ベートーヴェンのエグモント序曲を再び勉強していた。
「ああ、これは凄いな。」と思ったエグモントの演奏は三つ。
三十年前の師匠のレッスンでの演奏と、フルトヴェングラーの演奏、そしてジュリーニの1976年9月5日ライヴだ。
ジュリーニのライヴは忘れがたい一小節がある。Allegro con brioに入る前のVnのドーーーーソの部分。ジュリーニはこのソの音を弱音で啜り泣くように演奏させている。
ジュリーニがどう考えてここをこう演奏したのかは誰にも分からないが、少なくとも僕はこういうことだと考える。
決然としたドーーーーの音がエグモント伯爵の生き様(エグモントは力強く処刑台に向かう!)と信念を表し、
啜り泣くようなソの音が愛人のクレールヒェンの悲嘆を表す。スコアには何の指示もない。完全にジュリーニの解釈だ。
しかしある意味で、この壮絶な劇を一小節で表現しきっているように思われる。「劇的=Dramatic」という言葉がまさに似つかわしい。
オペラ「夕鶴」で知られる木下順二が『“劇的”とは』(岩波新書)という著作の中でこう書いていたことを思い出す。
ある願望があって、それも願わくは妄想的でも平凡でもない強烈な願望があって、それをどうしても達成しようと思わないではいられない
やはり強烈な性格の人物がいる。そして彼は見事にその願望を達成するのだが、それを達成するということは、同時に彼がまさにその上に
立っている基盤そのものを見事に否定し去るのだというそういう矛盾の存在。
『オイディプス王』から『人形の家』まで、すぐれた戯曲をつらぬいているものは、この絶対に平凡でない原理であるように思う。
そしてその原理こそがドラマであり、その原理の集約点がつまりドラマのクライマクスである。
(木下順二『“劇的”とは』P.62、『ドラマとの対話』からの引用部分)
ベートーヴェンがその音楽の元としたゲーテの『エグモント』はまさにそうしたドラマだ。
そしてジュリーニはそのクライマクスを輝かしきフィナーレではなく、フィナーレの前のあの弦の部分に持ってきたのだ。
進撃するAllegro con brioがまるで後奏のように響くのは、その前のあの部分であまりにも鮮烈に映像が展開するからだろう。
ジュリーニの演奏に留まらず、エグモント序曲という楽譜、そして音楽からは「映像」が強く立ち上がってくる。
エグモントの74小節目からのSfのティーーヤヤ、ティーーヤヤという弾力に富んだフレーズからは、馬に乗ってしなるような歩みで
進撃する様子が浮かんでくるし、続く82小節目からのザンザンッ、ザザンザンッ!という決然としたフレーズからは立ちふさがる敵をなぎ倒すような
光景が浮かぶ。だとすれば、弦楽器のボウイングもそれに近づくのではないか、と考えるのは間違いではあるまい。
なぜならば、生演奏が基本であったクラシックの音楽において、作曲が視覚的要素と無関係であったとは思えない。
とりわけ劇音楽はそうだろう。シナリオがまずあり、それが作曲者の頭に映像として浮かび、それを音にするのだから。
そうしたとき、沢山の人数が一斉に同じ動きをする弦楽器は、作曲者にとって具体的な映像を与える役割を果たしたはずだ。
私見だが、あくまでも私見だが、弦楽器のボウイングはたとえば海を駆ける船の帆、あるいは剣を振るう騎士に見える瞬間があるし、
スコアを読めばベートーヴェンにもそう見えていたのではないかと想像出来る時がある。
楽譜から映像が浮かぶ。逆もまた然り。弦の動きがある視覚的イメージを喚起し、楽譜を呼び起こす。
音楽を奏でる主体の動きから、音楽の場面としての映像が立ち上がる。
「劇的」とは、そういうことだと思う。
視覚が聴覚に、聴覚が視覚に。五感に否応無く訴えかけ、人を否応無く巻き込んで行く力のことだ。