシリーズは浪人中に購入した

『現代文学理論 テクスト・読み・世界』や『現代文学理論のプラクティス』でもお世話になりましたが、コンパクトに纏まった概説と

豊富な巻末の参考文献一覧(正確には「ブック・ガイド」と題されている。これだけでも買う価値があると思います。)が相変わらず

素晴らしい。このシリーズには外れが無いので、いずれ全巻揃えることを考えています。

 

(追記:塚原先生のホームページを見たところ、以前このブログで紹介したことがきっかけとなって『理性の限界』(講談社現代新書)を

お読みになられたとのことです。先生がホームページで紹介される本を参考にして「これから読むリスト」に入れている僕としては

ちょっと嬉しいものがありました。先生はお仕事をなさっているにも関わらずあれだけお読みになるのだから、学生の僕はもっともっと

読めるはず。『二十歳の君への宿題』を集めていて身に染みたのですが、学生なんて社会人の方から見れば気楽で暇なものなのです。

重い責任を負っているわけでもないし、信頼に立脚しているわけでもない。

いくら忙しいと言っても、誰か別の人のために忙しいわけではなく、結局は自分がやりたいことをやって忙しくなっているに過ぎません。

20歳はとうに過ぎてしまいましたが、そう考えると僕は学生の身分でいられる間にもっと沢山のことが出来るはずだし

やらなければならない。フランス語の勉強を理由に最近一日一冊ペースが崩れていたので、ここらで立て直したいと思います。)

 

 

Casanier

 

 虫垂炎が悪化し、しばらく自分の力で起き上がる事が出来ない状態が続いていた。もちろん大学もすべて休んだ。

小学校以来、滅多に学校を休むことが無かった(中学・高校と六年間皆勤した。果たしてそれが良いことかは分からないが。)ので、

なんとなく罪悪感が残る。しかし薬が効いてきたのか、ゆっくりと歩く限りでは何とか歩けるようになった。とはいっても、歩くたびに

震動が腹部に響いて痛いし、背筋を伸ばそうものなら激痛が走る。無理は禁物ということで、極力動かないようにしている。

溜まっていたメールの返信をこなしたり積んでいた本を消化したり『シェルブールの雨傘』を観たりする間に時間が過ぎ去ってゆく。

一度も外に出ない間に朝日が夕日に変わり、闇が辺りを包む。

ちょっと空しい。出たいときに外へ出ることが出来る、というのがどれほど幸せなことか実感した。

 

 暇が出来た時にパソコンを開くと、ついやってしまうことがある。

amazonや楽天にアクセスし、買う金もないのに買い物カートに欲しいものを手当たり次第に突っ込む。一万円、二万円・・・十万円。

あとは「完了」ボタンを押せば注文が確定する、その状況まで手順を進めて、ウィンドウの右上の×印を溜息とともにクリックして閉じる。

傍から見るとかなり可哀そうな光景かもしれない。でも、やっている本人はちょっと楽しかったりする(笑)

 

 買い物カートを閉じたあと、いつものように立花ゼミのページにアクセスする。

こうやって布団に臥している間にも、駒場キャンパスの壁 http://kenbunden.net/kabe/ はどんどん落書きで埋まっていくようだ。

URLをクリックして見てもらえれば分かるが、数日前までは落書きがほとんど無い状態だった。

そこでいくつかの落書きを実験的に書いておいた。すると、後は加速度的に落書きが増えていく。

落書きの方向性は様々だ。下ネタ、サークルの宣伝、アート・・・だが、落書きの醍醐味は「コラボレーション」にあると僕は思う。

誰かが書いたメッセージに見ず知らずの誰かがレスをつける。誰かが書いた不気味な顔に、同じく見ず知らずの誰かが体を書き加える。

一方で、アーティスティックな模様の落書きが発生すると「その上には落書きしない」なんて暗黙のルールがいつしか発生するように、

全体としてはカオスなのだが部分的に秩序が自然発生する。あの匿名掲示板の雰囲気に良く似ていて面白い。

 

 「壁」と並行して進められている『二十歳の君への宿題』 http://kenbunden.net/20/todo.html も熱が入ってきた。

このブログで書いたのを見て下さったようで、「つかはらの日本史工房」でも宣伝して下さっていた。塚原先生ありがとうございます。

だが、まだまだ数が足りない。もっともっと「宿題」が欲しい。多様な年代から、多様なメッセージを集めなければならない。

というわけで、マスコミや出版社に乗り込んで宣伝させて貰うことを本気で考えている。上手くいったらまた報告します。

 

立花隆&佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』(2009,文春新書)

 

 『ぼくらの頭脳の鍛え方』を読んだ。

おそらく世界最速レビューだろう。それもそのはず、この本はまだ発売されていない。(発売日は今月20日ごろ)

今日の立花ゼミで何気なく立花先生が下さったので、ゼミの時間中に隙を見つけて読み切ってしまった。

 

 内容は立花隆と佐藤優の対談形式から成り、話の中でお互いがお勧めの本を紹介しあっていくというもの。

立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』を二人で対話しながら書いているような感じである。「本を紹介する本」は、ともすれば退屈で

独りよがりなものになってしまいがちだが、この本は全く違う。挙げている本が参考になるのはもちろんのこと、

その情報量が非常に濃いし、何より二人の対談がとても面白い。細木数子について取り上げているくだりでは、ついついニヤニヤ

しながら読んでしまった。このようにちょっと小ネタに話を移したかと思うと、その小ネタに関連する本へとすぐ話が移ってゆく様子は

まるで友達と雑談しながら本棚の前をうろうろしているようだ。本を肴に会話を楽しんでいる。

このような会話こそ、「知的」と呼ばれて然るべき会話の形の一つだと思う。

ここに挙げられている400冊の本を学部時代に読み切っておこうと決心し、未読のものをamazonでカートに突っ込みまくった。

当然お金が心配になってくるが、この本の中でお二人は「買おうか迷ったらとりあえず買う。本を買うのを惜しむな。」ということを

言っておられるし、その通りだと僕も思うから、金銭的問題は考えないことにする。(もちろん後で必死に仕事する羽目になるのだが)

とにかく良い本でした。この一冊から沢山の本へと手を伸ばしていくことが出来る、「知の起点」となる一冊だと言えるでしょう。

 

 立花ゼミもだんだん熱が入ってきて面白くなってきた。駒場祭で立花ゼミが行う企画のために、一般の方から

『二十歳の君への宿題』と称して「二十歳の間にこれをしておけ!」というメッセージを集めることになった。

これはもうすぐゼミのHPにメールフォームを設置して(技術班の方々いつもお世話になってます。)そこに書き込んでもらうことで

集めるつもりだ。このブログを読んで頂いている方で、20歳以上の方はぜひご協力ください。

 

 立花ゼミ関連以外では、Claude Lévi-StraussのAntholopologie Structurale(邦訳『構造人類学』)を読むのに必死。

原書で読むと本当に時間がかかって途中で投げ出したくなることもしばしばだが、原書でしか分からないニュアンスやユーモアもあるし、

何よりフランス語のとても良い勉強になる。語学に堪能な人は「とにかく読んで読んで読みまくることがあらゆる語学の上達のコツだ。」

とよく言うが、確かにその通りなのだろう。「読めるようになるために読む」ことが必要なのだ。

 

 指揮のレッスンも順調に進んでいる。今日は振ることばかりに頭が行っていて、静から動に移る瞬間、すなわち振り始めに意識が

足りていない事を指摘された。「二拍目の打点を低くしないように気をつけて振ろう。あと四小節目で柔らかく振らないと。」

などと振り始めてからのことばかり考えている僕を見透かしたように、「振る前、構えたところから音楽は始まっているんだよ。」と

言われて、とてもビックリした。先生には僕らには見えない「何か」が確実に見えている。

「何か」が見えるようになるためには、幾つの壁を超えなければいけないのだろうか。先は長く、遠く、果てしない。